■□ 裏切り □■ ― intermezzo:sotto voce(2) ―
ヴァイパー
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intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン


 ほぼ毎日同じことを繰り返していればそのうちすることがなくなるのは当たり前といえば当たり前かもしれない。
クラレンスが逗留している宿に戻るのはいつも日付が変わるごろだったけれど、その日はどうにも出かけた先で居心地が悪くて、良い子なら寝る時間というぐらいで安宿に戻った。
 かつて身を置いた空気に戻る理由は至極簡単で、惚れた女とどんな夜をすごせばいいかがわからないから。
いやらしい意味ではなくて、これまた単純な話で身の置き場がないような居た堪れないようななんとも言えない空気に耐えられない自分というものに気づいてしまい、避けているのではなく接し方を探し続けている。
彼女は純真無垢な子どものようだから、性根まで薄汚れてしまった自分ではどう接すればいいのかわからないままでいる。
ありのままでいればいいのかもしれないが、そうでなければ男と女は長続きしないのだろうけど、ありのままの自分と来たら酒場で談笑していたやさぐれたばくち打ち。
 変わったことといえば、酒場女がしなだれかかっても動じなくなった。それどころか不機嫌を露にしつつ拒むようになっていた。
クラレンスは今にも彼の重みで廊下に穴が開きそうな安宿の安普請な廊下を、足音を忍ばせつつ歩きながらあの酒場の空気を思い出していた。
 ずいぶん居心地悪く感じるようになっていた。
かつてはあの空気しか居場所がなくて、そこで様々な「経験」を経て自暴自棄になって初めて運がついてくるようになり、誰かを追い詰め手に入れた金を、その誰かの目の前だろうとお構いなしで湯水のごとく使う羽振りの良さを勘違いした男だった。
街の不良程度ではなかなか手にできない紙巻煙草を吸いすぎて胸を病みあの境遇に転げ落ちた。
愛らしい天使様の祈りにより束縛の鎖を粉々に砕かれ解放されても性根はそう変わるまい、と、身の置き場のない自分が逃げ込む先としてかつてのよどんだ世界の扉を叩いたけれど、そこはもう自分の居場所ではないような疎外感ばかりが強くて今夜は早々に切り上げた。
愛らしい天使様、いや惚れた女に相当毒された自分というものを痛感しただけだった。
 それでも。いつもならば命と引き換えに得たに等しい、ひと財産と呼べそうな金を、惚れた女に不自由させまいと天使様だった美貌の少女にふさわしい良い宿に入り部屋を別に取ってすれ違う時を重ね続けていた。
惚れた女も相思相愛、ろくでなしに惚れて彼を思うあまり罪に自ら手を伸ばし同じ世界まで落ちてきた。
男冥利に尽きる話、なんだけど――――クラレンスの中では惚れた女、天使だったシルマリルは「空から落ちてきた星」のようなもの。
ただただ美しくて愛しくてとてもではないが汚れた手では触れられない。
彼女が翼をもがれたあの日に抱きしめるのが精いっぱい。
 自覚している。自分はポーカーフェイスが板についた素直になれない臆病者。
最後の最後まで彼女の中の女の感情だけを、認めてしまえば己の虚像が壊されるからとかたくなに否定し続けた。
 そんな中、今日に限って当て所なく流離う旅路で行き着いたのは、かつての戦乱で破壊された街だった。
そこにはようやく建てられたかのような小さな安宿しかなくて、クラレンスは美しい少女を野宿させたくなくて妥協せざるを得なかった。夜が怖いクラレンスはかつての世界に逃げ込んだけれど、あれほど嗜んでいた一服がまずくて仕方がなくてどうしようもなくて、この期に及んで往生際悪く、祈りながら一番奥の部屋を目指す。
良い子のシルマリルが寝ていることを祈りながらドアノブに手をかけ躊躇する。
 そのままノブを回そうとして、クラレンスは思い出したようにゆっくり手を上げながら拳を軽く握る。
間隔の開いた臆病なノックは、静かな夜の宿では嫌なほどに廊下に響くような気がした。

