「思うのですけれど」
 寝台の中でじゃれ合いながら、ルシェラがふと口を開く。
 素肌で抱き合うだけだが、それでも充足感はある。
 軽い夕食を済ませた後はもうなし崩しだった。
「何?」
「貴方がたが街へ行く時に馬車へ施して下さった結界を、わたくしが自分自身へ纏うことが出来ればよいのですよね」
「そう……なるかな。でも、人一人限定で結界を張るのは、難しいだろ」
「そうでしょうか」
「靴に掛けて……範囲限定とかか? だけど、危険に対して脆くなるぜ。人の気配を悟り難くなるし」
「貴方のお心まで感じられなくなるのは、不安にも思います……難しいこと」
 肌の肌理はどちらかと言えばリファスの方が細かく皮膚も柔らかい。
 悪戯に頤の辺りへ吸い付くと、淡く色付いて跡が残った。
「やめろって」
「貴方と触れ合っているのが、この上もなく心地いいのです」
「俺だって……だけど」
「お嫌ですか?」
「……そういうんじゃ、ないけど……っあ」
 少しずらした位置へと唇が触れ、リファスは背筋を震わせる。
 慌てて少し離れる。
「取り敢えず、さ。明日になったらサディア様と話し合ってみようぜ。俺もお前も知らない事が多過ぎる」
「ええ。…………ねぇ、リファス殿」
 ルシェラの声音が例えようもなく甘く濡れる。
 幾らリファスの自制心が並外れていたとしても、抗い切れるものではなかった。
 誓い合ったばかりだ。
 腕がするりと絡み、頬に口付けられる。
「わたくしに、触れて下さい」
 情炎に潤んだ瞳に見詰められると、拒めなくなる。
 先に月の下で確かめ合った言葉に二言はない。
 愛しているのだと、ただその事だけは痛切なまでに感じる。 抗えば、誓いを反故にする事になるだろう。それだけは避けたい事だ。
 寄せ合った頬は血の気が薄くひやりとしている。熱を伝える様に擦り寄せた。
 繋がればもっと多くの熱を伝え、共有してやる事が出来るのだろう。
 息を吐く。
「……分かってるよ」
「…………貴方が欲しいのです」
 ルシェラも随分望みを口に出来る様になっている。リファスは微笑んで唇へと口付けた。
「俺も……お前が欲しいよ」
 合わせている唇が微笑み、薄く開くや舌が伸びる。その誘いをリファスは素直に受け入れる。
「いい加減、リファス殿って言うの、止めないか? 俺の方が身分低いのに」
「どうお呼びすればよいのですか?」
「名前で。リファスってだけで呼んでくれよ。殿なんて付け続けられるのは、厭だ」
「分かりました。……リファス」
 名を呼ぶだけで笑みが満ちていく。
「リファス……」
 幸せな笑顔に、リファスも釣られて微笑んだ。

 括っていた筈の髪はルシェラの悪戯で紐を解かれ、汗ばんだ肩や背を覆う。
 鬱陶しくて首を振ると、上に乗ったルシェラが手を伸ばして額や首筋に絡んでいる髪を梳き解いた。
 少しは動ける様で、ルシェラは自ら腰を揺らめかせ快楽を追う。
「あ、っん……」
 長い髪が踊る。動く度、リファスの茎を咬んだ襞が捲れて媚肉が覗き、白濁した粘液が溢れ出る。
 長く快楽は続けられていた。溢れ流れる粘液の量がリファスが既に幾度も達している事を示している。
 疲労を隠せないながらリファスの手がルシェラの頬を包んだ。
 紅潮し得も言われぬ色に染まった顔は美しいながら愛らしい。リファスを受け入れて全身が歓喜しているのが分かる。
 艶を増していくルシェラの魔性にリファスが逆らえる筈もない。
 ルシェラが欲しいだけ与えてやれるなら、リファスもただそれでいいと思える。

