シータを手に戻ってきたサディアと共に、ファナーナの書類の手伝いや、請われて演奏などをしているうちに、次第にリファスも落ち着きを取り戻してくる。
 エメルーシア式の茶を何杯か貰い、その香りと味わいに落ち着いた事もある。
「この茶葉、少し頂いてもいいですか?」
「ああ、好きなだけ」
「ルシェラにも楽しませてやりたい」
「それは……どうかな。この茶葉は……」
「ええ。知っています。だから、香りだけでも」
 この茶葉に含まれる成分が、ルシェラの身体や使っている薬と相性が悪い。それは十分に承知していた。
「難儀な事だが」
「…………仕方ないです。今は……具合が悪いから」
 好きに飲み物すら楽しめない。まず身体を治して、全てはそれからだと言うのに、ルシェラも自分も気が逸ってばかりだ。
「ルシェラ殿下にも、困ったものだ。まずは安静にして頂かねばならんというのに」
「今日は……踊ったのも、悪かったんです。少し動けるなんて……思ってしまったから」
「無理をしない範囲で動く事が悪いとは言わないが、程々にな」
「はい。……本当に、そう思います」
「グレイヌールから、少し強めに言い渡して貰った方がいいかもしれないな。医者の言う事なら、お前達が言うより聞くだろう」
「そうですね……祖父は、次は何時」
「明日には来るだろう」
「お願いしてみます」

 リファスは性格的にサディアやファナーナより余程書類整理に向いていた。
 丁寧で美しい文字で代筆をし、正確に分類分けして整えていく。
 その仕事ぶりに、ファナーナは感嘆した。
「几帳面だな」
「そうかな……普通だと思います。整わないと、落ち着かないんですよ」
「秘書に欲しいな」
「ありがとうございます。だけど……」
「分かっている。お前は、私の秘書などで時間を費やしていい人間ではない」
「そういう事ではないんですけど……今は、ルシェラの事があるから」
「ああ。それがまず第一だろう」
 リファスの整えた書類に目を通し、判を突いて署名。一連をこなして仕事は済む。
「もう……大丈夫かな。こちらの仕事は片が付いた。お前が落ち着いた様なら、ルシェラ殿下の所へ行って差し上げるといい」
「……はい。だけど、今、ルシェラは眠っていると思いますから」
 そう、感じる。
 恐らく、まだグイタディバイドは側に付いているのだろう。
 ちりちりとした苛立ちに似たものを感じる。これでは、まだ側には行けないだろう。
 顔を曇らせるリファスを見て、ファナーナは微笑んだ。
「領内の視察に行く。一緒に行くかな?」
「…………そう、ですね。その方がいいかもしれない」
「サディア、お前はどうする」
「……私は残ります。ルシェラが目覚め次第、グイタディバイドは帰るでしょうから」
「そうか。では、付き合って貰おうか、リファス殿」
「……はいっ」

 こつこつと扉を叩く。
 暫くすると、微かに開いた。グイタディバイドの顔が覗く。
「ああ、サディア殿下」
「ルシェラは」
「今はお休みになっておいでです。リファス殿は」
「お祖父様と領内の視察に出るそうだ。まだもう少し落ち着かないらしい。ルシェラの目が覚めるまで、側にいてやってくれるか」
「勿論です。リファス殿がお帰りになるまで」
「頼む」
 背伸びをしてルシェラの方を伺う。天蓋から下がる布に阻まれて見えない。ただ、足先の方の掛布の隆起だけが見て取れた。
「お入り下さい」
「いや…………今はまだ、私も冷静ではない。ルシェラの側にはいられない。済まないが、任せる」
「分かりました」
 少女の整った顔が強張っている。グイタディバイドは顔を曇らせた。
 サディアは踵を床に下ろし、俯く。
「ご無理はなさいません様」
「分かっている。…………それは、リファスに言ってやってくれ」
 分かっていないのだろう。リファスと同じ程、サディアも苦しんでいる。
「殿下もご無理をなさっておいでにお見受け致します」
「そうだろうか。気をつけよう」
 自らの頬をばしりと叩く。白い頬が一瞬朱に染まった。
「では、頼む。私は少し気晴らしをしてくる」
「畏まりました」

