試作高高度戦闘機 キ94
  
       試作高高度戦闘機 キ94
 
  
 太平洋戦争末期、日本の各航空機メーカーが持てる技術全てを投入して完成を急いだ試作機には2種類あります。一つは日本本土に襲来する連合国機(F6FP-51)を撃退する対戦闘機用の戦闘機、もう一つはB-29撃退を目的とした高高度戦闘機でした。

 前者は零戦の後継機「烈風」疾風の性能向上機などが挙げられますが、後者は新規設計機(震電、陣風、天雷、電光。震電以外は全て計画のみ)から実験機(秋水、橘花)、果ては既存機の改造機(彗星銀河彩雲100式司令部偵察機)などが出てきます。新規設計案は多くが計画段階で消えていきましたが、この中で日本陸軍が未来を託した設計案がありました。中島飛行機の新型機「キ87」と立川飛行機の「キ94」でした。大手の中島飛行機に任せておけば良いのに、小規模の立川飛行機にまで開発指示を出したのには理由がありました。

 中島飛行機が抱えていた次期主力戦闘機「疾風」の開発が最優先とされたため高高度戦闘機の方にまで手が回らないこと、さらにはその試作が間に合わなかったり、失敗したときの保険策としたためでした。立川飛行機は戦闘機開発の経験がないだけで、「九五式中間練習機」や各種偵察機の製作も手がけた陸軍にとって中堅クラスの位置にあった頼もしい航空機メーカーでした。


 立川飛行機の設計陣の中に当時27歳のエンジニアがいました。当時の航空機エンジニア養成の最高峰であった東京帝国大学航空学科を卒業した新進気鋭の技術者、長谷川龍雄氏でした。本来ならば、三菱重工、中島飛行機、川西航空機とどのメーカーでも入社試験を免除して入社できる程の経歴でしたが、一社に少数の優秀なエンジニアが一極集中することを恐れた軍部の指示により、卒業生は均等に振り分けられ、長谷川は立川飛行機のエンジニアとなりました。

立川飛行機は設計主務にこの若いエースを据えて新型戦闘機開発に乗り出しました。彼は独自の理論により、TH翼というオリジナルの主翼構造を考案していました。主力戦闘機の開発であれば、最大手の中島に勝ち目はありませんが、用途が高高度戦闘機という特殊なジャンルになれば、規模の小さい立川飛行機にも分があります。長谷川はこれまでの常識を覆す設計プランを書き上げました。特徴として

 ・2000馬力の排気タービンつき主冷エンジンを短い中央胴体の前後に配置
 ・主翼は前述の新構造のTH翼を使用
 ・二本のほそいピームで尾翼部を支待する型式

 これを形にすると下のようになります。(googleのイメージ検索より抜粋)

              

しかし、モックアップ(実物大の木製模型)完成後の陸軍の審査では構造が複雑であり、量産には向かないという理由から不採用となりました。長谷川はオリジナリティを狙った設計をしたのではありませんが、若気の至りという苦い経験をすることとなりました。

 この不採用を受け、長谷川は直ちに試作2号機の開発に着手しました。しかし、これまでの戦闘機を真似した凡庸な設計ではなく不採用となった試作1号機のノウハウも盛り込んだ新世代の戦闘機として設計は進められました。この開発途中、強力なライバルであった中島の試作機「キ87」はエンジンが起因のトラブルで開発中止となってしまい陸軍の最後の希望は残る「キ94」のみとなってしまいました。

 初の戦闘機開発であり、B29に対する最後の切り札という重責がありながらも昭和20年7月、長谷川は見事に試作機を完成させました。製作終了後は地上試験(エンジンのテストなど)を経て、初飛行に移るわけですが、皮肉にも初飛行を迎えることなく敗戦を迎えました。

 機体の設計思想は当時の日本機の試作機の中でも先進的でした。、高高度を飛ぶための大出力のエンジンと最新型の排気タービンはもちろん、層流翼(P-51に採用されていた)、与圧式コクピット、パイロットや機関砲の凍結防止の為の暖房が標準装備されており、立川飛行機が持っていた高高度航空機開発で得られたノウハウを全て凝集した傑作ともよべる試作機でした。戦後、アメリカの技術調査団に接収されましたが、試験飛行は行われた記録は残されていません。




 戦後、日本の復興に立ち上がったエンジニアの多くは官民の軍事技術者といっても過言ではありませんでした。例えば、マツダの開発したロータリーエンジンの開発リーダーであった山本健一氏は旧海軍の第一航空廠所属の技術将校でしたし、新幹線を開発した設計チームの中には海軍空技廠の三木忠直氏、ソニーの創業者である盛田昭夫氏は空技廠光熱兵器部の技術士官でした。

 日本敗戦後、長谷川はトヨタに入社し、航空機開発で得られた空気抵抗に関するノウハウを自動車開発に発揮しました。航空機エンジニアの力量はずば抜けたもので。初代トヨエースのチーフエンジニアを務め、その後は名車「カローラ」を開発しました。取締役に就任した後もセリカやカリーナなどトヨタを代表する名車を開発する生粋のエンジニアでした。

 トヨタが初めて取り入れた「主査」とは開発のすべてに責任を持たせ、1人のリーダーに任せる仕組みですが、これは航空機開発の現場で使われていた制度でした。長谷川は「主査10ヶ条」として後進のエンジニアたちにその教えを残しています。

 戦争には敗北しましたが、その技術者たちや関係者のノウハウがやがてアメリカをも超える技術立国日本を作り上げたのは言うまでもありません。


性能諸元     

 全長; 14.00m
 全幅;  14.00m
 全高;  4.65m
 正規全備重量; 6550kg
 エンジン; 中島ハ219ル空冷複列星形18気筒 公称2,350馬力×1
 最大速度; 720km/h(計算値) 
  武装;  
30ミリ機関砲×2、20ミリ機関砲×2、「タ」弾(空対空小型爆弾)×2



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