「サディア様────って言ってもなぁ……」
 リファスは庭の木陰でこれからどうしたものかと思案していた。
 コトはさっさと片付けてルシェラの下へ戻りたい。
 しかし、現在サディアが何処にいて何をしているのか、全く見当も付かない。
 会場に目を引きつけておくのが一番の命だったが、一人でそれをする自信などない。楽器があればまだ望みはあるかとも思うが、ここには持ち込んでいなかった。
 ルシェラが居なくては、楽器とエルフェスの踊りが重ならない限り無理だと思う。
 最終的に落ち合う予定である所の幼い王子・王女達が囚われているらしい塔の辺りへ来ては見たものの、それはそれで単独行動を取るわけにも行かない。
 塔は城内から繋がっているのが本来の扉だが、外向きにも小さな扉が付けられていた。
 中心となる扉には見張りもいたが、こちらは小さく古びている上に物陰でもあり、監視などは居ない。
 調べてみたが一見したところ罠の類も見当たらなかった。
 どうにかしようとサディアの気配を探るが、人気が多すぎてリファスには全く分からない。
 結局、サディアを探しに半ば戻り掛けることになった。

 木陰を縫う様に庭を進む。
 道から逸れた陰は、まだ子供のリファスには刺激の強過ぎる声や物音がちらほらと耳に入った。
 舞踏会など、中心になる催しが終わればそんなものだ。
 赤面しながらその辺りを抜け、広間へ戻る本道へ出たところで……出くわした存在にぎょっとして立ち竦んだ。

「…………ティーア国王……」
 相手もリファスに気が付く。
 ひどく強い存在感に圧倒される。
 王の中の王。
 しかし辛うじてリファスは王を睨んだ。
 視線が合い、王は微笑を見せた。
「リファス殿、だな」
 唇の形とは裏腹に、色のない声はただ冷たい。
 歩み寄られ、僅かに身を引く。
「何故一人でこの様な所にいる」
「関係ないでしょう」
「あるな。お前がリファス殿であるなら」
 顔が近く迫る。月明かりの下、互いの表情はよく見えた。
 精悍な顔立ちに苦みが利いているのは、重ねた年齢の故だろう。瞳の正確な色は分からないが、見た目ではルシェラとの類似点はないに等しい。
 ただ、この男にルシェラは縋り、拒絶されたのだ。
「何故お前があのルシェラを認めるのか私には分からぬが……お前がお前の認めたルシェラを放置して一人動き回るわけがないのは、知れることだ」
「それが、どうして貴方に関係があるんです」
「そう噛みつくな」
 値踏みする様にリファスの足先から髪の一筋までを眺める。
 厭な気がして、リファスは警戒心も露わに数歩退く。
「何故お前はあれが似て非なるものだと分からないのだ」
「俺は他の誰も知らない。俺が知ってるルシェラは、今の、あの、ルシェラただ一人です。過去なんて俺には関係ない」
 唾を吐きかけたい衝動をぐっと抑え、リファスはきつくセファンを睨み付ける。
 周りに幾人もの視線を感じる。一発殴ってでもこの場を逃げたいが、それも出来そうにはない。
 じりじりと後退ろうとすると、上手く木を背にする様に追い詰められていく。それ以上動けば確実に封じられるのが分かり、やむなく足を止める。
「そうだな……。ルシェラも、私を覚えていてもお前を覚えてはいなかった」
 満足げに口元を笑みの様に歪める。
「お前など、所詮その程度の存在だということだ」
「そんなの……言われるまでもない。失礼します……っ」
 横を擦り抜けて立ち去ろうとした腕を掴まれ、引き留められる。
 捻り上げて捉えられそうになるが、寸でのところで自ら腕を捻り返し、空いた手でセファンを制して抜け出す。