「…………あら、殿下」
 木刀を手に外で素振りを始めたサディアの側を、エルフェスが通りかかる。
 手には小さな花々を摘んでいた。
「姉上様。それは?」
「リファスの所へ行こうと思ったのですけど、辿り着く前に気配が消えたので……せめて、ルシェラ殿下のお部屋に飾ろうと思って、あちらの森で摘んで参りましたの」
「ああ。それはいい。是非に。だが、今ルシェラは眠っている。疲れたのだろうから仕方がないが」
「では、お目覚めの時までに飾らなくてはいけませんわね。目が覚めてお花があったら少しはお気も休まる事でしょう」
「ああ…………いいな」
 花へ手を伸ばすと、はい、と渡される。
 顔を近づけると微かにいい香りがした。
「そうだわ。殿下も、ご一緒にいかがですか? もう少し数が足りないと思っておりましたの」
「花摘み……か?」
「ええ。私や殿下が行けば、あの傷ついた森も少し落ち着く様に思いますし」
 リファスが傷つけた森。先にシータを取りに戻った時にも、まだざわめいていた。
 エルフェスの力は優れている。彼女も、十分に森の様子が分かっているのだろう。
 リファスの心と同じ程に傷ついた森の有様が、痛切に。
「……姉上様…………」
「殿下……大変」
 どこからか取り出した手巾がサディアの目元へと当てられた。
「お部屋へ戻りましょう。それがいいわ」
「…………いや…………森へ行きたい」
「でも」
「屋敷の中は、厭だ。ルシェラが近過ぎるから」
 花をその場に散らし、手巾を受け取って顔を覆う。
 気遣いが身に染みて痛い。
「殿下がそう仰るなら……お付き合いしますわ」
 エルフェスはエルフェスで、妹が出来た様な心持ちだった。実の弟より随分可愛く思える。
 普段のサディアが持つ張り詰めた様な空気は可哀想な程だったし、それが今の様にぷつりと切れてしまっていては尚更だ。
「…………ありがとう、姉上様…………」
 サディアはサディアで、年上の女性にひどく弱い。身の回りに大人の男しかいない為か、優しくされると大きく揺れてしまう。
 常なら国守の記憶がそれを覆い隠してはくれるが、今の様に同じ国守達に乱されていてはどうしようもなかった。
 誰にだとて、心が弱くなる事は、ある。
 サディアの手を取って繋ぎ、エルフェスはゆっくり歩き出す。
 つられる様に、サディアもその後をついて歩き出した。

 うとうとと睡眠と覚醒とを繰り返しながら目を閉ざしているルシェラに付き添い、グイタディバイドはただその顔を見詰める。
 形の良い唇からほっと息が洩れた。
「………………わたくしは、間違っているのでしょうか……」
 浮上している意識の間に、そう、呟く。
「殿下、何を……」
「…………ぅ……ん……」
 再び、意識が沈む。答えはなかった。
 ルシェラなりに悩み、苦しんでいるのだろう。リファスを苦しめている原因が自分にあると、それは分かっているのだ。
 ただ、その次にすべき事について、理解し切れていない。
 だからといって口で説明して済む事でもなかった。
 頬に指の背を這わせる。滑らかで吸い付く様だ。
 口付けたい衝動に駆られたが、グイタディバイドは緩く首を振ってそれを堪えた。
 意識もないのに、触れる事は躊躇われる。
「殿下……」
 悲しい子供だ。
 親からの愛情の他、何も望んでいない。擬似的な温もりならグイタディバイドにも与えてやれるが、それはその場凌ぎでしかないのだ。
 全てが欠けているというのに、その美しさと肩書き、そして自身の血の所為で人から羨まれてしまう。
 その齟齬が、ルシェラにも、その周りにいる人間達にも、酷く辛く苦しいものになる。
 目が覚めリファス達へルシェラを引き渡したら、直ぐさまティーアへ向かう。より、その覚悟が強くなった。
 手で額を覆い、それに重ねて口付ける。
 いい年をしてまだ独身ではあったが、ルシェラを実子の様に愛おしく感じていた。

 馬車に揺られ、リファスはたいして物珍しいとも言えない車窓を流れる景色を眺めていた。
 視察と言っても、大したことをするわけではない。
 一通り近隣を馬車で回って、領主や村長、町長などへ声を掛けるだけの事だ。
 偶さかに通りすがりの農民や町人達を労う事もあるが、それもほんの気まぐれ程度でしかない。
 それが、貴族の勤めなのだ。それは分かるが、どうにもリファスには落ち着かない。
 豪奢な馬車の窓から見下ろすには、自分はどう考えても立場が違う。優越感を覚えるより、申し訳ない気持ちだ。無邪気に喜べる程子供でもなければ脳天気でもなかった。
 不愉快と言うよりは困惑し悲しげにも見える様子に顔を曇らせていくリファスを見て、ファナーナも困る。
 景色のいい川縁で、暫し馬の足を止めた。
「馬車に揺られてばかりではつまらないだろう。少し降りて、外の空気を吸っておいで」
「……はい」
 気を使って貰っているのは分かる。戸を開け、素直に馬車から降りた。

