「ファナーナ侯爵様、ご一行!」

 高位の貴族ともなれば違うもので、名を読み上げると共に金管楽器が鳴り響く。
 ファナーナ候と腕を組み、まずエルフェスが広間へ入る。
 周囲がざわめくのが分かった。
 黒い髪、白い肌に深紅の衣装が良く映える。その艶やかさに誰もが息を呑み、また囁き合った。
 艶やかではっとする程の色香を放ちながらも、巫女としての清浄さは失われていない。
 その美しさと気品は、どの国の王女にも勝るとも劣らなかった。
 しかし、それに続いて若年の二人が踏み入れると、そのざわめきや賞賛が水が引く様にしんとなった。
 飲み込んだ息を吐き出す事も躊躇われるかの様に静寂が訪れる。
 この場には千を越える諸侯や他国の重鎮達が顔を並べていたが、その誰もが凝視したまま身じろぎすらしない。
 動いている者は、ファナーナ候とエルフェス、そして、リファスとルシェラだけだった。
 しかし、その静けさに反してルシェラの顔は見る間に血の気を失い、立ち止まる。頬紅を差していなければ、それこそ土気色にも等しくなっていただろう。
「ルシェラ」
 小さくリファスが促すが、ルシェラはただ本来の色を失った唇を震わせるだけだ。
 人の意識がルシェラを襲っていた。とてもではないが処理しきれず、額に手の甲を当てて蹲りかけるのをリファスの腕が支えて止めた。
「大丈夫だよ。あそこまで歩いたら座れるから。俺の手を感じて」
 重ねていた手を握る。
 震える唇から微かに息が吐き出され、摺り足ながら一歩出る。
「そう。大丈夫だから」
「…………は…………」
 人々の視線が全身に突き刺さる様だ。
 ルシェラは必死で周囲に精神の壁を作り上げようとしていた。
 しかしまだ慣れぬ行為は難しく、ルシェラを守りきるには至らない。
 緋毛氈を敷いた上を上座にほど近い辺りまで進まなくてはならないのだ。道のりは長い。
 静まり返る広間の中、四人の衣擦れの音しか聞こえなかった。
 ゆっくりと一歩一歩確かめる様に進む。ルシェラには気が遠くなる様だった。

 王都セイテ・ラーセルムの空は高く晴れ上がっていた。
 ふた月程の訓練と勉強を終え、ルシェラもリファスも、それなりに、ある程度の場へ出しても恥ずかしくない仕上がりになっていた。
 時間を掛けて街を転々とし、王都に着いたのは一週間前。
 そこからまたルシェラの体調を調整しながら、今日に臨む。
 ルシェラは勿論のこと、リファスも作法に関しては滑らかにとまでは行かなくても立ち止まらずに動ける様になっている。
 ルシェラも、辛うじてサディアに示唆された手段を学び、慣れ、人の心をある程度遮断出来るようになっている。
 こうして数多くの人に囲まれていても、リファスの手があれば何とか自我を保ち動けるまでには習得出来ていた。

「ひっ……」
 誰かが、静寂を破る。
 どさり、と何が倒れる様な音がした。
 一際強い感情が放たれて思わずその方を見ると、誰かが倒れ伏しているのが見えた。
 だが、直ぐさま静けさは戻る。
 ルシェラの視力では、何が起こったのか確かめる事は出来なかった。
「あ……あの……」
「とりあえず向こうまで行かなきゃ」
「ですが」
「この上に居る間、駄目なんだよ」
「……はい……」
 気にかかる。けれど、先に歩ききってしまわねばならない。
 それは理解出来た。
 少なくとも、早くこの状態を脱しなくては落ち着かない事この上ない。
 何とかファナーナ候の後ろで玉座の足下に跪くに至る。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます。この度はまことにおめでとう存じます。このような宴席にお招き頂き、恐悦至極に拝し奉ります」
 決まり切った口上をファナーナ候が述べる。
 しかし、中々国王の言葉が返ってこない。
 視線は、連れの者達に注がれていた。
「そ、その者達は、何じゃ」
「わたくしの遠縁に当たる者達にございます。めでたい席に興を添える事も出来ようと思いまして、連れて参りました。舞や楽などを得手としておりますので、後にお目に掛ける事もございましょう」
「さ、然様か……うむ。うむ……後ほど、ゆるりと楽しませて貰おうぞ」
「畏まりました」
「此度はよう参った。そなた達も楽しむがよい」
「有り難きお言葉、痛み入ります」
 エルフェスが答える。
 ルシェラとリファスはただひたすら深く頭を下げているだけだった。
「下がって良いぞ」
「御意に」
 言葉を受け立ち上がり、脇へ避ける。
 そして、従者の案内を受けて席へ着いた。
 座ると僅かに緊張が解けたのだろう。ルシェラの身体が小さく傾ぐ。
 リファスの手が背へ回り、それとなく支えた。
「みんなが揃えば終わりだから」
 耳元で囁く。ルシェラは微かに頷いた。
 しゃらり、と耳に付けた飾りが音を立てる。慣れぬ重みが煩わしい。

