廊下に出、壁に拳を打ち付ける。
 無力さばかりを突きつけられ、リファスはその場に崩れてしまいそうなのを必死で堪える。
 周りの景色すら、剥落して真っ暗に思える。
 ルシェラを抱き締めても、その手の大きさが足りなくては意味がない。
 もう一度殴りつける。
 漆喰で固められていた筈の壁に罅が入り、ぱらぱらと僅かに崩れ落ちる。
 その事で我に返り、リファスは何とか拳を収めた。
 ここにいても仕方がない。
 自室に戻る。

 部屋に入り、それでも何とか気を静めようとシータを手に取るが、荒ぶる感情のままに奏でそうになって止める。
 感情の制御が出来そうにない。
 職業としての吟遊詩人の力は、魔力や感情を乗せて奏でることで様々な効果を齎すものだ。
 気が昂ぶり、感情を自分で操れない状態で奏でてはならないのが鉄則だった。
 楽器を床に投げつけそうだ。
「畜生……」
 血を吐く様に呟く。
「…………畜生……っ…………」
 シータの首を掴んだまま部屋を飛び出す。
 一階まで駆け下り、屋敷も飛び出た。

 気が済むまで庭を走る。
 敷地は、広い。その端、と言ってもその向こうもまだまだ人気のない森の広がる辺りまで駈けた。
 人がいては何も出来ない。
 大きな木の根方にどっかりと腰を下ろす。
 走ったことで、僅かだが気が発散されている。
 掴んできたシータを構えた。
 数度呼吸を整え、キッと前を見据える。
 爪を嵌めた指の背が弦に叩き付けられる。それ程の激しさで、リファスは奏でる。
 熱を孕んだ風が、巻いた。
 ふわりと黒髪が舞う。
 枝がざわめいた。地が鳴動し、唸り声を上げる。
 震える大気が、リファスの心を代弁したかの様に悲鳴を上げた。

「っあ………………」
 ルシェラの身体が震える。
 不安げに、視線が宙を彷徨った。
「如何なさいました」
「……リファス殿…………リファス殿が……ああ……」
 グイタディバイドの手を振り払い、立たぬ足で這う様に部屋を出て行こうとする。
「そのお身体でどちらへ!」
 無理に動くルシェラを抱き、引き留める。
「リファス殿が…………」
「リファス殿が、如何なさいました」
 呼吸が乱れている。戦慄く唇は、それ以上言葉を紡げない様で、弱々しく頭を振る。
「殿下?」
「…………リファス殿………………」

「…………ん……」
 窓の硝子が震えた気がして、サディアは外に目を遣った。
「どうした、サディア」
 向かいあって書類を広げていたサディアの祖父、ファナーナが首を傾げる。
 サディアは構わず立ち上がった。
「すみません、お祖父様。直ぐに戻ります」
「何かあったのか」
「リファスが……苦しんでいる」
 サディアの視線の先を同じ様に、憂慮に暮れる瞳で見る。
「そうか。……ふむ…………ここへ連れておいで。ルシェラ殿下のお側では、より苦しかろう」
 屋敷へ置いては居ても、急がしい身である。何度か会っただけだが、その様を見ていてもリファスとルシェラの仲睦まじい様子は悲しみを誘った。
 リファスが苦しむとなれば、今のこの環境ではルシェラのことしかないだろうと分かる。
「構いませんか」
「ああ」
 窓が一層震える。嵐でも吹いている様だが、サディアにはそうでないことがよく分かった。
「……厳しいな」
「この風が、リファス殿のお力か」
「……はい。恐らく」
「早く行きなさい。近隣に広がっては困る」
「はい」

