「何だ。呼ぶまで控えていろと言っている筈だ」
 逃れる様に扉を開ける。
 外には黒髪の騎士が控えていた。
「申し訳ございません。ラーセルム王女と名乗る方が、目通りを願い出ておられます」
「ラーセルム王女……サディア殿か。会うつもりはないと伝えろ。ルシェラを直々に連れてくれば、考えると」
「……………………畏まりました」
 空気を伝わり、騎士が息を呑んだのが分かる。
 リファスは緩慢にその方へ視線を向けた。
 騎士の姿が見える。

「サディア様が」
「叫んでも構わん。サディア殿では、この部屋まで立ち入ることは出来まい。ダグヌが阻む」
 ちらりとリファスに視線を送り厭な笑みを見せる。
「……会わせる気がないのは分かってます。逃げられるわけでもないだろうし」
 鎖が重い。
「物分かりのいいことだ」
「サディア様は様子見でしょう。……でも、庭で俺に言ったことが嘘じゃないなら、サディア様にはお会いになるべきだと思います。俺は逃げませんから、行って下さい」
「分かった風な口をきくものだな」
「俺に見張りを付ければいい。陛下だって、サディア様に決して遅れは取らないでしょう? 俺のことと、ルシェラのことと、サディア様のご弟妹のことは、無関係ではないけれど等号で結ばれるものでもない筈です」
 睨む様な目でセファンを見詰める。
 優先するべき事は、セファンにも分かっている筈だ。ルシェラのことが一番かも知れないが、リファスよりは、サディアが優先されて然りである。国家に関わることなのだ。
 目を逸らすこともなく真っ直ぐに見詰められ、セファンは落ち付かなげに溜息を洩らした。
「……分かった。ダグヌ、隣室へ席を設けろ。お前には、この子供の監視を命ずる。エイルはどうした」
「ここに」
 いつの間にか、ダグヌの後ろに控えている。
「二人がかりなれば、逃げられもせぬだろう」
「畏まりました」

 用意された部屋へセファンは移り、代わりにダグヌとエイルが入ってくる。
 リファスの惨状を見、ダグヌは眉を顰めて顔を背けた。
 エイルは小さく溜息を吐くと側に寄り、掛布をリファスの身体へと掛け覆ってやった。
「すみません」
「……いや。あいつが視線もやれない様だったからな」
「あの……」
「この様子なら、未だ何もされてないな」
「……触れられたけど……それだけです。嬲って遊んでるだけみたいで」
「そうか。お前が無事なら、それでいいさ」
「それで、あの」
「首尾はそれなり、だ。また行く。ああ……かの方が、お前のことを心配していらした。愛されてるな、お前」
「会えたんですか!?」
「会わせられた、って言うべきか。……心配するな。お前の方がみんなに心配されてる」
 リファスの顔に安堵が満ちる。
 エイルはくしゃりと頭を撫でてやった。枷を外してやれないのは可哀相だが、それは仕方がない。
 泣きも喚きもしない落ち着きぶりが、却って気の毒だ。
 エイルもそれなりの人生を歩んできているが、リファスも年の割に多様な経験を積んでいるのが分かる。

「エイル、何の話をしている」
「この子が誰と一緒に来ていたのか、お前だって覚えてるだろ」
「…………………………それは……」
「ダグヌ……もう逃げは許されないぜ」
「私が逃げているというのか」
「それが逃げじゃなくて何なんだよ。……お前は、誰に仕える騎士だ? その剣は、誰に捧げた」
「我が剣は…………」
「陛下と殿下、どちらを取る。俺は、もう決めた。お前は……どうする」
 もう、潮時だろう。
 セファンに義理はあるが、だからといってルシェラを見過ごせる筈がない。
 守らねばならないものだ。命を賭してでも。
 守れなかった命の代わりに……代わりでしかなくとも、何もしないよりはずっといい。
 ダグヌとて、それは同じ筈だ。
「失った筈の命がここにある。時は、取り戻せる」
「取り戻せなどするものか!」
「……それが、お前の答えか?」
 睨み合う。
 リファスはその空気を肌で感じ、顔を歪めた。
 どちらの想いも、身を切り刻む様に痛い。
「セファン陛下に仕える道を選ぶなら、それもいいだろう。そうなれば、お前は、俺の敵だ」
「……貴様こそ、殿下を妹の代わりにしているだけではないのか」
「ああ。そうだ。それの何が悪い。過ちは、繰り返したくないだけだ」
「やめてください!!」
 思わず、叫ぶ。
 耳を塞ぎたいが、そうも出来ずリファスは泣き出しそうな顔で言い争う二人を見た。

