■□ 裏切り □■
― 12:I can't tell you why ―
ヴァイパー
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エピローグ
あとがき
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アンケート(別窓):
ヴァイパーED後話はあり?なし?
次に攻略してほしいセヴン
あまり気楽にはなれない状況だけど、ほっとしたのは間違いない。
平穏にはまだ遠くても、ひとつ大きな山を越した。彼と初めて出会ってから一年余りを駆け抜けて、シルマリルはひとりの人間の死するべき運命すらも覆した。
彼女は定められていた永遠の別離を覆し奇跡を呼び起こして今に至るまで、地上の時間に換算して一日、彼女は自分の小さな宮殿で翼を休めた。
その間も査問のような拷問のような針の筵の時間があったりしたけれど、結論を出すにはまだ早いこともあり、身分不相応な振る舞いに対しての処遇は後回しになった。
それなのに休日、いや休息はたった一日。けれど天使にはそれで充分で、水仙のようなたおやかな少女が深い眠りから目覚めると、大好きな水仙の香りがむせ返るみたいに彼女を包み寝室中に立ち込めていた。
眠る前はそのことにすら気づかなかったのだから、緊張は極限状態だったに違いない。人間と同じに一晩休んだだけなのだけどその休息、いや睡眠は深く、深く。
天使とはいわゆる精神体、何をするにも気力がすべて。シルマリルは休息を取ることで驚くほどの回復を見せる。気力は彼女の体力でもあり、武器にもなる。
しかし忘れてはならない、身を守るすべを持たない男に護身用の武器を届けねば。
天使の祈りを受けて、神の下僕である癒しの手の掌により資する運命すらも覆された男が、彼女の守る箱庭世界のどこかで息を潜めている。
彼は彼女の奇跡に呼び戻される前は、あろうことか悪魔の手先だった。世間からはじかれて世の中の裏側で生きてきて、世の人々ならば戯れだと笑う酒の上での賭け事に己の目などを賭けてその時に限って負けて――――止めとばかりに不治の病に冒されて、彼は世界に絶望した。
気がつけば他者の破滅を喰らい生きていた。ばくち打ちには必須の能力である勝負強さと駆け引き上手な鋭い舌鋒を持ち、それを使いこなす頭があり、それらは彼が好きに生きるには不自由ないほどの金を生み出し、代償に抜けられない負の螺旋をぐるぐる、ぐるぐる巡ることになる。
その途中で彼に悪魔が囁いて、彼は人の情を捨ててしまった。
しかし彼は変わった。おそらく彼は認められないだろうけど、生まれ変わったかのように正反対の視野が開けた。
彼を変えたのは天使シルマリル。かつては悪魔の呪具を武器としていた彼だけど、神聖なる祝福を受けし精霊力宿る不思議なカードでも問題はないはず。かつての武器も精霊力を封じ込めたカードだったから、使い方は変わらない。
それとあわせて、彼の体を労わる特効薬をひとつ。
どういうことかは彼女にはわからないけれど、シルマリルは己を一度引きつけておきながら効果的な場面で裏切り彼女の存在までも踏みにじり牙を向いた男を見捨てられず、今も彼の身を守るための道具を届けなければと理由を用意して会いに行くだけなのに、乙女と同じに心躍らせている。
天使様は微笑を携えて、夕暮れ時の大空に少し早い星を散りばめながら大地に降り立つ。
それからほんの少しあと。シルマリルはどういうことか熟睡してしまった。
天使様に救われたクラレンスは病で極限までやせ細った体のままで動くに動けなくて、あのままロクスと戦った町のはずれで息を潜めていた。
……とはいえ、もうロクスからも、天使の勇者からも逃げる必要はない。今度はかつて悪巧みをした仲間から逃れ身を隠している。
