茶会が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
 グイタディバイドはティーアの様子見と、出来れば王宮への顔出しを約束して帰路につく。
 サディアは見送りに出たが、ルシェラとリファスは部屋へ残る。
 気を利かせたエルフェスも台車を片付けに出て行き、部屋には二人きりになった。

 長く息を吐き、ルシェラは緩慢にリファスへと視線を投げる。
 その澄んだ瞳に、リファスは怯んだ。
 それでも、腕を伸ばされると受け止めざるを得ない。
「リファス殿」
 声音が甘い。
 苦笑して、額に口付けた。
「今は、何方もおりません」
「そうだな……」
 間近に迫る唇に、ルシェラは自ら口付ける。
「ん……っ……」
 茶の香気と菓子の甘みが残っている。ルシェラは目を細めた。
 ルシェラに与えられたのは温めた牛乳が少しだけで、茶は周りの人間の香りだけしか楽しんでいない。リファスの唾液に混じって自分の口の中へ味わいが移ってくるのが嬉しかった。
 舌を絡め、吸う。リファスの息が熱く解けるまで存分に楽しむ。
「は……ぁふ……」
 唇が僅かに離れた間に空気を貪る。その吸気にさえ故の分からない苛立ちを覚えて、ルシェラはより一層深くリファスの口内を犯した。
 さり気なくリファスの内腿へと手を置き、誘う。
 リファスの腰が引けたのが分かった。

「…………申し訳ありません……」
 このまま貪ってしまいたい衝動を堪え、ルシェラは僅かに離れた。
 深い口接故に、細く唾液の糸が引く。
 舌先でその繋がりを軽く舐め取り、リファスから手を離した。
「…………まだ…………落ち着きませんか」
「ごめん。……そういう事じゃ、ないんだ」
 親指の腹でルシェラの唇を拭ってやる。
 不安げに見詰められて、リファスは困った様に微笑むしかなかった。
「貴方が大変……辛い思いをなさっていることは感じました。サディア達の様子からして、それは、わたくしに起因していることなのでしょう? 本当に、申し訳なく……」
「違うよ。お前は悪くない。俺が嫉妬深いだけなんだ。……ホント、厭になる……」
 ルシェラを抱き上げて寝台へ運び、そっと掛布を掛けてやる。布巾で口元をもう少し綺麗に拭い、顔に掛かる髪を払って頬に触れた。
「リファス殿……わたくしは、よく分からないことが多くて……望まないにも関わらず、貴方を傷つけていることが多くあるのだと思います。どうか……お心に溜めることなく、仰有って下さい」
 リファスの手を取り、指先に口付ける。
 誘う様に舌で掬い取られ、リファスは思わずルシェラを振り払った。
「っ……申し訳ありません……」
「ご、ごめ……っ…………」
 指先が痺れている様な気がした。思わず胸に押しつける。
 ルシェラの顔が強張ったが、もう遅い。
「ごめん、ルシェラ……夕食の用意、して貰ってくるから」
「や……っ、厭です。行かないで!」
 離れる前にリファスの腕を捉え掴む。強く引くと、リファスは踏ん張りきれずルシェラの上へと倒れた。
 ルシェラの腕力は、強い。
「ルシェラ!」
「……行かないで下さい」
 抱き締める様に腕を回す。
「行かないで…………」
「駄目だよ。ルシェラ。お前に必要なのは俺じゃない」
「どうして……そんな…………」
「お前には、親が必要なんだろ? それは、俺じゃないんだから。俺には……お前の親にはなってやれない。ただ抱き締めてやるだけのことも、出来ない。こんな腕じゃまだ……お前が望むだけ抱き締めてやることだって出来ないんだ」
 出来るだけ口調を抑えるものの、どうしても声が震える。自分では何もしてやれないのだ。それが、どうしようもなく悔しい。
「馬鹿な…………」
「グイタディバイド様みたいな大人になったら……お前をきっと抱き締めてやれるんだろうけど……」
 せめて、後十年。しかし、ルシェラにそれだけの時はない。
「貴方に手点グイタディバイド殿と同じ役割など、求めておりません」
「じゃあ、尚更俺にしてやれることなんてないじゃないか!」
「何故その様に思われるのですか!? わたくしはっ………………わたくしは…………」
 齟齬が、重い。
 分かり合えたと信じていた。愛しあえたと。
 ルシェラの眦に涙が滲む。しかし口に出さねば分からぬと、先に言ったのは自分だ。浅く息を吐く。
「……貴方は、思い違いをしている……」
「……何を」
「貴方と、グイタディバイド殿や父上を、秤に掛けたつもりはございません」
 自分がセファンやグイタディバイドに望んでいることと、リファスに望むことは違う様に感じている。
 それをどの様に伝えれば分かって貰えるのか分からずもどかしい。
 ただ、腕の力を強める。