「あ、っく……る、ルシェラ、ぁあっ!」
 食らい尽くされるイメージが脳裏を焼き、また達する。
「ん、んふ……ぁ……っ」
 満たされていく。
 ルシェラは頤を仰け反らせ、自分の最奥を満たしていく感覚に酔い知れた。
 伸ばした腕を絡め、引き合う。口付ける。息さえ食らい尽くされる様で、リファスは肺に痛みを覚えた。
 リファスが躱す事が多い為に、一度一度の交わりは厭がおうにも濃厚になる。
 口付けに身を屈めると、ルシェラの逸物はリファスの腹筋へと擦り寄せられる形になった。再び腰が動き始めている。
 とろとろと先端から蜜を零しながらも達するまでに至れないのだ。リファスは手を伸ばし、そっと茎を包んだ。
「ふぁ、っん! ゃ……ぁ……」
 触れて欲しくないとルシェラの手が軽くいなしに掛かる。
「ルシェラ……だけど……辛いだろ?」
「いいえ…………ぁ、ああ……」
 体力のあるリファスと異なり、ルシェラには完全に我を忘れて貪る事は出来ない。一度達するのが限度だ。
 快楽はあと少しが足りない辺りを自身で制御してしまう。仕事と割り切り、それに慣れた故に許された技だった。
「……ルシェラ……っ……く…………」
「貴方は……我慢なさらないで」
「そうじゃなくて……っ……も、キツ…………」
「あ…………ああ…………」
 達した回数など数えていない。僅かに動く度に溢れ出るという事は、もうそれなりの回数をこなしている事になる。
「ごめんなさい。貴方のご事情を考えず……」
「ん、ぅ……ん……」
 滴る唾液を舐め取られ、リファスの背が頼りなく震える。腕を伸ばし、ただルシェラに縋った。
「……大好き、リファス……」
 漸く自身の快楽を追い求め始める。
 一際激しくなる動きに、リファスは意識が遠のくのを感じていた。

 鼻の奥が疼いて、小さくくしゃみをする。何処か肌寒く思えて、手近な温もりに擦り寄った。
 柔らかな寝台には慣れたが、人肌の温もりには何処か慣れる事が出来ていないのは、未だ経験が足りていない為なのだろう。
 全てが満たされている。
 微笑みを隠せず、眠るリファスへと一層頬を寄せた。
「ん…………」
「リファス、起きて下さい」
「…………う…………んん…………」
 ルシェラの知る他の誰よりも美しく、柔らかな頬へと口付ける。
 どちらかと言えば朝弱いのが、珍しく熟睡できた為か気分もすっきりと爽やかだ。
「リファス」
 温かみと穏やかな呼吸は、リファスが確かに生きている事を示している。
 貪ってもリファスは死なない。漸くに理解できたその事を、心から感謝したい。
「……リファス」
「…………ん………………ぅ…………」
 堪らなくなって唇に口付ける。幾度か軽く。そのうちに物足りず舌を這わせ唇を僅かにこじ開けた。
「ぅ、ふ……」
「ん、っ……ん……ぅ、る……ルシェラ?」
 漸くリファスの目が開く。
 ルシェラは唇離し、満面に笑みを浮かべた。
「おはようございます、リファス」
「あ……ああ…………おはよ、ルシェラ。えっと……」
「お呼びしても起きて下さらないから」
「ごめん。具合はいいみたいだな」
「貴方のお陰です」
「じゃあ、一人で待てるか? 朝食用意して貰ってくるから」
「……はい。貴方がお戻りになるまでは。でも、もう一度、構いませんか?」
 扇情的に自分の舌を舐め、リファスを誘う。
 悪い気はしない。唇を重ねる。唾液を啜られ、寝起きだというのに軽い目眩を覚える。
 ルシェラの髪を撫でてさり気なく唇を離す。朝からこれでは今日一日持ちそうにない。
「じゃ、な。ちょっと待ってて」
「はい」

「お帰りなさい…………ああ、サディアもご一緒でしたか。おはようございます」
 台車を押してきたリファスの後ろにサディアを見つけ、微笑みかける。
 サディアは軽く肩を竦め、ルシェラの側へ近寄る。
「おはよう。邪魔をして済まないな」
「いいえ。しかし、これから朝食なのですけれど」
「私もいっしょに食べようと思ってついて来た」
「そうですか」
 卓へと食事を並べ追えたリファスへと手を伸ばす。お互いに何の疑問も持ち合わせず、リファスはルシェラをさらりと抱き上げて食卓へと移した。
 サディアは呆れて突っ込む気にもならない。
 少し遅れて食卓へ着く。
 香りのいい茶を口に運びながら、仲睦まじいながら何処か苛々とする光景を眺めた。

