■□ 裏切り □■
― 14:轍 ―
ヴァイパー
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エピローグ
あとがき
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アンケート(別窓):
ヴァイパーED後話はあり?なし?
次に攻略してほしいセヴン
その城は幻影とは思えぬほどに確かに存在していた。
千年前も伝説の舞台となったドライハウプ湖の上に、それは再び現れた。
ドライハウプ湖。箱庭世界アルカヤが人間だったら心臓を思わせるような位置にある大陸最大の湖。エクレシア教国領内にあるのは、人々の祈りと言う宗教の鎖でそれを縛るためだろうか。
それまでは血生臭い伝説など子どもの妄想かと思わせるほどに穏やかな湖だった。
千年前にアルカヤが今と同じように破滅へと追いやられた際の舞台が、ここドライハウプ湖だった。
そこに聳え立つかのように再び現れた破滅の根源は言いようのない圧迫感を放ちながら、箱庭世界程度いつでも壊せると言わんばかりにただ静かに来訪者を待っていた。
その城の主にとって最大の脅威であるものの来訪を、静かに待っていた。
「……嫌な静かさだ。気が狂いそうな、ってのはこういうことなんだろうな。」
そして、ついに来訪者は城門をくぐった。
男の重い足音も、低くポツリとつぶやいただけの声も、反響すらせずに空間に吸い込まれてゆく。
先の見えない回廊はこの世界の行く末まで暗示しているかのようで、夜の闇と青い静寂で塗りつぶされた中にのびるビロードのような赤絨毯も、何もかもが伸びた先を闇に吸い込まれている光景は、下手な恐怖より人間を狂気に落としそう。
千年前の来訪者は3人と一柱、力持つ天使と力持つ3人の人間。
しかし今度は違う。今にも折れそうな細い一柱の天使と、かつて悪魔の手先だったろくでなし一人。天使はただ頼りなく、ろくでなしは罪にまみれている。
静寂の中にある音は、男が口を閉ざせば彼のゆっくりとした重い足音のみ。大柄な男の履いた底の厚いブーツが磨き抜かれた光沢を持つ床に敷かれているビロードの絨毯を踏みしめる音は大きくなくて、彼の言葉が表すように「気が狂いそうな」静寂がそこには満たされていた。
強面ですらある大柄な隻眼の青年は一見丸腰で、圧迫感満ちる災厄の中心に来るには身軽通り越して無謀にも見える。しかしひとつしかないターコイズブルーの目は鋭く辺りを伺いつつ緊張の糸を切らずに気配を探り続け、無防備に見せながら隙はないと不思議な緊張感を漂わせていた。
笑いながら眉はわずかにつり上がり、薄ら笑いを浮かべた口元も挑発のよう。
彼の傍らにはただ美しい金の髪の少女の姿の天使が、彼の目線より高い場所で宙に舞っていた。彼女は彼とは正反対、己の中の不安を隠しきれない様子で、余裕などまったく、かけらもない様子で緊張しきりで宙を舞う。
男が腰のベルトにかけていた指をはずして、指先だけを己の方へ二度三度と動かし彼女を促した。そのサインを読み取ったのか、天使様はふわりと幻想的な仕草で、淑女のようなしなやかさで彼の隣へと舞い降りる。
羽ばたきにあわせ踊る金色の髪が星を振りまくみたいに美しい。
コツ、と軽く床を叩いた爪先の音の軽さが物語るように、天使様は男の隣に立つと驚くほどに小さかった。
「嫌になる静かさだ。せめておしゃべりでもしながら気楽にいこうぜ。
どうせヤツらのことだ、俺たちが城に入ったことなんてとっくの昔に気づいてる。」
「……そうですね。息を潜めても神経をすり減らすだけなら…………」
「そういうこと。固くなってちゃうまくいくことだってしくじるだけだ。」
足音がふたつに増えた。静寂の中に会話が響……かずに吸い込まれる。
気楽な雑談に聞こえる会話はそれでも止まらない。
