隣室はこぢんまりとした部屋で、医師と看護師が控えていた。
 客には高齢者も多く、また若くとも酒酔いや女性の貧血など、宴席での医師の需要は高い。
 簡易寝台にルシェラを横たえ、治療は任せる。
 医師は案の定、リファスの祖父が控えていた。
 世界でも指折りの医師である。祖父にならば、リファスも安心してルシェラを預ける事が出来た。
 傍らに跪き、ルシェラの手を握って繰り返し手の甲を撫でる。
 弱々しいながら荒い息を繰り返している。
 肉体と精神、そのどちらもが限界を超えようとしている様だった。
「ルシェラ…………まだだよ…………」
 これで終わる訳にはいかない。
「まだ……早い……」
 腕から繋がる点滴の管。口元を覆う呼吸補助器。
 自動で脈を測る装置も付けられる。風輝石を動力とした、木造の機械だ。墨を付けた針が紙の上を動き、脈を記録していく。
「リファス、離れなさい」
「でも」
「治療の邪魔になる」
「…………はい…………」
 渋々手を離し、一歩下がる。
 視線まで離す事は出来ない。苦しむ姿を凝視し続ける。
 背後で、どさり、と音がしたが振り向くこともない。

 リファスの後ろで、この部屋を示し導いてくれた男が呆然とした様に膝を付いていた。
 男もまたルシェラから視線を外す事が出来ない様で、見開いた瞳からぼろぼろと、溢れる涙すら拭えないでいた。
 身なり、雰囲気からして何処かの王であろう。
 ティーア王程の威圧感はないものの、それは体格がほっそりとしてい、顔立ちが穏和で優しげな為だろう。
 歳もおそらくは同じ程の様だった。
「すまぬ………………すまぬ…………ルシェラ…………」
 呻く様に呟いている。
 リファスは漸くに振り返った。
「…………貴方は…………誰なんです……」
 謝罪に表情が険を孕む。
 誰かは知らないがルシェラに謝罪するところを見れば、止める力を持ちながら動かなかった者の一人なのだろう。
「貴方は……」
「私は…………この、ルシェラの………………祖父だ…………」
 がっくりと肩を落とし、漸く顔を俯かせる。
 拳を床に打ち付けていた。
「祖父…………お祖父様……?」
「アーサラで…………王位に就いている…………」
「アーサラ……国王!」
 勢いよく、身体まで後ろを向く。
 伸ばした手が、アーサラ国王の胸倉を掴んでいた。
「く、ぅっ……」
 息が詰まりアーサラ国王は眉を寄せたが、抵抗しない。
「貴方は!」
 アーサラは五古国の中でも力を持つ国だ。五古国会議の議場も持つ。
 そんな国の王が、何故、今この場で謝るのか。
「貴方は……どうしてルシェラを放っておいたんですか!! ルシェラが、どんな目に遭ってきたか……」
「…………あ……ああ………………知らぬでは、ない…………」
 リファスから顔を背けるが、その先に待つのはルシェラの苦悶する顔だった。
 アーサラ国王は目を閉ざした。
 その表情に、リファスの頭にかっと血が上った。
 拳を振り上げる。

「リファス、いい加減にせんか!」
 リファスの頭上に拳が降る。
 処置を終えた祖父の鉄拳だった。
「陛下、孫の不敬、幾重にもお詫び申し上げます」
 リファスの手を有無を言わさぬ力で引き離す。
 アーサラ国王は支えを失って床へ崩れ落ちた。
「リファス…………殿…………ああ…………」
 国王は益々身を縮めた。
「…………引き合って下さったか……」
 安堵に似た声が洩れた。
 更にリファスの目が血走る。
「……貴方に感謝する。貴方という存在が、やはり今生でもルシェラを救ってくれたのか…………」
 再びアーサラ王に掴み掛かろうとするが、祖父が阻む。
「救えなんてしない! 俺には何も出来ない!! 見て分かるでしょう。ルシェラは、もう……持たない……っ…………」
 拳を握り締める。力が過ぎて、爪が掌に食い込んだ。
「アーサラは……五古国の要……その国王陛下が何故……何もなさらなかったんです…………」
 この弱々しい王が元凶ではない事は分かっている。
 だが、この遣る方ない思いを今は、率直にぶつける他になかった。
 手を握り直すと、その間から血が滴り落ちる。痛みなど感じなかった。
「ルシェラは……救ってくれる人を待ってた。待って待って待ち続けて……この様です。さっきの……貴方は、あの場を見ませんでしたか。ティーアの国王陛下に縋り付いて、許しを請うて、足蹴にされて、それでも…………縋り付くしかなくて…………」
「ああ………………」
 思い起こしたのか、緩く首を振る。
「それでも、ルシェラには、あの人しかいない…………何故、貴方は……悔いるくらいなら、どうして、早く……」
 アーサラ国王はゆるゆると身体を起こし、リファスに躙り寄ると手を開かせて掌に手巾を握らせた。
「十五年にもなるのか…………ルシェラは大きくなった…………大きく……美しく…………」
「生まれて一度も会っていないんですか」
「……一度……生まれて、一週間にもならなかっただろう…………私の娘、ルシェラの母の葬儀の日に……あの時、たとえ戦になったとしても、奪い去るべきだったのだろう。…………だが、出来なかった。……国守であり王子……ティーアの至宝を奪うまでの権利は、私にはない……」
 切れ切れの言葉は後悔に満ち満ちている。
 しかし、後悔は先に立たぬのだ。