「わたくしには、ものの区別があまりつかない……ですから、貴方にご理解頂ける様に説明することは出来ません。ただ……貴方と接していて、感じるのです。貴方は、父上とも、グイタディバイド殿の様な方々とも違う。…………ただ抱き締められたいのではなく、触れて欲しいと……そう思うのは、貴方一人。深く口付けられたいと……生肌に……身体の奥底に、触れて欲しいと願うのは、ただ、貴方だけです」
 思うままに言葉を尽くす。
「……これまで、堪えてきていました。行為に対する嫌悪は感じても、望まざるを得なかった。そうしなくてはならないのだと教えられていましたし、少しでも楽になれるのは確かでしたから。父上が触れて下さるのも、勿論、側にいて下さるのはとても嬉しかったけれど…………抱かれるのは何かが違うとずっと考えてきました。でも、貴方だけは、違う」
 ルシェラには明確な区別などないが、それでも、父親に求めているものとリファスに求めているものは違うと感じる。
 それをどの様に伝えればよいのか分からない。
 これ以上どう言えばいいのか分からず、涙を湛えた瞳でリファスを見詰めた。
「ルシェラ……でも、今お前が何より望んでいるのは、ただ……しっかりした大人に抱き締められて、甘えさせて貰って……そういうものだろ?」
「……それは……それも、勿論求めてしまう。欲深いことだとは思いますが……」
 セファンと、リファスとでは、与えて欲しいものが違う様に思う。
 温もりであることに違いはないが、上手く言葉で言い表せられない所で差違を感じていた。
「確かに、どちらも選べるものではない。そのことは大変申し訳なく思いますし、貴方がそれを認められないと仰有るなら、仕方のないことだとも分かっています」
「お前が謝る様なことは何もない。俺が、悪いんだ。変な嫉妬して」
「……少なくとも、わたくしは貴方を傷つけているではありませんか」
「お前の所為じゃないよ」
「ですが」
 リファスは指の背で軽くルシェラの頬を撫で、腕をそっと解いた。
 肩を押し、横たえさせて掛布を掛け直す。
「……ルシェラ。無理しなくていいんだ。俺は、お前に必要なものを、全部用意してやるから」
「……どうして、分かって下さらないのですか?」
「分かってるさ! 俺じゃあ、お前に、他に何もしてやれないんだから」
 ルシェラはぐっと眉根を寄せ、精一杯の気迫でリファスを睨んだ。
「……どうして、そう断じられるのですか? わたくし自身にも、分からないことだというのに……」
「見ていれば分かる。お前が一番望んでいるものくらい」
「一番…………それは、求めても貴方が下さらないものです。父上は関係ない」
 リファスの思い込みをどう正せばいいのか分からない。困惑する。
「…………わたくしは、そう……誤解を招く態度を取っておりましたでしょうか」
「今言ったばかりだろ。お前は、自分でも分かってないんだ。だから……」
「貴方がそう仰るなら、そうなのでしょう。けれど、それなら……今こうして貴方に触れたい。貴方に触れて欲しい。奥底まで……そう……望んでいるわたくしとは、何なのです」
 もう一度手を伸ばす。リファスは二歩程離れ、逃れた。
 ルシェラの顔が強張る。
 力なく手が落ちた。
「……すみません…………言葉が過ぎました。貴方が、そういったことをお好みではないと、分かっておりますのに……」
 どれだけ誘ってもリファスは乗ってこない。分かっていても、今のルシェラに求められるのはだリファスのことだけだ。
 緩く首を振り、リファスから顔を反らせる。
 我が儘を言って嫌われるのが怖い。
「…………側にいて下さっても…………これでは…………」
 口付けでは足りない。手を触れ合わせるだけでも足りない。
 欲しいのは、もっと根源的な熱だ。
 零れ落ちそうになる涙を堪え、目を閉じた。
「ああ。……側にいない方がいいんだ、多分、俺は」
「…………貴方が、そう仰せなら…………っ」
 抑えきれない嗚咽が喉を鳴らした。
 リファスはそれを聞きながらも背を向ける。そして、逃げる様に走って部屋を出ていた。
 扉の閉まる音にルシェラは愕然とする。
 部屋が、酷く寒く感じられた。

