■□ 裏切り □■
― 2:美しいひと ―
ヴァイパー、ロクス
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エピローグ
あとがき
intermezzo:sotto voce 1
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アンケート(別窓):
ヴァイパーED後話はあり?なし?
次に攻略してほしいセヴン
今日は、体が重い。わずかではあったが喀血もあった。
ただ大きいだけのベッドとその脇のチェストの下に無造作に乱雑に放置してある血がにじみ薄汚れたサラシたち、薄い羽衣と卓の上に散らばるターコイズブルーのカード、それ以外の場所はただ殺風景で調度らしきものはない。
それがヴァイパー――――クラレンス=ランゲラックに与えられた彼の私室のすべて。明かりはあるけれど暗くならない限りともされることはあまりない。
卓の上でカードを抱くように包んでいる羽衣はとても繊細で、晴れた空色の湖水をそのまま切り出したような透明さに、切れ目のない幾何学模様を銀の糸で描き出してある。誰が語るまでもなくそれは女性が羽織っていたと言うことをあらわしているけれど、クラレンスはベッドに横たわったまま黙ってそれを愛しげに、気だるげに眺めている。
今日はどうにも苦しくてとうとう起き上がれなかった、カーテンはいつから半開きのまま放置していただろう? また数回咳き込み口元を押さえると、喉の奥のもっと奥から鉄のにおいがこみ上げてくるのを感じた。
苦しい。ただただ苦しい。痛いなどという生きている証明のような感覚も今日は感じないほどにひどい。
悪党一味、悪魔に魂を売り渡して以降体は動くようになったけれど、反動のように感覚が蝕まれ続けているのを強く感じる。しかし起き上がれぬほどと言うことは今までほとんどなくて……自分が自由に動けるのは悪魔との契約で、契約違反を繰り返す自分への警告、なのだろうか?
言うことも聞かずに天使と言う女に現を抜かし甘ったるいにやけた顔ばかり見せているからと制裁を加えられているのか、それとも天使の持つ神気が悪魔の瘴気を妨げてクラレンスを理の中へと戻しているからのこの体調なのか、臥せるクラレンスはどちらも心当たりがあるからただ臥せっておくしかできない。
天使はここにいなくても、彼女が身に着けていたものが身近にある。それを羽織っていた本来の持ち主が今どこにいるか彼にはわからなくての物憂げな表情なのだけれど、探したところでどうにもなりはしない。
だって彼女は天使様、美しい純白の翼で大空を舞う人間より上の存在。ヒトとは違う彼女が矮小なる人をどれほど本気で相手にしてくれるか、彼は彼女を見た瞬間から、ずっと疑い続けている。
おそらく彼女にとって、ヒトとは本気で憎むほど大きな存在でなく、増して本気で愛しく思うほど重き存在ではないのだろう。彼女の勇者でもない、彼女を陥れることを期待されもうほとんど残っていないだろう命を存えさせられているクラレンスは、引きずられながらも信じきれないまま。
ヒトと言う固有種の集合体となって初めて神様も存在を認めてくれる、その手下になる天使たちの認識を真に受けるほど――――
嗚呼。しかし。耳の奥に彼女の声が幾重にも反響して反響して反響して…………!
