■□ 裏切り □■ ― 7:賽は投げられた ―
ヴァイパー、ロクス
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アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン


 まるで永遠の眠りを漂っているかのよう。
そう思う時点で永遠ではないと言うのは起きた瞬間にわかる。けれど、実際にいつ永眠してもおかしくないだろうことは感じていた。
 ヴァイパーがひとつしかない目をゆっくり開くと、己がまた横になっていたこと、そして記憶があいまいなことに気がついた。横になっている時間が長くなっていることを気持ち悪い湿気を含んだ生温かいベッドが何より雄弁に物語るが、それに対する恐怖や焦燥、苛立ちなど、おそらく当たり前に存在するだろう感情の類が彼の中からは失せて久しかった。
むしろ、よくもっているものだと自分に残された体力を意外に感じている。
 「見る」以外の感覚が著しく鈍っている。それはまるで削り取られてゆくかのよう。
寝汗で湿ったベッドに横になっても長時間眠れるなど、それは少しずつ、しかしはっきりと表に出るようになった。
五感すべてが失われてゆくのは、おそらくただひとつの大きすぎる負荷――――病がもたらす激痛を和らげるために、彼の意思を無視して彼の命をもたせるために施されているだろう外法による影響。彼が五感が鈍り始めたことを感じた頃からとにかく視力に神経を注ぐようになった分負荷は増大し、結果異変は加速度的に進行するようになった。
今では聴覚は常に耳鳴りがしているみたい、味覚は味を感じなくなってからどれほど経つかも思い出せない。かすかに触れたぐらいではすぐにはわからないほど触覚は鈍ってしまい、反面世界のすべてが目に痛いほどに飛び込んでくる。
そこにすべてを犠牲にしようと隻眼に焼きつけておきたいものなどもうないのに。
 少し視線を動かすと、すぐそばのチェストの上に、遊色の美しい宝玉が見えた。
それを手にした夜からどれほど経っただろう? 持ち去る直前、教皇庁の大聖堂、地下に通じる扉の前で大量に吐血した瞬間も痛みの類は感じなかった。泥酔し胃の中身をぶちまけるよりももっと軽い感覚しかなかったけれど、足元にぶちまけたのは確かに己の血だった。
思えば、それが最終警告だったのかもしれない。

 誰からの? それがわかれば苦労はしない。

 魔石を手にしたあの夜以来、ヴァイパーの部屋は薄闇に閉ざされた。
もともと虚無的で夜にならないと明かりなど気にも留めなくて、常に薄暗い部屋の中でぼんやりとするばかりだった。そんな中にある日突然光のベールがもたらされたけれど、ささやかな光は宝玉を持ち帰った瞬間に光をなくし存在そのものが掻き消えた。
それは美しすぎる少女の肩を包んでいた薄いショール、けれど、もう、返すことも出来ない。
密かにすがることも出来なくなった。
 薄闇の中再び気だるい眠りに戻らず、ヴァイパーは体を起こそうと試みた。
いつもは起きようともしないことが多いが、不思議なことに意思さえあれば体は動く。望めば走ることだって出来るだろう。ただ、宝玉を持ち帰った晩と同じ、いつ体が突然破壊されるかわからない。
今日もいつもと同じに起きようと思っただけで体は簡単に起きたが、研ぎ澄まされた視覚に飛び込んできた己の手の変貌ぶりに、ヴァイパーが愕然とする。
 骨と皮だけになったみすぼらしい手。大柄な男の手だけにそれは痛々しいばかり。
けれど、驚かず。慌てず。騒がずに。ヴァイパーは宝玉のそばに投げやっていた白い手袋を手に取りそれをはめた。
そうすれば多少ゆるくはあれども同情を引くような痛々しさだけは隠せるからそれでいい。
顔色の悪さなんて今に始まったことではないから誰も気になどしやしない。
 手袋をはめ。
 今ではゆるくなってしまった着慣れた上着を羽織り。
 唇の端に嘲笑を浮かべて毒蛇は頭をもたげた。
たとえ毒蛇自身がどれほど弱ろうとも、その毒は決して弱らない。
毒蛇の顎は弱ろうとも、ひと噛みの毒さえあれば獲物は仕留められるからそれでいい。
喉笛に噛みついておきながら仕留めそこなったまま死ぬなど、彼の自尊心が許さない。