「幾人も間者を入れたが、一人として帰ってこなかった…………何処にいるのかまでは掴んでも、セファンは決してルシェラをそこから出そうとはしなかった。私が立ち入る事も許さなかった…………」
 僅かに自分を取り戻したのか、または何処か神経が擦り切れでもしたのか、床に尻を着いた状態で気を抜き、これ以上取り乱す事はなく淡々と語り始める。
「セファンは、それが正しい事だと信じている…………それが故に、誰の言にも耳を貸さぬ……幼い頃からの友人だと思っていたが、私の言葉すら、セファンには届かぬ……」
 視線が緩慢に横たわるルシェラへ向けられた。
 処置のお陰で、随分落ち着いた様に見えた。
「あれには、自分の過ちが分からぬのだ。……諭しても……そうすればする程頑なになっていく……軍を連れて押し入れば良かったのか……しかし、私にはそこまでの思い切りは出来なかった。……ルシェラは基本的に外へは出られぬ。当人抜きの五古国会議には限りもある。ルシェラに必要な事をしている、それは……そう、言葉と記録の上ではそうなっているのだ…………私には……力が足りなかった……」
 ルシェラを見詰める目は瞬きをしない。涙が溢れ続け、乾く事はない様だった。
 言葉は、益々リファスを苛立たせる。
「必要な事……? 暗い所に閉じ込めて、この身体に医者も付けず客取らせて、身も心も支配する事が、必要だって!?」
「医者は意味がない……死ぬ事も出来ぬ。太陽の光はルシェラを弱らせる。国守またはそれと近しい存在の者と共に過ごさぬならば、普通の民の命を食らわねば衰弱して意識を保てない。……ルシェラを支配する事を除いては、記録の上では必要だと……認めざるを得ないのだ……」
「国守は……何の為にいるんです…………。生きている意味は、何処にあるんですか!?」
 リファスはアーサラ国王のすぐ前に膝を付き、勢いよく拳を床へ叩き付けた。
「こんなに苦しんでまで……どうして……生きなくちゃいけないんですか…………」
 何処までも声が低い。既に殆ど声変わりを終えている声音は、十分に大人のものだった。
 アーサラ王は弛緩していた身体を竦ませる。
「…………難しい問いだ………………五古国とリーンディル神殿が権力を維持する為の、権威付け、今は、そう……成り果てている様に思う…………」
「他の国守やそれに近しい存在の者が共に過ごせば客を取らなくてもいい……それなら何故、サディア様と共に過ごすとか、リーンディルの創始にお願いするとか、なかったんです。一般人の命を奪うより、ずっと良かった筈でしょう? 医者が決定的には意味なくても、症状が緩和するのは確かだし、陽の光を浴びさせないにしても、明るくて心地いい場所で過ごさせる事は出来た筈です。現に俺の家だって十分でした。ルシェラは何故、苦しんで、死に焦がれて、そうしてまで生きてこなくちゃならなかったんです。答えて下さい!」
「リファス、いい加減にしないか!」
 見かねて医師グレイヌールがリファスの腕を強く引いた。
 アーサラ王から引き離し、ルシェラの側に寄せる。
 目を閉ざした顔が間近に迫り、リファスは息を呑んだ。
「お前は、学校で何を学んできた。アーサラとティーアは五古国という繋がりを持っていても他国だ。その意味が分からないお前ではないだろう」
「じいちゃん……でも……っ!」
 アーサラ王は虚ろな顔を上げ、曖昧な笑みの様なものを浮かべてルシェラを含めた三人を見る。
「構わぬ、グレイヌール。リファス殿が責めるのは、道理に適った事だ……」
「子供の戯れ言を真に受けて頂いては困りますぞ」
「私は、自分の考える範囲では、ルシェラ一人の為には動けなかった。また生まれる、その慢心がただ一人の孫を不幸にした。その事に代わりはない」
 ルシェラを見る目は苦痛に満ちている。
 手を伸ばしかけ、しかしそれはただ空を掴んで床に落ちる。
「どうすれば良かったのか…………私には……分からない……五古国は同盟ではあるが、それだけだ。会議とて、武力を用いずに完全な強制力を持ちうるものではない。それよりは、友人として、止められなかった事が悔やまれる……」