 それから一時間程し、漸くに来賓が揃い並ぶ。
 ルシェラは脂汗を額に滲ませ、薄く施していた紅は唇も頬も薄らいでいた。
 気力も体力も限界を迎えている。
 表情はひどく堅く、精神の壁も途絶えがちになっている。
 支えてくれるリファスの手だけが全てだった。
 国王の言葉があり、その後漸くに舞踏会へ移る。
 食事会も兼ね、壁沿いにはずらりと立食形式の食べ物や飲み物などが取り揃えられており、それ以外の場所は全てが踊る為の場所だった。
 祝典の場から舞踏会会場へ。
 そう移動する事すらルシェラには儘ならず、皆が去った後も立ち上がれもしないままリファスに縋り付く。

「ルシェラの様子は俺が見ていますから、侯爵様はもう会場の方へ行かれた方がいいですよ」
「そうも行くまい。休憩室を一つ借りてこよう」
 孫を慈しむのと同じ様に、汗ばんでいる額に触れる。発熱はない様だが、じっとりとした感触に眉根が寄る。
「……いいえ…………人が去ったので、少し……落ち着いて参りましたから…………」
 青褪めた顔を辛うじて上げ、ファナーナ候を見詰める。
 肩で息を継いでいた。
「しかし……」
「サディアのご用はこれからでしょう…………それに……セファン陛下も…………」
「先程、ティーアの正妃、ナーガラーゼ陛下がお倒れになった様でしたが」
「……先程の、あの………………ナーガラーゼ殿が…………」
 もう随分昔の記憶ではあるが、艶やかな姿が思い起こされる。
「尚の事……参らねばなりません…………」
 数年会っていないとは言え、正妃は自分の事を忘れていないのだ。
 正妃の行為は直ぐにでも思い出せるが、だからといって、正妃を恨みに思う気持ちは殆どなかった。
 悪いのは自分。そう、骨の髄まで浸透している。
 正妃にも謝らねばなるまい。
 リファスに縋りながら必死で身体を起こす。
「参ります……」
「せめて、心の壁を」
「ええ……」
 周囲の空気が一瞬膨張するのが分かる。
 ルシェラは僅かに安堵の表情を見せた。
 手巾で額の汗を押さえ、リファスは慎重に脈を取った。
「…………もう少しだな。もうちょっと落ち着かないと移動は出来ない」
「…………はい」
「二人の方が落ち着きますから、ファナーナ候と姉貴はもう」
「…………うむ……。何かあれば直ぐに」
「はい」
 立ち去る二人を見届ける。

 場には、ルシェラとリファス、そして、全ての者が退室するまでは場を離れる事の出来ない数人の従僕や兵士が残る。
 彼らは遠巻きに見ているだけで近寄っては来ない。
「何故みな…………わたくしを見、口を噤んでしまわれるのでしょう…………視線が、刺さる様で…………」
 自身の身体を抱き、ふるりと震わせる。
「お前のあまりの美しさに声も出ないんだよ。……この美しさは、この世界のものではないんだから」
 頬を擽る様に指を這わせ、更にそこへ口付ける。
 ルシェラは頼りなげながらも微笑む。
「美しいとは……貴方や、貴方の姉上様の様な方を言うのです」
「系統が違うんだよな……それに、美の基準は人それぞれだし。でも、お前が美しくて、人を払う程の気品を持っているのは、多分みんな感じる事だよ」
 手を繋ぎ、ルシェラの中に生気を注ぐ様に意識する。
 触れあう手を通して互いの身体が一になる。気の流れが繋がっていく。
 ルシェラの頬や唇、瞼に、紅ではない赤みが差した。
「そろそろいいかな」
 もう一度脈を診る。弱々しいながら、随分落ち着いていた。
「行けそう?」
「ええ……」
 ゆっくりと立ち上がる。
 まだ少し目眩がするらしく、リファスに縋る手の力は緩まなかった。
 一人の年配の従僕が近付いて、二人に小声で囁く。
「車椅子など、ご用意致しております。また、別室に幾つか休憩所も設けてございますので、宜しければ、ご利用下さい」
「ありがとうございます。ですが……ゆっくりと参りますから」
 リファスより高い身分がそうさせるのだろう。ルシェラが答える。
「畏まりました」
 そう言いながら、二人から数歩離れる。
 二人を圧しない距離を保ち、その後ろを付いてくる。
 先王時代から仕えているのだろう。心配りがいい。
 慈しみ慈しまれながらゆっくりと進む二人をさりげなく見守っている様だ。