「はい、どうぞ。」

 当然聞こえた声に、クラレンスが度肝でも抜かれたみたいに目を見開いた。しかしそのまま立ち尽くしたらシルマリルがドアを開けに来ることは明白で、大きな手がドアノブをゆっくりと回して今夜のねぐらの扉を開けた。
「お帰りなさいクラレンス、今日は早かったですね。」
 中にいたのはもちろん美しすぎる元・天使様。目の毒なことに彼女は寝る支度を整えていて丸い肩も露で、直視できない彼女の下僕は視線を合わせないようにあからさまに顔を背けたまま着ていた上着に手をかけた。
「あ、あのっ、あのですねっ」
「……悪い、もう眠いから明日にしてくれ。」
 もしかして、待っていた? 戻ってきたクラレンスを見てシルマリルはわかりやすいほどに表情を明るくして、何から話せばいいのかといった様子で声をかけてきたのだけれど、やっぱり彼女の下着のような寝間着姿を直視できないクラレンスはわざと派手に上着を脱ぎ捨て、続けて下の薄いシャツも脱ぎ上半身裸になりながら取りつく島もなく言い捨てる。
若い娘ならそれだけで黄色い悲鳴なんてあげて目をそらすだろうけど、あいにくとシルマリルは人間の少女の感覚から少しずれていて、浮かれた笑顔を凍りつかせたまま取りつく島もない裸の背中を見るばかり。
「おやすみ。」
 低い声が告げた就寝の挨拶が冷たくてどうしようもなくてシルマリルの孤独はまだ続いていて、しかしクラレンスは気づかぬふりして床に潜りこむ。
どうしようもなく惚れているけどまぶしすぎて直視できないなんて安っぽい恋歌みたいで情けなさすぎる。
床に潜り背中を向け横向きになったクラレンスの肩が規則正しく上下し始めて、シルマリルにまた孤独が訪れる。
 どうしたいという具体的な希望はない。けれど、ものすごく遠い気がしてならない。
シルマリルの恋心は手探りばかり。でもどうしたいのかがわからないから泣くに泣けないままでいる。
さすがに前向きな彼女もクラレンスの態度はつらかった、泣きまではしないけどうつむき自分の床の上で座り込んで動けない。
 そこからどれだけの時間が流れただろう、どれほどの時間も流れてないけど、クラレンスが寝返りを打ち体勢を変え仰向けになった。安普請の安宿だけど暖房だけはしっかり効いているが、寒い冬なのに上半身裸で眠ってしまった?男が、寝返りを打ち肩など肌蹴てしまった。それを見たシルマリルは物思いの淵から急浮上し慌ててベッドから飛び降り彼のそばへと駆け寄った。
「クラレンス、風邪ひきますよ…………」
 彼の名を呼びながら寝顔を覗き込んで、シルマリルがまた固まった。
クラレンスは残された左目で雄弁に語る男、目を閉じている表情はシルマリルの記憶にはない。彼が一度事切れたあの時ですらうつ伏せのままで、シルマリルに死に顔を見せなかった。
けれど目を閉じた表情、いや寝顔はまるで少年みたい。たとえれば天使だった彼女の勇者でも最年長のフェインが持つ大人の男の空気をクラレンスも持っているけれど、フェインと同じに寝顔はまるで子どものようでその意外さにシルマリルは目を丸くするばかり。
 そして初めて自分がどうしたいか、彼女の中にささやかな望みが生まれた。まん丸な蒼い瞳を物憂げに伏せ、小さな手でクラレンスの頬を撫で、彼の眠るベッドの脇、シルマリルが彼の枕元にわずかに腰掛け息を殺しながら顔を寄せる。
お互いを一番に大事に思いながら唇の関係すらないふたり、先に唇に触れたいと思ったのは女のシルマリルだった。
指一本触れようとしない男に焦れて、天使様自らはしたなく裸の胸板に手を置いて彼に触れて、眠るろくでなしの唇を盗もうと息を殺し目を閉じる。
 しかし、シルマリルの唇に触れたのは男の指先。頬を包む大きな手のひらの感触にシルマリルが再び目を見開いた。