「ああ、サディア。お伺いしたい事があるのです。貴女は、わたくしが心を強くする他ないとそう仰せになりますけれど……」
「ルシェラ、食事の後でいいだろ」
「ええ。でも」
「食事中に話すのは、せめてもうちょっと綺麗に食べられるようになってからな」
「…………はい」
 慣れていないと言うより元々不器用なのだろう。切り分けようとすると皿から腸詰めが逃げていく。
 リファスの前まで転がって行く。リファスは苦笑して自分の皿からルシェラの皿へ同じものを移して切り分けてやり、食卓に転がったものは自分の皿へと乗せた。
 悔しげにルシェラは口を尖らせる。
 作法は一通り教わっていても、普段の食事は粥しか食べていなかった。リファスの家で世話になっていた間も、匙を使って食べるものが主で、この屋敷に来てから漸くその他の食器を使い始めたのだから仕方がない。
 どうしても食べ零しや口の周りを汚したりすることが多く、リファスは手を出したくてうずうずとしてしまう。

「そうだ、リファス。布屋を頼む手筈を整えているのだが、必要な道具があれば一緒に取り寄せる。後で一覧にしてくれ」
 見かねてサディアが話題を振る。
 サディアにとって、仲睦まじい二人の様子は安心はするものの、それと動じに何処かひどく苛々するものだった。眺めていたいものではない。
 ルシェラの口元を拭おうと手を伸ばしかけたリファスは一瞬動きを止め、口を開いた。
「あ!」
「……忘れていたのか?」
「そういう訳じゃ、ないですけど」
「布も、ある程度の傾向を示せ。店にあるもの全て持って来させても仕方がなかろう」
「はい。じゃあ、食後にでも」
「お前の事だ。昨日の段階でもうある程度の指針は決まっているのだろう?」
「まだですよ。何となくの形は、あるけど」
「わたくしにお作り頂けるという女性ものの夜会服の事ですか?」
 食べ飽きてきたのだろう。元々食は細い。手を止めて食器を置き、興味深げに二人を見る。
「ああ。お前なら何着せても似合うだろうけどさ」
 指先で腸詰めの脂や汁の付いた口元を拭ってやり、ぺろりと舐める。
「色が決まらないんだよ。純白がいいかなとは思うんだけど、目の色に合わせて淡い緑でもいいよな。髪や肌の色に合わせて薄い黄色もいいと思うし……」
 指先を軽く布巾で拭って、何処かうっとりとしてルシェラを眺める。
 意匠次第で、どんな色を着せても似合うだろう。ルシェラの色は白く、何色にも染まる。
 縫い物は嫌いではないし、姉達の特別な服はリファスが縫ったものも数多い。
「貴方に全てをお任せ致します」
「リファス、決めかねている所悪いが、最低五着は用意せねば困る」
「え?」
「祝賀は一日では終わらないし、前日と同じ衣装というわけにも行くまい。昼と夜でも着るものは違う。祝典は出ないわけにはいかないだろうし、舞踏会だの午餐、晩餐と幾つかは出席しないわけにもな」
 さらりと言ってのけるサディアに、リファスは固まった。
 その表情を見てサディアは少しばかり意地の悪い笑みを浮かべる。
 これくらいの詰りは許されて然るべきだろう。ルシェラの全てを一人で占めてしまうのだから。
「お前もルシェラと共に作法としきたりを学べ。そうだな……私が直々に叩き込んでやろう。ありがたく思え」
「……え?」
 リファスの額に冷や汗が滲む。それとは裏腹に、ルシェラはにっこりと笑って大きく頷いた。
「リファスとご一緒してお勉強できるのですか?」
「ラーセルムの王宮のしきたりや貴族の作法については、リファスもお前も同じ線に立っている。そろそろ学び始めねば、あと三ヶ月とないのだからな。昨日で、無理さえしなければお前にも体力がつき始めている事は分かった。リファス次第だという事もな。そうだろう、リファス」
「……はい。いや、でも、だけどまだルシェラは」
「踊りは引き続き姉上様にお願いする。その次の段階が加わるだけの事だ。無理はさせない。お前もついているだろう?」
 リファスに視線を送る。笑っている様ではあっても何処か鋭く見えて、リファスは小さく身を竦ませた。
 どうにもこの手の気の強い女は苦手だ。姉相手に耐性はあるとは言え、だからこそ余計に逆らえない様刷り込みが出来ている。