気を紛らわせているだけの雑談を止めては静寂に呑まれてしまいそう。
天使様は男より足ひとつ分だけ後ろから、彼と同じ速さで歩く。粗野に見える男の足音の調子は一定で、それが彼女の速さに合わせていることが、彼女が隣に来たことで初めてわかる。
彼の強面の外見からは想像しづらいほどに、その配慮は細やかだった。
仰々しい石柱は一定の間隔で何本も存在していて、それがさらに招かれざる来訪者の感覚を狂わせる。
すべてが無造作でもあり、すべてが巧妙な罠でもある。男の「気楽に行こう」と言う言葉は、自らの精神的不安がもたらす自滅を回避するための無意識の自衛でもあった。
緊張しきりの天使様も少しだけ彼の言葉に従って、己が生み出す重圧での自滅は何とか逃れている。
いつも裏の世界、瀬戸際、危険と背中合わせで生きてきた、罪にまみれたろくでなしの彼だけど、己の置かれた状況に、行動する前に絶望するような性質の男ではなかった。
勝つためにはなりふりかまわない彼の矜持から生まれる処世術は、高位の存在のはずの天使様に頼もしかった。
「ま、初手が俺みたいな神経おかしいヤツでよかったな。
お前が次来る時の参考ぐらいには」
「あなたで終わらせましょう、クラレンス。」
足音がひとつ止まった。追いかけるように重い足音も止まる。
彼はこの空気に耐えられても己の反逆に自信などなくて、勝てる保障も根拠も自信も切り札も何もなくて、それが思わず言葉に表れた。
「次を考えては油断が生まれます。……いいえ、戦う力を持たない私です、次なんて……おそらくないでしょう。」
次などない。次があったとしたら、その時この男は、そしておそらく彼女もこの世にはいないことになるだろう。
かつてのように高位の天使と3人もの力持つ人間たちではない、天使は甚だ頼りなく、人間はたったひとり、しかもかつて悪魔の手先だった。
たとえ彼の気持ちは天使に、彼女に帰依したとしても、悪魔は契約の代償に魂を鷲掴み手放さない。彼は運がよければ廃人、おそらく高い確率でボロ布のようにいたぶられ惨めな死を与えられることだろう。
彼女も同じで、戦う力を持たない慈愛の存在に、たとえ自衛だろうと抵抗の手段などない。
抗う力持たぬ美しいだけの女がどうなるかは、人間ならば顕著なもの。彼女が高位の存在でも敵も同じに高位の存在、弱いものの末路は同じ。
この美しい少女が汚辱にまみれる姿を一瞬思い浮かべそうになった男は、強い意志でそれを脳内からかき消し唇を一文字に結んだ。
彼女の言葉で目をそらしていた現実を目の当たりにした。
……どちらにも、次などない。
かつての彼と同じ、おどけたような飄々とした物言いに少し笑ったような言葉尻は、聞くだけなら恐怖に神経が麻痺しているかのように聞こえるだろう。
けれどもう一人の同行者、一柱の天使様にはその言葉が悲しかった。己の価値を、存在意義を自ら否定しているような物言いに、自分を大事にしない自暴自棄な振る舞いに、天使様は何度振り回されたかわからない。
「私はあなたを残してここから出るつもりはありません。
一緒に出ましょう、クラレンス。」
天使様の半歩前を歩いていた男の表情から、笑みが消えてしまった。
この城の主らにとって、侵入者すなわちそれは邪魔者に他ならない。邪魔者を見逃すほど甘くないから、城門をくぐった以上ここを後にするには城の主を倒さなければならない。
それがかなわなければ、天使は翼引き裂かれ闇を這いずるものの贄に、裏切り者の人間風情は死体となり打ち捨てられることになる。……「次」など、どちらにもない。
男は恐怖に麻痺した己の命を軽んじて、己の無事より逃げる算段、次を考えそれを己の支えにする。
けれど女は厳しい現実から目をそらさない。この回廊が一本道なのと同じで、自分たちの行く先も一本道。
失敗すれば帰り道などなくて、道が断ち切られるだけ。
