嗅ぎ薬の効果は、そう長いものではなかった。
 頭が重いが、辛うじて目を開ける。
 肌触りのいい敷布と掛布に包まれていた。見える天蓋には覚えがない。
 何処か身体も重く思えて、気怠げに身体を起こす。
 視界や頬を覆う髪をざっと掻き上げて、部屋を見回した。
 寝起きの悪い質ではないが、まだ薬の余韻が残っているのだろう。

「目が覚めたか」
 横合いから低い声がかかる。
 その方を向いて、リファスの意識は急激に目覚めた。
「あっ…………あ…………」
「強い薬ではないから、直ぐに頭の中も晴れよう」
 寝台の傍らの椅子に腰掛け長い足を組んで、セファンは読んでいた本を膝の上に伏せた。
「無理をしたか。すまなかった。しかし、こうでもしなければお前は私の下へなど来ないだろう?」
 節の高い大きな手がざらりと頬を撫でる。リファスは身体を震わせた。
 それが肌寒さとも重なって思え、流石王が滞在する部屋ともなれば空調が効いているものだと思いながら、ふと自分の身体を見る。
 …………纏っていた筈の衣類は全て剥ぎ取られ、ただ掛布によって肌が辛うじて覆われている。

「っな、何で!?」
 掛布を掻き集め、慌てて身体を埋める。
「何するんですかっ!」
「ルシェラを誘った身体とはどの様なものかと思ってな。着ていたものはそこにある。もう構わん。そこから出て着直すがいい」
 枕元の台を示す。几帳面に全てが折り畳まれている。それを見て漸く下着まで脱がされていた事に気付いた。
「何で下着まで……」
 ぶつくさ呟きながらそれに手を伸ばす。
 と、衣類一式が取り上げられた。
「何ですか」
「聞こえなかったのか? そこから出て、着るがいい」
「出ろ、って……じゃぁ、出てって下さいよ」
「それは出来ぬな。逃げられては困る」
「……ガキかよ」
 舌打ちして渋々寝台から降り、セファンから衣類を奪う。
 セファンの絡みつく様な視線を感じ膝が震えたが、何とか服を着直す。
「……それで、俺をどうするんです」
「賢しい子供は嫌いではない」
 寝台に座ってセファンを睨む。
 しかし、何処か怯えを含んでいて、セファンはそれに苛立った。
「俺をどう使う気なんです。ルシェラを誘き寄せようにも、今のあいつは動ける状態にない」
「まず、サディア殿かギルティが来るだろうな」
 セファンはさり気なく立ち上がり、居場所をリファスの隣へ移した。膝が触れる程に近い。
 逃げる仕草を見せると益々詰め寄られる。逃げ場が狭くなった。
「少し離れて貰えませんか」
「美しいものは愛でたくなる質でな」
「っ、ふ……ぁ、や……」
 いつの間にかセファンの手が腰へ回され、内腿を撫でていた。
 逃れる、殴る、そうした行動の前に、リファスは身が竦んで動けなかった。