「どちらかと言えば、リファス、作法はお前の方がなっていない。ルシェラに恥を掻かせるなよ」
「わたくしの方が、困った事になっていると思いますが」
「ティーアとは少し違うからな。だが、基本は出来ているし、元々品がよいから余り問題がない。リファス。お前はまず気品を身につけろ」
 散々な物言いにリファスは口を尖らせる。
 そう会話しながらも、ルシェラ以外の二人は着実に食事を終えつつあった。
「そんな事言ったって」
「並より上程度では話にならん」
「そんなに下品ですか、俺」
「品がないとは言わない。だがな……指で人の顔を拭い、それを舐めている様では如何ともしがたい」
「っ……」
 一連の動作は完全に無意識だ。
「ルシェラ相手とは違い、容赦はしないからな」
「サディア様の意地悪」
「お前の今後の役にも立つと思えばこそだ。いいな」
 正論を吐かれては反論できない。渋々と肩を竦め、納得した形を見せる。
 ルシェラはそんな二人の様子を小さく首を傾げながら眺めていた。
「リファスは大変気品に優れ、美しくお優しい方です。そのままで、問題などない様に思うのですけれど」
「普通に暮らすだけならな。十分だ。だが、これから行く場所は、それだけではならない。お前達の恥は、即ちお祖父様の恥になるという事は忘れるな」
「ああ……」
 十分に脅されて、ルシェラはリファスと顔を見合わせた。
 不安感が煽られる。
「だから、学べと言っている。二人とも素養はあるのだから、難しく考える必要はない」
「なら……いいんですけどね」

 ルシェラは結局それ以上の食欲もなく、朝食を終えた。
 軽く身支度を整えて、食事前の話の続きをする。
「心を強くする段なのですが……やはりよく要領が掴めないのです。貴女が、馬車に施して下さった結界をわたくしひとりに張ればよいのかとも思うのですけれど……」
「考え方は間違っていない。だが、もう少し複雑だな」
 リファスには分厚い宮廷作法の本を押しつけ、ルシェラとサディアは身を寄せ合う様にして長椅子へ並んでいた。
 仲の良い美少女二人にしか見えない。
「濾過する様なものだ。直接受け取るものと、一枚壁を隔てるものを振り分けた方がいい。お前では、全てを遮断してしまっては不安で仕方がないだろう?」
「ええ……そう思います」
「お前、人見知りはないな。……リファスは厭がるだろうが、少しずつ女中や従僕を付ければ慣れてくると思う。屋敷の人間は安心していい。私が保証する。お前、世話をしてくれる人間や、客は大丈夫だったのだろう?」
「はい。しかし……何人もの方と、同席する事はあまりありませんでしたから……街の様に、多くの方々がいらっしゃる場所では、どうにも対処しがたく思います」
「手を貸してみろ」
 言われるままに手を差し出す。
 手を繋ぎ、サディアは目を閉じた。何かに包まれるのを感じ、ルシェラも同じ様に目を閉ざす。

「私の周りに薄い膜があるのが分かるか?」
「…………はい。薄紗の様なものを感じます」
 薄い布に包まれている様な感覚だ。その内側には温い水が揺蕩い、より護られる様だった。
「リファスの事は、変わりなく感じるか?」
「……分かりません。少し、鈍る様にも思います」
「今までが感じ過ぎていたのだと思うがな」
 重ね合わせた手は温かい。
 その温もりが薄紗となって身体を包み護っている幻想に、ルシェラは身を任せる。
 と、不意に手が離された。
 我に返る。
「身を任せてどうする。私を護れるくらいになってみせろ」
「ええ……ええ。すみません。貴女を護らねばならない立場だというのに、申し訳のない事」
 病身のルシェラよりは多少肉付きがいいものの、少女らしく小柄で華奢なサディアと並んでいれば、それしきの庇護欲は湧く。女に対する感覚は、ナーガラーゼの仕打ちより幼き日の乳母や、ラーセルムに来てからのリファスの家族の方が強い。
 守らねばならぬものという自覚は持っていた。ダグヌから教わった作法の数々も、女を護り敬う様に出来ていたこともある。
「もう一度、お手をお借りできますか」
「私に引き摺られて欲しくないのだがな」
「他にもあると」
「私の印象を引き継がれては困る。お前にはお前の感覚があるだろう? だからこうした直接的な感覚を伝える事は避けていたのだが」
「けれど、そのお陰で足がかりを頂いたと思います」
 微笑み、手を取る。
 先のサディアの感覚を辿る様に、ルシェラからゆっくりと力が広がっていく。
「……っ…………」
「抑えろ、ルシェラ。ここまでの力は必要ない」
 広がった力は部屋全体を包み込んでいく。
 ちりちりと肌が焼かれる。
 咄嗟にサディアはルシェラから手を解き、がばりと抱き付いた。