クラレンスはかつて世界をひとつ呑み込もうと暗躍していた、7人の悪魔の尖兵の一人だった。彼は一度死に悪魔の呪具を手放したことで、今のところかつての同胞に消息を、生き残ったことを悟られずにいるけれど――――彼らは、執念深さだけならロクスなど非ではない。己の自尊心を傷つけられるとロクスはなりふりかまわず食らいついてくるしあきらめも悪くなるけれど、それはクラレンスだってさして変わりはしない。執念深さなら「毒蛇」の通り名を持つクラレンスの方がよっぽど上を行くけれど、悪魔の7人の尖兵・セヴンの中で、クラレンスは諦念強い位置にいた。
他の連中の話になると、彼の比ではない。
彼はそんな連中から逃げているのだけれど、かつての同志だっただけにその手口もわかっていて、ごろつきならでは、独自のコネクションを抱えているクラレンスはさして苦労もせずに身を隠し養生している。
隠れ家にしては、実に立派な設えの瀟洒な邸宅。一見すれば貴族でなくても豪商や小領主の別荘のよう。そこから男前だけど明らかにろくでなしの部類に入るクラレンスが姿を現すとかなり異質な光景なのだけれど、実はこの邸宅、いわゆる裏世界の顔役と呼ばれる誰かの使っていない別宅で、そこからろくでなしが出てきたからと誰も不思議に思わない。
誰も思わない以前、この邸宅は町外れの隠れ家で、通りすがる者すらいない。
クラレンスは過去その手の連中に甘い汁を何度も吸わせてやったりで、まあ持ちつ持たれつ、売っておいた恩を返してくれればありがたいと持ちかけた代償だったりする。
闇で生きる連中には正義も悪もないが、今の最大手の顧客、商売相手であるグローサイン帝国が何を企んでいるかを耳にしては、良好な関係も見直さざるを得なくなる。
クラレンスの裏切りの初手はそれ、武器商人の強欲さをつつきこう耳打ちした。
『武器が売れてる今はいいだろう。
でもな、地獄に金は持ってけねえぜ?』
いくら人の血と涙を啜り甘い汁に変えようと、世界の破滅とはそういうこと。
すべてが泡沫となる企みを抱えて暗躍している連中の望みはすべての崩壊に他ならないだろう。そんな中で、命の保障など誰もしないしどこにもない。
悪い奴らのわが世の春は未来永劫続かない。
かつて己が加担していた企みを暴露するのは明らかにかつての同胞に対する裏切りなのだけれど、取引を持ちかける以上手ぶらでただ「借りを返せ」と言ったところで難色を示されたり軽くあしらわれたりするのは目に見えていた。だから、彼は相手の益になる情報、つまりは撒き餌を打ってから疑似餌すらついてない釣り針を投げ入れた。
そして魚は食らいつく、そこでもクラレンスは恩を売った形になり、隠れ家というには豪華すぎる邸宅と世話人たちをあてがわれ、不自由のない逃亡生活が幕を上げた。
……ただ、どれほど居心地がよくても長居をするつもりはなく、それを明言したことで別荘の主はさらに気前よくなった節はある。持ちかけた際に口にした数日でいいという条件は嘘や方便の類ではなく、動けるくらいに体が持ち直せばすぐにでも出て行くつもりだった。
長居をしては、危険が増すだけ。
クラレンスは帝国の中枢に深く、深く食い込んでいた。食い込むつもりなど毛頭なかったが、やりたいことをやらせてくれればそれで充分、都合のいい操り人形でよかったのだけれど、彼の洞察力がそれを許さなかった。
機を見るに敏、舌も頭も回転が速い男の頭の中には、帝国に反旗を翻したいが翻しきれない国家群にとって垂涎の情報が詰まっていて、彼はそれを自分自身に対し実に有効に使ってみせた。
貸している相手は山ほどいるが、借りた相手は天使シルマリルとそのおまけでロクスぐらい。
そんな中、ちょうど隠れ家を空けている時にシルマリルはやってきた。