「……逃げないのか?」
「ぃ……や…………っぁ……」
 がたがたと震えている。
 性格と身体つきに反した反応を不審に思い、セファンは手を離した。
 途端に、リファスは自身の身体を両腕で抱き込み蹲ってしまう。
「怯えるものを無理強いする趣味はないな」
 リファスは顔を上げる事も出来ない。
「……もう少し骨太い男だと思っていたが……こうして見れば少し線が細いな」
 容貌の繊細さではルシェラに多少の分があるが、リファスも男らしく精悍な表情を多く見せはしても、何処か少女めいた美しい顔立ちをしている。
 体格と表情が隠されると、ただその精緻な顔容ばかりが印象に残った。
「何もしない……と言っても、信じはせまいな」
 苦笑混じりの声音に、リファスは恐る恐る顔を上げる。
 窘める様に微笑み返され、上目遣いでセファンを見る。
「本当……に……?」
「獣だと思われても困る。ルシェラから何をどう聞いたのかは知らぬが、私はあれが望む時望んだ様に与えてやったに過ぎない」
「貴方自身は、そう思ってるかも知れないけど……」
 ルシェラ自身もそう思っているかも知れない。だがそれは、そう思う様に躾けられているからに過ぎない。
 ルシェラの心を壊したのは、確かにこの男の筈だ。
 ただ……分からないのだろう、この男には。相手が拒む事がなければ、より気付くことは難しい。
 ルシェラがリファスに伝えたのは、ただ自分が父の意に添えないこと、それを申し訳なく思っていること、それだけだ。
「私一人では賄えぬ事もあり、こちらで相手を選んだのが気に障ったというのか、それとも、私ではなくナーガラーゼが選んだ相手を私が止めなかったのを責めるというのか……それは確かに、下賤の者も多かったろうから申し訳なくも思う。だが、それでも必要なことをしてやったのだ」
「でも、ルシェラは壊れた」
「四六時中私が側にいるわけにも行かぬ。私にも職務があるのでな。しかし、あれは私の気苦労も知らず……困ったことだ。私はただ、ルシェラの為に尽くした。必要だからこそ、身体が苦痛を覚えぬ様に仕込んでやり、陽の光からも守り、十分に生気も与えて更には、死に対する心構えまで教えてやった。……何故、それでも全てが上手く行かぬのだ」
 愚痴を並べ立てる姿は、その辺りの中年男性と何ら変わることはない。
 ただ、根本的に間違っている。

「何でさっき、あんな風にルシェラを否定したんですか。あれのお陰でルシェラは……」
「私にも王の対面というものがある。それをあの様な場で取り縋られては敵うまい」
「だからって足蹴なんて」
「その様なつもりはない。あれはただの弾みだ」
 リファスは漸く震えを治め、きつい視線でセファンを睨んだ。
「ルシェラに謝って下さい。一言、すまない、って。それだけで十分なんです」
「その一言で何が変わる」
「ルシェラの全てが変わります。多分、泣いて喜ぶでしょう。そしてより一層貴方に従う様になる」
「そんなもの、私は求めていない!」
 セファンは声を荒げだ。
 言葉の意味が分からず、リファス眉を顰める。
「求めていない、って……じゃあ、何であんなになるまでルシェラを躾けたんですか!?」
「性質を仕込んだつもりなどない。ただ、私は……兄ルシェラに戻ってきて欲しいだけだ」
「お兄様って、あんな感じの儚げで嫋やかで……自我の弱い方だったんですか?」
「外見は同じだ。それなのに、ただ瞳だけが違う。もっと兄は輝いていた。美しく華やかで、艶やかな光を放っていた。それが……」
 セファンは顔を険しくする。
「輝きは、まだお前の方が近い」
 顔が近く迫り、リファスは身体を反らせて逃げた。
「口づけ程は許して貰いたいな」
「親でも身内でもない男から口付けられて喜ぶ趣味はないです」
「しかし、ルシェラなら良いのだろう?」
 ぐっと言葉に詰まる。そこ掠める様に口付けられた。
「ルシェラもれっきとした男だ。裸体も見ているだろう?」
 頤を捉えられ、リファスは逃れられない。
「ルシェラはお前の身内か? 親か?」
「……違います。けどっ」
「私の何が違う」
 同じ所を探す方が難しい。
「離れて下さい……」
 腕で突き跳ねようとするが、セファンは動じない。
 再び軽く口付けられる。
 深ければ噛みつくことも出来るが、浅く触れられるだけではその間もなかった。