 外へ出る、その手前のホールで、サディアはルシェラを抱き上げたグイタディバイドと出くわす。
「何処へ行こうというのだ」
「殿下が、しきりにリファス殿のお前を呼ばれ……無理にお外へ行こうとなさいますので」
「ルシェラ、お前は部屋に戻れ」
「……いいえ…………リファス殿が……」
「……お前は、ならん。グイタディバイド、寝台に括り付けてでもルシェラを留めておけ。リファスは暫くお祖父様が引き取る」
「どうして!」
 ともすればサディアより高い悲鳴が上がる。
「グイタディバイド、下がれ!」
 サディアの張り詰めた声音に、グイタディバイドは怯む。
「サディア! 何故……何故です、そんな……」
「下がれと言っている、早くしろ!」
「は…………はい……」
「サディア、どうして……っ…………」
 詰め寄ろうとしても、グイタディバイドに抱かれている為に身動きが取れない。振り払おうにも、今のルシェラにはそれ程の力も入らなかった。
「サディア…………サディア!」
「殿下、お身体に障ります。どうか、お部屋へ」
「いや……いや……ぁ…………」
「グイタディバイド、くれぐれもルシェラを頼む」
「サディア……厭です、わたくしも……」
「殿下、参りますよ」
 必死のルシェラに視線を向けず、サディアは外に出た。
 ルシェラは幾度か力ない拳でグイタディバイドを打ち付けたが、そのうちに諦めてだらりと腕を下げた。

「くっ…………」
 屋敷の周りの風も強いが、森へ寄ると余計に渦を巻いているのが分かる。
 木々が外へ洩れるのを庇っている様だった。
 リファスなりに考えているのは分かる。
 だが、風が孕む熱の所為で、森も徐々に弱ってきていた。
 リファスが内在して持っている力は、それ程ではない。ただ、誰よりも優れた音楽の才能が、この嵐を起こしていた。
 サディアは自分の回りに防護を巡らせながら、森に踏み込む。
 皮膚が焼け付きそうに熱い。
 足を踏み締めねば、立っていることも困難な程の威圧感が奥から発せられている。
 木々の影に拠って身に当たる力を凌ぎながら、歩を進める。

 奥まった地まで辿り着けば、一層風当たりが強い。
「リファス!」
 巻いた風が視界を狭め、視認が難しい。
 最も大きな木の根に力の中心を感じて、サディアは叫んだ。
「風よ! サディアの名の下に置いて命ずる! 静まれっ!」
 僅かに、風が怯んだ様に見えた。
 しかし、まだ強く踏み出せない。
「いい加減にしろ! リファスの音は、命令ではない!」
 はっきりとした威圧感が周囲の空気を圧す。サディアにぶつかり、風は解けて消えていった。
 弱まった風の中心地へと踏み込む。
 リファスは、一心不乱にシータを掻き鳴らしていた。
 側まで寄り、思い切り頬を引っぱたく。
「っ!」
 衝撃で、リファスの身体が背後の木に叩き付けられた。
 シータが手から離れ、完全に風が止む。大地も静まり、熱気も去った。
「……正気か」
「………………ああ。元から……」
 顔も上げず、倒れ伏したまま唸る様に答える。
「嘘を吐け。……森を戻して、それから館へ帰れ。お祖父様が呼んでいる。ルシェラの下ではなく、まずお祖父様の所へ行け」
「何で!」
「今のお前が側に寄ったらルシェラが混乱する。それに、本当にお祖父様がお呼びなんだ。行け」
 リファスは拳を振り上げ、そのまま地面に振り下ろした。
 幾度も、繰り返し打ち付ける。
 拳が傷んで血が滲んでも、リファスはそれを止めようとしない。
 サディアは、それを見詰めたまま、しかしそれでも止めなかった。
 発散させねば、屋敷まで連れ帰ることが出来ない。それ程にリファスが追い詰められているのは分かる。
「……お前は、楽器弾きだろう。手を傷めて何とする……」
 それ程の忠告が関の山だ。
 リファスの苦しみは、サディアにもよく分かる。
「……リファス……気が済むまで、そうしているがいい。だが……周りに影響を及ぼされては、困る」
 ぎり、と歯を噛み締める音がする。
 下草を掴んだ手は、血に染まっていた。草は柔らかいが、小石もあれば木の根も張り出している。随分と傷めた様だ。
「ルシェラのことは、暫く私に任せて欲しい。グイタディバイドは、今日退出すればティーアへ向かって実情を調べるのだ。ここから居なくなる。ルシェラは、またお前の手に戻る」
「そんなこと!」
「自分が子供であることを嘆くな。ルシェラに必要なものは、親の愛、それだけではない。お前のことも、等しく望んでいる。お前は、ルシェラのただ一人だから」

