「陛下」
 扉の前で、セファンはやきもきとした様子で待っていた。
「……落ち着いたか」
「はい。前触れなく触れなければ大丈夫だと伝言を」
「……酔狂なことだな」
「子供相手に陛下が事を急ぎすぎるからでしょう。泣き喚く子供にまで手を出すとは思いもしませんでしたよ」
「……あれは、特別だ。問いつめねばならぬことが山の様にある」
「他に手があるでしょうに」
「お前が口を挟むことではない」
「……ご用がないようなら、ここはダグヌに任せ、諜報に動きたいと思いますが」
「ああ。お前に任せる」
 扉へ入っていくセファンを見送ることなく、エイルは背を向けた。

 廊下を去ろうとするとダグヌに呼び止められる。
「何処へ行く」
「お遣いだ。ここは頼むぜ」
「陛下のご命令か?」
「まあ……そんなところか。直ぐに戻る」
「……分かった」
 ダグヌは不審げにしながらも渋々引き下がる。
 生真面目であまり相手を疑わない性分は、エイルにとって実に扱いやすかった。

 エイルはそれまで着ていた服を着替え、それなりの貴族に見える格好になると、舞踏会の会場へと向かった。
 給仕か貴族か、それに準じる者でなくては中へは入れない。
 リファスから託されたものをその姉へ渡さねばならない。
 エイルにとってメリットのある話ではなかったが、ルシェラに関する深い後悔がそれを凌駕させていた。
 祝賀が始まる前の入場の際に、一行の姿は確認している。
 リファスによく似た面差しの美女が一人、レイナーハ侯爵の同伴者として来ていた筈だ。
 一度見たら忘れ得る容姿ではなかった。纏う空気の神聖性はともあれ色味の淡いルシェラと違い、艶やかな黒髪に紅い唇、人目を引く色合いの服は非常に映えていた。

 直ぐに見つかるだろう、と言う予測は外れなかった。
 まず、エイルの知るどの舞踏会とも、違った空気が支配している。
 その中心にいるのは、目指す女の姿だった。
 男達は他の女達と踊りながらも、リファスの姉の手が空くのを狙っている様だ。
 さり気なく距離を詰める。
 踊りの相手は、変えていくのも礼儀の一つだ。
 先にリファスから渡された紙を手の中に隠しながら、隙を窺う。
 間者として、多少の作法や多少の舞踊も嗜んではいた。セファンがエイルに望むことは数多い。

 舞踊曲の音が、途切れる。
 空かさず、エイルは割って入った。
「お相手願えますか」
「…………ええ。喜んで」
 もう随分疲れているのだろう。
 明らかに喜んでいない様子で、それでも気丈にエイルへと微笑みかける。
 下心の透ける男達の相手を平然としてのけるには、まだまだ若すぎる様に見える。艶やかで大人びた容姿とは裏腹に、美少女特有の気位の高さと高潔さが見て取れた。
 再び音楽が始まる。
 一礼をして、向かい合い、手を取った。

「お疲れの様ですね」
「そう見えますかしら」
「ええ」
「っ!」
 手を引き、抱き寄せる。周りがどよめいたのが分かるが、この距離は重要だ。
 咄嗟の抵抗だろう。強く足を踏まれたが、エイルは動じず重ねた手の中へ預かりものの紙を押し込んだ。
「弟からの預かりものだ」
 耳元で囁く。
 腕の中の柔らかな身体が緊張したのが分かる。
「離して」
「聞かれるわけにはいかないんでね。俺だって小便臭いガキより、もっと大人の女がいい」
「悪かったわね。ガキで。……貴方、誰」
「ティーア・ノーヴ王国セファン二十六世陛下付きの者だ」
「あたしの弟の名前は?」
「リファス、だろ。黒髪の綺麗な男の子だ。……俺を信じるかどうかは、お嬢さん次第だが」
 不自然ではない程度に身体を離す。
 挑発的に見上げて来る目が実によくリファスに似ていた。
 踊り続けながらも、エイルに対する警戒心と嫌悪感を隠そうともしない。
 小娘のあしらいには慣れていないが、裏のない実直さはそれなりに対処しやすい。
 エイルは小さく笑った。
 それが気に触ったのだろう。少女は、眉を吊り上げる。