「止めて下さい……」
 弱々しい。
 セファンは片眉を上げ、リファスの怯えた表情を眺める。
 軽く触れるだけでこうまで怯えられるのは不本意だ。
「何処までなら許す」
「……どこ……って……近寄らないで欲しいんですが」
「それはできんな。祝賀が終わり、国に帰る時までお前をここから出すことは出来ぬ。そして、ここには寝台は一つだ。寝台の上に二人乗れば、することなど一つだろう」
「俺は床で十分ですから」
「ほう、床が好みか。それも野趣があって悪くない」
 にやりと笑われて、リファスは心底呆れ顔になった。
「好き勝手に思ってて下さい」
 逃げたい一心で立ち上がると、腰を抱き取られる。
「うわっ」
 引き寄せられ、呆気なくセファンの膝の上に落着する。
「離して下さいっ」
「美しい髪だ。シルーナを思い出す。お前……アーサラの血を引いているのか? そうなのだろう。運命の輪の中の人間なのなら」
 目前に来た髪を一房掬い、唇を押し当てる。
 爽やかな良い香りがした。手入れがいい。
 身を捩るが、そうすると髪が引っ張られて痛いだけだった。
「…………父方の祖父は、アーサラの貴族だって……聞いてますけど……」
「名は?」
「レイナーハ…………ルエ・レイナーハ…………」
「レイナーハ……ほう。それはまた、大きな名前が出たものだ。それでは、お前……ルシェラとは親類に当たるか。残念だ。身内なら口づけも許すのだったな、お前は。これ以上詰れぬ」
 五古国の近年の系図なら完全に頭に入っているのは、さすが王の中の王と言うことなのだろう。
 レイナーハ家はアーサラの中でも特に古い家であり、公爵の位にもある。発言権もアーサラ国内で非常に強いものがあり、王家としても一目を置いていた。
 現在の公爵の生母が先々代の王……現アーサラ王の祖父の妹であり、それだけではなく長年に渡り度々に王家から降嫁もある家でもある。

「言われてみれば、お前、幼かりし頃のギルティに僅かばかり似ているな。いや、ギルティがお前に似ているのか……お前の方が少々荒削りにも思うが」
「すみませんね、品がなくて」
「どれ程洗練されたものも、自然の美しさには敵わぬものだ」
「っひ……あ……」
 手が身体を這うおぞましさに堪えかねて、リファスは情けない声を上げた。
 歯の根が合わず、がちがちと音を立てて震え始める。
 逃れようと藻掻いた結果、セファンの片足の腿を跨ぐ様な形になってしまい、尚のことリファスには辛い体勢になる。
 調子をつけてセファンが足を動かしてやると、リファスの腰は自然に揺らされた。
 膝頭で股間が煽られ、リファスは益々震えた。
「っ……っう……」
 瞬く間に瞳が潤み、ぼろぼろと涙が溢れ零れる。
 頬を擽っていた指に雫が触れ、セファンは驚いてリファスの顔を振り向かせた。
「……泣くな。お前はそれ程弱くない筈だ」
 リファスの身体を僅かに浮かせ座る向きを反対にさせる。
 泣き顔が目前に来、セファンは困った様にリファスの髪を撫でた。
「何か恐ろしい経験でもある様だな」
「う……ひっ……く……」
 リファスは答えられない。ただ泣くだけだ。
「時間は幾らでもある。無理強いをしようとは思わん」
 やはり、困る。
 泣く子などどうしたらよいものか分からない。
 相手が子供でなくとも、この様な時に嫌悪や恐怖で泣かれたことなどない。
 更には子を持ってはいても、泣いているところをあやしたことなどない。
 ルシェラは情事の時以外にセファンに涙を見せることなど殆どなかったし、もう一人の子フェリスに至っては泣くものかどうかすら知らないのだ。
 大変困る。困るとしか言いようがなかった。
「エイル! ダグヌでも構わん、入れ!」
 思わず廊下の者を呼びつける。
 エイルとダグヌ、揃って顔を覗かせた。
「何か」
「入っても宜しいんですかね」
「構わん、入れ。これでは敵わぬ」
 リファスを膝から下ろして寝台に座らせる。
 親指の腹で涙を拭ってやり、場を二人に譲る。
「私は廊下にいる。決して逃がすな。泣き止んで落ち着いたらすぐに呼べ」
「畏まりました」
「分かってますよ」

「陛下もお戯れが過ぎる」
 しゃくり上げるリファスに手巾を渡してやり、ダグヌは重く溜息を吐く。
 正直なところ、この場から逃げ出したい。だが、あくまで王に忠実なダグヌにはそれも出来なかった。
 聞けば、この少年は過去も現在もルシェラの付き人だという。合わせる顔はない。
「ダグヌ、お前は陛下に付いてろよ。こっちは俺一人で大丈夫だろ」
 察したエイルがそう言ってやると、ダグヌはあからさまにほっとした表情になる。
「ああ……」
 逃げる様に去る。
 見送ってエイルも大きく溜息を吐いた。
 リファスに向き直り、表情を改める。