 川辺の風は心地いい。頬を撫でられ、気分も落ち着いていく。
 いい風だった。屋敷の中に籠もっているより、ルシェラを連れ出してやりたい。
 前に広原に連れて行った時も、初めルシェラは嬉しそうだった筈だ。その後、ちょっとした言葉と態度の行き違いで、傷つけてしまったのだが。
 柔らかな風に艶やかな黒髪が踊る。
 軽く手で押さえながら、水辺まで降りた。
 初夏の日差しがきらきらと水面を遊んでいる。
 河岸では砂利の間から何種類もの花々が芽吹き、咲き誇っていた。
 身を屈め、摘む。
 茎を長めに取って、手際よく編み上げていく。
 冠の様に。
 濃い色の花ばかりを選んでいる事に気付いて、苦笑する。
 色の淡いルシェラには、少しはっきりとした色が似合う。
 どれ程別の事で紛らせようとしても、こんなにもルシェラの事で一杯だ。溢れる前に、破裂してしまいそうになる。
 編み上げた花冠をそのまま川に放り投げる。
 ゆっくりとした流れに乗って、鮮やかな花輪が流れていく。

 ほんの少しの間追いかけて、リファスは立ち尽くした。
 こんな事で、この心の中のどろどろとした想いが少しでも流れてくれればいい。ルシェラを飲み込んでしまいそうになるのが、怖い。
 ふ、と肩を包まれる。
 振り返ると、ファナーナが立っていた。
「……少しは、気が晴れたか?」
「…………ええ…………」
 まだ花冠は見える。
「ここは気持ちの良い所でな。偶に野趣溢れる午餐会を開いたりする」
「いい所です。気持ちいい風が吹く」
「殿下をお連れしたいものだ。当家にいらして以来、殆ど屋敷から出られぬのが気がかりなのだよ」
「外は、怖いんですよ。特に昼食会を開ける程天気のいい日は」
「それは、伺っている」
「それに、多くの人がいる所も怖がる。ルシェラを容易く外へは出せない」
「しかし、舞踏会へ行くのだろう?」
「…………はい。本当は、連れて行きたくないけど。仕方ないですから」
「そこが…………問題なのだな。お前の」
「え?」
 肩から手が離れる。
 何を言われているのか分からず、リファスは振り返った。
 不安げにファナーナを見ると、落ち着いた微笑みを返される。

「要らぬ気遣いが多いという事だ。……お前のは、単なる庇護欲を満たす為の行為と考えに過ぎぬ」
「そんな……俺は、ルシェラが苦しむのを見たくなくて、」
「しかし、ルシェラ殿下は父上にお会いになりたいのだろう?」
「それでも、無理はさせられません。あの身体で」
「それは道理だ。だが、そう分かっていて何故荒れる」
 言葉に詰まる。
 ファナーナの視線は、リファスを責めるものではない。しかし、居たたまれない。
 目を反らしたリファスに、ファナーナは溜息を吐いた。
「お前の中で、矛盾しているからだろうと思うのだよ、私は」
「矛盾?」
「ああ。ルシェラ殿下の身体を気遣う思いと、心を気遣う思いとがお前を苦しめている様に見える」
「身体と、心……そう……かも知れません……」
 足下の石を川へ蹴り込む。
 もう、花冠は見えなかった。
「殿下ご自身も、苦しんでおられるのだろうな」
「……ルシェラは、心に従おうとしています。だけど、それは見ていて余りにも無謀で」
「どちらかしか選べぬなら……どちらを優先するべきだろうかな」
「生きていて欲しいんです。出来る限り長く」
「それが、殿下のご意志でなくとも?」
「…………それは…………でも、ルシェラが苦しむのが分かっていて、見過ごすわけにはいきません」
「そう考えるから、辛くなる。……死期が見えてくるとな……身体の云々より、片付けたい事を優先したくなる。お前には、まだ想像もつかぬ事だろうが」
「死期なんて……」
「私もこの年だからな。心づもりはしている。ルシェラ殿下はまだお若いが、ご自身のお身体の事はよくご承知なのだろう?」
 俯いた顔を上げられない。
 ルシェラは、本当によく分かっている筈なのだ。だが、その身の重要性だとか、周りの苦しみを理解できていない。
 あの顔から生気が失せていく様など、もう見たくないのに。