「……セファン陛下に従ったって、ルシェラの敵にはならない……ルシェラに敵なんか、居ない」
 そんな立場を取ったところで、ルシェラは喜ばない。
 それどころか、セファンと敵対するなら自分の敵だと認識するだろう。
「エイルさん、間違えないで下さい。……ルシェラは、セファン陛下に許されたいんです。愛されたいんです。……そうでなければ、救われないんです。俺達が、幾らルシェラに尽くしたって……今ルシェラが望んでいるのは、セファン陛下のことだけなんですから。だから……どっちかを選ばなくちゃいけないんじゃない」
「……分かってるさ」
「なら」
「……だが、これくらい言わなきゃ、こいつには分からないんだよ」
 ダグヌを睨む。
「ツケが回ってきてるんだ。ダグヌ……俺達は、何もしてこなかった。償いは、するべきだ」
「会ったのか、貴様は……」
「ああ。会わせる顔なんてないと思ってたがな…………殿下は無事だ。国にいた頃より余程お強くなられた」
 リファスを振り返り、口元に笑みを乗せる。
「殿下は、お前を救う気でいる。お前が心配している程、陛下に囚われてもいらっしゃらない」
「俺を……救う? そんなこと……」
 動けない筈だ。リファスが戻るまで、目覚めたくないとまで言っていた。
 そのルシェラに何が出来るというのか。
 顔を曇らせたリファスに、エイルも露骨に眉を顰める。
「侮ってんのか、お前。殿下だって、ただの深窓の姫君って訳でもないだろうさ。あんな目……初めて見た。お前が殿下の目に生気を吹き込んでやったんじゃないのか?」
「だといいんだけど…………」
「……お前にも問題がありそうだな」
 リファスの顔が強張る。
 自覚はないが、幾人も同じ事を言う。

「……俺の問題って……何なんでしょう」
「そうだな……いろいろある様にも見えるが、まずは過保護が過ぎるんじゃないか? それは、まあ……こいつも同じだが」
 顎をしゃくってダグヌを示す。
「母親気分なんだろうが、いつまでも相手だってガキじゃない。ルシェラ殿下は少しばかり動くことが難しいから人の手を多く借りるしかないが、だからといって心まで動けない訳じゃない。人の手を借りて生きることを誰よりもどかしく思ってるのは本人だって事、忘れるな」
「分かってます、それくらい」
「分かってないから、そんな顔するんだろうが」
「っ」
 鼻先を指で弾かれる。
 リファスは困惑した表情でエイルを見上げた。
「ルシェラが無理の出来ない身体なのは、誰が見たって分かることでしょう? 無理をして欲しくないって、それがいけないことですか?」
「いや。駄目だとは言ってないだろ。だが、無理かどうかを決めるのはお前じゃない。お前の希望を聞くか聞かないかっていうのもな」
「医者の祖父だって止めると思います」
「……死んだっていいんだ。逃げではなく、本人が心から受け入れられるものなら」
「っ」
 余りの言葉に絶句する。
 エイルは、真剣だった。
 分からぬことではない。リファス自身、ルシェラが望むなら命より意志を優先するべきだと考えている。
 だが、それと同じ程、死んで欲しくなどないのだ。矛盾していても、愛する者と出来る限り長い時間を過ごしたいという想いは当然のことだった。

「エイル! 滅多なことを口にするものではない!!」
 リファスの代わりにダグヌが叫ぶ。
「死んだ方が楽だから死ぬなんて、そんなことまで肯定するわけじゃねぇ。ただ…………成し遂げたいことを成し遂げて、その結果死ぬ様なことになったって、誰がその選択を責められる。それが今日明日のことかひと月後のことかなんて、関係ない。……殿下がなさろうってのは、そういうことだ。悪戯に死んでるのか生きてるのかも分からない様な状態を引き摺らせた俺達が、何をどう止められる」
 エイルはダグヌに歩み寄り、その胸元へと拳を打ち付けた。
「……お前は好きに陛下に尻尾でも振ってろ。俺は、俺が後悔しない様に動く」
「我らの主はセファン陛下だ」
「お前の剣は、誰に捧げた」
 再び問う。
 ダグヌの顔が酷く歪んだ。
「……今は亡き方だ……」
「殿下は忘れ形見だ。何故そうも思えない」
「それはルシェラ殿下ご自身に向いたものではない」
「馬鹿かてめぇは」
 胸倉を掴む。
 ダグヌは目を背けた。
 エイルは歯噛みした。