過ぎた感情は、悪夢になりうる。彼は今それを我が身で実感していた。
嗚呼でも。どれほど痛みを実感しようと抗えぬ引力と言うものも存在するのが人間。
美しいひとが舞い上がる瞬間を見ることができたがために出口のない螺旋に閉じ込められた男は、彼女と出会う前から抱えていた痛みに夜も昼もなく苛まれ続けている。
ただひたすらに歯を食いしばり耐えるしかなかった無明の闇の中に射した光明は残酷にも女の姿を持っていた。その彼女の差し伸べてくれた手に触れることはなくても、耳をふさいでも声は届き、その微笑みはひとつしかない目の奥にまで焼きつけられた。
どうすればいいのだろう? 破滅を望み悪魔に魂を売り渡して生き存えている自分なのに、ヒトに手を差し伸べた美しいひとが泣いている顔を見たくないと思うようになってしまった。
彼女は人すべてをひとまとめで考えている風はなく、彼を見つめそして微笑んだ。
彼の名を呼び微笑んだから悪魔に魂を売った男は魅入られてしまった。
美しい衣は彼女の肩を包み飾っていたけれど、飾る者と引き離されてもただ美しくここにある。
せめて彼女がヒトの上にある存在らしく冷たく美しく酷笑でも浮かべてくれれば彼だって遠慮も容赦もなくその胸元に殺意と刃を向けられると言うのに、ひどいことに彼女はただ優しいばかり。
「……最近」
凛と鳴る鈴のような、けれど優しい声が何かを語ろうとする時、必ずそこには誰かがいる。
「誰かにずっと声をかけられているような気がしてならないんです。」
そう静かに言いながら、美しい日差し色の髪を持つ美しすぎる少女は己の耳に手をやった。彼女の言葉に合わせてさざめくみたいな音色を奏でるのは、その小さな体ほどもある純白の翼。
ほのかに光を放つそれの一枚一枚が触れ合うことで音楽を奏でている。
今日はとてもいい天気、天使様の日差し色の髪が強めの風にかき乱される様がなんとも美しいのだけれど、裏腹に彼女の表情は憂いのまま、曇ったまま。
大それた役目を背負わされ舞い降りた幼い天使は、その肩には明らかに過ぎた大きさの責任を負わされたままここにいる。
「誰かが天使様に祈りをささげているんだろ。それが天使の君に聞こえることはそんなに不思議なことか?」
そんな彼女を助け、信じ、さまざまなものを預けているのが「天使の勇者」。それぞれに事情を抱えながらも、幼いがゆえに彼らの事情を他人事と思わない天使だから彼らもヒトではない彼女のことを個として存在を認め深くつながっている。
人間の汚い部分、弱い部分、ずるい部分を咎めず、否定せず、共に抱えて時には涙する。彼女は確かに天使だけれど、ヒトと向き合うそれは人と同じで違う次元の存在と言うことを時に忘れさせるほどに近い。
彼女の青い瞳が憂いに翳る時、彼女の勇者たちは当たり前に彼女を思いやる言葉を口にする。
「そう……でしょう、けど……」
「こんな世の中だ、神と天使にすがりたくもなるさ。
けど君が責任とか感じることはない。君も僕らもやれること以上をやっているのに、祈るばかりでそれ以上をしない連中も僕としては見えない敵とやらと同類にしか思えない。」
そんな少女の姿の天使様がよく行動を共にしているのは銀の髪紫水晶の瞳の教皇候補で、彼はその立場とは正反対にも思える言葉を穏やかに吐き捨てた。
風に踊るほど軽いゆるく波打つ銀の髪の向こうの紫水晶のような瞳は穏やかそうに見せてどこか鋭さを隠しきれていなくて、人間の青年だと言うのにその背に純白の翼を持っていても遜色ないほど図抜けた容姿を持っている。むしろ天使の翼は彼にふさわしくもあるのだけれど、その容姿には少々残念な振る舞いを見せながら彼は天使には優しい辛辣な言葉を口にした。
「でも……」
「何か引っかかるのか?」
「……いえ。」
「……やれやれ。君は感受性が強そうだからな、何かに引きずられているんだろ。
何か飲むか?……って言っても、君らには戒律があるだろうからうんとは言えないだろうけど」
「いえ、いただきます。なにをくれるのですか?」
教皇候補として真白い法衣と高貴な立場を表す紫の上着を身にまといながらも、信仰の対象であるはずの天使をまるでただの少女と変わりなく扱う男。天使もそれを咎める様子すら見せない。