「嘘だ!」
「……何故そう思う」
 声が格段に低くなり、冷気を孕む。しかしリファスは気が付かない。
 サディアは拳を握り締め、リファスをもう一度殴りたい衝動をひたすら堪えた。
「お前もルシェラと同じだ! 何も分かっていない!」
 腹が立つなどと言う次元ではない。
「いい加減にしてくれ!…………私が、堪えられない」
 殴る代わりに髪を引っ掴み、頭を引き上げる。
 リファスはそれでも視線を向けない。
「ルシェラには何もかもが足りていない! それを分からないお前ではないだろう!?」
「でも、俺には何もしてやれない!」
「何故側にいてやるだけのことが出来ない!」
「側にいるだけじゃ駄目だ! 俺が抱き締めたって全然足りない!」
「思い上がるな! 足りないのが何だ。その為に、私も、グイタディバイドもいる!」
 状況が許すなら、首を刎ねてしまいたい。
 掴んでいた頭を地面に叩き付ける。
 怒りで頭が真っ白だった。

 何を甘えたことを言っているのか。
 ルシェラは確かにセファンのことを思い続けている様なことを言う。
 だが、それから僅かでも離れたら、今度はリファスのことしか言わない。考えない。
 リファスの欲深さが憎い。
 そんなことを言えば、サディアなどここにいることすら出来ない。

 唇を噛み締め、嗚咽を堪えるが、悔しさに溢れた涙は抑えようがなかった。
「ぅ…………くっ…………」
 ルシェラを守りたいのは、リファス一人ではない。
「貴様など……っ……」
 ルシェラを愛しているのは、リファス一人ではない。
「……思い上がるなっ。お前だけがルシェラを愛しているなどと……! 自分が一番ルシェラを思っているなどと!!」
 悲痛な声が上がる。
 身を引き裂かれる様な声音に、さすがのリファスも顔を上げ、サディアを見た。
「……サディア様……」
 怒りに震える琥珀の瞳に睨まれる。だが、大粒の涙を隠しもしない様は年相応の少女としていかにも頼りなく不安げだった。
「その様にしか考えられないなら……お前など、もう二度と私達の前に現れてくれるな」
 細い膝が震えている。
 足を踏み締めようとしていなければ、直ぐにでも崩れてしまいそうだった。
「サディア様……」
「ルシェラが幸せなら、それでいい。……そう思えない人間に、ルシェラを愛する資格などない!」

 嫌いだ、こんな男。
 どうしようもなく綺麗な顔で、散々残酷なことを吐く。
 何一つ分かっていない。
 ルシェラがどれ程想っているのかすら、真面に分かっていない。
 腹が立つ。悔しい。そんな風に安易に名付けることすら出来そうにない感情がサディアを襲う。

「……もう…………厭だ。お前の顔など、見たくもない……」
 顔を覆う。
 堪えられない。
「お前など……お前など…………ルシェラがお前を望んでいなければ……ここで叩き斬ってやるのに」
 常に帯びている小剣を引き抜く。
 リファスに当てる気概で地面へ突き立てた。
 刃に微かに髪が触れ、僅かに切れて地面に落ちる。
 漸く、リファスは我に返った。

「…………あ…………ああ…………」
 地面に身体を投げ出し、リファスは呻く。
 サディアの想いが、痛い。
 こんなにもルシェラの事を考えている。自分の卑小さが、漸く理解できる。
 熱く凝った息を吐き出すと、自然に涙が溢れ出た。
「…………ごめんなさい……サディア様……俺……俺は…………」
 サディアも息を吐いた。
 涙を拭い、もう一度唇を引き結ぶ。
「……もう少し落ち着いたら、先に言った様に。手を貸せ」
 身を屈めてリファスの血に濡れた手を取る。
 指先が傷を撫でる。淡い光が散った。
「お祖父様に会う前に、手を清める事だ。血の匂いを屋敷の中に持ち込むな」
「…………はい…………」
「立てるか」
「はい。…………もう少しだけ、一人にして下さい」
「……ああ。急かしはしない」
 もう、何とか大丈夫だろう。
 様子を気に掛けながらも、サディアは館の方へ戻った。

