「はいはいはいはい、そこまでっ!」
 ぱんぱんと手を叩き、エルフェスの怒声が響く。
 蓄音機から針を外し、音を止めた。
「殿下、ですから、女性に任せてどうなさるのです。もう一度」
「エル姉、そろそろ休憩しようぜ」
 見かねたリファスが口を挟む。
 手を重ねたままのルシェラとサディアは小さく息を吐き、うっすらと汗ばんだ身体を離した。
「お疲れですか、殿下」
「いいえ。もう少し……」
 リファスに渡された冷たい濡布で額を抑え、ルシェラはにっこりと微笑んだ。

 広大ながら、豪奢と言うよりは重厚で簡素な屋敷に、ルシェラをはじめリファス、エルフェス、サディアは滞在していた。
 サディアの祖父の屋敷である。
 アウカ・ラダームからメルスティアまでで一日、そしてそこから更に丸二日。
 その間に、魔物の襲来はないではなかったが、往来に出る程のものはリファスやエルフェスの敵ではなかった。
 魔生成物の襲来は、なかった。追われている気配はないではなく、サディアやルシェラには感じられたが直接の手出しはなく済んだので気にしないことにしている。
 そんな併せて片道三日の旅程はルシェラの身体にはひどく負担で、到着してから一週間は床も上がらなかった。
 リファスの献身的な看護と、サディアの祖父ファナーナ候が呼び寄せてくれた高名な医者のお陰で、それ程の期間伏せっただけで済んだのは僥倖とも言うべきだろう。
 高名な医者、とは、リファスの母方の祖父である。
 王室の典医長も務める医師だった。

 それから、ひと月が経っている。
 屋敷は広く、ルシェラが悠然と暮らすには適していた。
 中の移動だけでも、ルシェラの身体を動けるように慣らして行くには十分だった。
 筋力はあからさまに足りないが、そもそも手足や神経に疾患があるわけでない。
 海辺の牢獄へ封じられるまでは僅かながら剣や体術を学んでいた事もあり、また、封じられてからも足はともあれ腹筋や背筋、腕の筋肉はよく動かしていた為に著しい衰弱とまでは言わない。
 少しずつ慣らしていく事で、ルシェラは立ち、歩き、辛うじて踊る事が出来る程度の体力を付け始めていた。
 踊る、と言っても、エルフェスが舞う程にではない。
 祝賀祭の舞踏会に出席できる程度である。それでも、ルシェラには十分な程に思えた。

 エルフェスの手解きにより、そもそも素地のあるリファスとサディアの腕はかなりの上達を見せていたが、ルシェラだけはそうもいかない。
 そもそも音感だとか、拍子を取る能力だとか、そういったものを一切持ち合わせていなかった。
 日々の生活の中で学ぶものを、ルシェラは何も知らない。
 もっと遅く悠然とした音楽ならば、外の音……波の音や木々のざわめきなどに拍子を覚えもしているだろうが、踊りに向く早さではそれも無理だった。
 それだけではなく、そもそも男女で組んで踊る事に向いていない。
 対した者に全てを任せてしまう癖がどうにも抜けず、サディアを相手にも預けてしまう。
 男女で踊る場合には、男が導かねばならない。作法として、そうなっている。

「……ルシェラ殿下。リファスと踊ってご覧になりますか?」
 板張りの床に座り休んでいるルシェラに提案する。
 首筋に布を当てながら、エルフェスを見上げた。
「リファス殿と……? しかし……」
「殿下の性別は勿論存じております。けれど、拍子をまず覚えて頂かなくては進みません。リファス、殿下の相手を」
「だからさぁ……そんなに根を詰めるなって。サディア様、お茶にしましょう。音楽なんて、聞いていれば自然に覚えるさ」
「後ひと月しかないのよ?」
 祝賀会までに何とか形を整えねばならない。
 ルシェラ程の美しさでは否が応でも人目を引かざるを得ないのだ。男としての服装をしていれば、女から声がかかる事もあるだろう。誘うのは男からが鉄則とはいえ、人が群がれば手を取る女性も出てくるかもしれない。
 尤も、この美しさの前では気後れしてしまう者が大半ではあろうが。
 ルシェラが受ける恥は、ティーアの恥であり、サディアの恥であり、ひいては国守の恥である。
 教養としての範囲の事は、出来ねばならないのだ。
 踊り手であり、神殿では後進の指導にも当たっていた身としての自尊心もあった。
 それは、ルシェラにも分かっていた。