「ルシェラ殿下は、ご無事ですか?」
 囚われてからセファンも聞かなかったことだ。
 リファスはルシェラの名前に反応して、エイルを見た。
 目が赤く腫れている。頬と鼻の頭も赤く染まり、すんと鼻を啜る様は子供じみて愛らしかった。
 とんだ美しさだ。
 ルシェラの美貌を見慣れている身でも心動かされるのは、リファスの持つ華なのだろう。
 だが、その愛らしさや美しさに流される程、エイルは初心でもない。
「居場所は突き止めているが、様子まで窺えなかった」
「……貴方、さっきの…………」
 自分がここに連れてこられる羽目になった原因の男だ。
 なんとか泣き止み、リファスは警戒心を露わにする。
「俺も、あれが仕事なんでね。悪いとは思ってますよ。残ってませんか?」
「大丈夫です。多分。……こんなガキ一人攫うのが仕事かよ」
「王命に従うのが俺の仕事です。……さっきの命令は果たしたな。泣き止んだ」
 茶化した物言いに、リファスは剣呑な視線で睨む。赤く潤んだままの目では何の意味もない。
「殿下の事だけが気がかりだった」
「貴方は、陛下の所行を知ってる人ですか」
「はい。だが、止められる立場じゃあない」
「……ルシェラを助けられなかった人に、話す事なんてない」
「言葉もないな」
 エイルは肩を竦めた。
「信じないかも知れないが、俺とダグヌは殿下の味方ですよ。これでも」
 リファスは答えない。
「何なら、殿下にお尋ねになればいい。いや……駄目だな。俺の名を殿下の前で出すのは多分まずい」
 不審な言葉を聞いて、リファスは緩慢に視線をエイルに送る。
 視線に気付いてエイルは片眉をひょいと上げた。
「俺の名を聞けば、恐らくあの優し過ぎる方は自刃しようとするでしょう。あの方が傷つくのは忍びない」
「どうして」
「ああ、口を開いた」
 笑われ、むっとして再び口を噤む。

「殿下の現在の居所は、まだ陛下にもダグヌにも伝えていない。事を動かすには早いでしょう」
「どういう意味です」
「殿下は、動ける状態ですか?」
「無理です。ここに来るのも本当は……一刻も早く、ここ退いて休まなくちゃ、命も危ない。だけど、ルシェラが……どうしてもお父上に謝りたいって、ただ……そればかり言うから」
「じゃあ、まだ内密にしなけりゃ。俺が伝えれば、陛下はこんな悠長な事はしてない。貴方の首に剣を突きつけてでも、殿下を手に入れようとなさる。殿下の方から陛下をお捜しになるまで時を待たなければ」
 言葉遊びの様だ。リファスは不愉快さを顕著にする。
 綺麗な顔が険悪さを増す度、エイルは苦笑を浮かべる。
「何で……陛下に教えないんですか」
「命じられてないから」
「でも、仕事でしょ?」
「俺の仕事は、陛下の命令に従うこと。それ以外のことは業務外ですよ。陛下が命じられるまで、俺から言う義務なんてない」
「貴方…………ルシェラのこと、好きですか?」
 素直な子供だ。
 口調から、恋愛について聞いているわけではないのが分かり、また嫉妬やら警戒やら言う感情でもない。エイルはリファスに好感を持った。
「嫌いじゃありませんよ」
「……そう、ですか」
 リファスはほっと頬を緩めた。
「この程度の回答でいいんですか」
「…………国の人は、みんな、ルシェラに辛く当たってると思ってたから」
 申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
 エイルの物言いと態度から、ルシェラにもこうして接しているのだろう。十分に察せられた。
「一緒ですよ。俺も、陛下も」
「ルシェラのこと、悔やんでくれてるんですね」
「悔やんでなんていませんよ。悔やんでれば、おめおめ生きていたりなどしない」
 嘘を感じる。
 ルシェラの様に人の心が読めるとまでは行かないが、常人より遙かに勘は優れている。
 エイルは悔いている。根拠はないがそれが分かる。

