■□ 裏切り □■ ― 11:捻じ曲げられた運命の先 ―
ミカエル、ラファエル
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 筋書きを無視し即興で演じると必ずどこかで歪みが生まれる。
奇跡という最高の演出を見事に演じきったヒロインだったけれど、だからといって拍手喝采というわけでもなくて……
 天使シルマリルはひとりの人間の運命を捻じ曲げる奇跡を起こした直後、補佐を勤める妖精のシータスから、すぐに天界に戻るようにとの伝言を受け取った。
なぜ、どうしてなどという疑問はまったくない。どう考えてもほんの数時間前に己の勇者とふたりがかりで起こしてみせた奇跡に関してで、おそらく上級天使の誰かからの査問があるに違いない。
 シルマリルは確かに人より上の存在だけど、天使には重い戒律と厳格な階級が存在する。
天使なら大なり小なり人間が奇跡と呼び崇め奉る事象を存在の意思ひとつで呼び起こせるけれど、シルマリルが己の勇者である教皇候補・ロクスと起こした奇跡は明らかに戒律違反だった。
 人間ひとりの運命を書き換えるということは、全能なる神でもおいそれとは行わない。シルマリルとロクスは己の思惑と願望だけでそれを引き起こした。
あちこちでそんなことを行っていては、世界の理が崩れる。
 奇跡は常に惜しみない賞賛を与えられるとは限らない。優しいことには常に何かしらの犠牲が伴われる。
シルマリルはまた代償を払わされる。今までは分不相応な行いについての軽い叱責程度ばかりだったけれど、温厚で自信のないシルマリルにはそれでも重過ぎるほどの反省を促せた。
しかし、これまでとは明らかに違うことを聡い彼女は悟っていた。
 任を解かれたらと思うと泣きたくなる。けれど泣くわけには行かない。
泣いても何も解決しないのならもっとできることをやらねばならない。
シルマリルは己の性格だから気づかないが、彼女を慕う存在はすべてその性格に引きずられた。儚げな美少女という外見を持ちながらもその中身は強かでしなやかですらあり、己の感情にぶれても酔わない。
頼りなさげに見せて頼りになる存在。
 けれど、そんな彼女も天界に戻れば一介の天使、一番下っ端に過ぎない。
一番下っ端の天使が人間ひとりの運命を捻じ曲げ、死ぬ予定だった人間を生きながらえさせた。そこには人間の奇跡の行使者の介入もあり、おそらくその人間はほんの一瞬にも似たかりそめの生ではなく、断たれるはずのその先を紡ぎ出されたことになる。
そのことが世界にどれだけの歪みを生むか、シルマリルがいかに賢しかろうとその先にまでは到底考えが及ばなかった。
 長い赤絨毯の回廊を歩く道のりは、今まで何度も通ったはず。なのになぜ今日はこんなに長いのだろう? またこの赤絨毯を、今とは逆に戻れるだろうか?
天使の戒律違反は人間の僧侶のそれとは意味が違う。ともすれば逃れるために闇に落ちるものすらいる。
すべてを押しつぶしそうな不安が彼女を襲うけど、それに脅えている暇などない。

「おお、シルマリルか。」

 その呼びかけに細い肩が大きく跳ねた。
己のしでかしたことの大きさに顔を上げることさえままならないままで歩いていた幼い天使は、己の名を呼ばれても顔すら上げられない。
その声には覚えがあるけれど、覚えがあるだけに顔が上げられずにいる。
その声の主はおそらく文字通り天使の長であるミカエルだろうことを、シルマリルは記憶の淵から探し出していた。
己らの首長に、己の不遜をどう申し開きをすればいいのかシルマリルは知らない。
「……その様子ではラファエルに早速呼び出されたか。
 天界はお前とお前の勇者が起こした奇跡で話は持ちきりだ。」
『申し訳ございません』
 シルマリルの口からはお決まりの文句ひとつ出てこない。気の小さな少女の口から口答えなど出るはずもない。
いっそ天使長の口から、今ここで追放の宣告を受けた方が楽かもしれない――――ミカエルの顔すら見上げられないまま、シルマリルはカタカタとふるえるばかり。
「幼いお前が起こした奇跡、……いや、お前の後見はラファエルだ。俺が言うことではないな。」
 穏やかな声は怯えることなどなさそうにも感じるほどに静かなのだけれど、シルマリルに限らず天使は激昂することがごく稀で、たとえ重大な話だろうと彼らの中では淡々と進むなど彼らにとっては当たり前。
階級が上がれば上がるほど、その言動すべてが温厚という起伏の少ないやり取りへと変わる。
「しかし……よく選んだ。お前の選択が何をもたらすかはわからぬが、誰もが同じだ。」
 しかし、その中でも、大天使長ミカエルは別。彼は人の世では『神の剣』として語れらることもある勇ましき存在。
時に天使すべてを鼓舞し軍を率いて躍り出る。
その勇ましき存在が、戒律破りのシルマリルの所業を知りながらも、声は穏やかに言葉を続ける。
「別の天使がお前の立場に立たされても、お前と同じに選ばねばならぬ。
 それが何をもたらすかは、お前だけでなく俺たちにもわからない。……だから顔を上げよ。
 いつまでもとぼとぼ歩いていても時間を無駄にするだけだ、時間がないのならば早くラファエルに会うことだ。
 それでは、な。」
 彼は一度も顔を上げられずにいるシルマリルを一度も責めず、穏やかな声色のまま話を終え、再び彼女の来た方へ向けて歩き出した。遠ざかる穏やかな足音が聞こえなくなる――――のを待たずに、シルマリルは顔を上げしっかりした足取りで歩き出す。
ミカエルの言葉で戒律破りに対する恐怖が薄れたわけではないけれど、だからといって己の選択が過ちだったとは思っていない。
悪魔の手先・ヴァイパーをその運命に従い見送らず、クラレンス=ランゲラックを無様に息吹き返させたことは後悔していない。
大天使ラファエルに対し申し開きはしない、けれど最低限の報告はしなければならない。
立ち止まっている暇などない。彼女の守護する箱庭世界アルカヤにはもう時間はなくて、滅びの魔手がすべてを掌握することを阻止するのがシルマリルの使命なのだから、己の信ずるままに責務を全うするのみ。