「リファス殿と踊るのであれば、お任せしても良いのですか?」
「ええ。まずは、踊るという感覚を覚えて頂いた方が良いようですし…………覚えるべき足の運びなどは殆ど同じですから、手の置き方が変わるだけです」
「分かりました。……リファス殿、お願い致します」
 リファスに向け、手を伸ばす。
「おい……もう少し休んだ方が……」
「大丈夫です。貴方となれば。手を触れ合わせていて良いのでしょう?」
 小さく首を傾げてリファスを見詰める。
「踊るのは楽しいのですよ、これでも」
「…………分かったよ」
 手を取る。ルシェラは立ち上がった。
 それを見て、エルフェスは再び蓄音機に針を掛けた。

 向かい合い一礼をしてリファスへ手を預ける。
 見詰め合うと、ルシェラはふわりと微笑んだ。
 息遣いを感じる距離に顔を寄せ合い、足を踏み出す。
「…………あら」
「ふん」
 エルフェスは目を見張り、サディアは顔を背けた。
 何度もリファスの足を踏んでいる様子は分かるが、それでも先までとは随分と違う。
 リファスも、サディアやエルフェスを相手にした時より数段に気配りが違った。
 音感に優れたリファスとそれを信頼して全てを預けるルシェラ。
 優雅、優美、更には繊細で可憐。これが女物の裾の長い衣服であれば、足下の動きなど見えないのだからよりそう見えるだろう。
 ルシェラが音を聞いているのかどうかは分からない。
 ただ、美しい。
「相手次第、なのだろうな」
「ええ…………ルシェラ殿下には、女性をお相手となさるのは難しい事なのかも知れませんわね……」
 下ろしたままの白金髪が足を運ぶ度に翻る。眩しい。
 常に受け身に徹して生きてきた為なのだろう。
 今は華やかに淡く美しい色を放って見えるが、それは相手次第なのだ。
 自身の色は白、もしくは透明で、相手次第でどの様にもなる。
 ルシェラ自身は何かを導く様に出来ていない。それがよく分かる。
 社交界で望まれる男の姿ではなかった。

「この容貌にこの性質ではな…………」
「仕草も指の先まで大変に優美でいらして……女性でいらっしゃれば……それでも問題はないのですけれど……」
「………………むしろ、男の格好をさせる事に違和感を覚える程だな。まあ、そもそもから仕方のないことだが。今生では男だと言うだけの話なのだからな」
「……全く…………って……ええと?」
「ルシェラの性別など、本来考えるべきものではない。関わりがないのだそんなこと。今生で男だったからと言って、来世も男だとは限らない。その繰り返しだ。見ていて、どちらの性であろうと違和感があるだろう?」
「……納得致しますわ。女にしては潔すぎ、男にしては嫋やかすぎ……そういうことですのね」
 容貌にはそれ相応の自信を誇る美少女が、並んで羨望の眼差しを向ける。
 視線の先には全く気付きもせず、楽しげに相手に全てを委ねて踊る美貌の、男。
 溜息を吐くのも同時に、サディアとエルフェスは床に座った。
「止めていいかしら、音」
「そうしてくれ。ルシェラがそれなりに踊れなくもない事は分かった」
「ええ」
 手を伸ばし、蓄音機を止める。
 この蓄音機というのは、音が空気の振動である事を利用し、魔法玉のかけらである風輝石に一定の音を記憶させ、順を追って針で辿らせて音を発するものである。
 花が開いた様な形の拡音器を持ち発する音を大きくする。
 記憶を持つ風輝石は音輝石と名称を変え、主に音楽や朗読などを記憶させて街で売買されていた。
 楽士の抱えもある家ではあるが、練習に幾度も繰り返すならば、この方が適している。
 こうして、直ぐ様止める自由も利いた。

「結構ですわ、殿下。少し休憩に致しましょう」
「如何でしたか」
 ふらりとしたところをリファスに抱き留められ、床にそっと座らせられる。
 首筋を濡布で冷やし、手渡された冷たい飲み物に微かに口を付ける。
「この方が性に合っていらっしゃる様に思います。少し楽ではありませんでしたか?」
「少しどころではなく、動きやすく思いましたけれど……」
「それはようございました。けれど……この様をお望みでしたら、殿下にはわたくしやサディア殿下の様な服装をして頂くことになってしまいます」
「貴女方の様な……それは、わたくしに女性の格好をしろ、と言うことですか」
 眉が顰められる。不機嫌、不愉快ではなく、不可解と言いたげだ。
「そうなりますわね。非礼は十分に承知しております」
「服装が内面までを決めるとは申しませんが…………それ程に異なるのですか?」
 困惑を隠せない。
 サディアは別として、乳母の記憶と正妃の記憶、それからエリーゼと、エルフェス。
 女性に接した機会などたったのそれだけで、性差など、体型や声音の他にはよく分からない。
 自分の求めるものが彼女達に近づくことではない事だけは、ルシェラにも分かっていた。。
 ただ、嫋やかな事、優美である事を褒めそやされこそすれど、男らしさに繋がる様な……精悍さや強さなどを言われた事など一度もない。
 ダグヌですら……王子として仕込まなくてはならなかったのであろうに、母が持ち得ていた女性らしい柔らかな美しさを求めていた様に思う。
 ルシェラ自身は自分の弱々しさを厭い、リファスの様な男らしい精悍な風貌に憧れてはいるが、そうなりたいと熱望したところで叶いそうには思わない。
 どうすればいいのか分からず、ルシェラは縋る様にリファスを見た。