 支えながら、時間を掛けて移動する。
 舞踏会会場は、建物自体が別だ。ルシェラにとっては遠い。
 外へ出る為の十数段の階段の前で、仕方なくリファスはルシェラを抱き上げた。
 着物が豪奢な為に持ち上げ辛く皺も付くかと思われたがそうでもない。
 その辺りはリファスが選びに選んだ布であり、また、ルシェラの為に心を尽くして縫い上げたものでもあった。ルシェラを何より美しく見せながらも身体を締め付ける事もなく、足に絡んで動きを奪う様な事もない。
 外に出て階段を下りきったところで、一度その段へとルシェラを腰掛けさせる。
 もう殆ど日は落ち、夜の帳が下ろされ始めている。
 その事に安堵して、ルシェラは口元を綻ばせた。

 会場には入らず其処此処で男女対になった人々が庭を散策などする姿も見られる。
 庭は広大で、ある程度の範囲ならば勝手に散策する事も許されていた。
 舞踏会会場で目当ての相手を見つけ、庭や休憩用の個室にしけ込む、のが貴族の夜会ないし舞踏会の常道だった。
 リファスは話には聞いた事があるので察しが付くが、ルシェラには分からない。
「あの方々はどちらへ……」
「二人きりで話したい事ややりたい事があるんだろうぜ」
 苦笑しか湧かない。
 この真夏の屋外で事に及ぶ人間の気など知れる筈もなかった。
 草木の生えそろった庭の影など虫だらけだ。虫を苦手とはしていないが、だからといって集られるのもごめん被る。
「会場へ入るか?」
「そう……ですね…………いつまでもここで……こうしているわけには参りませんし……」
 表情が固い。緊張しているのだ。
 リファスはそれを見て額と頬に軽く口付けた。
「俺が付いてるから」
「ええ…………」
 リファスに寄りかかり目を閉じる。
 リファスの気配に包まれている、それを感じてルシェラは深呼吸をした。
 そして思い切り、目を開けて立ち上がる。
「参りましょう」
「ああ……」

 舞踏会会場へ立ち入ると、再び場は静まり返った。
 二人が中に入るに連れ、周りから人が引いていく。
 ルシェラは不安に駆られて、リファスの後ろに隠れる様に身を寄せた。壁が、再び薄らぐ。
 それを感じたのか、リファスはルシェラの手を両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ。堂々として。お前は、この世界で誰よりも高貴で神聖な存在なんだから。お前が隠れる様な事はないんだ」
「……ですが…………」
 一刻も早く落ち着ける場所に辿り着き、父や継母を捜したい。
 気が逸るが、ルシェラは動けなかった。
 手を繋いで後ろから抱き抱え、リファスは速やかに壁際へと移動する。
 飲食物が並べてあるのとは逆の、窓に面した壁にぽつりぽつりと綿入りの長椅子が置いてある。
 まだ宴も始まったばかりで、座っている者は少ない。
 その一つへルシェラを座らせ、指で軽く髪を整える。
「分かるか?」
「いいえ…………お一人お一人の姿は見えませんから…………」
 目を眇めて広間を見回す。
 リファスと心の壁に守られているとは言え、頼りなげに震えていた。
 ぎゅっと手を握り合う。
 遠巻きに皆が見ている。
 その視線にいたたまれず、寄り添うリファスの腹の辺りに顔を埋める。
「化粧が崩れるよ」
「怖い…………」
 手を握り合ったまま、リファスはルシェラの足下に跪く。
 下から顔を覗き込むと、唇を引き結んで震えていた。
「俺じゃ……駄目か…………」
「いいえ……貴方や……壁を越えて………………突き刺さる…………」
 そう言い差して、突然顔を上げる。
 視線が暫し彷徨い、一点で止まった。
 訝しげにその方を見ると、一人の男を見つける。
 身なりと堂々たる様から、何処かの王だと知れた。
「ルシェラ…………?」
 男を見詰めたまま、ルシェラは震えをいっそうのものとする。
 歯の根が合わず、かちかちと音を立てていた。
 身体は硬直し、身動ぎすら出来ない。
「ルシェラ、おい」
 見開いた目から、涙が溢れ出ていた。
 慌てて手巾を目元に当ててやるが、ルシェラに反応はなかった。
 男が、こちらを向いた。
 その視線に背筋が凍り付く。
 リファスは、思わずルシェラを抱き締めた。