「貴方、国でルシェラの世話していた人ですか?」
「世話なんて程のこともしてませんがね。まあ食事を運んだり、風呂の手伝いをしたり……その一人です」
「ルシェラは、自分の世話をしてくれた人達に、もの凄く感謝してた。だけど、殺めてしまったって……死んじゃった人もいるんですか?」
「……三人いますね。俺を含めて」
「冗談の話じゃないんですけど」
「冗談じゃないんですよ、これが」
 エイルの様子は真面目だ。
「……どういう事ですか?」
「殿下が幽閉されていたことはご存じで?」
「ええ……最初は塔に、それから、何も見えなかったから分からないけど、冷たくて、暗くて、不思議な音のするところに長らくいたって」
「それは多分海辺の牢獄でしょう。……助けたかったんですよ、これでも。だから助けに行った。しかし助けきれず、俺は命を落としかけた。気付いた時には殿下の姿は消えていた…………どうしたものかは分からないが、海を越え、この国まで来ていたことを知ったのは、ついさっきです」
「命は……ルシェラに吸われたんですね……」
「呪符を持っていたお陰で生き延びてしまいましたがね」
「ルシェラはそれを?」
「恐らくご存じないでしょう。視力が随分弱っている様でしたから、俺が相手だったこともご存じないかも知れない」
「相手……って、貴方……」
 見る間に顔が曇る。
 エイルはずっと苦笑を浮かべたままだ。表情は全く変わらず、それが余計にリファスの怒りに油を注ぐ。
「ルシェラを……」
「生憎俺の好みじゃない。抱くなら女に限る」
「じゃあ、」
「勘繰りも仕方ないかも知れませんがね。あの殿下では。だが、俺に出来るのは抱き締めるまでだ」
「それは、ルシェラが何より望むことです」
「それだけですよ。口付けようなんて気も起こらない」
 じっとエイルを見る。エイルは真っ直ぐ淀みなくリファスを見返した。疚しいことなど何一つない。あるとすれば、ただ守れなかった、助けられなかった後悔だけだ。
 リファスは歳に似合わない表情で軽く目を細め、エイルの奥底までを覗き込もうとする。
 意図は掴めたが、エイルは逃げるつもりもなかった。