 リファスは答えられずに困って小さく首を捻る。
 言われてみれば、性別を頭で理解はしていても、意識した事などなかった。
 このふた月あまりを反芻してみても、ルシェラを男友達と同等に扱った記憶などない。
 病身である事を差し引いても、深窓の姫君に接する様であった気がする。
「……ごめん、ルシェラ」
「何のお話ですか?」
「俺も……お前をあんまり男扱いしてなかったなって……」
「……分かりません。貴方の振る舞いは、他のどなたとも変わりませんし、わたくしはその様に暮らして参りましたから……」
 だから、余計に困るのだ。ルシェラの理解の範囲を超えている。
 女性に対する振る舞いは学んだが、自身がどう振る舞うべきか、作法の他には何も学んでいない。
 節度と気品、背筋を伸ばして、悠然と振る舞う事、その事が性差によって具体的にどの様になるべきなのか分からない。
「普段の作法はともあれ、舞踏になりますと……どうも、意識が、お相手の方に預けるという風になっていらっしゃる様に思いますから……殿下のお姿でしたら、男物より女物の方がお似合いの様に思いますし」
「そう……ですか……」
 エルフェスの言葉を素直に受け取る事しか出来ない。ルシェラは未だ、自分の姿を殆ど認識していなかった。
 リファスの世話を受けていても、相変わらず鏡を見る機会少ないし、目の前にしても視力が良くはない為に浮かぶ姿が朧気で、よく分からない。
 ルシェラに分かるのは、自分が母に似ている事、母が美しかった事、自身の身体が細く頼りない事、髪がとても薄い色である事、それだけだ。

「サディアも、同じ様にお考えですか?」
「その方が、祝賀の席で浮かないとは思うが……」
 セファンの姿が脳裏を過ぎる。
 幼い頃に幾度か会った記憶、そして、まだ十代や二十代と若々しい以前の記憶。
 そのどれもがただひたすらに兄を想うばかりで、兄以外のルシェラの、僅かな差違さえ許せない様子だった。
 国王としての立場は弁え、現在妻も子もなしてはいるが、根本の性癖が変わっているとも思えない。女にさしたる興味はあるまい。
 セファンは、その格好をよしとはしないだろう。
「私としてはその方が望ましいと思うが……セファン殿は望むまいな」
 ルシェラの困惑と考えを察して肩を竦めるサディアに対し、リファスはルシェラを抱き寄せる。
「広間に入った瞬間に、みんなに顔が知れる……ルシェラの顔は、お母さんにそっくりなんでしょう? 王女様だった、お母さんに…………大人の人達の中には、知ってる人も多いんじゃないですか? それなら…………それなら、初めから、王子として連れて行ってやりたい……」
 薄く汗ばんだ額に口付ける。動いたばかりで血色がいい事が嬉しい。
「お前は、どうしたい?」
「よく分からないのですが……陛下がお望みになる様に」
「陛下じゃなくて、お前がしたい事を聞いてるんだ」
「ですから、陛下がお望みになる様に振る舞いたいのです」
 埒があかない。
 目覚めた自我は、それでも是が非でもセファンから離れない。
 十年を掛けた仕込みは、伊達ではなかった。
 さりとて、無理に言い合ったところでルシェラは引き下がるまい。
 親を信じ頼ろうとするのは子供の性だ。自我が確立し自立心が起これば親離れもしようが、ルシェラは精神的な成熟を迎えられないでいる。
「……父上が、何をどうお望みになっているのか、わたくしには分かりません。けれどお許しを請う立場で、父上のご意志に反する事など、出来ないでしょう?」
「……ああ…………」
 父に関してはその一事に縋るしかないルシェラに対して、何も言えない。
 リファスはただルシェラに触れる腕を強くした。