 憎悪、殺気、そのどちらもが強く放たれルシェラを襲っている。
「……いか…………へい…………」
 震える唇から、掠れた呟きが洩れる。
「陛下…………? あれが……ティーアの……?」
 威風堂々たる壮年の偉丈夫だ。
 酷く険のある表情でこちらを睨んでいる。そして、直ぐに目を反らした。
 遠巻きにこちらを見ている人垣の中へ消えていく。
 姿が見えなくなって、漸くルシェラは崩れる様に蹲った。
「あ……あぁ…………」
 這う様に椅子から床へと滑り落ちる。
 それでも何とか立とうと足掻き、椅子に縋るものの途中で膝が頽れる。
 何度か繰り返し、諦めた様にじりじりと床を這って王を追おうとする。
 リファスはとても見ていられず、後ろから抱き止めた。
「ルシェラ、落ち付けよ」
「陛下……お詫び申し上げなくては…………」
 思いの外強い力で振り払い、ルシェラは尚も進もうとする。
「お前は王子であり国守だ。その顔の意味を知ってる人間もここにはいる。誇りを忘れるな。お前は、この世界で最も大いなる存在なんだから」
 耳元で低く囁く。
 ルシェラははっとしてリファスを振り返った。
 隙を狙い、窘める様に頬に口付ける。
「立て直してからにしろよ。ちゃんと俺もついて行くから」
「……は……はい…………」
 リファスの手を借り、蹌踉めきながら立ち上がる。
 額を押さえて汗を拭い、口元や頬の化粧をそれとなく整える。
 潤む眦も押さえ、滲んでいる鼻水も拭う。
 美しい顔が台無しだ。だがその分現実味が出て、とても一人で歩かせられる状態ではない。どんな悪い虫が付くか、想像にも難くなかった。
 外の虫が集るより質が悪い。
「深呼吸して」
 素直に従う。
 息を吸い、吐くと僅かに落ち着きを取り戻す。そうしながらも、リファスに縋る手の力は全く緩まなかった。
「もう座らない方がいいな。立てなくなる」
「…………ええ…………」
 王が去った方向を見る。まだ残り香がする様だった。

 強張って上げられていた肩が落ち着いたのを見て、俯いたままのルシェラの表情を伺う。
 色味は薄いものの、どうにか自分を取り戻している様に見える。
 しかしルシェラがその気になるまでを待つ。
 顔を上げる様に促しもしない。
 これはルシェラ自身の問題だ。リファスに口を出す事は出来なかった。
 周りの様子を伺えば、まだこちらを気にしている様子はあるものの、おおよそ宴に戻っている。
 さりげなく広間の視線からルシェラを庇う様に立ち、リファスはただ待った。
 暫くして、ルシェラは漸くに顔を上げた。
「陛下は……」
「向こうの方に行ったみたいだ。追いかけるか?」
「はい……直ぐに……」
 不安げに視線が彷徨っている。
 リファスの手をむしろ引く様に、先へ先へと進もうとする。
 しかし焦れば焦る程足に衣服の裾が絡み、転けそうになって支えられる。
「落ち着けよ。逃げられる訳じゃない」
「は……はい……」
「さっきの、あの距離でお顔が見えたのか?」
「いいえ。でも……あの方は……周りの方々とは、色が違いますから…………」
「色?」
「取り巻く……空気と申しますか…………貴方なら、柔らかく輝く乳白色だとか、サディアなら髪の色と同じ赤みがかった金だとか…………見えますでしょう?」
 目を細めて周りの人間を確かめている。
 リファスはルシェラが何を言いたいのか何となくは察したものの、見る事が出来ずに困惑する。
 人の発する気配だとか、雰囲気だとか、そういったものが色や形となってルシェラには見えるのだろう。
 命の力……生命気の流れは、それとなくでもリファスにも分かる。それに色が付いたものなのだろうと思った。
「俺にはそこまでの力はないんだよ。悪いけど……代わりに、お前より視力はいいからさ」
「あ…………あちら…………」
 眇めた目が一点を掠め、その方に踵を返す。
 ルシェラが進めば人は避ける。掻き分ける事もなく、蹌踉めきながらも突き進んだ。