そして彼女は待っている間に眠ってしまい、外はもう日が暮れてしまった、たった今戻ったクラレンスは無表情で腕なんか組んであどけなさすぎる天使様を見下ろし、音も声もなくため息をついた。
天使様が留守中にやってきて、長椅子の肘掛にもたれてお昼寝ならぬ夕寝を貪っている様子は、あまりにも彼女らしいというかのんびりおっとりした外見から容易に想像できる光景だった。
クラレンスは何も言わずにまず上着を脱ぎ、それを眠るシルマリルを起こさないようにそっと掛け、足音を殺し窓を開けた。
今夜は少し欠けた月が美しい。冷たいような清かな青い月明かりがまるで清流のように止まることなくすべてを包み込む。この月明かりの前では星すら影が薄くなる。
暑くも冷たくもない、肌にはちょうどいい夜風がふわりと部屋の中に滑り込み、クラレンスは己の失った五感が戻りつつあることを噛みしめた。
失った右目はさすがに戻ろうはずもないけれど、それ以外は驚くほどの速さで回復している。それだけではない、感覚的な何かから派生する感情がこんなに豊かだったのか、と彼自身驚くほど、クラレンスの世界は色を取り戻していた。
そして改めて感じることは、世界はある意味誰にも平等だったこと。
世間からはじかれ裏の世界で生きてきた男に世間は確かに冷たかった。しかし世界は別に優しくも冷たくもなかった。
朝が来て夜が来て時間は流れて四季は巡る。晴れたり曇ったり時に嵐だったり、しかしそれはその場にいれば誰でもそう。
クラレンスは荒むあまりに己の不幸に振り回されていたことに気がついた。
忘れていたことに気がついたら恥ずかしいやら情けないやらで、顔見知りがいない状況はありがたかった。なのに――――
窓際に立ったまま、ちらりと横目で部屋の中を見れば、当然眠っているシルマリルが確かに長椅子の上にいる。不思議な光景。
悪魔の手先になった時間の方が長い分違和感は当たり前かもしれないけれど……それにしても、シルマリルという女がもたらす空気というものは、どうして身の置き所もなくなるほどに優しいのだろう? クラレンスは到底許されないことばかりしでかしたのに、天使様は寛容どころか自業自得の死を迎えようとしていた男を死の淵から引きずり上げて赤っ恥をかかせてくれている。
つまらない男の意地とプライドでカッコつけて生きてきた男の希望など、彼女はかけらも配慮してくれない。ありがたい反面、ありがた迷惑かもしれない。
……そう。「ありがたい」と思っていたらしいことにも気がついた。
クラレンスは上り始めたまだ丸い月を背にして窓に腰を預け、腕を組んだまま無言で眠る天使様を見ている。横顔はやつれてしまい精悍さ、いや鋭さを強調しているけれど、月明かりで青みを増したターコイズブルーの隻眼からあの殺気は消えてしまった。
かさついた、ひび割れそうな唇は無意識のうちにわずかにゆるんでいる。
己の余命に執着はなかったはず、実際に彼女に出会う前は執着していなかった。
いつ死んでも構わないよう、やりたいように生きていた。
欲が出たのは、己の人生と存在に執着が生まれたのは、天使シルマリルの降臨から。
本音はまだやりたいことがあったと、情けない余生を与えられた後、今さらながらに気がついた。
「……ん…………」
日は沈み月が昇り、天使様は闇の中ほのかに光を放つ。クラレンスが明かりをつけなかったのはそれ、天使様がほのかに光を放つ様が幻想的で……美しかったから。
その様子は年頃の乙女の肌が光を弾くのに似ていて――――そう、シルマリルは妙齢の乙女の姿の天使様。
勝負の世界、男の世界で生きてきたクラレンスだけど、女が苦手というわけではない。むしろ普通に好きだと思っている。派手ではないにしろ当然浮いた話も生臭い修羅場もくぐってきた。
しかし片目を失うとただでさえ大柄で精悍な男が近寄り難い顔つきに変わり、体を損ねてからは女と寝ることそのものが難しくなった。そういうこともあり女を美しいと思ったことは久しぶりで、少しでも長くシルマリルの寝顔を見ていたくて無意識にそうしていた。
