■□ 裏切り □■ ― 10:奇跡の価値は ―
ヴァイパー、ロクス
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intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン


 女の小さな手が鮮血に染め上げられた。
彼女が呆然としてる瞬間、彼女のそばに大柄な男が血だまりの中倒れ伏した。ふたりのまわりと血だまりの中にはターコイズブルーの意匠のカードが美しく散らばっている。
 ついに終わりが来た。倒れた男は指先すら動かないことを確認すると、体を己の血で真っ赤に染め上げながらわずかに笑った。
それが己の精いっぱいだと言うこと、残された力はおそらく二言三言を弱々しく発する程度だと言うこと、それが小悪党には似合いの惨めな末路だと言うこと――――26年の短い生が脳裏を鮮やかに駆け抜けてゆく。
そして最後を飾るのは、すぐそばで呆然と言葉を失う金の髪の少女のかつての姿。
まぶしく優しいあどけない笑顔。
それが色褪せた直後、男の重い足音が聞こえなくなっていた耳に飛び込んできた。
「……言い残すことはあるか?」
 穏やかな、いや抑えた男の声が倒れ伏した体に降って来る。
それは今去り行くものを見守る光のようでもあり、惨めな末路をたどる愚か者に止めを刺す言葉の矢のようでもある。今去ろうとしている彼は言葉を紡ぐ余裕は残っていても特に言いたいことが思いつかなくて、笑ったまま何も言わずに目を閉じた。
「クラレンス!」
「…………触る……な……」
 しかし彼の最後の心象風景を飾った彼女の悲鳴にも似た呼びかけを聞いたなり、聞こえるか聞こえないかぐらいの声の細さで彼女の心配をはねつける。
そして再び目を開くと、ひとつしかない目に残された視界のふちが黒くぼやけている中、笑顔ではない彼女が確かにいた。
 ずいぶん悲しい顔をさせてしまった。
 最初は笑顔の優しさばかりがいつまでも瞼の裏から消えないほどに印象的だった。
 どうせ限りなく巡る苦痛の中へと送られるんだったら、それに耐える拠所に彼女の笑顔だけを抱えて行きたい。
ろくでなしと知りながらもただ優しかったわけ隔てない存在に巡り会ったことは、ある意味幸福だったのだろう。

 だから。できるのなら自分のことなどきれいさっぱり忘れてほしい。
自分にとって彼女は救いだった、しかし彼女にとっての自分は傷でしかないから忘れてほしい。

 忘れてほしい、だから何も言い残すことなどない。
遺言を聞こうとした声にも言うことなど何もない。謝罪も、憎まれ口も、手すら取れぬまま名残を残す彼女を頼むなどという戯言すら――――負け犬の遠吠えを残すほど落ちぶれたくない。
「クラレンス、クラレンスしっかり!!」
「……そのくらいにしろシルマリル。君は天使だろう。
 ヴァイパー、言い残すことはないな?
 僕は天使の勇者として、お前を葬らない。悪魔の手先になった人間の末路を教訓にするのも……教皇候補の役目だ。」
 そう。それでいい。冷たくなどない、むしろこの男は冷徹になりきれない。
甘さを残す男だったからつけ入る隙がいくらでもあった。
 もう名を呼ぶ悲痛な声もやんでしまい、最期とはなんて静かなのだろう? 聞こえるのは弱々しい己の鼓動だけ。
麻痺という名の悪魔の与えたひと時の安息のおかげかそれとも感覚が先に死んでしまったのか、苦痛の類も何もない。
ただ、少しだけ息苦しい。けれどもうじきそれからも解放されるのだろう。
26年とは長いのか短いのかはわからないが、少なくとも、自分にとって終盤直前に不意に与えられた穏やかな日々には確かに意味があった。
他の誰の記憶に残らなくても構わない。むしろ残してほしくない。
こんな惨めな末路なんて残されても恥と心残りにしかならない。
だから