「ラファエル様、シルマリルです。」


「入りなさい。」
 光も漏れぬほど重々しく閉じている大きな扉の向こうから聞こえた声は、聞き慣れた穏やかな声だった。シルマリルは一瞬躊躇し息を呑んだけれど、促されるままに両開きの扉の片方を開けてまずはいつもと同じに頭を下げた。
 赤絨毯はさらに続く、広い回廊の真ん中に敷かれていた赤絨毯の縁の金刺繍が伸びた先に机があり、その向こうに、長い黒髪の穏やかな面差しの青年――――大天使ラファエルがいた。
「……全能なる父さえ起こさぬ奇跡を起こしたそうですね。」
 いきなり切り出された用件にシルマリルが再び息を呑む。開き直りの覚悟は定まっても性格が劇的に変わるはずなどない、気の小さなシルマリルは思わず身を強張らせラファエルから目をそらした。
「ひとりの人間の運命を変えるということは、どれほどに些細なことでもその後のすべての流れが変化を余儀なくされます。
 それは理解していますか?」
「………………はい。」
「ならば答えるのです。
 クラレンス=ランゲラックをどうするつもりで命長らえさせたのですか?」
 穏やかに核心に迫った言葉は逆らうことを許さない。それも天使の魂に刻まれた戒律。
幼いシルマリルが逆らえるはずなどない。

「どうするつもりもありません。私の思惑と彼の意思は違います。
 ……私は彼の善性を信じていました。」

 嘘も。偽りも。天使は口にしない。シルマリルは口にできない。
天使の性質でも戒律でもない、シルマリルという個はどれほどに残酷だろうとすべてに対し誠実で、決して嘘をつかない。
それは一見潔いけれど、それは彼女に重過ぎる重圧を科している。
己の性格に押しつぶされそうになったシルマリルを、今回運命を捻じ曲げられたクラレンスは笑い飛ばすことで受け流すことでからかうことで気を紛らわせていた。
それは理屈ではない。シルマリルにしかわからないこと。
「悪魔の尖兵と化した彼の者の善性を信じた、そういうことなのですね?」
「…………はい。」
「それで、どうなりましたか?」
「……彼は息を吹き返しました。」
「それはあなたにつけたシータスから報告されています。
 クラレンス=ランゲラックは今後どうすると言いましたか?」
「かつていた場所には戻らないそうです。」
「その言葉は信用できるのでしょうか?」
「嘘は駆け引きのすべてを水泡に帰するのみでなく、形勢を逆転させる可能性を生むから用いないというのが彼の矜持のようですので、信ずるに値すると思っています。」
「根拠はありますか?」
「彼らはそれぞれ美学を持ち、それに生きる意味を見出している類の人間です。それを自ら踏みにじるときは己の個の死に等しいとまで考えていると思われます。
 他の事に対してはどのようになろうとなりふり構わないでしょうが、……己の生きる道を歪める者ではないと信じています。」
「あなたの推測を証明できますか?」