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「…………よせよ。いたずらじゃすまされないぜ?」
 あの雄弁な左目がシルマリルを見ていた。
その声を聞いたとたん、いやひとつしかない左目に見つめられたとたん、シルマリルの頬だけでなく耳まで真っ赤に染まってしまった。大きな手は惚れた女のやわらかな、少しだけ火照り確かに熱くなった頬をそっと撫でながらその手で彼女を押し戻した。
……それは否の返答のようで、シルマリルは赤くなったと思ったら今度は青ざめた。
はしたない自分にクラレンスがあきれたのでは、と口に出せず問いかけられず頭の中で勝手に決めつけ泣き出しそうに眉を歪める。
しかしそこで言葉を飲んでもどうにもならないこともわかっているシルマリルが、気丈にも顔を上げて口を開いた。
「あ、あのっ、…………」
 でも、そこから先が、どうしても言えない。
けれど唇は確かに何か言いたがっているからクラレンスは怪訝そうにシルマリルを見るばかり。彼女の言葉を待ちながら体を起こしたクラレンスは当然上半身裸で、肌寒さに気づき彼はベッドの上に脱ぎ捨てた上着を肩に羽織った。
 何も言わないクラレンスの目が、シルマリルを責めているように彼女には見えている。
男と女のお互いへの感情には明らかなずれがあって、クラレンスの中のシルマリルは少女である前に純粋で高潔で冒しがたい高位の存在で、手を差し伸べることさえ、触れることすらためらわれる。けれどシルマリルは彼に引きずられ翼を手放すことさえ厭わないほどに思いつめた。
ふたりの気持ちが重なることなど幻想に過ぎないけれど、それにしてもこのふたりのずれは致命的かもしれないほどに大きすぎる。
シルマリルは彼を思うあまり翼を捨てた女。ようやく望みかなえて翼を手放し、彼と同じように罪にまみれて、彼に寄り添い同じ時間を重ね始めた、けれど――――以前と同じに距離を取り決して境界線を踏み越えようとしない分別ある男の態度に焦れ始めていた。
しかしいくらシルマリルが焦れてもそれをどう表に出せばいいかを知らなくて、言葉に詰まり唇を噛みうつむいた表情で、皮肉なことに男はすべてを悟る。夜の帳が下りた宿の部屋の中明かりもともさずに、クラレンスはシルマリルの丸いあごに触れて目を伏せながら顔を寄せ、そして…………
 男の無骨な手がやわらかな日差し色の髪をそっとかき乱しわずかに開いた唇でシルマリルの前髪をかき上げてそのまま額に口づけた。とたんにシルマリルの体を痺れに似た甘い感覚が駆け巡る。
「っ」
 声にならないシルマリルの声、びくんと跳ねた体、少女の人格と肉体――――そのすべてを合わせると彼女が何を思い何を欲しがっているかわからないほどクラレンスは朴念仁ではない。むしろ生臭い経験も年齢相応に重ねている。
 けれど、しかし、シルマリルは天使だった。高潔で崇高な存在だった。
人間の少女と同じに好きな男の腕に抱かれ女になる望みを抱くとは思えないからクラレンスはぐっとこらえる。
こらえ切れなくなる自分が怖いから彼女を必要以上に偶像化して自分を下の存在と決めつける。
 触れてはならない聖少女、自分は彼女を守れればそれでいい。
壊すのが怖くて触れられない己の心をごまかして、かつてと同じに鎖をかける。

「……れじゃいや…………」

 もう我慢できない少女の花びらみたいな唇から、はしたない細い声が漏れた。それは確かにクラレンスの耳に入り唇を押し当てたままの彼のひとつしかない目がまた見開かれたけれど、直後男の目から色が消えた。
「おやすみのキスは唇じゃないだろう?」
 クラレンスの選択は「聞かなかったことにする」。シルマリルの精いっぱいの、か細い懇願を、この男は聞かなかったことにしてもう一度、今度はやわらかな髪に口づけて唇を離した。
クラレンスはシルマリルを神聖化しすぎてもはや偶像に等しい見方すらしているけれど、彼がもうひとりの彼女を愛する男・ロクスだったなら。
彼がロクスならば額にキスなどしない。天使だろうと女に変わりないと嘯き少女を容赦なく女にすることだろう。
しかしクラレンスにはあの男のような無謀な情熱どころか男の本能から来る激しさすら欠落している気配があり、男のなんたるやすら知らない生娘にねだられても聞かなかったふりをして額と髪へのキスだけで夜を終わらせようとしている。
シルマリルは今や一度死んだ男の縁、クラレンスのすべてとなり存在しているから、彼はそんな女を己の体で傷つけ汚すことなどできずにいる。花のように、花よりも蝶よりも美しい少女をいつか女にするのが自分だとしても、今はまだその時ではないともっともらしい理由ばかり並べてすべてを飲み込む。
もしシルマリルがクラレンスの胸の内を見透かすほどの慧眼を持っていたとしたら、彼女はこう思うことだろう。