「そうやってお前は逃げていればいい。今すぐにでも陛下に申し上げるんだな。俺が反旗を翻したって。リファスと逃げようとしているとでも、何とでも言えばいい。俺の前に立ちはだかって、剣を抜いてみろよ」
 吐き捨てる。
 さらり腰に帯びていた小剣を抜き払い、ダグヌの目の前へと突き付けた。
 これ程にしても、ダグヌの目は覚めない。苛立ちを隠すことは出来なかった。
「……私と打ち合うというのか」
 ダグヌも剣を抜き払う。騎士の剣はエイルの持ち物より数段長く、刃も些か広い。
 リファスは息を呑んだ。
 リファス自身もそれなりの使い手であれば、ダグヌがもの凄まじい手練れであることは、構えを見ただけでも分かる。
 対するエイルは、余裕を見せてはいるものの明らかに、純粋な剣技では劣っている様に見えた。ただ、勝算のない争いをふっかける人間ではないだろう。策が見えないが、リファスには傍観することしかできない。
「お前に俺を切れるのか? 人を殺したこともない、お坊ちゃま騎士が」
「私を愚弄するのか!」
「さあな。死ぬ気で止めてみろよ。言っておくが、お前の流儀で戦う気はないぜ」
 小剣の刃が鈍い輝きを放っている。くすんだ様なその色に、リファスは仕込みに気付く。
 刃の切れ味だけで致命傷を与える様には出来ていないのだ。浅くとも傷ついたらその場で負けが決まる。
 立場や仕事の違いは、如実に出ていた。
「何で……そんな話になるんです」
「血が流れたってこいつには分からないんだ。死ぬって事を何一つ分かっちゃいねぇ」
 向き合う互いに隙はない。
「私が何を分かっていないと言う。……私はただ……陛下の思し召しに従うことが、国や世界の為にもなるだろうと考えているだけだ。ひいてはそれが、殿下の御為にもなろう」
「殿下の為ってのは、何だ。陛下の子飼いであることに何の意味がある。……お前も、今の殿下に会ってくればいい。国で、俺達はただあの方を壊してきたんだ。それを、この子供が僅かの間に治して見せたってのに……陛下の一言でまた戻っちまった」
 エイルの視線がリファスへ向けられる。リファスは、目を閉じた。
 本当にルシェラの役に立っているのか、自信はない。

「…………拾った時……ルシェラは、視力も、言葉も、感覚も、全て失ってた。……ひと月かけて、言葉を取り戻して、三ヶ月掛けて漸く舞踏会に出られるくらいまで回復したって言うのに……本当に、一瞬だった。セファン陛下のたった一言……それと、一蹴りで、積み上げた筈のものは全部……」
 脆い土塊を積み上げただけだったのだ。固く焼き上げた煉瓦をぶつけられては、崩れ去る他ない。
 目の縁が、じわりと滲む。
「……全部じゃないさ。まだ……お前を救う気になれるくらいには、心が丈夫だ。望みはある」
「俺が側に居ないと、ルシェラの言葉が通じるのは姉かサディア様だけになってしまいます。それに……命を分けてあげられるのも、サディア様だけに。戻れるなら……早く戻らないと。サディア様が ここにいらしているなら尚更」
「……今お前が嵌められてる枷は、俺にも外せない。もう少し待つんだな。だが……言葉は、多分心配ない。確かに限りはあるが……目が雄弁だった。お前の姉貴と、あの物語る瞳があれば、ある程度困りはしないだろう」
「次何かあったら……もう意識が戻らないかも知れない」
「お前の祖父さんは、その為についてるんだろ? お前、そんなに誰も信じられないのか?」
 はっとしてリファスは目を開け、エイルを見上げた。睨み付けられ唇を噛む。
 信じてはいる。しかし、側に居なくては、この目で見ていなくては、不安で仕方がない。居たところで自分に何がしてやれるわけでもない。看病をするなら祖父の方が当然当てになるし、必要な力を与えてやるというなら力の統制を自分で取れるサディアの方が優れている。それは、分かっているのだ。
 けれど。
 出会ってしまったからには、片時も離れていたくないのだ。他人に委ねるのが厭だというのではない。ただ、離れているだけで不安だった。
 エイルは過保護なのだと言うが、リファスの感覚としてはそれも少し違う。確かに構い過ぎている部分もあるだろうが、そんな単純な事ではない様にも思う。
 まるで自分の半身が遠くにある様な、そんな感覚でさえあった。