しかし信仰の対象として一線を引きそれを越えない振る舞いをされていたら、お互い他人行儀のままでは脆い信頼関係しか築けない。彼らはお互いの欠点を補完しあうつながりの元行動しているから、幼く非力な天使でも誰もの想像を遥かに超えた目覚ましい活躍を見せていることは間違いなかった。
柔和な容姿と辛辣な舌の持ち主に何かに引きずられている、と言われた天使様は真実を射抜いた言葉を自ら認めないかのような作られた明るい声色でまず首を横に振り、己らの戒律を無視する言葉を軽く口にした。その声に応え、彼は深い森色のボトルを手にしコルクの栓を静かに抜き脚の長いグラスをテーブルの上に置いた。
たちまち青い葡萄の香りがボトルの口からほとばしる。
「見かけはワインだけど、実はこの中身は葡萄のジュースでね。
こんなご時世でも葡萄たちには関係ないらしい、今年の葡萄は当たり年なんだと。……もっとも、生でいただく方が、というおまけがつくけど。
とてもいい香りだ、きっと気晴らしになってくれる。」
彼は教皇候補であり、同時に破戒僧。その優美な立ち居振る舞いを女性を誘うことや借金をするために使い、適量以上の酒を呷り、女を侍らせての放蕩三昧。
博打で作った借金なんて、本人もすべて把握できているかも疑わしい。
そんな彼だから、悪い方の人生の楽しみ方は行き過ぎなほどに心得ていて、生真面目な石頭の天使様を悪い道へと誘うことも時々ある。
最初は固辞していた彼女も断るのが面倒になったのか、最近では少しだけつきあうことも増えた。最初のうちは僧侶が朝帰りしたかと思ったら首筋に紅いしるしをつけていた、なんてこともあったけれど最近ではそれもなくなり、戦いの日々の中過ぎた酒は体が受けつけなくなり、天使の小言も鳴りを潜めて久しい。
小言がなくなれば、彼女はただ美しいだけの世間知らずに過ぎなかった。
「ありがとう、ロクス。」
満たされる液体はまるで若草の雫、淡い緑が美しく、香りは甘く、甘く。
小さな手がそっと差し出されたグラスを手にし唇を寄せると、清々しく甘い香りがふわりと立ち上り命の雫がゆらりと揺れた。
美しい雫を見るなり、彼女が言葉をなくしたみたいに黙り込む。今彼女が手にしているグラスの中のそれは命の集まりで、彼女は……
グラスの中の緑の雫が大きく揺れた。
「シルマリル!?」
大きく揺れたグラス、少しこぼれた中身が彼女の衣にごく薄いしみを残す。
彼は小さな手ごとグラスをつかみ落とすことはなくて、もう片方の手で小さな背中を力強く支えた。グラスを落としそうになった彼女の顔色は青ざめて片手で目許を隠すように押さえていて、そんな様子を見、彼は天使たちの戒律に、自分たちよりもずっと厳しい戒律に気がついた。
「……命あるものを傷つけられないのか……ごめん、配慮が足りなかったな。
とりあえず、注いでしまった分は僕がいただくから。香りだけでも駄目じゃないんだろ?」
「……ごめんなさい……」
「いいよ。それにしてもひどい顔色だ、戒律破りだけのせいじゃないんだろ?
さっきの声のこともあるみたいだし、僕は適当に何かやってるから君は少し休むといい。ほら、立てるか?」
細く線が美しい男の手が、中身が少し減ったグラスをそっと卓の上に置く。
言いながら彼は天使様の体を片腕で抱え支えてソファへと向いた。その様子はまるで女性に不実な紳士が意中の女性を思いやるかのよう、無意識にゆるんだ唇には甘さも毒も潜んでいる。
彼の腕の中では、小さな天使はただの少女でしかなかった。
嗚呼、またいつもの悪夢。
這いずる黒い虫と白い虫と紅い虫の中に、透き通った緑の雫が落ちた瞬間でクラレンスは目を覚ました。毒々しく生々しい色合いの虫どもが這いずる夢はいつもの苦痛のサインだから、悪魔に魂を売り渡す前からのいつものクラレンスの世界の心情風景だから別段驚かないけれど――――
「……シル…マ、リル…」
ひとつしかない目の視界の中で手を伸ばした先には暗い天井。もう虫どもはいない。
最近はいつもこうで、夢の中にまで苦痛が這いずる回る中、美しい雫が一滴滴っただけで目覚めては苦痛から開放される。クラレンスはかすれて消え入りそうな声で女の名を呼び、ゆるりと身を起こした。
森の朝露のような、透き通った緑の雫は女の化身。苦痛のサインである蟲どもをかき消すほどの力持つ女。それはヒトではない。
ヒトよりもっと高い場所にいる。