『いつかって、いつですか?』

――――口に出す出さないは別として。
 拒まれたシルマリルは、拒まれたのに唇を外しただけで離そうとはしない抱き寄せようともしないクラレンスを揺れる眼差しで見上げ、その視線への男の答えは「視線を外す」……臆病な男へのもう一押しが思いつかなくてふるえるばかり。
天使の彼女が手にした力は人など及びようもない知恵だけど、人間の不浄な行いに隠れる感情の隙間など知ろうはずもない。
 だけど、シルマリルはもう天使ではない。信仰の対象、力の象徴でもあった純白の翼は今触れている男と引き換えに失い、魂はそのままで肉体構成を人と同じ時間の制約を受ける罰を科された。けれどこの男はそれっぽい理由ばかり並べてはシルマリルにまだ夢を見続けている。
 だがもうお互いに夢ばかり見られない。シルマリルはひと足早く心だけ大人になり、彼女の唯一の男を求めたくてしかし欲している自分自身の感情も感覚も知らなくてもてあましていて、そんな彼女の手を引けるのは、今少女を抱きしめ幼子をあやす所作で彼女をなだめている臆病な大人しかいない。
クラレンスは抱きしめている腕を解けないくせにまだ迷っている。
「……シルマリル、お前……女になったか?」
 低い声が髪に降り、シルマリルがびくんと小さく跳ねた。けれど彼がなにを言っているのか、言葉の意味がわからない。
「おかしなとこから血が出たとかその時具合が悪かったとか……」
 おそらくシルマリルには知識だけがある。知識はあるけどそれを自分に当てはめて考えることはなかったろう。
クラレンスは男だし学もないから詳しいことはわからないけれど、女の体が一時的に変化することは知っていて、シルマリルぐらいの見かけの女ならおそらく、多分……しかし…………
「俺が何言ってるかわかるか?」
「……ごめんなさい」
「いや、別に謝られるこっちゃないから気にするな。」
 クラレンスはそう言いながら、もう一度シルマリルの細い髪をかき乱しつつやわらかな頬を両手で包み込んだ。そして彼女を少しだけ上を向かせ視線を合わせて、直後ゆっくりと目を伏せながら少女が待ち望んだ唇を重ねた。多少遊んだ男は何も知らない少女の唇をいただいても妙な真似はしないで重ねただけで、クラレンスはすぐに一度閉じた瞼を開きながら無意識のうちに視線を絡める。
初めての唇に薄闇の中でもはっきりとわかるほどシルマリルの頬は紅潮していて蒼い瞳は別の理由で潤んで揺れて、朝露をしっかりと抱きしめた花びらのような唇は半開き、年上男を見る眼差しははしたなく濡れていた。
 間違いようもない。天使様だった無垢な少女が女として目を覚ました。
それでようやくクラレンスは気がついた、裸の胸に感じるやわらかな質感は女の体そのもの。細いけれどやわらかな質量を持つ女の体は羽化前の蝶と同じ、少女の蛹を今破りそこから大きく美しい、翼ではない翅を広げようともがいている。
「……いいんだな? 処女なくすのって痛いらしいが」
「クラレンスはいつならその覚悟ができるんですか?」
「……悪い。野暮だな。」

 ならば。蛹から出るために伸ばされた小さな手を、細い腕を引こう。
それはこの世界でただひとり、己にだけ与えられた特権だから――――

「…………いい子だ。」
 意味のない言葉を囁きながら、クラレンスの強さを取り戻した腕がベッドに浅く腰掛けていた小さな体を引き寄せた。そして羽織っていた着慣れた上着を脱ぎ捨て素肌を露にし下着に等しい寝間着姿の少女と共にベッドに倒れこむ。

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2009/002/10