 勢いよく扉が開閉した音は、思いの外よく響いていた。
 近くに部屋を与えられているエルフェスは廊下へ顔を覗かせる。
 途端に駆け抜けていく弟の姿を見たが、止める間もなかった。
 弟を追うより先に、ルシェラの部屋へと駆けつける。
「殿下! ルシェラ殿下!!」
 扉を叩いても返事はない。
 不敬を知りながらも答えを待たずに扉を開ける。
 ルシェラは寝台に伏し、枕へ顔を埋めて肩を震わせていた。

「……殿下?」
 側に近寄っても、ルシェラは動かない。
 泣いている様子だった。
「リファスが、何か致しましたか」
 首が横に振られる。
「どうぞ、お顔を」
「姐上様!」
 振り返るや、エルフェスへ腕を伸ばす。あっさりと抱き止め、エルフェスはルシェラの背をゆっくりと撫でた。身体が震えている。
「どうなさったのですか?」
「…………何も…………わたくしが、何も分からないばかりに、リファス殿を傷つけてばかりで……」
「申し訳ありませんわ。あの子もまだ……昼の今では、整理のつかないこともあるんでしょう」
「わたくしは…………っ…………」
「お話しして下さいますか?」
 繰り返し背中を撫でていると震えが落ち着いてくるのが分かる。
 しかし、ルシェラは否定に首を振った。
「リファスが、配慮の足らないことを申し上げたのでしょう?」
「……いいえ。リファス殿は、何よりわたくしのことを一番に考えて下さいます。ただ…………」
「ただ?」
「リファス殿の仰有ることが、わたくしにはよく分からなくて……それで、あの方を傷つけている様に思うのです。わたくしの申し上げることも、リファス殿にはご理解頂けない様で、ますます……困ってしまって」
「どの様なお話です? 私がお伺いしても宜しいかしら」
 背と髪を優しく撫で続けてやる。
 次第に落ち着きを取り戻したルシェラはそっと顔を上げた。
 涙に暮れる顔でエルフェスを見詰める。
 本当によく似ている。エルフェスの暖かみのある黒瞳にリファスを重ね、ルシェラは落ち着いていく自分を感じる。
 浅い息を吐いて、もう一度エルフェスを見詰めた。