 人呼んで『ヴァイパー』、クラレンス=ランゲラック。
毒蛇のひと噛みにも似た博打の勝負強さと破壊力に対し、人は彼にそのふたつ名を与えた。



「ヴァイパー、僕から奪ったものを返してもらおうか。」

 仕留め損ねた獲物を逃さないために、ヴァイパーは病んだ体を押し隠しわざと人前に姿を現した。場所はセルバ地方のコリエンテス、かつての根城だった六王国領と現在与しているグローサイン帝国に程近い、しかし仕留め損ねた獲物がいずれ統治するだろうエクレシア教国の辺境の町。勝手知ったる六王国領に逃げ込むのも、今の根城にしている帝国領に逃げ込むのもたやすい街道沿いの町で、毒蛇に噛み殺され損ねた手負いの獲物は誘われたことに気がつかず、いや気づいていながらあえてそうしたのかはわからないが、誘いに応じるみたいに牙を剥いて反撃に出た。
声をかけられるだろうことを予測していた、いや待っていたヴァイパーは、その呼びかけに応じ瞬きの回数さえ減らすほどの鋭さで声の主を一瞥する。
 昼間の町の往来の真ん中で、波打つ銀の髪と紫の瞳、端正な顔立ちと欠点が見つからない立ち姿を持つ麗しい青年が、視線だけで刺殺しそうな形相でヴァイパーをねめつけていた。その瞳と同じ高貴な色合いの紫のケープの下には豪奢な十字の金刺繍――――そう、彼は僧侶。
しかもただの僧侶ではない、いずれは宗教で一国を統治する立場に上ることを約束された、裏返せば逃れることを許されないただひとりの男。
教皇候補ロクス=ラス=フロレス。
死にかけている不良上がりのばくち打ちとは対極にいる存在。
「奪った? 何のことだ?」
 幸いだろうか、荒廃した世情を反映したかのように、町の往来というのに人影は見当たらない。一見、文字通りの一騎打ち。
 ヴァイパーの視界に舞う純白。それは天使の降臨のみしるし。
教皇候補の今の肩書きはもうひとつ、『天使の勇者』。教皇候補ロクスには奇跡の体現そのものである天使様のご加護がある。
今日は加護だけでなく天使様がご一緒しているらしいが、ヴァイパーが伏せた視線に隠しその存在を探してみても、視界に入る範囲にその姿は見えない。
金の髪青い瞳の美しい少女の姿の天使様の姿を見落とすことも見まがうこともない。ひらりひらりと舞い踊るのは天使の羽根、存在は確かに近いだろうに、ロクスはヴァイパーを警戒したのか天使様には隠れているように告げたらしかった。
複雑に見せておきながらある意味わかりやすすぎるロクスの態度はある意味可愛らしくて、ヴァイパーは彼の問いかけ、いや詰問をはぐらかしつつ苦笑いにも嘲笑にも見える微笑を浮かべた。
「とぼけるな! 僕を術中にはめて魔石を盗み出しただろう!!
 返さないと言うのなら……」
 当然、この緊迫した場面ではヴァイパーの態度はロクスでなくても相手の神経を逆なでするもので、血の気の多い教皇候補殿は信仰の象徴でもある十字を象った杖を構えるかのように握りなおした。そして半歩、いや己の足の大きさの分だけヴァイパーに向かい踏み込む。
「……力ずくでも取り返す。」
「おいおい、あれは賭けの代償だろう?
 賭けに負けて取られたからって腕ずくで取り返すってか? お前って男はつっくづくいい性格してるな。」
「妙な術にはめて巻き上げておいてもっともらしい口を利くな!」
「待てよ。言っただろう、暴力はなしだ。
 俺はケンカは弱いんだって。」
「……御託はそれだけか?」
「待てって。返さねぇとも言ってねぇだろ。……返すよ。
 ほら、ここに持ってる。」
 毒蛇が大きく顎を開いた。その口の中には、当然毒が滴る牙がある。
手負いで後がない獲物は案の定顔色を変えて、ヴァイパーがこれ見よがしに揺らして見せた球体が入っている皮袋を注視する。
「正直こんなもの俺にはどうだっていいんだ。」
 ここに至るまで、ここに至ってもヴァイパーに駆け引きはあれども嘘はない。
それが己の強み、駆け引きだと言うことをヴァイパーは知っている。嘘をついた時点で己の強さが崩壊することも当然知っているから、ヴァイパーはごまかすことは数あれど嘘はつかない。
嘘ではなく曖昧な言葉という屁理屈を使う。
確かに己が今手に持ちぶら下げている皮袋の中身は、大量に血を吐いてまで手に入れた教皇庁の秘宝中の秘宝。それを本来の守り手の目の前にぶら下げて、持ちかける駆け引きは
「友達がどうしても、って言うから、な。
 天使様、いるんだろ?」
 ヴァイパーの確信した呼びかけに、表向き交渉では押していたロクスがにわかに鼻白む。
彼の呼びかけのとおり、ロクスの天使は近くにいる。しかし姿を現さないようにときつく、きつく戒めた。
天使を戒めるなど不遜極まりないかもしれないけれど、ロクスの天使はまだ幼くて、あどけなくて、疑うことを知らなさすぎる。……いや、もっと単純、守ってやりたいから危険には近づけたくなかった。
それで一時不興を買おうと構わない、疑惑が証明できればそれは感謝に変わることを確信していたからロクスはあえて強い手段に出た。
けれどヴァイパーはそれすらも見越したかのように、ロクスを飛び越え彼の天使に呼びかける。
 ヴァイパーの強みはその臨機応変さ、感情を、真意を表に出さないしたたかさ。どんなに些細だろうときっかけさえあれば、どこからだろうと相手のペースを打ち崩し自分のペースに巻き込める自信がある。それを語るより雄弁にロクスに見せつけるみたい、ヴァイパーは交渉相手をロクスから彼の天使様に瞬時に切り替えた。
一対一の交渉だとばかり思っていた、気負っていたロクスは予想外の切り返しに隠してはいるが明らかに戸惑っている。
「ほら、天使様、とりにきな。」
 「彼女は確かに近くにいる」、ヴァイパーは信じ込もうとせずごく自然に呼びかける。
そして駄目押しとばかりに皮袋から盗み出した宝玉を取り出し、これ見よがしに差し出してみせた。
 呼びかけの直後ヴァイパーの言葉に応える形で、大きな、美しい、白鳥よりも白い翼をはためかせ、麗しい乙女が姿を現した。金の髪と青い瞳が印象的な、美しく愛らしい少女。
その背には彼女の体ほどもある純白の翼――――ロクスの天使シルマリル。
彼女は戦う力を持たない慈愛の天使。
その姿にヴァイパーの唇が一瞬、ほんの一瞬、待ちわびていたかのように邪気のない微笑を見せたけれど、それはすぐにかき消された。天使の姿持つ少女は宝玉を差し出す大きな手を、真意の読めない笑みを消さない男の顔を何度か交互に見、しかし己が交渉の道具にされたことを理解しゆっくりと手を伸ばす。
交渉の席から蹴られたロクスは、一瞬たりとも緊張の糸を切るまいとふたりの言葉のないやり取りを注視している。