「貴方って人は……っ」
「や…………」
 再び激高したリファスに、籠もった弱々しい声が上がった。
「ルシェラ!」
 震える指先が伸ばされる。リファスは咄嗟にその手を取った。
「良かった……意識が戻ったんだな……」
「ぁ…………っや…………」
 呼吸の補助器具に覆われた口を開閉させて、暫くして咳き込む。
「……ルシェラ?…………まさか!?」
 手を強く握る。
「声出ないのか?」
「ぁ……っあ……は…………」
 微かな頷きが返る。瞳から涙が溢れ出した。
「無理すんな。大丈夫だから。俺が……絶対守ってやるから……」
 また戻ってしまった。
 絶望に、リファスは目の前が真っ暗になるのを感じた。

「…………ルシェラ…………」
──……ごめんなさい…………──
「馬鹿言うな。お前は何も悪くない」
 頬を手で包む。
 ルシェラは小さく微笑んでその手に擦り寄る仕草を見せた。
──その方を……責めないで下さい…………その方に咎はありません……──
「この人は、でも……お前を助けられる立場にあった筈だ」
 緩く首を振り、更に弱々しい微笑を返す。
──…………いいえ。貴方も……お分かりでしょう? わたくしが求めぬ限り、何方も手を出す事は出来ない。そして、わたくしは……自分の意志でセファン陛下から逃れたいと思った事などない。……わたくしが望まぬのに、何方が国に介入出来ましょう……。わたくしは…………それでもまだ…………陛下から離れる事など考えられない……──
「どうして」
──陛下は…………わたくしの、ただ一人の方です。陛下が認めて下さらなくても、わたくしの身体には、母と陛下の血が流れている。それをどうして捨てられますか。わたくしは……これでも…………あの方を、父としてお慕いする事を止められない。そしてまた、記憶の中のわたくしも、弟としてのあの方に申し訳ないばかりだと………………陛下が拒まれるのも当然の事…………お許し頂こうとする事自体、烏滸がましい事だったのでしょう……──
 微笑みが苦しい。
 リファスは思わず目を反らせた。
「お前が許しを請わなきゃいけない様な事なんて……何もない!」
 ただ、その事に縋り付くしかない。
 ルシェラは困って、微笑んだまま眉を寄せた。
──わたくしは、国に帰らねばならない。その為には…………──
「国守が国で成している事とは、何なんだよ」
──存在するという事が肝要なのです。生きている事、存在している事。それが……抑止力になる──
「何の」
──この世界が、死に向かわぬ為……──
「ハルサ大戦の話か?」
──いいえ…………もっと、星の根幹に関わる事……だと思います。そう思いますけれど……すみません。ご説明に至るほど、わたくしにも明確には分からないのです……──
 ルシェラは息を吐き、目を閉ざした。
 厭なものばかりが瞼裏に浮かぶ。
──…………ごめんなさい、リファス…………少し……眠りたい……──
「あ……ああ……」
──サディアを……──
「でも、そうしたらお前の側にいられない」
 今の状態のルシェラを放っておけない。
 ルシェラは目を開けもしない。
──……わたくしは眠るだけ……ギルティエス殿も、貴方のお祖父様も居て下さいますから……──
「ギル……?」
──アーサラ国王……ギルティエス殿…………ね。心配はご無用に──
「でも」
──…………貴方が戻っていらっしゃるまで、わたくしの目は覚めないでしょう。いいえ…………それでも、覚めないかも知れない………………わたくしは……眠っていたい…………──
 疲れから眠りたいのでない事を、初めて知る。
 リファスは愕然として、触れていたルシェラの頭を強く抱え込んだ。
──サディアを。…………わたくしのことは、後で構わない……──
「…………分かった。直ぐに戻るから。待ってて」
──ええ…………貴方は、わたくしの世界の全てなのですから……──
 ルシェラの顔が僅かに擦り寄る仕草を魅せる。
 瞼の縁が僅かに濡れていた。
──貴方だけがわたくしの寄る辺…………──
「分かってるよ。心配しなくて大丈夫だから」
 額、瞼、鼻先、頬、そして唇へ。口づけを繰り返し、ルシェラが安堵の吐息を洩らしたところでゆっくりと頭を横たえさせる。
 ルシェラは微笑み、ゆっくりと瞼を上げてリファスを見詰めた。
──早く行って、早くお戻りを…………──
「ああ……。陛下、じいちゃん、ルシェラをよろしくお願いします。俺が戻ってくるまで、何があっても守り通して下さい」
 ルシェラの髪を撫で、二人の祖父を見る。
 グレイヌールは苦笑して頷いたが、ギルティエスは酷く神妙な面持ちで重々しく頷いた。
「何処へ行かれる……」
「詳しくは言えません。俺達は、ルシェラがお父様に会う事の他に、大切な用があってこの場にいると言う事です」
「ラーセルム…………サディア殿に何か」
 声は届いていないのだ。
 リファスは思わず唇を噛んだ。
「口外は出来ません。ただ、大切な事なんです。…………出来るだけ直ぐに戻ります。くれぐれも、ルシェラをよろしくお願いします」
「…………了解した。この命に代えても…………」
 物言いが酷く癇に障る。
 リファスは露骨に眉を顰めた。ルシェラの耳に届いて欲しくない言葉だ。
「軽々しく言わないで下さい」
「…………そう思われても仕方がないが、優秀な世継ぎは居る。今更ながら、こんな命でも役に立つのならばルシェラに全てを捧げたいと願っている……」
 リファスの睨み付ける視線を受け止めながらも真摯に返す。
 暫くその表情を見詰め、リファスは僅かに眉を解いた。
「……お願いします」
「…………ああ…………」