 暫くそうして、リファスは急にほっと息を吐いた。
「分かりました。信じます」
「ありがたいことで」
 一度信じると決めれば、リファスが態度を固めるのは早い。
「あの、それで……ものは相談なんですが」
「何です」
「俺を逃がせとは言いません。ただ、ルシェラに連絡できませんか? 貴方は近衛兵とかじゃなくて影でしょう? 何か手段ありませんか。俺は無事だって事と、すぐに自力で逃げてみせるから心配すんな、って」
「いきなり、俺をそこまで信用していいもんですかね」
「貴方は、ルシェラに不利になる様には振る舞えない。……勘ですけど」
 揺らがない。さっきまで泣いていた目はまだ何処か赤味を残していたが落ち着きは取り戻していた。
「……あと、それから、何か敬語って落ち着かないんですけど」
「貴方は、運命の輪の中のお方だと伺っていますから」
「生まれも育ちも、田舎町の町医者の子です。そんな凄いものじゃない。ルシェラに遇って、急転直下って感じで……未だにいろいろよく分かってないから、落ち着かなくて」
 頭を掻く様子は確かにそういい育ちというわけでもなさそうだった。ただ、何処か超然とした雰囲気を持っている。どれ程一般市民の仕草を見せても、ふとした拍子に見せる空気は圧倒的だ。
 エイルは暫く悩んでリファスを見た。
「…………分かった。まあ、俺の弟って言っていい年だろうしな。二人の時はそうしよう」
「その方が相談しやすいんです。俺も」
「で、まだあるんだろ、相談」
「相談って程じゃないけど……あの、紙と洋筆、ありませんか」
「あるぜ、それくらいなら」
 洋筆は懐から、紙は側の台から取ってリファスに渡す。
 リファスはさらさらと流暢な手つきで何かを記し、小さく折り畳んだ。
 折り目に口付け、何かを呟く。エイルには分からなかったが、何か歌の様だった。
「これを、姉に届けて下さい」
「姉? 一緒に来てたすげぇ美人か? 派手な赤い夜会服で来てた」
「美人かどうかはエイルさんに任せますけど」
「何を書いた」
「検めてもいいですよ。別に」
 言われて広げる。
 呪符の様だった。
「変わった札だな」
「大したものじゃないです。俺に何かあったら、知らせるってだけ。大きな術は、俺には使えないから。……ルシェラに知らせるわけにはいかないし、サディア様でも貴方の身が危ないでしょ? だから、姉貴に」
「長生きできねぇなぁ、お前も。……大丈夫だよ。陛下じゃないが、俺もお前がまあ気に入らない訳でもない。守ってやるさ。……お姉さんは、優しいか?」
「…………見た目に騙されると痛い目見ますよ。何をしようとしても止めませんけど」
 紙と返された洋筆とを懐に仕舞い、リファスの髪を乱暴に撫でる。掻き混ぜる、と言った方が近しいかも知れない。
 ルシェラを大切にしているもの。この少年になら、ルシェラも心を許しているのだろう。
 愛しているのが分かる。普通に、一般的な形で。
 それは、最もルシェラに必要なものだ。そう思えば、ルシェラと同じように守ってやらなくてはならないとも思う。
 そうしたエイルの接し方はリファスにも心地よかった。学院時代には兄と慕う先輩もいた。それと似た空気がある。
 温和しく一頻り撫でられてから、リファスは表情を引き締める。

「……陛下に伝えて下さい。触れる前に一言下さい。事を急かなければ大丈夫です。泣いてしまってすみません、って」
「いいのか。さすがに、最中には俺には手出しできない」
「…………ルシェラが動ける様になるまでまだ時間がかかる。サディア様のことだって…………」
 キッと扉の向こうのセファンを睨む。
 ただ怯えさせられるばかりなのは癪に障るし性にも合わない。
 戦う覚悟を決める時間さえあれば、立ち向かうことは出来る。今はそう思えた。
「あんまり陛下の興を削ぐと後が怖いぜ」
「分かってます。これ以上下手は打たない」
「ホント、長生きできそうにねぇなぁ……」
「大丈夫ですよ。俺は覚えてないけど、前の俺は八十まで生きたって」
「じゃあ訂正。幸せになれないな」
「ルシェラがいるなら、それだけで俺は幸せですから」
 頬を染めながらも言うことは言う。
「よく言うぜ……。まあ、教えてやるよ。慣れてる様な余裕を見せれば、陛下は適当に遊んでさっさと終わる。取り乱したり泣いたり、あんまり強気に拒んだりすると興を削がれる。ほどほどに強気で拒みつつ、感じない、無反応、ってのが一番長引くだろうが、これはかなり難しいな」
「陛下、何か変な趣味とかないですか?」
「女より男が好きって時点でかなり変だと思うけどな」
「もう、それはいいです。えっと……あの……」
 赤面するより、青褪めて、微かに震えが戻る。
 エイルはリファスの肩を抱いた。
「ないよ。そういう意味じゃあ、かなりまっとうだ。ルシェラ殿下相手以外なら、嗜虐趣味もない。道具も薬も使わないし、ぶったり縛ったり血を見る様なこともしない。回答はこれでいいか?」
「は、はい」
 すっと息を吸う。
 時間をかけてゆっくりと吐き出し、再び扉を睨む。
「大丈夫です。陛下を呼んで下さい」
「……ああ」
「さっきの件、どれもお願いします」
「タダで働いてやるよ。ありがたく思えよな」
「お礼は、後でたっぷりと。俺に払える金額にしといてくださいね」
「俺は結構高いぜ」
 リファスから離れ、エイルは扉を開けた。


作 水鏡透瀏

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