「ルシェラ、未だ早い」
 息が上がっている。
 ルシェラを抱き締め、自分の魔力で包む様にサディアは力を凝らした。
「…………はっ…………は…………」
「方向性は、それでいい。ただ……そんなに強い力でなくていいし、広範囲でなくてもいい。抑えろ」
「……は……はい……」
 乱れた呼吸に、頬が紅潮している。
 力が次第に収束していく。サディアはただルシェラを抱き
背を撫でて宥める。
 国守として揺るぎない力は持ち合わせているが、導く者もいなければ振るう機会もなかった。自身で制御は出来ない。
「そこから学ばねばならんという事か」
「…………感覚は温くなるのに、自分の範囲が広がった様……気持ちが悪い……」
「広げ過ぎだ。私は、自分の肌一枚外に留める様な感覚でいる。それに、温くと言っても鈍くなっているのではないぞ。時の流れがゆっくりになる様に感じているかも知れないが、それは……塵一つの動きもお前が捉えられる状態だという事だ」
「肌一枚……」
「衣類を纏うのと同じ様なものだと思っている。身体に纏うのと同じに、心にも一枚纏うと」
「ああ…………分かる気は致します」
 目を閉じ、深く長椅子に凭れて息を吐く。
「この内側と外側とで、感覚が変わるのですね」
「内側で、我が身を護る。それを透過させるものは、自身で取捨選択するしかない」
「リファスを鈍く感じたのは……」
「外側だったからだ。内側に入れてしまえば、これまでと変わりない」
 言い分は分からぬではない。
 ルシェラは緩慢に視線を彷徨わせ、サディアと、少し離れた所で本を睨んでいるリファスとを見た。
「口で表すと、感覚が紛らわされて掴み難くなりがちだ。囚われず、お前のやりよい様にすればいい」
「ええ。……指針は、およそ掴めたと思います。ただ……制御が出来ない……」
「それは、慣れるしかないものだろうな。……お前なら、大丈夫だ。知っている事を、思い出すだけなのだから」
「そのお言葉を、信じてはおりますけれど……」
 天井を見上げ、更に長く深く息を吐く。
 もどかしい。サディアの言う事は、身体の奥底で理解している様には思うが、だからこそ余計に出来ない事への苛立ちが募る。
「お前の力は守護者の中でも群を抜いて強い。私には、ある程度の道を示してやる事は出来るが、それ以上の事は出来ないのだ。……思い出せる。お前なら。本来なら、もっと早く……王家の者なり、リーンディルの者なりが導く筈なのだが……セファン殿には本当に困った事だ」
「父上は、わたくしを護ろうとして下さっていたのです。……そう……思います」
「今となっては仕方のない事だ。…………さて、では、このことに関しては日々の修練あるのみだろう。他の事もあるだろう?」
 視線をリファスへ移す。
 読む速度はそれなりに速い様で随分進めてはいるものの、酷い渋面だった。

「怖いお顔……難しいご本なのですか?」
「文面が難しいわけではない。だが、覚えなくてはならないからあんな顔になるのだろう。ほら、お前にも」
 席を立ち、ルシェラにもリファスと同じ本を持ってくる。
「ラーセルムの言葉は読めるか?」
「恐らくは大丈夫かと……けれど、字が小さいのですね……」
 開けた本の頁を、目を細めて眺める。視力の弱いルシェラには少々辛い。
 学習面に関しての記憶力には自信があったが、読むのに時間を割かれては仕方がなかった。
「読み上げて頂ければよいのですが。一通りで覚える事は出来ると思います。この程の量なら」
 ぱらぱらと捲ってみるが、文字ばかりで図解は殆どない。
 ラーセルムの言語はティーアと近いので慣れればそう難しくはない様に思うが、本と顔との距離がどんどん近くなっていく。
「やはり、人を一人付けよう。リファスとは学習の速度も違おうから」
「……はい。貴女がお連れ下さる方なら、安心してお願い出来ますでしょう」
「ああ……任せてくれ。今のところは、私が読んでやろうか」
「ええ、お願い致します」
 微笑んで一礼をする。
 サディアは初めの頁を開け、ゆっくりと読み上げ始めた。

 そして、ふた月は瞬く間に過ぎた。


作 水鏡透瀏

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