「よい…………本当に、よい方だ…………」
 扉が閉まるのを待ってしみじみと呟く。
「まことに、不敬の限りでございます」
「いや、あの方は、私などより余程上の立場の方だ。不敬などあり得ぬ。リファス殿は、国守と同等のお方なのだ。…………そなたも、薄々は分かっているだろう?」
 穏やかで悲しげな微笑みを向けられ、グレイヌールは曖昧な笑みを返す。
「三十余年前…………そなたも、あの場にいたのだからな……」
「昔の話でございますな」
「兄上様を看取り、再び……難儀な事だ」
「これも、陛下方や殿下と同じく……私の宿命なのでございましょう」
 顔にかかるルシェラの髪を払ってやり、グレイヌールは小さく息を吐いた。
 ルシェラは視界が不確かな様に目を眇め、二人の大人を眺めている。
「三十年以上の時が流れ、医療の技術も進歩したとはいえ……殿下のお力には、やはりなれぬものなのですな」
「これは大変に特殊な事だ。仕方のない事でもあろう……」

 三十五年前、セファンの兄が亡くなった時、その死亡宣告をしたのはグレイヌールだった。
 当時まだ四十に届かぬ歳だったグレイヌールは、リーンディルに収められている古来の医術書の研究に神殿へ滞在していた。
 その際にその医術の腕を買われ、ルシェラが出来るだけ安らかにいられる様に施術を求められたのだった。
 医者として、ルシェラを治してやろうと躍起にもなったが、結局甲斐もなくルシェラは亡くなった。
 その時に、ルシェラの隣にいた男の事も見知っている。
 精悍な美貌を持つ、黒髪黒瞳の老年。
 その面差しを孫の中に見出す事は容易かった。