「……祖父ちゃんのことは信じてます。世界でも指折りの医者だって、尊敬もしてる。だけど……そういうことだけではなくて、多分……ルシェラの側にいないと、俺が安定できないんです」
「それが、お前の問題か。……殿下に世話焼いてることで、自分が満足してるって」
「……そういうこと……なんでしょう。多分。また少しだけ、違う気もするけど。でも、ただ過保護ってのよりは、大分近いと思います」
 頼りなげな目でエイルを見る。エイルは手を伸ばし、くしゃりとリファスの頭を撫でた。リファスは何処か、構ってやりたくなる雰囲気を持っている。
「お前も一緒だな、ダグヌ。自覚はあるんだろ」
「……私は……」
「深く考えんな。今殿下にしてやりたいことあるなら、動けばいい。それだけだ。何でお前には、それができない」
 もう一度、ダグヌへと向き直る。ダグヌは剣を構えたままに、顔を背けた。澱みなく強いエイルの視線にいたたまれない心地なのだろう。エイルの心情もダグヌの心情も分からぬではない。リファスはただ固唾を飲んで見守った。
「……最早、殿下に私がして差し上げられることなどないだろう」
「諦めんな。あの方が安楽に過ごす為に動く手立ては、まだある。手始めに、こいつを救うことだ。今の殿下は、ただこいつのことばかりを思い極めていらっしゃる」
 顎をしゃくってリファスを示す。
「お前がこいつを気に入らないってのなら別だけどな」
「その様な……殿下がお幸せなら、それでいい。だが……殿下のお幸せには、国のことが多分に含まれよう。そして国の為には、陛下の事が深く関わる。結局逃れられる筈もないのだ。お前はそれを失念している。殿下は、御身ただ一つを考えていればよいという立場のお方ではない」
「それは、殿下を王子として扱ってから言うんだな」
 エイルの挑発は一々的を射ている。あまり口の立たないダグヌには、反論の術がない。
「私は殿下を常に……王子として、敬い、拝し奉ってきた」
「何処がだ。俺達は間違っていた。それを認めるべきだ。……抱いちまったお前には、分からないことかもしれないがな」
 ダグヌが身を竦ませたのが分かる。エイルの言葉には容赦がない。
 ルシェラが差し出したものを受け取った、ルシェラの求めに応じた、ただそれだけのことではある。嫋やかにも寄り掛かられては、ダグヌに拒む術などなかったが、それでも一線は越えぬべきだったのだ。

「……私に……何をしろと……」
「お前に期待はしてない。ただ……陛下を見張っててくれ」
「気取られるだけだ」
「それでいい。お前は、できるだけ怪しく振舞え。……出来るだろ。お前はどのみち嘘なんて吐けないんだから、陛下と目が合っただけで不審な態度になるだろうから。その間に俺達が動く」
「私を囮にするつもりか」
「そうだ。アーサラ王の手前もある。陛下の性格からしても、お前は殺されはしない。何かあったらお前のことだって俺がちゃんと助けてやるさ。お前はただ口を噤んで、陛下の側に控えていればいい。……その口は、伊達に堅い訳でもないんだろ」
「…………お前はどう動く」
「……まずは、殿下を陛下の御前に」
「駄目だ!」
 リファスは即座に叫んだ。エイルの発案は無策に等しい。
「これ以上ルシェラを傷つけるわけにはいかない! ルシェラに会ったなら、分かるでしょう!?」
「ああ。分かってるさ。だが……殿下は決意を固められた。お前を助けるってな」
「そんなこと!」
「まあ落ち着けよ。今すぐだとは言ってない。……陛下とサディア殿下の話し合いの結果もあるだろう。まだ動ける訳じゃない」
「……俺は、助けを待つ姫君で居るわけにはいかないんです。……ルシェラ以上に、俺は男でなきゃいけない」
「その気負いが殿下を潰す」
 リファスは口を噤んだ。
 エイルは隣室へ続く扉へ身を寄せる。
「盗み聞きなど」
「これは俺の仕事だ。間者ってのは、そういうもんだろ。……騎士様みたいにお綺麗なことだけしてりゃいいってもんじゃない」
 筒の様なものを取り出して扉に当てるエイルを止める手など、ダグヌにはなかった。


作 水鏡透瀏

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