金絨毯の両端を縁取る金刺繍がまるで道に刻まれた轍のよう。
轍の先は闇に吸い込まれている。
ごまかすため、気を紛らわすためとはいえ、無神経な物言いをしてしまった。
クラレンスは恐怖心が麻痺した自分を自覚したつもりでいたけれど、それを上回る恐怖の存在を間近に感じると、自分の中にも確かに恐れが残っていたことを思い知らされた。
ただ、他の人間より恐怖心が弱いだけ。そして他人事のようにしか捉え切れていない。
一度死を覚悟した自分だから死への恐怖を少し達観してしまっただけだと言うことまでクラレンスは頭のどこかで気づいている。
素直に恐怖を表に出し怯えている天使様の恐怖を肩代わりしたい気持ちが恐怖を上回った。
……まだ、人間らしい、男の感情が残っていた。
クラレンスは天使の目指す大義のためではなく、惚れた女を己の手で守りたいから、強いヤツだろうと相手取り戦うだけ。
惚れた女が天使だっただけの話。
単調な光景と回廊とふたり分の足音はまだ続いている。
会話はいつの間にか途切れ、相変わらず他の気配はまったく感じない。
気が狂いそうな静寂の中、クラレンスはかつてのようにぼんやりと思案に沈む。以前は取り留めのないことにも至らない、自分でも何を思っているかわからない空虚の中をただ漂うだけだったけれど、無様に生き戻って以降はそれに一応の中身が生まれた。今思い返せば、その中にも不安の表れのようなものもあったような気がするけれど、今思い出してもどうしようもないから彼は自分の中に再び沈める。
伝説に語り継がれた存在と悪魔を討ち果たすための無謀な挑戦だけど、それを成し遂げたとして――――自分に残されるのは残りの人生と体ひとつ、そして手元に残った財産と呼べそうな額の金銭。自分が今武器にしているカードもそうだが、おそらく少し後ろをついてきている天使様を腕に抱けるはずなどない。
彼女の勇者なら心通わせすべてを乗り越え、と新しい伝説として語り継がれる想いもあるかもしれないけれど、クラレンスはあえてそういう言葉を口にしなかった。
己が何を思っているかは、26年生きてきた男としてそれなりに理解し目をそらさずに抱えている。
しかし、自分は罪にまみれた男。神の恩恵にあずかれようはずもない。
天使シルマリルは神の娘、穢れなき乙女。そんな彼女をクラレンスは陥れようと暗躍していた。何度その優しげな眉を寄せさせたかわからない。
ひねくれた子どもじゃあるまいし、好きな子をいじめて意地悪して好きだなんて告げられるはずなどないあれと同じ。クラレンスの場合中身が少し違うけれど、それが何かの理由にならないことを、誰でもない彼自身が痛いほどに理解しているから――――彼女の望みをかなえるためなら命など惜しくないとは告げたけれど、その理由はあえて口には出さなかった。
天使は人間の祈りを一身に浴びる存在、人間に愛されて当たり前の存在。
人間ひとり、男一人増えたところで重荷にすらならないだろう。
……それでいい。己の想いなど伝わらなくていい。伝わっても致し方ない。
彼女は大空を舞う真白い鳥、己は地べたを這いずり回る汚れた虫けら、いやそれ以下の存在。憧れは罪にならずともそれ以上望んでどうなるものでもない。
一瞬だけだろうと彼女の手を取れただけで、クラレンスは永遠に癒えることない渇きと永遠に涸れることない充足感の両方を手にしていた。
そして、己が必要とされた甘美な感覚だけを抱え孤独なまま流離うことだけを夢見描いて男は覚悟を決める。
たとえこの身骨まで砕けようと、髪の毛の一本まで、天使シルマリルへの供物としよう。
クラレンスは最後にもう一度毒蛇の牙と獲物砕く顎と甘苦く強い毒を手にし一撃にすべてを賭ける。
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2009/01/18