 戻れば、まだルシェラはそこにいた。
「……部屋へ下がれと言った筈だが」
「申し訳ありません。どうしてもお聞き入れ頂けず」
「……リファス殿は?」
 階段へ腰掛けてグイタディバイドに支えられ、必死の面持ちでサディアを見上げる。
 己の罪を知らない。知らなくていい。澄んだ瞳がこれ以上曇る事こそ堪え難い。
「少し落ち着かない様だ。……考える事が多くあるのだろう。……暫くお祖父様が預かるから、案じるな」
「ですが……」
 こうまで荒れ狂うリファスなど、初めてで不安を隠せない。
「……お前が心から案じているなら、少し待ってやって欲しい」
「…………リファス殿は何を……悩んでいらっしゃるのですか……?」
「さあな…………人の心は、安易に読むべきではない。落ち着けば、リファスが自ら語ってくれるだろう」
「……わたくしにして差し上げられる事は……ないのでしょうか……」
 かたかたと小さく震えている。
 まだ、リファスが発した気配や荒れた精霊に怯えているのだろう。
 グイタディバイドを軽く払い、その場所へサディアが埋まる。
 ルシェラを抱き寄せ、頭を撫でた。
「お前は、自分を癒す事だけを考えればいい」
「…………何も、ないのですね……」
「違う。…………お前がそう、人の心に乱されなければいいのだ。心を強く持つ様に、何度も言っているだろう?」
 ともすれば、姉妹に見える。サディアがルシェラを慈しみ労ろうとする様は、グイタディバイドから見てひどく痛々しかった。
「……口で言うのは、容易いなれど…………」
「……分かっている。急いても仕方がない事も、分かっている。……だが、他にない」
「…………強く持つとは……具体的に、どの様にすればよい事なのでしょうか」
「むやみに怯えるな。まずはそこからだ。精霊が荒れた程度で怯えられても困る」
「身体の内から乱される様で……」
「精霊は、お前にも身近なものだったろう?」
「……塔で暮らしておりました頃には……何も、感じませんでしたから…………」
「ああ…………」
 埒があかない。
「慣れるしかないことだ……精霊が、お前を傷つけるものではないことは、分かるな?」
「はい。それは」
「では、気を静めて時を待て。もう……部屋へ行けるな」
「……せめて……一目なりと……」
「互いが揺らぐ。我慢を覚えることも、大切なことだ」
 ルシェラは縋る様にサディアを見たが、緩く首を振られ、落胆する。
 会って慰めることすら許されない己の弱さが憎い。
「…………………………分かりました…………」
「グイタディバイド、ルシェラを部屋へ」
「……はい。殿下、構いませんか」
「……はい…………」
 グイタディバイドへ腕を伸ばし、しなだれかかる。
 掬う様に抱き上げられ、ルシェラはその胸へと顔を押しつけた。

 入れ違いの様に、リファスが戻ってくる。
 見計らっていた訳ではないのだろう。酷く憔悴した様子は変わらず、とぼとぼと覇気もない。
「……お祖父様は、二階の書斎だ」
「ああ…………」
「シータは?」
「ああ………………っあ、忘れてきた」
 情けない顔のまま、何とか笑う。
 サディアは大きく溜息を吐いた。
「私が取りに行ってやる。お前は先に行け」
「すみません」
「構わない。お前が楽器を忘れてくるなど、滅多にあることではないからな。書斎は階段を上がって左手の一番奥だ」
「はい」
 やはりとぼとぼと二階へ上がっていく。その姿を見ていられずに、サディアは外へ飛び出した。

「リファス・グレイヌール・アトゥナです」
「入りなさい」
 重厚な扉を叩くと、直ぐに返答がある。恐る恐る開けると、優しそうな老年の男の姿がある。
 ここに来た初日と他数回しか会っていない、サディアの祖父である。
「失礼致します。……お呼びだと伺いました」
「ああ、よく来てくれた」
 微笑みかけられ、ほっとしながら近寄る。
「一緒に茶でも楽しまないかと思ってな」
「お淹れしましょうか?」
「サディアから聞いているよ。お前は、茶を入れるのが上手いそうだな」
「そう言って頂けてありがたいと思っています。閣下のお口にも合えばいいんですが」
 こんな身分も年齢も遙か彼方上の人物に気を使わせていると思うと、申し訳なくて仕方がない。
「お湯を貰ってきますね」
「つい先程持ってこさせた。火輝石を入れてあるから、まだ煮えている筈だよ」
「そうですか」
 全てを見越している、と言うことなのだろう。それが年の功というものか。
 示された茶器で茶を淹れる。
 温かい香りが部屋に満ちていく。漸く、リファスはほっと息を吐くことが出来た。
 ファナーナと自分に注ぎ分、供する。
「……ああ。いい香りだ」
 それは茶葉がいいからだろうと思うが、褒められる様に言われるのは悪い気分ではない。
「お前の得意なものは、いろいろと聞いている。せっかく若者達が滞在しているというのにあまり交流がないのは寂しく思っているのだよ」
「すみません。なかなか……」
「いや。殿下のことがあるのは、分かっている。気にすることはない。殿下のご加減の良い時があれば、茶会や午餐会などを開きたいと思うのだが」
「ルシェラも喜びます。一人で食事をするのは嫌いだと、いつも言っていますから」
「そうか……では、近いうちに一席設けるとしよう」