「ふん。心得ている」
「まだ何か」
「手伝ってやろう。この私が」
「何をです」
「サディア殿は単独で動いているのか。それは少々危機感がないな。それとも繋ぎを待っているのか?」
「っ、な」
 全て見透かされている。リファスは表情を凍り付かせた。
 セファンはその顔に、声を立てて笑う。
「お前のその様な顔を見られるとはな」
「……どうして……」
「簡単なことだ。お前は誰によってこの場へ連れてこられた。そして今何故この庭にいる。何処から何処へ行こうとしている。……馬鹿でも推察できる」
「だからって、何を手伝うって仰有るんです」
 サディアの、今のこの状況はこの身勝手な男によって引き出されている筈だ。
 睨むと、不思議そうに首を傾げられる。
「この状況はあまり私にも望ましくない。あの男は操りやすいが下衆が過ぎる。私に従って温和しくすればよいものを。……ルシェラが見つかった今、直ぐにあれは用がなくなる」
「身勝手な……貴方が蒔いた種なのに!」
「ルシェラが蒔いたのだ」
 息子の名を口にする時、この類い希なる王はひどく冷たい顔をする。
 寒気すら覚え、リファスは眉を顰めた。
「お前がルシェラから何を聞いたのか知らぬ。だが、それはあれの被害妄想だ。私は、私にし得る全ての手を尽くしている。それなのにあれは……」
 奥歯を噛み締める音がする。
 しかし、それ怒りだけではない様にも見えた。
「……ルシェラから聞いたのは、ただ貴方を受け入れられない自分を責める言葉だけです。貴方への謝罪の言葉と、貴方に恭順を示す言葉の他、ルシェラは何も言わない」
「気休めを」
「本当です! ルシェラはただ貴方に謝りたい一心でここまで来た。それなのに……貴方だったらご存じなんでしょう? 人の心がどれだけルシェラを蹂躙するか。それでも……瀕死になりながらも、貴方に会いたくて、会って謝りたくて……っ……」
 怒りと悲しみとで昂じ過ぎ、瞬く間に双眸が潤む。
「何で……貴方、父親なんでしょう!?……いや、貴方がルシェラをお兄さんだって思ってたとしたって、お兄さんに、あんな……」
「私は最善を尽くしている! 受け入れぬルシェラの咎だ、これは」
「馬鹿言うな!」
 少し高い位置にある胸倉を掴む。
 セファンは逃れようとしなかった。

「人を呼べば、お前はどうなろうな」
「くっ」
 しかし、手は緩めない。
 清光の下で怒りに煌めく瞳に、セファンは目を細めた。
「その美貌と輝きでルシェラを誘ったのか」
 その物言いに、リファスは腕の力を益々強める。
「ふざけんな!」
「巫山戯てなどいない。ともすればルシェラを凌ぐその顔立ち……あの老人が若ければ、これ程のものとはな……」
「っ、う……くぅっ……」
 近い距離が災いし、セファンの両腕が身体に回され思い切り抱き締められる。
 艶なものなどではなく、強く締め上げられリファスは苦痛に呻いた。
 セファンに掴み掛かっていた手指から力が抜け、とうとう離れる。
 顔が紅潮していた。
 と、セファンは突然手を離す。
 咄嗟に足が立たず、リファスはくたりと地面に尻を付く。
「殺してやろうと思っていたが……これは少々惜しい」
 荒く呼吸を貪るリファスに覆い被さる様にしてセファンは地面に膝を付いた。
「っな、」
「そうだな。お前が我が手にあれば、ルシェラは簡単に戻ってくるのか……」
「何言っ……あっ、く……」
 凄味のある視線に射竦められ、リファス動きを失った。
 それでも、いきなり唇を押し当てられれば当然ながら噛みつくしかない。
 互いの口内に淡く血の味がしている。
 セファンは笑わない瞳でリファスを見、にやりと口元を歪めた。
「楽しめそうだ。……エイル!」
「……はい」
 木陰から気配の一つ、男が姿を現す。
 金か薄茶の髪で中肉中背、これといって特徴のない男だ。
 その方へセファンが手を伸ばすと、男は無表情のまま何かの布を手渡した。
 尻で後退ろうとするリファスの足を捉えて強く引き寄せ、布を鼻と口を覆う様に宛がう。布は少し濡れていた。
「うっ……」
 危険を感じてリファスは息を詰めた。しかし、それもそう長い間続くものではない。
 セファンは布を強く当てたまま、リファスの内腿を撫で上げ、股間を捉えて緩やかに弄った。
「ん、っあ……」
 さりげない動きだが、リファス自身を十分に煽る。思わず唇が震え声が上がった。
「ふ……ぁ…………」
 ふるりと背が震える。
 何かが鼻から、口から入り込む。
 気が付いた時には既に遅かった。
 頭の中が痺れる様な感覚と共に、リファスの意識は闇に落ちた。