「……わたくしは、父上と、リファス殿とを……重ね合わせ、同じ様なものを求めている様に、思えますか?」
「お父君様と、リファスとを?」
「……リファス殿はその様に仰有います。けれど、わたくしは……確かに、父上に抱き締められたい、額や頬に口付けて欲しい、そう……切に願います。けれど…………唇を重ねたいとは思わない。身体の奥底まで触れて欲しいとは思わない。父上に対して、そういった思いを抱いてはいない。そう思っております。リファス殿は、違う。口付けたい、口付けられたい……身体の奥底まで触れて、リファス殿の印をこの身体に刻み込んで欲しい。………………一番に、わたくしはそれを願っているのに、リファス殿は理解して下さいません。わたくしの一番を考えて下さると仰有って下さったのに……」
 抱き返してくる手指が儚い。
 エルフェスは更に、繰り返し背を撫でた。
 本当に馬鹿な弟だ。早合点をして、決めつけて……ルシェラの思いが一番だと分かっている筈なのに。
「……リファス殿が、誰よりわたくしのことを想い、考えて下さっているのは、分かることです。ただ……どう申し上げれば、ご理解頂けるのか分からなくて……」
「あの子の頭が硬いのが問題なのですわ。……わたくしにお任せ頂けますか? リファスの目を覚まして参ります」
 優しさが空回りしているのだ。頑固であるばかりに。それから、リファスの中に強烈な劣等感がある為に。
 姉であるエルフェスには、何となく分かっていた。

 様々な天賦の才に溢れながらも、リファスは自身に全く自信が持てない質だった。
 学院時代にずっと虐めに遭っていたのが原因だろうと、身内には分かる。
 家族の愛情は信じられても、血の繋がりを伴わない愛情を何処か信じられないのだろう。
 ルシェラも、それは分かっていない。父親に抱かれたという話は、結局エルフェスも聞かされていた。
 家族に対する愛情と、恋愛の感情との区別が付いていない二人が愛し合おうとしている。そこに齟齬が生まれるのは仕方のない話なのだろう。

「殿下も、リファスも、言葉ではなく必要な経験が足りないのですわ。均衡が取れていない。暫くお一人でお待ち下さい。私から、リファスに話して参りますから」
「ですが……」
「どちらも、悪くなんてありませんわ。殿下がお気に病まれることはありませんし、それはリファスも同じ事なのです。ただ、それを分かるだけの経験がないだけ。ご心配なさらなくても、そのうち分かる様になりますわ」
「姉上様」
 不安げなルシェラの頭をそっと撫でる。
 姉だと呼んでくれる。他に呼びかける方法は幾らでもあるだろうに、そう。
 リファスと家族のつもりでいるのだ。リファスの伴侶だと無意識の自覚があるのだろうと思う。
「……そう私にお呼びかけ下さるのですもの。聡明な殿下でいらっしゃれば、直ぐにご理解頂けると思います。リファスとお父上が違うことは、分かっておいでなのでしょう?」
 はっきりと頷く。エルフェスは艶麗な笑みを浮かべた。
「それが分かっていれば十分ですわ。お父上様とリファスは違うものです。好き、愛している、そう仰っても、それに幾つも種類があるのです。感じ方は人それぞれですから、そこでずれてしまっているのですわ」
 柔らかくふくよかな胸に顔を埋めるが、エルフェスは不快にも思わない。ルシェラからは男の匂いが全くしなかった。
 ただ優しく撫でる。
 この華奢で可哀想な存在の家族になって甘えさせて上げられるのなら、性別など曖昧でもいいと思える。幾ら弟に対して乱暴に振る舞っていても、それくらいの母性はあった。
「さ、お起きになっていらしたいのなら、お椅子の方へお連れしますけど」
「…………いいえ。……ここで……」
「少しだけ、ご辛抱下さいね」
「はい。……姉上様に、お任せ致します」
 そっと額に口付けて寝台へ戻す。ルシェラも随分落ち着いていた。
 ルシェラがいかに男らしくないと言っても、女の柔らかさや温かみに対する憧憬は、人並みに持っている。
 母もなく、乳母も幼い頃になくして後はずっと男達に囲まれてきていた為に、むしろ常人より強い憧れを抱いていると言っても過言ではなかった。
 優しいいい香りと柔らかな身体がルシェラに落ち着きを齎す。
 そっと髪を撫でて、エルフェスは穏やかな表情でルシェラを見る。ルシェラも微笑み返した。
 弟の伴侶なら、彼もまた弟だ。
「直ぐに戻りますから。その間にサディア殿下もお戻りになるかも知れませんわ」
「はい。……姉上様……」
「リファスも、ちゃんと……殿下が望んでいらっしゃる様にも殿下のことを想っておりますのよ」
「…………はい…………」
 繰り返し頭を撫でられ、ルシェラは小さく首を竦めた。
 息を吐き、目を閉じる。
「お待ちしています。……お願い致します……」
「ええ。お任せを」