「まったく……困ったものだ」
「試しにどちらもお召しになってはいがですか? 私も一度拝見してみたく思いますし」
 豪奢な衣装を着け、髪を結い上げて化粧を施したルシェラの美しさは如何ばかりになろう。
 想像もつかない。興味をそそられる。
「比べて、着心地の良いものをお召しになればよいと思いますわ。如何でしょうか」
「しかし…………わたくしには衣類の持ち合わせもございませんし……」
「どのみち、これからお仕立てになるのですもの。リファスのものと、僭越ではございますが私のものなど、試しに如何です?」
「姉貴…………見たいだけだろ」
 きらきらと期待に満ちて見詰めるエルフェスから守る様にルシェラを庇い、リファスは呆れて咎める。
 エルフェスはふいと目を反らせた。
「え?…………で、殿下はいつも部屋着と寝間着ばかりでいらっしゃるから……できるなら、お早めにお慣れ頂くのも必要だと思うだけよ」
「お気遣い、有り難く思います」
「誤魔化されんなよ、ルシェラ。お前は、れっきとした男なんだからな」
「ええ、それは…………分かっているつもりですけれど…………男も女も、わたくしには…………理解できない…………」
 小さく首を傾げ、柳眉を寄せる。
 多くの王侯貴族の令嬢を知っているサディアも、これ程美しく優美で嫋やかな姿を見た事などない。
 三千年の、そのまた前の記憶まで手繰ってもやはりルシェラを凌ぐものはなかった。

「潜り込むのだと考えれば……ルシェラが女装して行くのは適当だと思うが。基本的には舞踏会へは男女一対で行くものだ。女装となれば、リファスよりルシェラの方がより適当だろう?」
 黙って見守っていたサディアが口を開く。
「俺と姉貴で、ルシェラとサディア様なら」
「私が行けるものか。私は祝賀や舞踏会には上がらず、従者か何かに扮して潜り込む。目的を忘れるな」
 ちらり睨む。リファスは首を竦めた。
「じゃあ」
「お前とルシェラしかないだろう。エルフェス殿は、祖父とご一緒して頂きたい」
「ファナーナ候と私が?」
「祖母は亡くなって久しいし、親しくしている女性はいない。エルフェス殿であれば、祖父と共であっても怪しまれる事はなかろう」
「それは……そうでしょうけれど……」
 否定はしない。巫女として神に仕える身ながら、その舞姿に魅せられた幾人もの貴族達に求められ続けてきた。それに応じた事はなくとも、相応の自信はある。
 美しさ……殊に艶やかさで右に出るものはそう居ないだろう。
「お前にも似合うだろうがな、リファス。しかし、男装のルシェラの隣の女装では、その美しさが霞む」
 ふん、と鼻であしらわれ、リファスは不愉快そうに眉を顰める。
 不愉快なのこっちの方だ、と言いたくなるのを、サディアもエルフェスもぐっと堪えた。
 ルシェラ一人ならばまだ諦めもつく。
 だが、リファスも十分に二人の上をいく顔立ちだ。
 似ている分余計にエルフェスの苛立ちは半端なものではない。