 自分で淹れた茶をゆっくりと口に含み、リファスは目の前の老人を見た。
 サディアの祖父と言うが、あまり似ていない印象を受ける。
 穏やかで人品がいい。サディアの人柄が悪いというのではないが、どちらかというときつい印象の孫娘に比べて安心感のある話し方と雰囲気を持っている。
「リファス殿」
「は、はいっ」
 見ていたことは非礼だろう。咄嗟に俯く。
「お前のこの茶、実に良いものだ」
「…………ありがとうございます」
「次は、私が淹れよう」
「えっ…………でも……あの、」
「構うまい。お前程上手くはないが、たまには人の淹れた茶を飲むのも悪くないと思う」
 ファナーナは立ち上がって茶器の所へ行くと、一度湯で流し、新たに茶葉を入れ直して淹れた。
 新たな香気が立つ。茶葉は別のモノに変えたらしく、僅かに香りが変わる。
「……これは? 知らない香りがします」
「まあ、飲んでご覧」
 差し出され、受け取る。
 茶の香の中に爽やかな別の香気を感じる。
「エメルーシアの辺りでは、茶はこの様にして嗜むらしい」
「花……いや、果物ですか? でも……」
「この辺りでは、茶は茶だけで楽しむからな。花も、果物も、どちらも正解だ」
 口に含むと、華やかな香りが広がる。
「うわ…………何か、凄いですね……」
 新鮮だ。
 落ち着いた笑みの広がる顔に、ファナーナは微笑んだ。
「こんな調香もあるんですね」
「ああ。この国では目新しいがね。…………リファス殿」
 自身も香りを楽しみながら、リファスに微笑みかける。
「……はい」
「視野は、広く持たねばならん。物事を一途に捉え追求していくことも素晴らしいが、ほんの僅かに考え方を変えただけでこれほど味わいは変わるものだ」
 言いたいことは分かる。
 遠回しに、それが何を指しているのかも分かる。
 香気を吸い込みながら、リファスは気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
「若さとは、よいものだ。真っ直ぐに前を見て突き進んでいく強さがある。私には、羨ましいものだ」
「……すみません。仰有りたいことは分かります……。ただ、自分でも……どうすればいいのか分からないんです。どうしてやればルシェラが幸せかって……ずっと、そればかり考えているけど……答えなんて分からない」
 白い湯飲みの中の水面に、顔が映り込んでいる。ひどい表情だ。辛くなって一気に飲み干す。
「少し、休んでみるがいい。ずっと、そればかり……それでは切り替えは難しい」
「でも、そうしたら……」

「殿下のお心が離れて行きそうか?」
「っっ!!」
 ずばりと言い当てられ、狼狽える。
 その顔面へ、掌が押し当てる様に突き出される。
「……なっ……ぁ……」
「掌に、幾筋線があるか、数えてみよ」
「……見えませんよ、そんなの……」
「盲目とは、そういうことだ」
「………………やっぱり、お祖父様なんですね、サディア殿下の」
 切り返し方が似ている。口調が柔らかい為にサディア程突っ慳貪な風はないが、こうして諭されると確かに似ていた。
「…………もう少しだけ、ここにいさせて下さい。……考えてみます。少し、距離を置ける様に」
「ああ。そうした方がいい。……少し手伝った貰えるかな。書類が溜まっているのだが、もう随分と目が弱っていてね」
「はい。俺でよければ」
 リファスはやっとの思いで緊張を解き、微笑んで頷いた。


作 水鏡透瀏

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