「名前も知らない人を信じられると思う?」
「いや。……そういえば、俺もあんたの名前は聞かずに来たな」
「貴方が名乗ったら、教えてあげてもいいわ」
「エイルだ」
「……安いのね。それとも偽名?」
「いや。本名だよ」
「間者なんでしょ? 簡単に言っていいの?」
「構わないさ。大した意味なんかない」
「…………変わった人ね。あたしは、エルフェス。空の神殿の巫女。弟は、どうしてるの?」
「巫女か。納得だな。……あんたの弟は陛下が預かってる」
 エルフェスの顔色が変わる。
「何ですって?」
「手の中の紙が分かるな。それはリファスに託されたものだ。無事を知らせる為の呪符だって言ってたが、俺にはよく分からない」
「……何て事……」
「待て。開くなら、後で影でやれよ。今のここでは目立ち過ぎる」
「っ………………あの子、無事なの?」
「俺が居た時まではな。今は分からない。だからそんなものを託されたんだ」
「あの馬鹿…………無茶して」
「それは違うな。陛下と出くわして、攫われたんだ」
 踊りが特に上手いというわけでもないが、エイルの先導は踊りやすい。
 会話を続けながら、舞踊も休まない。
 あまり人と組んで踊ることのないエルフェスは、戸惑いを隠せなかった。
 特に容姿に特徴のない男だ。
 だが、目の持つ力がこれまでエルフェスの知る誰より深い。
 闇の沈む青緑色の瞳は、ルシェラにも近しい様だった。
「貴方、殿下のお知り合い?」
「殿下? ルシェラ殿下か。……そうだな。知らなくはない」
「殿下はまだご無事?」
「そう思うがな。控え室で休んでいる筈だ。俺が確認したまでは、動ける状態でもなさそうだったが」
「…………そう。……付き合って」
「何?」
「殿下が下がっていて、リファスが捕らえられているんじゃ、あたしがここにいる意味なんてないもの」
 足を止める。
 エルフェスはそれでも、繋いでいたエイルの手をがっちりと握って離さなかった。
「何処に行く」
「殿下は今どの部屋にいるの?」
「…………北面の真ん中の部屋だ。手を離してくれないか」
「罠だったら困るもの」
「……まあ、そうだな。その警戒は正しいよ」
「あの部屋ね」
 エイルの手を引き、示された部屋へ寄る。その前に、さっと周りへ視線を巡らせ、レイナーハの姿を探した。
 手を解かぬまま、駆け寄る。

「どうした、エルフェス殿。その男は……」
 知り合いだろう貴族の面々と談笑していたレイナーハも、張り詰めた表情のエルフェスにそっと輪を離れ、近付いてくれる。
 前へとエイルを突き出し、エルフェスは困り顔でレイナーハを見上げた。
「……セファン陛下の配下の方だそうです。いろいろと問題がある様なので、私は一度下がろうと思うのですけれど」
「問題?」
「ええ。……ここではお話も難しいですわ。……この方なのですが、殿下に会わせても大丈夫でしょうか」
「……それは、分かりかねるな。エルフェス殿がよいと思うなら……貴女の勘の方が、私が何を言うより正しかろうよ。貴女には神の加護がある」
「…………ええ」
 エルフェスはエイルの前へ回り、僅かに背伸びをしてエイルと顔を合わせた。
 遠慮がない。
 エイルに、エルフェスは眩しく見えた。
 その美しさから男慣れしている様子はあっても、娼婦達とはまるきり異なる。
 雰囲気から漂う清潔感や清冽さはまだ身を持って男を知らぬが故だろう。傲慢にも近い自信と生気が瑞々しい身体から弾けんばかりに溢れている。
 それとなく視線を反らす。光溢れる雰囲気や育ちの良さ、巫女という神聖性に苛立ちを感じる。
 その様子を見て、エルフェスはにっこりと笑った。
「悪い人ではないかしら。厭な気配はないわね。……貴方、ルシェラ殿下のお付きの方だったの?」
「…………そんなもの、かな。あまり長い間仕えていたわけでもないが」
「……レイナーハ侯、念の為、ご一緒だけして頂けますか」
「ああ。そうしよう」
 動き出そうとする二人に、エイルは思わずエルフェスの手を振り払った。強く掴んでいても所詮は女の力である。
「悪いが、俺はもう戻らせて貰う。……嘘は吐いちゃいない。あの部屋には、確かに殿下と、医者がいる。他にもいろいろ集まってるかも知れない」
 ルシェラには会えない。もし消える前のことをルシェラが覚えていたら、身体にも障るだろう。
 自分としても、合わせる顔などない。守れなかった。救えなかった。
 今の環境が例えルシェラにとって望ましいものであったとしても、それは免罪符になどならない。
 僅かながら顔を曇らせたエイルに、エルフェスは一層顔を寄せた。
 間近で見ると思っていた以上に化粧が薄いことが分かる。
 厚い化粧で全てを鎧いながら生きている女達と親しく付き合ってきたエイルには、どうしようもなく腹立たしい。