明かりの刺激で起こすのも忍びなくて闇の中で黙り込んでいたら、月夜の闇は当たり前だけど真っ暗ではないことを不意に思い出してしまった。
しかしシルマリルはいつまでも眠りっぱなしではなくて、眠りが浅くなり小さくうめいたあと、ゆっくりと瞼を開いた。少しの間焦点の定まらない目でぼんやりと虚空を見、程なく少し離れた所で黙って立っていたクラレンスを捉え彼女は飛び起きる。
「ご、ごめんなさい!」
普段は慌て者で気が小さくて少しそそっかしい、おっとりした性格の天使様。シルマリルは飛び起きて自分が上着を掛けられていたことに気づき、危うく放り出してしまうところだったターコイズブルーの上着を慌ててつかみひざに置いた。
「いや、気持ちよさそうに寝てたんでな。
別に起こす用事もないことだし。」
「いつの間にかどこででも眠れるようになってしまって……あ、クラレンス、上着」
「寒くないからいいよ。
待ってた、ってことは、なんか用があったのか?」
痛々しいほどにやせ細った大柄な体躯、だけど彼は確かに微笑みを浮かべていて、別段具合が悪そうな様子はない。
あの日から初めてクラレンスに会う……と言ってもたった一日顔を見ていないだけだけど、思っていた以上に元気そうな様子に、シルマリルはうれしそうに微笑みかけて――――やっぱり彼の体調が気がかりで笑みを消してわずかに小首を傾げた。
「あ、あのっ、……病気、とか……体調は、どうですか?」
「ん? ああ、そうだな……どうなったかはわからないが、痛みもないしだるいとかもない。痩せちまった以外は信じられないほど健康だと思う。
ま、俺は医者じゃねえし、詳しいことはわからないけどな。」
「そうですか……うぬぼれるわけではありませんが、私たちは痛みをごまかしたり一時しのぎのような治療は施しませんので……」
彼女が小首を傾げると当然美しい金の髪がそれに合わせて緩やかに動く。
彼女の腰のない緩い巻きのある肩にかかるほどの髪はそれは美しく彼女らしく愛らしく、ただ美しいだけでない、どこか憎めない愛嬌を持った笑顔や振る舞いが、クラレンスやロクスだけでなく男を安心させる何かを持っていた。
……人はそれを魔性と言う。
「たとえ次の瞬間おっ死ぬとしても悔いはないよ。
あんたが継ぎ足してくれたおまけの人生だ、次死ぬ時が俺の本当の運命さ。」
クラレンスは当初彼女を謀り、彼女の勇者である女たらしの破戒僧ロクスもろとも破滅を与えてやるつもりだった。必要ならばその純白の翼をズタズタに引き裂き汚し尽くしゴミのように捨ててやるのも面白いかも、なんて思ってさえいた。
そのくらい天使や神に対する畏怖など微塵もなくて、すべての恐怖が麻痺していた。
恐怖が麻痺しているのは今も同じ、しかしその質が、根拠が違う。
かつては自暴自棄だった。今は無鉄砲。
己を魅入った女のために賭けられる物はこの命しかないだけ。
「そんなことを言わず、医者にかかれるようでしたら一度診てもらってください。」
けれど、シルマリルにそんな彼の内側のことが伝わるはずはない。むしろクラレンスは本心を隠したままでいる。
「ああ。昼間その医者にかかってきたところだ。肺病はなりを潜めてるんだと。」
「そうですか!
でも、無理をして外出するのは体の負担になりませんか?」
「……商売道具をあらかた傷めちまったからな。ついでに新しいのを探してた。
こればっかりは手に馴染むのを確かめないとツキが逃げるんだ。」
「そうなんですか!?」
いきなり素っ頓狂な声を上げたシルマリルの言葉にクラレンスは軽くのけぞるほど驚かされた。彼としては特に変わったことは口にしていないつもりなのだけれど、さてなにが彼女を驚かせたのだろう?