 鼓動が、聞こえなくなった。



「クラレンス……?」
 金の髪の天使様が、純白の翼を大きく震わせる。
「クラレンス、クラレンス……あなた……!!」
 悲痛に繰り返される無駄な呼びかけに、傍らに立っていたロクスは静かに目を閉じた。
ヴァイパーは死んだ。天使の勇者たる自分との激闘の果てではなく、病に倒れ惨めに死んでいった。
白手袋と上着の袖からわずかに見える腕の細さから察するに、彼の病の重さは、常人ならばすでに身罷っていたほどのものだったろう。それを戦えるほど、敵の顔に傷をつけるほどの身のこなしを見せるほど保っていたのは、目の前で震えている彼女と対極の力のもたらした一種の奇跡なのだろうか?
ここはおそらく死にぞこないにかりそめの命を与えるほどの存在の強大さに脅える場面かもしれないけれど、ロクスは脅えも悲しみも怒りも何も感じなかった。
 ただ、空虚。似たもの同士の近親憎悪、死んだヴァイパーの考えていたことをなんとなく察したから、泣くに泣けずにいるシルマリルを慰める言葉も思いつかない。
言葉ではシルマリルを慰められない。
ロクスは目を閉じたまま、ほんの一瞬、瞬きほどの時間思案に沈んだ。

「シルマリル、奇跡を起こすぞ。」

 目を開いたロクスの強い言葉に、血だまりの中衣を汚していることも厭わないシルマリルが涙のない泣き顔のまま顔を上げる。
言った直後ロクスは金十字光る紫の上着を跳ね上げ、僧侶らしく白手袋で包んでいる手から手袋を外し後ろに投げた。
「き、せき…………?」
「そうだ。君はこいつの魂とやらを引き止めて見せろ。僕はこいつの体を強制的に治療する。
 天使と癒しの手が同時にいるからできる奇跡だ、同時に君はありったけの祈りを僕に向かって全能なる父に捧げるんだ。僕の教えられたことが人間の都合に合わせて捻じ曲げられた解釈じゃなければ」
 ロクスはうつぶせのまま息絶えてしまった、まだ体温残るクラレンスの背中に、奇跡宿る癒しの手で触れる。
「……僕を触媒にして神の奇跡を直にこいつに叩き込める。」
 癒しの手、それは神がロクスに与えた祝福されし呪い。
神に祈らず、精霊との契約なども必要なく、己の力と意思だけで他者の体を癒すことができる異能を宗教国家エクレシアでは「癒しの手」と呼び、それだけが教皇庁の長・教皇になるための唯一の資格となる。
かつて天使の勇者で、後の初代教皇であるエリアスがその力を持ち、ロクスは自覚薄いが「エリアスの再来」とまで呼ばれるほどの力を有している。
その力があったからロクスは平凡な市民から宗教国家の元首になる資格持つ教皇候補へと住む世界を変えさせられ、彼は見なくてもいい世界を目の当たりにさせられた。
己の奇跡を呪わしくすら思っていた。
 しかし。今なら何かが見いだせそう。己のために無様に命を落としたこの男を利用するだけ。
己の長い反抗期を収束させるために死人を利用するおぞましい決別だけど、人間は誰もがおぞましい。
むしろ無様なはずのこの男は清々しく潔い。
その生き様は羨ましくすらあったからロクスは彼を憎むふりをし続けるより他はなかった。
「そ、そんなこと」
「できないなんてのはやってから言え! 素直に泣けないんだったらやることやれよこの役立たず!!」
 もともと気性の荒いロクスの激しい恫喝にシルマリルがびくんと身をすくめる。
「一か八かなんて今までだってそうだったろ、ちょっとばかり難易度上がったからって尻込みか?
 幸い天使様の御手にはこいつの血がべったりだし、祈りの儀式も魔術の儀式も元をたどれば契約なんだ。時間がない、やるんだったらさっさとやれ!!」
 強く促され、シルマリルが両手を震わせながらも手を合わせ、指を組み、そして目を閉じた。彼女が祈り奇跡を呼ぶ瞬間、彼女を中心として光の粒が煌びやかなほどに舞う。
その姿こそまさに天使、祈りをささげる乙女が純白の翼を大きく広げた傍らには癒しの手持つ教皇候補がたった今息絶えた男に跪き、ありったけの力を注ぐべく覚悟を決める。
ロクスとしてはこの男にここまでする義理などない。むしろ厄介ごとに巻き込んだり大事な天使様を傷つけたりと恨み骨髄。しかし、だからこそ一瞬だろうと息を吹き返したこの男を一発ぐらい殴るぐらいしないといつまでも恨みばかりが残ってしまう。
何より、こんな結末は幼い天使様には重過ぎる。翼折れてしまってもロクスにはどうにもしてやれない。
駄目なら駄目で構わない、むしろ潔いあきらめぐらいはつく。
そこから始めることだってできる。
「奇跡は起こるのを待つもんじゃない。起こすもんだ。
 天使と教皇候補が雁首そろえておたついてちゃ笑いもんになるだけだろうが。」
 誰のためでもない、自分の思惑と都合のためにロクスはシルマリルを利用し奇跡を起こすと大見得を切った。
「起こらない奇跡なんて意味も価値もないんだよ。」
 彼女がいれば起こせると確信したから起こしてみせると言い切った。
「神だってここで何もしないんだったら存在意義が揺らぐぞ。
 自分らの不始末を俺たちに押しつけて胡坐かいてるだけの無能者って言われるだけだ。」
 純粋な天使の祈りと打算にまみれた人間の思惑が幾重にも絡み合いその場に異質な力場を生み出されてから、いったいどれほどの時間が経っただろう? シルマリルの祈りはただ強く、ロクスの癒しの手は天使の力を得てさらに強くなる。
それでも一度体を離れた魂は戻らないのだろうか? 手のひらから感じる肉の感触は、かつてのヴァイパーと同じにロクスの必死な抵抗を嘲笑うみたいに彼の期待には応えない。
 そこに観客がいたなら宗教画さながらの光景に呼吸すら忘れることだろう。一心不乱に死者を癒す美しい青年の踊る銀髪と血のにじむ赤のように燃え上がる勢いを隠す紫の瞳と血にまみれた美麗な右顔面に、対照的、彼に折り重なるように祈りをささげる金の髪の少女の姿の美しい天使の純白の翼――――ふたりの奇跡の行使者を包む光の粒子。
「ばくち打ちが勝ち逃げのままだなんて許されると思うな、ヴァイパー!!」