「ルシェラは、死ぬ事が分かってないんです。だから無理をする」
「そんなに愚かな方だろうかな」
「愚かとかではなくて、教わってない事は何も知らないから」
「……それは、違うな」
「何がです!」
「お前の方が理解していない様に思う。ルシェラ殿下には、数度お目に掛かっただけだが……サディアと同じ目をしていた。思い出せぬだけだ。あの方は、誰よりも、死をご存じだろう。お前も同じ。あると思える記憶を引き出せぬのがもどかしいのではないか? サディアも少し前まで、それでよく癇癪を起こしていた」
 記憶と、今の自分と。
 人格が二つある様なものだ。リファスの様に一切合切を忘れていればともかく、ルシェラ、それ以上にサディア程はっきりと記憶を持っていては、自棄を起こしたくなるのも道理だろう。
 その、自棄になる気持ちすら、リファスにはよく分かってやれない。記憶がない為に。年が若い為に。
 拳を握り締める。
「死を軽んじているのではないのだよ。ただ……それより、重んじたいものがあるのだ。まだ、お前には分からぬ話かも知れないが」
「分かっています!」
「では……考えるがいい。どうルシェラ殿下に接するべきなのか」
「言われるまでもない!!」
 炎気の立ち上る瞳でファナーナを睨む。
 年の功かファナーナは怯みもせず、ただ何処か悲しげに微笑むばかりだった。
 怒りを受け流され、戸惑う。

「……ファナーナ様……」
「若さとはいいものだ。まだ、幾らでも可能性がある。記憶がない事を苦しむな。それが、普通の事なのだから。ルシェラ殿下にせよ、サディアにせよ、先を知りすぎているのは……望ましい事ではない。知らない、覚えていないというのは、まだ未来や希望があるという事なのだからな」
 言わんとする事は、何となく分かる。しかし、ファナーナやサディアの本当に心情を理解できるわけではない。
 リファスはまだ若く、幼かった。
「…………死よりも重んじたいものとは、何ですか」
「それは、人によって異なる。だが……ルシェラ殿下の事であれば、お前には分かるのではないか?」
 ルシェラが望む、死よりも大切な事。
「父親……ですか」
「どうかな。それは……殿下に伺ってみるしかない」
「……はい」
「そろそろ戻るか」
 足下を、一陣の風が吹き抜ける。

 眠る佳人の周りを色とりどりの野の花で飾り、少女達は満足げに微笑みあう。
 見守っていたグイタディバイドも、その微笑ましさに頬を緩めた。
「……リファス、遅いわね……」
「もう戻るだろう。お祖父様もご一緒だから」
 ルシェラの頭に花冠を乗せる。サディアは作り方を知らない。エルフェスに教えられながら編み上げたそれは不格好ながら愛らしかった。
 エルフェスを付き合わせて、サディアもあらかた落ち着いている。
 自身を御する事は十分に出来ているつもりでいたが、ルシェラが絡むとどうしても冷静でいられなくなる。それが国守として望ましい事なのか、サディアにはよく分からなかった。
 国守の首座はルシェラ。そのルシェラを想い支えていくのは当たり前の事だ。私情がそれをより強固にしている。そう、思っている。
「グイタディバイド、お祖父様がお戻りになったら、もう一杯だけ、お茶に付き合ってくれるな?」
「はい。勿論。ファナーナ候へご挨拶した後でなければ、辞する事は出来ません」
「リファスも一緒に……」
「ルシェラ殿下にお会いした後にも、リファス殿とは、よく話し合うべきだったのでしょうが」
「……仕方のない事ではあるがな。リファスは、お前にルシェラを取られそうに思ったのだろう。自分ではなく、ルシェラがお前を選ぶと思って」
「……よく分かっていないのですね、リファス殿は」
「ああ。だが、こればかりはな。口で説明しても仕方がない。理解するまで待つしかなかろうよ」
 ルシェラの顔を覗き込む。
 穏やかではあるが、表情のない寝顔だった。