 リファスより頭一つ分程上背があり、肩幅も倍近い。引き締まって堂々とした体躯は、それ相応の修練を積んでいる事が分かる。
 さりとて軍人だと思うには威厳と気品が圧倒していた。
 自然に膝が折れ、その前に跪く。
 リファスがそうする前に、ルシェラは深く額ずいていた。
「陛下におかれましては……大変に久しく、お懐かしく……」
 言葉が詰まる。ルシェラは何とか続けようとするが、それ以上言葉が出て来ない様だった。
 見えていた靴先が動く。去ろうとしている。
 それを感じたのか、ルシェラは咄嗟にその足へと縋り付いていた。
「お許し下さい! 決して、貴方のお手から逃れたかったのではありません。気が付いたらこの国へ来ていたのです! 貴方の与えて下さった暮らしから逃げるつもりなどなかった……お願いです、陛下…………信じて…………お願い…………」
 最早それは悲鳴だった。周囲の人々がざわめく。
 取り縋り、涙で顔を汚しながら強い力で足に縋る。
 と、それが振り払われた。弾みで蹴られる様になり、ルシェラは抗う事も出来ずに床に転がされる。
 男は不愉快さを隠そうともしなかった。
「……全く、礼のない事だ。貴方は何方ですかな。この様な人の目のあるところで、知りもしない方に泣き叫ばれるなど迷惑千万」
 ルシェラは必死で顔を上げ、男を見上げる。
 凍てつく様な視線で見下げられ、身が竦む。
「ぁ…………あ…………へ、へい…………」
 震える唇は用をなさない。
「へい……へいか…………陛下……」
「目障りだ。何方か知らぬが、捕らえて投獄されたくなければ去るがよい」
「あ…………あ…………」
 それ以上、男はルシェラに一瞥もくれず、足早に立ち去っていく。
 ルシェラは這う様にその後を追おうとしたが、直ぐに諦めざるを得ず、拳を握って床に伏した。
 顔を上げても、もう姿などない。
「っ……ぁ…………あ…………ぁあ…………」
 気配を求めて視線を彷徨わせるが、恐慌状態に陥っているルシェラに探し出せる筈もなかった。

「……あ…………ぅっ……うああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 叫ぶ事しかできない。
 何も叶えられない。
 もう、国には帰れない。
 父を父と呼ぶ事も、許しを請う事も出来ない。
 ルシェラが思う、自身に残されたものを全て失った。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!」
 命の全てを振り絞るかの様に声を上げる。
 リファスはルシェラを抱き寄せたが、ルシェラの状態は収まらなかった。
「ぅ、ひっ……ぃぁ…………」
 ルシェラの身体で長く続く筈もなく、息が詰まる。
 背を繰り返し撫でてやりながらも、二人、動けない。
 周りの邪魔になるなど、考える事も出来なかった。
 遠巻きに見られ、ざわめかれているのが分かるが、だからといって何も出来なかった。
「ルシェラ……ルシェラ…………」
「……ゆる……て…………ゆるし…………っ……」
 抱いてくれるリファスの背や胸を叩く。
 力任せに、繰り返し、幾度も叩く。
 リファスはその度に呼吸が詰まり、骨が軋んだが、ルシェラに任せた。
 止める事など出来ない。
 この数ヶ月、ルシェラはこの瞬間の為に頑張ってきた筈だった。
 積み上げたものが崩れるのはあまりに一瞬で儚い。
「……ルシェラ…………」
「あぁ…………はっ……っぅ…………」
 昂じ過ぎたのだろう。ルシェラの身体がひくひくと震え始める。リファスから手を離し、胸元を強く掴む。
「ルシェラ!?」
 変化を感じて咄嗟に脈を取る。乱れ、途切れていた。
「くそっ!」
 抱き上げる。近くに椅子を探したが見当たらない。
「こちらへ」
 誰かが腕を引いた。
 その方を向くと、品の良い壮年の男が広間の隣室への扉を示している。
「あ、あの」
「ともかく、病人を寝かせねば。向こうの部屋には医師が控えている。早く」
「は、はい」


作 水鏡透瀏

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