全身はいつも寝汗でひどく濡れてしまうからと、クラレンスは袖のない肌着程度、寝間着の類は身にまとわない。
汗で濡れた寝巻きは容赦なく体温を奪い命を縮めかねないし、なにより寝覚めの悪さに拍車をかける。
いつからだろう、クラレンスは命を縮めかねない行動を慎むようになった。
命が惜しくなったのはいつからだったろう? 寝汗で濡れた素肌を夜の闇に震わせるけれど、それも毛布で包めばつかの間の寒さでしかない。そうすれば悪寒に発展しないことを思い出した。
けれど……クラレンスは昼間と同じにカードの散らばる卓に手を伸ばし、毛布ではなく、夜の寒さに震える濡れた素肌を天使の薄いショールで包んだ。それは水の冷たさを持ちながらもひどく優しくあたたかくて、それだけではなく耐え難かったあの苦痛をやわらげてくれる。
それに気づいたのは彼女が自らそれを解き雨に濡れ始めたクラレンスを包んだ瞬間で、まだ病に侵される前、両目があった頃の体の軽さを不意に思い出して一瞬言葉を失った。
それで思い知らされた、そして今はすがってしまっている天使様のお慈悲。優しい、ただ優しいばかりの頼りない彼女はここにいないのにクラレンスをそっと抱きつかの間だろうと苦痛から解放する。
思えば、堕天使の誘惑は欲望を満たすためだけの渇望を生み出すための破壊の力しか与えなかった。
追い詰められ自暴自棄になってさえいれば、自分でなくても別によかった。
今でこそクラレンスには明確な役目が与えられているけれど、それすら与えられずに何も知らず使い捨てられ天使の勇者たちに蹴散らされた者がどれだけいただろう?
多少知る権利を与えられているクラレンスはまだましかもしれないけれど、使い捨てられることにかわりはない。
天使は個を尊重しどれほど汚れていようとひねくれていようと、できる限り理解を示そうとする。一枚の大きな鏡を隔て、クラレンスは自ら望み闇の中へ、彼が付狙い陥れようとしている教皇候補殿は向こうの世界、陽の当たる世界の人間。
薄汚れたろくでなしと言う意味では大差などない。なのに自分には天使は舞い降りず、いつ果てようとおかしくない苦痛の中でもがくばかり。
「あんた……いいにおい、するんだろうなぁ……」
クラレンスの乾いた唇が嗜虐的に歪み、部屋に満たされていた夜の闇がさらに深くなる。
それは他でもないクラレンスを中心にして噴き出す、彼が生み出した闇だった。
闇に虫が這いずる回る。それらは彼の皮膚を肉を食い破る幻覚を生みつつばら撒きつつクラレンスを蝕み闇に落とす、彼の内包する闇そのもの。
それが表に出ると、文字通り生まれるのは無明の闇。
絶望が生み出す無明の闇はクラレンスを蝕み互いに螺旋を描き堕ちるだけなのだけれど
「――――痛っ!!」
クラレンスの寝汗で濡れた肌をちくりと刺す弱い痛み。それを感じた直後、その場にたちまち夜の闇が、星と月の光がある夜の闇が戻った。
それだけではない、クラレンスの視界を彩るほのかな光は、誰でもない天使の衣が放っていた。与えた痛みはすぐに消える、それは痛みを伴えども苦痛ではない。
悪夢にうなされている者の頬を見て心配した誰かが軽く揺さぶり、それでも起きぬからと仕方なしに頬を軽く叩いて起こすあの痛みに似ているかもしれない。
矛盾しているけれど、優しい痛み。頬を数回打たれ悪夢から覚めた人間は叩いた者を恨まないのと同じ、クラレンスの嗜虐的な笑みは安堵のそれに変わっていた。
「……やれやれ……バカなこと考えると叱るショール、か……布のくせに持ち主と同じこと、するなよなぁ。」
叩く憎まれ口、反対にゆるむ口元。痩せ細った男の体が、彼を包むショールが光を放ち続ける。天使様が命尽きようとする現実の前にすべてをあきらめた男を慈しむように抱きしめる。
残酷にも、天使様は悪魔に魂を売った男に向き合う時、彼の苦痛をその時だけでも忘れさせるほどの力を、神気を、無意識のままに放っている。それは神様のお慈悲そのものだけれど、悪魔とやらは己の下僕がそれを享受することを許さない。
苦痛から解放された分だけ、律儀にもそれをどこかで上乗せして彼を苛む。
それがなにを生み出すのかを、彼も彼女も、誰も知らない。
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2008/11/01