「…………会いたくないのね。殿下に」
「何故そう思う」
 エルフェスに近寄りたくなく、距離を取る。
 しかし、エルフェスは直ぐに間を詰めた。
「勘。だけど、あまり外れたことはないわ。あたしは、巫女だから」
「そんな理由、当てになるのか?」
「なるわよ。巫女は、飾りじゃないわ。…………会いたいけど、会いたくないんでしょ?」
「それも勘か?」
 うんざりだ。見透かされるのは気分がよくない。
 これまで、これ程無遠慮に踏み込んでくる人間など居なかった。
 それが十以上も年下だろう少女に対して全く防備が効かないのは、脅威でもある。
 エルフェスは、更にエイルの目を覗き込んだ。
 レイナーハは止めもせず口を挟みもしなかった。
「貴方の目が言ってる。……優しい人なのね、貴方」
「この数分で何が分かるって?」
「この事、陛下はご存じなの?」
「…………さあな」
「リファスは、陛下に攫われたんでしょ?」
「陛下の命で俺が攫ったんだ。買い被りは困る」
「…………ホント、変な人ね、貴方」
 もう一度エイルの手を掴む。
「行くわよ」
「お嬢さんの指示には従いかねる」
「ここに来たのはリファスの指示なんでしょ? なら、あの子の為に、殿下の様子を確かめて報告してもいいんじゃないの? それに、実の子供のことなんですもの。陛下だってお知りになりたい筈じゃなくて?」
 何より、エイルが知りたがっている筈だ。その確信を、エルフェスは疑ってもいない。
「巫女ってのは、何でも分かるのか?」
「自由でないものは、分かるわ。あたしは、空の神殿の巫女だから」
「自由、か。……はっ。この世で、何にも縛られずに生きている者などいやしないぜ」
「そうでしょうね。でも、出来る限り自由であろうとすることは出来る。貴方、本当はどうしたいの?」
 小娘だと侮っていた。
 エイルは不愉快げに眉を顰める。

「下らない話し合いをする気はないな。……もう戻らないと陛下が不審に思うだろう。下手に動くと、あんたの弟の命も危ないかも知れない」
「あの子は……大丈夫よ」
「何故言い切れる」
「勘よ、勘」
 手に握った紙を開く。
 文様が微かに滲んでいた。
 エルフェスは刹那緊張感を走らせたが、直ぐに気丈に振る舞ってみせる。
「……大丈夫。殺されはしないわ」
 リファスが泣いている。辛い思いをしている。文様の滲みは、それを表していた。
 しかしそれは同時に、まだ生きていることも示している。
 意識がはっきりしているなら、殺されることはないだろう。リファスの力は、誰よりもこの姉が認めている。
「貴方がリファスの指示で動いてくれたのは、殿下の為なんでしょう? 二人の為に動かないと、殿下は幸せじゃないって、分かってるから。なら、あの子の為に殿下の様子を伝えて。それが殿下の為にもなる筈だわ」
「ならお嬢さん。あんたが行けよ。陛下の部屋へは連れて行ってやるさ」

「貴方は、それでいいの?」

「っ」
 静かな問いかけに、咄嗟に回答が出ない。
 本当に厭な小娘だ。
 エイルはそれでも、強張ろうとした表情をにこやかな笑みに擦り変えた。しかしエルフェスには通じず、整った眉を不愉快げに顰められる。
「貴方と殿下の間に何があったのかなんて知らないけど、一人でも多くの優しい人が、殿下のお側には必要だわ」
 エイルと繋いだままの手は皮膚が柔らかく暖かだった。
「行きましょう。お会いしてから考えればいいわ、後の事なんて」
「それで済まなかったらどうする。殿下のお身体は……もう限界の筈だ」
「だけど、未だ死ねない」
「…………お嬢さん、それは、ただの過信だぜ」
「違うわ。精霊が告げる事よ。他の国守様だって。……殿下は、未だお亡くなりにはなれない」
「だからといって、苦しんでいいって事にはならないだろうぜ」
「どうして貴方と会って、殿下が苦しまれると思うの?」
「俺は、殿下に殺された身だ」
 内容が内容だ。声は低く潜められ、エルフェスにしか届かない。
「生きてるじゃない、貴方」
「呪符のお陰だ。そうじゃなきゃマジで死んでた。……死人が突然目の前に現れたら、殿下の繊細な心臓なんざ直ぐに止まっちまうだろうぜ」
「貴方、何したの?」
「何も。……何もしなかった。殿下に命そのものを渡してやることしかできなかったからな」
「ああ…………」
 勘のいいエルフェスは状況を悟る。
 やっとエイルの後悔が明確に伝わる。
 繋いだ手をぐっと引っ張り顔を寄せた。
「貴方は生きてるでしょ。…………行くわよ」
「……強引だな。女はもっと慎み深い方がいい」
「貴方の好みなんか知った事じゃないわ」
 溜息が零れる。
 若いとは、これ程真っ直ぐで勢いのあるものだっただろうか。
 自分が同じ年の頃にはもう既にセファンの子飼いで、もっと斜めから全てを見下ろしている気でいた。

「…………この男の事は、心配居るまいな、エルフェス殿」
 見守っていたレイナーハが漸く口を挟む。
「ええ。……単なる馬鹿な人だって、分かりました。お部屋も本当でしょう。お手を煩わせて申し訳ありませんわ、侯爵」
「いや。…………殿下は、恵まれている。それを正しくお伝えして差し上げねばな」
「……分かっている筈でしょう、貴方にだって」
「それは、俺の役目じゃないな」
「貴方が決める事じゃないわ」
 エルフェスは強引に、エイルを引っ張った。エイルは大して抗わず、釣られて一歩、踏み出す。
 一歩でも踏み出してしまえばこちらのものだ。エルフェスは強く手を握ったまま、エイルを引き摺った。
 レイナーハは微笑ましげに、その姿を見送った。


作 水鏡透瀏

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