「私一人の思い過ごしと考えておりましたが……陛下もその様に思し召しとあらば」
「大変似ている、と思う。名も同じ……出来すぎだとは思わんか」
「ファディス殿と娘が付けた名を聞いた時には、愕然と致しました」
「これが定めというものなのだろう……」
 ルシェラはただ黙って二人の話を聞いている。
 何の話かは分からない。
 ただ、二人がリファスと同じ程に優しい事は分かる。
 ギルティエスに向けて手を伸ばす。
 気づいて、直ぐさまその手が取られた。
「ルシェラ……」
──お祖父様…………ギルティエス殿…………──
 語りかけるが、ギルティエスには届かない。
 反応のない事を感じ取って、ルシェラは触れ合わせた手指を動かし祖父の掌に文字を書いた。
『大変申し訳ございません。今は声もなく、お伝えする舌を持ちません』
 アーサラの言葉で書く。ティーアのものと似ているが、細かなところが異なる言語だ。
 ルシェラの指の動きは不確かで、ギルティエスは多少読み解くのに時間を要した。
 リファスに伝える程には分かって貰えない。それがもどかしく、けれどルシェラは困惑するばかりで何も出来なかった。
 繰り返し、掌に記し続けるしかない。
 その内に、ギルティエスはグレイヌールに目配せをし、紙と洋筆を用意させた。
 手に筆を握らせると、ルシェラは半ば身を起こす。
 それを支え、文字を書ける様にしてやった。

『申し訳ございません。お許し下さい』
 やっと届いた言葉に、ギルティエスは眉根を寄せる他なかった。
「何を……お前が、何の許しを請う……」
『わたくしごときに、お心砕き戴き、また多くの時間を割いて頂きまして、まことにありがたく、畏れ多く存じます』
「当然の事をしているまでだ。お前は私の孫であり、ティーアの王子であり、国守であるのだから」
『わたくしは、貴方の孫かも知れませんが、王子ではなく、国守でもございません』
「何を言う。お前が国守でないなら、ティーアの国守は誰が務めているというのだ」
『セファン陛下がお認めにはなりません。わたくしは、王子でもない。セファン陛下にとって、わたくしは、最早記憶の中にある存在ですらない』
 筆が手から滑り落ちる。
 先のセファンの言葉が蘇り、ルシェラは思わず両の耳を覆った。
 リファスの会話とも繋がり、また繰り返している。
 考えたくなくとも、その選択肢はルシェラに残されては居なかった。
 ギルティエスは筆を取り上げ、絶望に苛まれながらルシェラを見詰めるしかない。
「セファンは……口ではああ言ったが…………お前を忘れたわけではない…………」
 忘れてはいない。
 だが、ただそれだけだ。

「…………私の国においで、ルシェラ。私の国で……王の孫として、不自由なく暮らせばよい。……リファス殿も共に……」
 声が震える。
 しかしルシェラは拒む様に首を横に振った。
「国守は国にあらねばならぬ。それは知っている。だが……アーサラは、また別だろう?」
 国守を持たぬ代わりに、国守かそれと同等の存在全てを受け入れ関わっていく。それがアーサラ王国の定めである。
 リーンディル神殿を国内に有するアーサラだからこそ、それが許される。
「セファンの頑なさは、最早和らぐ事はないだろう。……あれには、精神的な欠陥がある。そう断じて……諦める事も大切だろうと思う……」    
 ルシェラは強く目を瞑り、再び首を横に振る。
 祖父の優しさが分からないわけではない。ただ、それでも、自分の意志でセファンから離れる事など考えられなかった。
──わたくしは望んではならない事を望もうとしている。それでも、わたくしは、その事を諦める事が出来ない。愚かな事です。けれど、──
 筆を手にしていない。
 ルシェラが全身で叫ぶ声を、誰も受け止められなかった。
──わたくしは、何も捨てられない……!!──
 セファンに対する感情は、どれも向ける先がなく、捨て去らなければこのまま苦しむだけだと分かっている。
 それでも、ルシェラには何も捨てられない。
 これまでそんな感情を持つ事すら許されていなかった。
 捨てる術すら知らない。
 例えその感情に埋め尽くされて果てようとも、ルシェラには身動きなど取りようがなかった。
「ルシェラ…………出来ないというのか……」
 声は聞こえていないが、言わんとすることは表情や空気でそれとなく伝わる。
 堪りかねて、ギルティエスはルシェラを抱き締めた。
「…………父親が……必要か…………」
 ルシェラは祖父を抱き返す。
 背に回した手指が、縋る様に衣服を掴む。
 その頼りなさに、ギルティエスは息を呑む。
 ルシェラから立ち上る爽やかな花の香気と、その指の頼りなさが、雄を誘う。
 ギルティエスは込み上げる悲しみを堪えるのに精一杯だった。
 性質から、ルシェラに流されることはない。
 ただ、あれ程の目にあっても父親をまだ見限ることの出来ないルシェラに、悲しくて仕方がなくなる。
 守ってやれなかった。この様に……半ば心を壊してしまうまで。
「必要なら私がお前の父にもなろう。しかし……それでは、お前が納得できぬのであろうな……」
──セファン陛下に、おとりなしを…………──
「セファンに、口は利こうな…………しかし、私では恐らく力及ばぬ事であろう」
 聞こえていなくとも、ギルティエスにはある程度伝わっているらしい。
 ルシェラの瞳から涙が零れ落ちる。
──…………ごめんなさい……──
 ゆっくりと背に謝罪の文字を書く。
 繰り返し……繰り返し。
 ギルティエスは、込み上げる涙を堪えきれず、小さく鼻を啜った。
「ティーアの国内で、お前を認めさせる術があれば良いのだがな。……ハインセリア家が牛耳る事情では、それも難しい……セファンさえ……あれさえ、お前を認めれば……」
 ルシェラは緩く首を振り、ギルティエスに縋る指に力を込める。
 どの深窓の姫にも、これ程の嫋やかさはないだろう。
 性別さえ違っていれば、ルシェラは今程には苦しんでいなかった筈だ。
 この弱々しげな風情が、セファンの態度を頑なにさせているのだと、ギルティエスには伝えられなかった。