「あれは……リフ……っ」
 サディアはリファスの姿を見つけ、声を掛けようとして思わず木陰に身を寄せた。

 従者の格好……男物の衣装に身を包んだサディアは、それは凛々しい美少年に転身している。
 従者の控え室からこっそり抜けだし、塔へと向かってみる途中、反対の方から戻ってくるリファスの姿を見て安堵したのは束の間だった。
 どう見ても最悪の状況に陥っている様だった。

 全ての元凶と対峙してしまっている。
 セファン一人ならまだしも、遠景だからこそ分かる。周囲に何人もの影が控えていた。
 状況としても人数としても不利が過ぎる。
 これ以上近づくことは出来ず、サディアは息を詰めて身を潜めた。
 ただ、二人の会話を聞き逃すことは出来ない。
 地面に触れ、精霊達の力を請う。
「我に力を」
 地が微かに震える。手と振動を介して声が届く。

 聞こえた会話は、サディア自身にとってはさ程悪いわけではなかった。
 しかし、リファスとルシェラにとっては最悪とまでは言わないにしてもかなり良くない。
 リファスがセファンと共に連れ去られるのを見て後を付ける。
 他国の城内では、連れ込める場所など限られている。
 案の定、そこはセファンが滞在している客室の様だった。
 それを見届け、サディアはルシェラを探しに出た。

 リファスと離れたと言うことは、それなりに信頼の措ける人間と共にあると言うことだろう。
 そしたまた、会場内に居ないことも想像に難くない。
 医務室か休憩室。
 そう考えると、リファスの祖父を捜す方が容易いと思われた。
 舞踏会の際には、会場に面した個室がその様に使われる事は知っている。
 会場は城の一階だ。窓から一つ一つ覗くことが出来るのは幸いだった。
 幾つ目かの窓の中にグレイヌール医師の姿を認め、硝子を叩いた。

「これは! 殿下」
「入れてくれ。ルシェラはここにいるか」
「はい、どうぞ」
 手を借り、窓から忍び込む。
「サディア殿!」
「……ギルティエス様。お久しい」
 国守なればこそ許される口の利きようでギルティエスを一瞥する。
 直ぐさま、その傍らの寝台に寄った。
 血の匂いがしている。
「怪我か」
「いや、先程……血を吐いてな」
「吐いた?」
 見れば拭った跡こそあるものの、まだ汚れの落ちきっていない顔でルシェラは横たわっている。
 血の跡は赤い。
「喀血したのか。……命を繋ぐのも最早これまでだと…………」
 血は傷から出るもの。傷は直ぐに塞がるもの。それが咳と共に吐き出されると言うことは、その治癒力すら危ういと言うことだ。
 寝台の側に膝を付き、ルシェラの頬に触れる。
 緩慢に瞼が上げられた。
「この状態のお前に伝えることではなかろうが」
──リファスに……何か……──
 意識は辛うじてあるらしい。リファスのことであれば尚更だ。
「あれのことになれば敏いな。攫われた。セファン殿にな」
 ルシェラの目がもう少しはっきりと開けられる。
「サディア殿、それは」
「この目で見たことだ。間違いはない」
「セファン……そこまで……」
 ギルティエスの表情が一層険しくなる。
──リファスは……危険でしょうか……──
「命の危険はなさそうだ。案ずるな。そのうちセファン殿の方から繋ぎがあろう」
 ルシェラは僅かに安堵の表情を見せた。
 だが、直ぐに横を向いて背を丸め、ひどく咳き込む。
 口の端から血の飛沫が散る。
「ルシェラ!」
 呼吸にも雑音が多く混じっている。
 サディアは直ぐにルシェラの手を強く握った。