「――――――――!!」

 小さな手が宝玉に触れた瞬間、つむじ風に蝶が巻き込まれるかのように小さな体が跳ね天使様が弾き飛ばされた。殺気立ちつつ身構えていたロクスは瞬時の判断で信仰の象徴であるはずの杖を放り投げ衝撃に弾き飛ばされた天使様ご自身をその両腕、いや体すべてを使い受け止め、全ての怒気を視線にこめヴァイパーを睨みすえる。が――――直後、愕然とした。
「っはは、間抜けが。」
 その声は確かに嘲笑いながら。
天使を受け止めるためとはいえヴァイパーに跪き、膝を、白い法衣を砂埃で汚したロクスを見下しながら。

 ヴァイパーの頬には確かに涙が一筋伝わっていた。

 しかし当人はそれに気づいていないような様子で、いや、ヴァイパーのこれまでの言動を振り返れば、たとえ交渉だろうと涙を見せるような人間ではないことはあまりにも明らかで、天使を放り出し手を伸ばせば奪われた秘宝が取り戻せる近さにありながら、ロクスは彼の様子の異様さに、抱えた天使の頼りなさに呆然とするばかり。
「おや? どうやらいらねぇみてえだな。
 じゃあ俺も長居する用もないことだし帰らせてもらうぜ。」
 その表情も口ぶりもロクスの知る、ロクスの思い描いていた、ロクスが懸念し続けたヴァイパー像そのものだったけれど、彼の頬に伝わる涙はいったい何なのだろうか?
ヴァイパーの変貌や真意、正体というのは、疑い続けた彼には自然に受け入れることが出来た。むしろあまりにも的中しすぎていて、いつもの彼なら誇らしいほどであるだろう。
けれど…………。
 今日の態度がロクスの思い描いていたヴァイパー像とすれば、理由のわからない男の涙が天使様の感じていただろうクラレンス像のよう。
この男の中で何が起こっているのか、当事者ではないロクスにはわからない、読めない。
 ロクスは泰然と場を去るヴァイパーの背中をねめつけながらも、傷ついてしまったか細い体を抱く腕に力を込めた。
悔しいなどという短い言葉では到底表しようのない、やり場のない負の感情が彼の中で激しく渦を巻き嵐へと変わるのに時間など要らなかった。

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2009/01/07