少しがっかりしたみたいに視線を下げたシルマリルの様子に、クラレンスは少しだけ近づいて表情をわずかに覗き込んだ。
「それがどうした?」
「いえ……今、クラレンスは何も武器を持たないから、新しいカードを用意したのですが…………そうですか、相性があるのですね…………。」
「新しいカード? 俺に?」
シルマリルの言葉に、クラレンスが思わず身を乗り出すみたいに窓から離れた。
お互いの言葉に驚く、の繰り返し、今度はシルマリルが驚いて思わず顔を上げる。
「あ、はい。あなたがロクスと戦う時に使っていたあのカードと似ているのですが、精霊の力を封じてあって、絵柄に対応した効果が――――」
「使い勝手は変わらねぇ、ってことか。
どんなんだ?」
天使様が、悪魔の手先だった寝返り男に武器をくれると言う。それは彼が使い慣れたカードの形をしているらしく、クラレンスとしては断る理由など何もない。
促されシルマリルが細い肩に大きな上着をかけたまま、腰に下げていた美しい球体の飾り物を手に取った次の瞬間、小さな手のひらからあふれ出した光がまるで風のようで、照らされたクラレンスの表情、はらりと額に落ちた銀の髪が煽られるように揺れる。
わずかな間の後に光はおさまり何事もなかったような月明かりの中、彼女の両手の上に美しい意匠のカードの束が乗っていた。
それも天使の奇跡、彼女の手には明らかに余る大剣ですら、手渡される直前までは彼女の装身具として小さなまま下げられている。自分に当てての奇跡を目の当たりにしたクラレンスはさすがに驚きを隠せなくて指先で顎と唇を押さえるみたいにしつつ、突然現れた美しいカードに目を奪われてしまった。
シルマリルがそれを差し出すと、彼は思わずのけぞって、しかしゆっくりと手を伸ばし痩せてしまった手でそれを取った。
まるで貴婦人が茶席で戯れる時に使うような、優雅で美しい意匠。手触りは冷たく、何かしらの金属で出来ている感触を持ちながらも、安っぽい紙のカードと同じに軽い。カードの顔として一束の水仙をあしらってあるが、それが御印でもあるシルマリルならまだしも、大柄な隻眼のばくち打ちのクラレンスにはあまり似合わない。
しかし、それの馴染み具合は新品とは思えないからクラレンスはなにも言えないままカードを見るばかり。
確かに新品の証のよう、紙の帯は緩みなく巻いてあるはずなのに。
「……無理ですか?」
「い、いや……新品とは思えない馴染みようでな。
丸腰で心許なかったところだ、ありがたく使わせてもらうぜ。」
「そうですか。よかった。
もう少し体が回復したら、今度は防具やアクセサリーを持ってきますね。」
「……だいたい男が女に贈るのが普通だろうけど…………」
最後の言葉は低いひとり言で、しかしクラレンスはいつもと同じに嘘は口にしていなくて、新しい武器が使い慣れたカードの形をしていたことはありがたかった。帯を切らずにそのまま腰に差してシルマリルを見ると、彼女はクラレンスのすぐ目の前にいた。
立ち上がりながらいつもと同じに微笑んでいた。
微笑みが似合う小柄な少女。天駆けるための純白の翼は彼女の体よりも大きく、優しげな丸い眉が歪んだだけで軽い罪悪感を覚えてしまう。
その細い腕に掛けられた己の上着を見ていると、クラレンスは自分が男として心奪われたことを思い知らされる。
眠っている彼女を包んだのが己の上着だと言うほんの少し前の光景が不思議でもあり誇らしくもあり、勝利の味にも似ていた。
けれど。それは口が裂けても言えない。
決して告げてはならない、告げられない感情。
彼女の勇者ならまだしも、自分は天使を陥れるために暗躍していた悪の手先。天使に救われたからといって鞍替えするほど尻軽ではない。
彼女に与するのは簡単な話で、借りをまずは返すため。借りを返した後のことはそれから考えると当座の身の振り方を決めただけで、恭順したわけではない。
まして惚れたから裏切りますとの下心、二心などあったわけではない。なにもかもに絶望していたけれど、彼女と彼女の勇者の力はクラレンスの読みの遥かに上を行っていただけの話。
彼女の手で悪魔から掛けられた首輪と鎖が破壊されたからと言って、どの面下げて好きだ愛してるなど吐けようか?