 淡い光が二人を包む。
 リファスと全く同じではないにせよ、次第にルシェラの呼吸が落ち着きを見せ始める。
 しかし、その間にも咳が起こり、口元は更に紅く染まった。
「私では……リファス程の役には立たんか」
 ルシェラはぐったりと力なくサディアに全てを委ねている。
 一度呼吸器を外し、口元を拭って物を取り替える。
 ギルティエスはその弱々しい姿を前に、奥歯を噛み締める。
「…………セファンは部屋か」
「まだ何処にも行っていなければな。……恐らく居るだろう。しかし……」
「リファス殿の命は確かに私も無事だろうと思う。殺してしまっては不利益が過ぎる」
「セファン殿はリファスを気に入ったらしい。……そういうことだ。部屋にはまだ当分居るだろう」
 ギルティエスは言葉の意味を理解すると共に顔を赤らめ、それから青褪めた。
 年端も行かない少女から説明されたい状況でもない。
──リファス…………リファス…………──
「お前が落ち着いたらもう一度様子を見てこよう」
「サディア殿はあまり動かぬ方が宜しかろう。私が行く」
「貴方では取り込まれよう」
 一言が、ギルティエスの心を射抜く。
 サディアはその様子を鋭い視線で睨んだ。
「貴方がセファン殿に対して何も出来ないのは実証済みだろう」
「しかし、それも最早これまでだ」
「今の貴方の決意や意気込みを、セファン殿の前でも保ち続けられるのか?」
「出来る。このルシェラの様を見れば、当然に……」
「無理だ。貴方は憤りながらもセファン殿に惹かれ過ぎている」
 ギルティエスは今度こそ押し黙った。
 否定してしまえない。
 セファンの前に出て、その目に曝されたなら……。
 ぐっと息を呑み俯く。

「私に出来ることはないというのか……」
「貴方のすべき事はルシェラの側にいて、肉親の情愛というものを伝えてやることだ。セファン殿があの様である以上、ルシェラの肉親は貴方とその奥方しかいないのだから。セファン殿のことは、私とリファスに任せて欲しい」
「しかしルシェラも……」
「少し持ち直している」
 握った手を少し持ち上げて見せる。
 見れば、呼吸はすっかり落ち着いていた。
「出会えたのに……リファスも居ないところでは死ぬに死ねないだろう?」
「ああ……」
「もう暫く私が力を送れば会話くらいは成り立とう」
「しかし……ルシェラは声を失っている」
「声?……また失ったのか」
 ルシェラの顔を見る。微かな頷きが返った様な気がした。
 ギルティエスが続け補足する。
「セファンに会ったのだ。会場内で……皆の前で存在を否定され、足蹴にまでされた」
「貴方はそれを見ていたのか?」
「…………ああ……私には………………」
「やはり、無理ではないか」
 反論の言葉もない。ギルティエスは口を噤み涙を浮かべる。
「お前も、もう少し心を強くせねばな。リファスの為だ。このままではお前につられ、リファスも壊れる」
 窶れた手の甲に軽く口付ける。ルシェラは目を閉じ浅く息を吐いた。
──わたくしが……陛下の御前にて果ててご覧に入れれば……リファスは解放されますでしょうか……──
 意識が随分とはっきりとしてきた様だ。伝えられる声も明瞭になってきている。
 サディアは、様子を伺いながらも言葉を率直にした。
「恐らく、駄目だろう。セファン殿にとっての脅威はリファスの存在そのものだ。手に入れば、一生飼い殺しにするつもりだろう」
──では、取り戻すしかないと……──
「そう思う」
 明確な回答はルシェラの為だ。そうでないならサディアとて不安を覚えていないわけではないのだ。澱みが出る事もある。
 澱みは、ルシェラの不安も招く。
 ルシェラはサディアを見る事が出来ず、益々強く目を瞑った。