「お前の目的と私の目的は違う。私の目的の為には、出来る限りの客や周りの警備兵達を、引きつけておいて貰いたいのだ」
「…………わたくしが陛下にお許しを請いたいのは、わたくし一人の事ですし、このただ今の状態からして危急に命に関わる程の事でもございません。貴女のご兄弟、ご姉妹には、大変に差し迫る事でしょうから、わたくしに出来る限りの事はしたいと思うのです」
「……済まない」
 サディアは軽く頭を下げる。
 ルシェラは微笑んだ。自分が他人に何かをしてあげられる、その事が堪らなく嬉しい。
「いいえ。では、わたくしは、女性のふりをして参れば宜しいのですね。父上にお会いするときには、また着替えればよいだけのことでもありましょうし。しかし……どの様に振る舞えばよいのかも、わたくしに分からないのですけれど……」
「そのままでいい。取り繕う必要もない。ただ、男である事を主張しなければよいだけの事だ。お前はそのままで、この上なく嫋やかで気品に満ちた美姫だから」
「そう……なのですか……?」
 「姫」という言葉に困惑し、リファスを振り返る。
 リファスは更に困り尽くした表情でルシェラを見詰めた。
「それだけ……美しいって事だ。気にするなよ」
「…………はい……」
「決まりだな。どのみち近いうちに仕立屋を呼ぶ。リファスやエルフェス殿の着物も必要だろうから」
「ルシェラのは……俺が縫います」
「仕立屋に触れさせるのも厭か?」
 サディアは呆れた様にリファスを見遣る。
 それに対し、リファスは真摯だった。
 サディアは目を細めた。
「俺の方が、よりルシェラに適当な服を作ってやれる」
「お前の腕は疑っていない。ルシェラもその方が安心だろう。布も取り寄せになる。その間に考えておくがいい」
「はい」
 美しさだけではなく、動きやすさや着脱の簡便性などまで関わってくる。布も軽く柔らかなものでなくてはならず、また吸湿性なども求められる。
 任せておけぬのも道理だった。
「お前の美しさを、最大に見せられるのは、多分俺だけだから」
「お任せ致します」
「……ルシェラの美しさをそのままに表したのでは、どんな虫が付くか分からんぞ」
 サディアの一言に、リファスはあからさまに驚き慌てた。
「お、俺がずっと付いてるから!」
 ぎゅっと更に強く抱き締められ、ルシェラは嬉しげに目を細める。
 痛い程の腕の力が、ただ嬉しい。
「わたくしは、貴方に全てをお任せ致します。貴方が良いと思う様に、わたくしをお導き下さい」
 リファスやサディアの危惧は、ルシェラには分からない。
 ただ何も分かっていない顔で静かに微笑む。
 リファスが触れてくれるだけで嬉しい。その心が優しく、力強く、自分を思ってくれているのだと感じることも、嬉しくて仕方のないことだった。
「本当に……熱いわ……」
 エルフェスは見ていられず窓に近寄り、透かし編みの窓かけはそのままに窓を開ける。
 ある程度の空調は効いているものの、空気が動いた方がもう少し涼しくなる。
「姉上様、その、お衣装をお借りできますか? リファス殿が仕立てて下さるまでに、慣れなくてなりません」
「畏まりました。すぐにお持ち致しますわ」
 サディアもエルフェスも畏まった支度を見せはしないが、女物の大体の形は分かっている。
 自分の身長からして、サディアのものは着られまい。

「少し大きいと思いますけれど、ご勘弁下さいませね」
「いいえ。こちらこそ、無理を申します」
 すぐに用意された服を受け取り、リファスと共に隣室へ消える。
 まさかに、うら若き乙女二人の前で着替えられはせまい。
 かといって、一人で着替えは出来ないのがルシェラである。
 リファスの手を借りて着付けて貰う。
「うーん…………綺麗なんだけど……寂しいよな、やっぱり」
「何か……至らぬ事がありますでしょうか……」
「違うって。服が悪いんだ。えっと……こうしてみるか」
 先程までルシェラが来ていた服の上だけを丸め、胸元に詰め込んでみる。
「うん。よしっ」
「あ……あの……」
「俺が作るのは、こんなの要らない様にするから」
 多少歪ながら、余りに余っていた胸が張って見える。
 所在なさげに立ち尽くすルシェラを頭の先から爪先までじっくり眺め、リファスしみじみと溜息を吐いた。
「…………ホントに、もの凄い美少女の出来上がりだな……」
「不本意な仰有り様なのですけれど……」
「ごめんごめん。目的の為には十分って事だ」
 手を引き、一度回らせる。
 裾がひらり、翻る。
 立ち居振る舞いの全てが優美だ。
「サディア様達に見せる?」
「女性の視点でご確認頂きたい様にも思いますけれど……」
「誰にも見せたくないな。よく似合ってるから」
 軽く抱き寄せて額に口付ける。ルシェラは目を細めて微笑んだ。
「誰にも見せないなら、舞踏会へも行けませんよ」
「…………本当は行かせたくない」
「そういうわけにも参りませんでしょう?」
「……分かってるよ」
 頬を合わせる。
 少し接触過多にも見えるが、ルシェラがそう望んでいるからだ。
 互いの体温が心地良い。まだ熱が去らずに火照っている筈が、それさえ優しく互いを包んでくれている様だった。
「暑くないか?」
「いいえ。心地良い……」
 擦り寄る。ルシェラは仔猫の様な仕草でリファスに甘えた。
 ルシェラの仕草の全てに、リファスは翻弄されて止まない。
 それは当然だろう。ルシェラ自身は無意識だが、これまでの躾が全て男を誘う様に育てられている。とてもリファスの様な純朴な少年に対処できるものではない。
 撓やかな腕が身体に絡みつき、鼓動が跳ね上がる。
 リファスは真っ赤になりながら、ルシェラのなすに任せる。
「口付けて下さい」
「……サディア様達が待ってる」
「では、早く」
 目を閉ざされる。
 リファスはその頬に、軽く唇で触れた。
「行こう」
「…………はい」
 ルシェラは僅かに不満げな表情をしたが、それ以上の我が儘は言わずに少女達の待つ広間の方へ戻ることにした。


作 水鏡透瀏

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