クラレンスは意地とプライドで生きてきた男、自らそれを貶めることはできない。
「……クラレンス。」
「あ、ああ?」
「恩義などで私に縛られなくても」
そして彼女は限りなく優しくて、残酷。常に男に選ばせる。
微笑みながらも物憂げに目を伏せて長い睫に星を乗せ、男の罪悪感をくすぐってくる。
微笑みという最強の武器をちらつかせながら、シルマリルは己に引きずられた男にあくまで自由を与える。
『選ぶのはあくまでもお前』という傲慢な天使の言い分を優しく甘く包み突きつける。
「……恩義じゃねえよ。
俺は今までしたいように生きてきた、これからもそうするだけだ。」
そこに明確な理由はある、けれど口が裂けても言えない、告げられない。
己にその資格などないから求めていない。
クラレンスは理由を告げず己の中に沈めて、かつてと同じに唇を笑みの形に変えて表情を作る。
今ここで他に彼女に見せる表情などないから一番ふさわしい顔をするだけ。
今一番見届けたいのは、この優しい女が導き出す結末がどんなものかということだけだから、それを見たいがためだけに好き勝手振舞うだけ。
あくまでも己の利しか重んじない、それが己の矜持。
「とりあえずはシルマリル、お前がどんな幕引きするのかを見たいから」
クラレンスは口を滑らせないよう勝負の時と同じに緊張の糸を切れそうなほどに張り詰めながら低く言葉を続けるけど――――
「初めて……名前、呼んでくれましたね…………。」
シルマリルは月明かり満ちる中で、眩しく艶やかに微笑みながら青い瞳からひと筋涙を落とした。
その言葉に、声に、微笑みにクラレンスがすべてを手放しそうに放心する。確信犯的な駆け引き上手のずるい女だとどこかで感じていたけれど、こんな的確に自分の声を、言葉を、表情を見事に合わせて使ってくるなど誰が思うだろう?
決定的な打撃のよう、陥落しそうな感覚を与えられ、クラレンスが根底から揺らぐ。
「今はこうして話すこともできるようになりましたし、私はあなたが悪魔と決別しただけで充分です。
ですが……クラレンス、私が折れそうになったら……」
泣きながら、微笑みながらシルマリルはクラレンスを見上げている。
それは、信じきった女の無意識の誘惑。無意識だから当然彼女は気づかない。
誘惑だから男のクラレンスは揺らされてばかり。
「……その時は俺が何とかしてやる。
どうせ俺には恥も外聞もない。そんな俺を信じてくれたお前の望みだ、俺が、この手で、死ぬ気でかなえてやる。
俺の価値はお前に認められればそれでいい。」
「クラレンス……?」
「俺の命はお前のもんだ……好きに使うといい。
それが俺の今の望みだ。」
吐露された胸の内に偽りはない。しかしすり替えはある。
決して口にしてはならない言葉があるから、クラレンスは言葉をすり替えた。けれど言い換えてもすり替えても揺らがない本質があるから、
「……ありがとうございます、クラレンス。
あなたを喪わなくて本当によかった……。」
シルマリルが、ひた隠しに隠した遠まわしな告白を受け、やせ細ったクラレンスの右手を手に取りそっと薄紅の薔薇色に染まる頬を寄せた。
今まで触れようとしなかった男はそれだけで身を強張らせるけれど、言葉で確かめただけなのにこの上なく幸せそうに微笑む少女の前では無力で、指に絡む細い髪の感触がどうしても振りほどけない。
やわらかな頬は人間の女と同じあたたかさを持っている。
こんなつまらない男なのに、彼女は「喪わなくてよかった」とつぶやいた。
クラレンスにはそれが理由になる。
完敗。
こんな完膚なきまでの敗北の経験はない。
クラレンスは己が駆け引きに負けて跪いたことを、敗北を認めるより他はなかった。
たとえ肝心な言葉を口に出さずとも、本質はなんら変わりない。
問題はすりかわってすらいない。
ばくち打ちは女に骨抜きにされてかつての仲間を裏切った。
その事実だけが明確に存在する。
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2009/01/13