──陛下は本当に……ご連絡下さるでしょうか……──
「居なくなったのは知れる事だ。お前と共に来ている事を知りながらあの場で拐かしたのだから、この祝賀期間中に何らかの動きはあるだろう。そうでないなら祝賀の終わった後の方が何かと足もつきにくく安全の図だ」
──申し訳のない事…………貴女の問題も片付かぬと言うのに──
「私の方は何とかなる。お前とリファスの方が重大だ」
──その様な……幼い方々が苦しめられている事の方が余程に──
「あれはセファン殿の意志ではなく、セファン殿も望ましくないと思っている様だ。ならば、お前達をどうにかすれば自ずと道は開けよう」
──陛下のご意志にどうしても私達が従えなければ……ご弟妹はそれこそ盾に取られる……それだけは、あってはならぬ事です──
「……だから、まず私が行こうというのだ。お前はどのみち動けまい」
 ルシェラは眉を顰める。
 納得の出来る事ではない。これは、自身の問題だと分かっていた。
 だが、動けない事は敢然とした事実だ。
「交渉の余地もないというわけでもあるまい。方策はある筈だ」
 凛々しい瞳が諭す様に見詰める。
 瞼を下ろしていながらもルシェラはそれをはっきりと感じていた。
「お前に悪い様にはしない」
──それは、最も気にかけて頂く必要のない事です。……わたくしなどではなく、まず弟君、妹君の事とご自身の事をお考え下さい。その後でラーセルムの国の事、世界の事……ラーセルムの陛下の事もございますでしょう。更にその後に、リファスの事を……──
「叔父の事など、考える必要はない」
 吐き捨てる。
 叔父は王の器ではない。一般人としても劣ると感じる。セファンが噛んで居なければ、サディアは一生顔を合わせる気もなかった。
「お前は、もう少し自分というものを考えるべきだろう」
──………………ねぇ、サディア。陛下は、わたくしとリファス、現状でどちらかを選ばねばならぬとしたら、どちらをお選びになるでしょうか──
「何を」
 問いの意図が分からない。
 ルシェラは目を開け、不審気なサディアを見て悪戯を仕掛ける様に微笑んだ。

──陛下は必ずリファスを選ぶ。陛下がリファスをお気に召したのなら、必ず──
「何故そう言いきれる」
──わたくしはまた生まれ来る。それも、必ず陛下の近親者として。リファスも生まれ来る存在らしゅうございますが、それは、陛下の御手の範囲ではない確率が非常に高いですから──
「だから、何だ」
 サディアに対する応えには行き着いていない。
 応えを急ぐサディアに、ルシェラは尚も微笑んでみせる。
──陛下はわたくしが長らえない事を知っている。だから、リファスを選び、わたくしは……また次が生まれ、それが望む様に育つ事をお祈りになるのでしょう。あの方は…………わたくしとは、何なのでしょうね──
「お前は……ルシェラだ。この世界では国守。神の国では守護者……私にとっても、掛け替えのないものだ。それはリファスにとっても、世界にとっても、神々にとっても同じ事」
 ルシェラは緩く首を振る。
──陛下の知るルシェラとわたくしとは違う。わたくしが死に、また次に生まれ来るルシェラもわたくしとは異なるのでしょう。では……わたくしとは、何?──
 微笑は崩れない。
 小さく首を傾げ、サディアの答えを待っている。
 サディアは口を噤むしかなかった。
──ですから、わたくし自身の事など、取るに足らぬ事だと思うのです。まず、今のみを生きる方々を──
 ルシェラはにっこりと笑った。
 蝋燭の光にも淡く溶けていきそうだ。
 サディアは思わずルシェラに取り縋った。
──サディア?──
「考えてはならぬ事だ、それは」
──しかし──
「もしこの顔に生まれなければ、もし力を継がなければ……考えても仕方のない事だ」
──「もし」の世界は存在しない。けれど、過去も未来も存在します。わたくしはないものの事など考えない。ただ……今こうしているわたくしとは何なのでしょう。それが分からない──

 根源は、同じ事なのだ。
 サディアに答える舌がない。
 今生きて考え行動しているルシェラとは何なのか。
 その問いはそのまま、言い換えればサディア自身も持っている問いだった。
 「もし」こう生まれていなければ、自分は何者であったのか。 「ルシェラ」でなければ、「サディア」でなければ何だったのか。
 過去ルシェラであり、未来のルシェラである部分を除いた後に残るもの……。
 サディアも同じだ。
 だからこそ、考えては動けなくなる。