 リファスは部屋へ戻っていない。通り抜けて走っていく姿を見た。
 姉の勘で外へ出てみた。
 屋敷に近い辺りは広く開けた庭になっていて大きな噴水がある。
 その縁へリファスは膝を抱えて座っていた。
 月明かりが水飛沫に当たってきらきらと発光している様だ。
「リファス!」
 甲高い声に弾かれて顔を上げる。
 姉の姿を認めて、リファスはもう一度俯いた。
「殿下が待ってるわよ」
「ああ…………」
「いい加減にしなさいよ!」
「説教しに来たんなら部屋に帰れよ」
「殿下にあんたを連れて戻るって言ったの」
「俺は……駄目だ」
「馬鹿言わないで!」
 振り上げ、勢いよく振り下ろそうとした手首を掴まれ、エルフェスは悔しげに唇を噛んだ。
 力は、幼い頃はともかくも今となっては弟の方がずっと強い。
「リファス。あんた本当に馬鹿なの?」
「仕方ないだろ! 俺はまだ子供で、ルシェラが本当に必要としているものなんて、何も与えてやれなくて!!」
「だから馬鹿だって言ってるのよ!! 手を離しなさい!」
 強く睨み付ける。
 リファスは苦々しく舌打ちをし姉の手首を振り捨てた。
「あんたにないものを、殿下だってあんたに求めてなんて居ないわ。全部が全部あんた一人でどうにか出来るなんて、思ってないでしょうね。どれだけ思い上がってるって言うのよ」
「俺はただ、」
 鼻先に指を突き付ける。リファスは口を噤んだ。
「あんたは、恋人なの。父親でも母親でも兄でも姉でもなく、恋人! 分かってないでしょ」
 鼻の頭を弾く。不愉快げに眉を顰めたが、リファスには反論の言葉がなかった。
「誰かあんたに父親役をやれって頼んだ? あんたが勝手に思い込んでるだけでしょ!?」
「だけど、それじゃあ俺は、ルシェラの一番になれない!」
「はぁ!? あんた、本っっ当に、馬鹿なの?」
 人差し指で思い切り額を突く。反動でリファスは身体を反らせた。
 起き上がろうとする所へ追い打ちを掛ける。
「それが思い上がりでなくて何なのよ! あんたには恋人としての役割ってモノがあるでしょ。それが出来てもいないのに、それ以上のことをしようとなんてしないで!」
「でも!」
「でもじゃないわ! あんたは何? 父親? 父親で、いいって言うの? 家族は誰よりも濃い繋がりがあるけど、そのうち別れるのよ? 結婚だとか、独り立ちだとかで。あんたは、その次の存在なの。父親になろうとしたって無駄だし、あんたがそうする必要なんてないのよ。そんなことも分からないあんたじゃないのに、何で殿下のことになるとそうなっちゃうのよ!」
「うわっ!」
 思い切り突かれてとうとう均衡を崩す。
 勢いよく水飛沫が上がった。
 リファスは噴水の中に尻をつき、頭から水を被る。
 呆然として、エルフェスを睨むことも忘れていた。
 反射神経の良いエルフェスは直ぐに避けて無事だ。