 ギルティエスの知るセファンの兄は、顔立ちと一見した風情こそこの孫そのままだが、瞳の持つ力強さは比ではない。
 気位の高さと、自信。
 愛され続け、その自覚があればこその輝きだったのだと、今のギルティエスには分かる。
 傲慢な程の光だった。それも、王子として、また、国守として、自身の特質、美しさ、全てに裏打ちされ、畏怖こそ湧けど一筋の嫉妬すらも浮かばなかった。
 ただ、憧憬あるのみ。
 それが兄ルシェラの印象であり、それが最も、このルシェラとの差違を明確にしている。
 病に立ち向かい、戦いの果てに命を散らした印象のあるかつてのルシェラ。
 引き比べてこの孫は……吹けば瞬く間にかき消えてしまう程の、蝋燭の灯火より尚かそけき光しか放てないでいる。既に全てに対して白旗を揚げている様だ。
 見ていられない。
 セファンが抱く苛立ちとは異なるが、ギルティエスはただ涙を浮かべる。
 かつてのルシェラ程に愛され、守られて育っていれば……おそらくあの様に、強く華やかな光を放っただろう。
 そうしてやらねばならなかったのだ。
 ……武力を用いてでも。

 少し強くルシェラに服を引かれ、ギルティエスは我に返った。
 ルシェラを見れば、窘める様に首を横に振られる。
「……私が何を考えたのか……分かるのか……」
 微かに頷きが返り、ルシェラはそのまま祖父の胸元へ顔を埋めた。
「済まぬ…………お前は、本当に優しい子だ……」
 繰り返し頭を撫でる。
 嬉しいらしく、ルシェラは益々顔を擦り寄せる。
「……どのみち実際には中々難しいのだよ、武力というものは……。動かしたくとも、動かせぬことも多い」
 だが、国守の惨状を救う為であったら……それが証明できれば。
 絶対に叶わぬと言うことではない。
「案じるな。今お前は我が手にある……剣を抜くには及ぶまいよ」
 愛おしい。
 淡雪の様なこの孫が、どうしようもなく愛おしかった。
「セファンが何と言おうと、お前はティーアの国守であり、ティーアの王子であり、私の孫だ。誇りを持って欲しい。お前は世界の全てなのだから」
 ゆっくりとルシェラを横たえ直す。ルシェラの手は中々緩まなかったが、手を繋ぐ形にしてやると漸くに落ち着きを見せる。
 全ての仕草がやけに幼い。
 さもあらん。ギルティエスは眉を顰めながらもルシェラに対して微笑みかけてみせる。
 国にいる間、全ての生育が阻害されていたのだ。ルシェラがそれでも、辛うじて善悪の別や優しさを身につけているのは、数少ない良識ある人々の教えと、かつての記憶の為なのだろう。
「リファス殿が戻るまで、ずっと手を繋いでいよう。安心して少し休むがよい」
 手を繋ぐ、と言うより殆ど腕を抱き込んで、ルシェラはにっこりと微笑んだ。
 ルシェラは触れるもの全てを素直に受け入れる。良くも悪くも純粋なのだ。
「お前がこうして私の手の届くところにいてくれるなら……お前を我が手で守り抜くことを誓おう」
 手入れの良い髪を撫でてやると、ルシェラは仔猫がそうする様に閉ざした目を笑みの形にし、益々擦り寄る。
 ギルティエスはその額に口づけ、強く強く手を握った。


作 水鏡透瀏

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