「サディア殿、ルシェラは何を……」
 顔を強張らせたサディアを見かねてギルティエスが口を挟むが、二人に反応はない。
──自分自身の存在すら理解できぬ者に、何の心があるのでしょう。……サディア、わたくしは構いません。まず、貴女のご弟妹を助けて差し上げて下さい──
 細い指が伸ばされ、サディアの頬を辿る。
 サディアは顔を伏せた。
──サディア、さぁ──
「………………ああ…………ギルティエス様、ルシェラをお願いしたい。セファン殿の所へ、行ってくる」
「お一人でか?」
「その方が話もしやすい」
 ルシェラから離れ、サディアは立ち上がって目元をぐいと手の甲で拭った。
 表情は改められたが、ギルティエスは眉を顰める。
「リファス殿も、サディア殿のご弟妹も、今宵の内にはご無事であろう。少し様子を見た方がよい様に思う。セファンも、あれで随分ものの考え方が変わっている。向こうの出方に合わせた方が賢明ではなかろうか」
「リファスはある意味無事でない可能性も高いと思うが、貴方は如何思われる」
 ギルティエスは年甲斐もなく泣きそうな表情になり、耳までを赤く染める。
 サディアは目を細め、そのひどく初々しい様を眺めた。
──リファスがご無事ではないとは……?──
「セファン殿はリファスの美貌に惹かれて攫った面も強い。セファン殿の性癖はお前もある程度理解していよう。…………分かるだろう? これ以上はギルティエス殿が憤死しそうだ」
 軽い口調のサディアに対し、ルシェラは息を呑み唇を震わせる。
──直ぐにお救いしなくては……! リファスは、そういった行為に大変な恐怖心をお持ちです。無理強いをしては、壊れてしまう──
 細い腕が身体を突き動かす。サディアから力を受けたお陰で躊躇いなく動き出せるまでにはなっていた。
 だが、勢いが過ぎて直ぐさま蹲る。
 急が過ぎる動きにはまだついて行けない。脈が乱れ、息が上がる。
「っ……は……」
「無理をするな!」
 腕を華奢な身体に回し、ぎゅっと抱き締める。
 ルシェラも苦しさ故に、サディアに縋り付いてその背に爪を立てた。
「……く……っ……」
「グレイヌール!」
 呼ぶ前に医師は動いている。
 顔を上げさせ、呼吸補助機を調節し脈を取る。
 しかし、どのみちルシェラにあまり強い薬は使えなかった。運ばれて直ぐにも使っている。心臓の働きを強める薬は紙一重で、ルシェラ程弱っていては中々難しかった。
 サディアの発する光が殆ど全てだ。
──…………大丈夫…………もう、すぐ……落ち着きます……──
「そう言ってもな。横にするぞ」
──いいえ、リファスの……ところへ……──
 サディアの上着にくっきりと爪痕が刻まれる。
「馬鹿を言うな。その身体で」
──まだ……死ねはしない……──

「お前の苦しむ姿を見せられる私達の身にもなれ!!」

 声音は、悲痛だった。
 自分の発した声の大きさに驚いて、サディアは直ぐさま口を閉じる。
「サディア殿……すまぬ。ルシェラが無理を申しているのだな」
 見るに見かねる。誰もが追い詰められている。
──ごめんなさい、サディア……わたくしは……──
「いや、私こそ…………すまない……」
 腕の中の肢体をそっと横たえる。ルシェラは抵抗しなかった。
「…………リファスも、お前が無理をする事は望んでいない。お前は、事が明確になるまで動かぬ方がいい。私も窓などから少し様子を伺ってくるだけだから、案じるな。お前が居る限りリファスも壊れきる事は出来ないだろうし、お前がそうであった様に、壊れてもお前次第で回復の見込みもある。実際の行動は、ギルティエス様が仰有るとおり、セファン殿の動きに合わせる方が賢明だろうと私も思う」
──…………はい。しかし……貴女も、くれぐれもお気を付けて──
 さしものルシェラも、憔悴したサディアの様子を見ては引き下がるしかない。
 ゆっくりと手を離し、ルシェラは心配げにサディアを見詰めた。
 まだ肩で息をしている。
 サディアは微笑みながらも、そっとルシェラの双眸を手で覆う。
「案ずるな。……では、な。直ぐ戻る」
 会場の方から出る訳にはいかない。再び窓を開ける。
 闇の中に消える姿を、ルシェラは目で追った。


作 水鏡透瀏

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