「少しは頭冷えた?」
 腰に手を当てて、女帝さながらの様子で弟を見下ろす。
 軽く頭を振って水を払い、リファスは姉を見上げた。
「考えてご覧なさいよ。あたしはお父さんのこと好きだし愛してるけど、そのうちに好きな人が出来たらお嫁に行くわ。そういうことだって、分かるでしょ? 父親役なんて、大人に任せておけばいいじゃない」
「ああ…………」
 水の中に手を付いて空を見上げる。
 月が輝いていた。
 青白い光がリファスの苛立ちを掻き消していく。
「……月になら…………任せられるか…………」
 光に抱かれている気がして、リファスは身体を丸めた。
 月の光は優しい。リファスにも、ルシェラにとっても。
「待てない訳じゃないでしょ。殿下の中で決着が着くまで。今のままじゃ親離れだってできないもの。その為に動こうとしてるのに、あんたの所為で滅茶苦茶よ」
 噴水の縁に足をかけ、頬杖を付く。
 リファスは漸く立ち上がる気になって、軽く縁へと手を掛けた。
「待ってて、布取ってくるわ。その格好で中には入れないでしょ」
「うん…………ごめん」
「殿下の所へ行けるわね?」
「ああ…………」
 もう一度月を見上げる。上弦の月の光は優しかった。

「リファス!」
 濡れた身体を乾かしてルシェラの部屋へ行くと、満面の笑みで迎えられる。
 胸を鷲掴みにされた気がして足が竦んだが、直ぐに背を押されて踏鞴を踏み一歩を踏み出してしまう。
 背を押したエルフェスは直ぐさま扉を閉めてしまった。
 閉まった扉を睨むが、もう遅い。
「ルシェラ……ごめん」
「今日は、月が美しいですね。よく見える」
「ああ。……少し出てみるか?」
「はい」
 雲の多かった昼間に比べ、夜空は晴れている。
 意を決してルシェラへ近寄り、リファスは掛布ごとルシェラを抱き上げ窓辺に移した。
 窓の外は広い露台になっていて、庭や空がよく見えた。

「……ホントに、ごめん。姉貴に怒られて……ちょっと落ち着いた」
 ルシェラを支え、露台の縁に寄りかからせてやる。
 ルシェラはそれよりリファスに身体を預ける様にして立った。
 肩に頭を乗せ、そっとリファスを見上げる。
「構いません。……わたくしは、貴方を愛しています。それは、父上に対する思いとは違う。別の、でも、言葉にすると同じになってしまう、そういう想いです。それを……いつかご理解いただければ」
 間近にある額に唇を押し当て、リファスは苦しげに呟く。
「分かってるんだ。だけど…………何から何まで、自分のものにしてしまわないと、気が済まなくて…………醜い独占欲だって、分かってるけど……」
「わたくしだって……醜い想いです。貴方を束縛することしかできない」
「お互いに、縛られるか?」
「貴方がそうしてわたくしだけを求めて下さるなら、どれ程嬉しく思うことでしょう」
「……俺だって…………だけど、お前は」
「父上に愛されたかったのは確かです。けれど、貴方とは違うと…………」
「ああ…………」
 苦渋に満ちたと息を洩らす唇に、ルシェラはそっと口付けた。
 リファスの苦しみをそうすることで吸い取ってしまえればいいと切に願う。
「わたくしが愛するのは、貴方だけ…………」
 セファンには愛されたい。しかし、リファスのことは、愛したかった。
 その明確な違いなど今のルシェラには知る由もないが、そう表現することしかできない。
「俺だって…………俺が愛しているのも、お前だけだ……月に誓った通りに」
「ええ。…………月に護られた誓いなれば……私達の心の闇路も、照らして下さいますでしょう」
 柔らかな笑みが唇に刻まれる。
 リファスは堪らなくなって勢いよく口付けた。
 ルシェラの手が背に回され、軽く掴む。
 絡み合う舌と吐息さえも月の光に解けていく様だった。


作 水鏡透瀏

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