「推測は私の希望も含まれているかもしれません。
 しかし、彼は息を吹き返したあと、それまで命を預けていた悪魔の力の源と思われる呪具に触れませんでした。」

 静かな、張り詰めたやり取りのあと、シルマリルの言葉のあとに圧迫感を伴う静寂が訪れた。シルマリルは聡い、しかし幼くて己に自信がなくて、重圧がなければ高い分析力に基づいた状況説明ができるけれど、己の私見が少しでも入ることになるとたちまち説明が下手になる。
今まさに彼女の致命的な弱点を露呈しているけれど、露呈してしまった相手は彼女の後見をつとめるラファエルだから――――
「……そうですか。ならばあなたに誓ったという言葉は嘘ではなさそうですね。
 クラレンス=ランゲラックはシルマリルの、ひいては我らの助力者となったと考えましょう。」
「え………………?」
「え?とはなんですか、シルマリル?
 あなたは彼を信じたのではないのですか?」
「え、あ、あのっ……私、は……ものの見方が甘いと、勇者たちにも言われているので…………」
「確かにあなたは己以外のすべてに対し優しくなりすぎる欠点があります。しかしアカデミアを首席で卒業した事実は、あなたの才覚と適性以外のなにものでもないのです。
 それだけははばかられることなく誇れるものですよ、シルマリル。
 絶大な力を有している呪具を一度手にすると、すべての望みがかなえられるほどの力を与えられた錯覚にとらわれます。それを手放すことは想像を絶する苦痛に似た不安をもたらすでしょう。
しかしクラレンス=ランゲラックは何かしらの思惑があり悪魔の呪具を手放したのならば、少なくとも揺らがぬ意思の持ち主だと言うことは間違いないと思われます。」
「あ、はい……悪魔の……彼の場合は精霊力を封じたカードですが、それはおそらく彼らを統べている人物に、もしかしたら真の敵につながっているだろうから、触れたら自分が生きていることを悟られる、と…………」
「そうですね。その見立ては概ね正しいと思います。
 我らもそうですが、彼らは下僕としたものの造反を許しません。彼は逃れられぬ死を諦めという形で受け入れていたようですし、我らに与してもさしたる利はないでしょう。
 悪魔に追われるかも知れぬ危険を自ら背負うことを承知しているのでしたら、彼の者はおそらくシルマリル、あなたの存在により変化したのでしょう。
 その変化が何をもたらすかは、今はわかりません。しかし悪魔の利にならぬことは確かです。
 意志弱い者が我が身可愛さに命乞いをしたわけではなく、洞察力持つ強かな者が苦難を承知の上で変化を受け入れたのです。選択された我らは彼の者を守らねばなりません。」
 いつしか緊張感は薄れ、ラファエルはゆっくりとシルマリルから視線を外し大窓の向こうに広がる天界の景色に目をやった。
「シルマリル、ひとまずは翼を休めなさい。そして目覚めたら私の元へ来るように。
 クラレンスがカードを使うことを生業としているのなら、悪魔のカードではなく聖なる加護ある精霊力のカードを用意しましょう。
 武器も持たずに悪魔から逃れるなど無謀でしかありません。」
「ラファエル様」
「もう下がりなさい。シルマリル、あなたには時間がありません。」
「………………はい。それでは失礼します。」
 シルマリルは赤絨毯を、来た時と同じに歩いて戻る。
ミカエルも、ラファエルも繰り返した「時間がない」という言葉はシルマリルが一番感じている。「時間」とは終焉までの残り時間のことでもあり、丸腰で逃亡を選んだクラレンスのことでもある。
残された時間はいくらもないことをシルマリルは知っていて、今さら彼女を戒律破りとして任を解き更迭しても一時の体裁が保たれるささやかな利しかないのならば、大天使は実を選び彼女の選んだ変化の道を見守ることを決めた。
そもシルマリルの任は「アルカヤの運命への介入」、すでに決められただろう滅びへの運命を捻じ曲げ用意された結末を変えてしまうことだから、その途中でどんな変化が生まれてもおかしいことではない。
 千年前に今の彼女と同じに運命を捻じ曲げたものとして、ラファエルは彼女を責められなかった。
シルマリルの罪を断罪するということは、己もかつて彼女と同じ戒律破りを犯したこと、そして彼女の後見としての罪に照らし合わせて断罪せねばならなくなる。
戦う力を持たない幼い天使さえも守護者として送らねばならぬほどに逼迫した状況の中、すべてを理詰めでなど語れようはずもない。
シルマリルの選択がそれを顕著に物語っている。



 そして地上で一日費やした後、シルマリルの手に一組のカードが手渡された。
それは神の加護宿る奇跡のカード、かつては悪魔の契約の元に精霊を従えていたカードが、今度は神に祝福されし宝物となった。
カードの背に施された意匠は純白の羽根一枚と清かな水仙の花ひと束、水仙はそのカードを与えられる男を守護している天使の御印でもある。

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2009/01/12