 程なくしてリファス達も戻ってくる。
 しかし、直ぐにはルシェラの部屋へ行かず、まだぐずぐずとファナーナの側から離れられなかった。
「リファス殿。そろそろ殿下のお目も覚められよう」
「……はい……」
 それでも動こうとしない。
「このままでは良くないと、分かっているのだろう?」
「勿論です。だけど…………済みません。もう少しだけ……」
「整理がつくものとは思えんがな」
 口調は穏やかながら、なかなかに手厳しい。リファスも返す言葉に詰まる。
 それは勿論、今すぐに顔を見に行きたい。だが、側にグイタディバイドやサディアがいるのかと思うと、どうしても足が重くなる。
「もう一度、シータでも弾くか?」
「…………いいえ。今は、駄目です。落ち着かないから」
「他にお前に、気晴らしの手段はないのか?」
「え…………?」
「出来る事があれば、試してみるが良い」
 他に……リファスの趣味の幅は確かに広い。
 暫く考えて、一つ思い至る。
「…………厨房を、お借りできますか?」
「厨房?」
「焼き菓子でも作ります。ルシェラも……好きだし」
「そうか。構わないよ。好きに使えば良い。料理長には、話を通しておこう。私も相伴に預かりたいな」
「はい。お口に合うか分かりませんが」
 従者が呼ばれ、ファナーナの言伝と共にリファスを厨房へ案内してくれる。

 もう随分と日も傾いた頃、リファスは台車に焼き菓子と茶器の一式を乗せ、ルシェラの部屋へ向かった。
 卵や牛酪を泡立てたり練ったりしているうちに、随分気持ちは落ち着いていた。
 所詮、ルシェラにしてやれる事はこの程度の事でしかないと、次第に割り切る気持ちになりつつもある。
 更に落ち着く為に菓子を繊細に飾り付けた。
 ルシェラを思って丁寧に。
 薄く焼いた菓子自体も繊細な形を描いている。
 材料は特別なものではなく在り合わせであっても、さすがに侯爵家の厨房である。どれを取っても上物ばかりで、リファスは恐縮しながらも遠慮はしなかった。

 ルシェラはまだうつらうつらしている気配だった。
 そっと扉を叩くと、薄く開く。
「……リファスか」
 サディアが顔を覗かせる。
「ルシェラは?」
「浅い様だが……目が覚めない。具合はそう悪くはない様だが……」
「お菓子を焼いてきました」
「そうか」
 中へと台車を押して入る。
 部屋の中に菓子と茶の甘く優しい香りが広がった。
「遅かったじゃない」
「……悪かったよ。ルシェラに変わりはないですか」
「ないわ。……お世話があんたの仕事でしょ? 全く」
 室内の卓台へ支度を調える。
「…………どうぞ、グイタディバイド様」
 まだ、真面に顔は見られなかった。形ばかり勧める。
 グイタディバイドが近寄る前に、さり気なくルシェラの側に寄った。
 横たわるルシェラを見て一瞬驚く。
「何だよ、これ」
「綺麗でしょ。サディア様とあたしでやったの」
「……綺麗だけど…………」
「花冠もお似合いでしょう? サディア様が編んだのよ」
 リファスが流してしまったものよりずっと拙いものの、賢明に編んだ様がよく分かる。
 リファスは僅かに微笑んだ。
「うん。……似合ってる」

 慎重に顔の周りから花を取り除く。ルシェラの寝姿が静かだからこんな仕様も出来るが、寝返りが多ければこうはいかなかっただろう。
 耳元に顔を寄せた。
「…………ルシェラ。ごめん」
 囁く。
 睫が震えた。頬に口付ける。
 ゆっくりと目が開いた。
「……ごめん。起こした」
 緑の瞳がリファスの姿を認め、微笑む。何処か不安げなリファスを認めて小さく首が横へ振られる。
「…………起きていました。……貴方が触れて下さるまで……目を開けたくなかっただけ……」
 甘える様な言葉が今は心に染みる。
 今は薄く色を刷いている唇が心地よさげに尚のこと口角を上げた。
 吸い寄せられる様に口付ける。
「ん…………」
 寝起きのルシェラの唇は温かく、リファスに安堵を齎す。
 腕が伸ばされる。周りを飾っていた花々が滑り落ちた。
 リファスを抱き寄せ、舌先で唇を辿る。しかし、リファスは堪えなかった。今は、人が多過ぎる。
 少し不満げなルシェラに気がついても、これ以上は触れられない。
「後で、な」
「…………はい…………」

 睦まじい様を見ても、ルシェラ以外は皆それぞれに複雑だった。
 リファスは何処か顔を曇らせながらルシェラを抱き上げ茶会の支度を調えた卓台へとルシェラを移す。
 微妙な空気のまま、グイタディバイドの見送りという名目で茶会は開かれた。


作 水鏡透瀏

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