「……カッコ良く死なせてくれりゃあいいものを腕ずくで引きずり戻す、たぁなあ……本ッ当、お前っていい性格してるな。」

 聞き慣れた憎まれ口を叩きながら、毒蛇は毒も牙も失いやせ細ったみすぼらしい蛇となり、血だまりから逃れるために寝返りを打った。
「殴るために呼び戻しやがったか、お前も相当しつこいぜ。」
「痩せぎすのお前なんて殴ってもしょうがないだろ。倒れた拍子に妙な所ぶつけてまたぽっくり、とか逝かれてもな。」
「それはどうも。礼がほしいか?」
「いらない。そのうち殴るからそれで相殺しろ。」
「おー怖。せいぜい逃げ回らないと。」
 奇跡は起こされた。死の運命にはさすがに逆らえない「癒しの手」が、死する運命も悪魔の拘束も打ち壊しひとりの男を死の淵から引きずり上げた。そこには奇跡の代行者である天使の存在があったけれど、まさしくそれは彼が起こした奇跡に他ならなかった。
そして奇跡が起こされたからと感謝されるとは限らない、というのもいつもの話。
ただ、後にそれを知った者たちが奇跡を起こした聖人として教皇候補ロクスに畏怖の念を覚えるだけ。
 今わの際、言葉を発することもままならなかったクラレンスが、ゆっくりとは言え身を起こし汚れていない袖でまず顔の血をぬぐい血まみれの上着を脱ごうとし……力尽きたみたい、自分たちの起こした奇跡に呆然としているシルマリルに気づき、ばつが悪そうに服のまえをあわせた。
「……ったく、お前も男なら考えてくれよ……俺が今どれだけカッコ悪いかとかさ。」
「抜群のタイミングで感動的に呼び戻してやったのに。」
「最悪のタイミングで感動の別れがぶち壊しじゃねぇか、バカ。」
「あんな死別のどこが感動だ。僕は殴って済ませるからいいが、シルマリルに言うことあるだろ?」
「……心の準備というか猶予がほしいんだけど」
「贅沢言うな。ほら!」
「う…………きっちり謝るために時間ほしいんだけどー……」
「甘 え る な 。」
 見慣れたやり取りに、シルマリルがようやく唇を笑みの形にし――――青い瞳を揺らしながら笑った。言葉全てがどこかに詰まって何も言えない。
「……で、これからどうするんだ?
 それとも殴られるのが怖くて借りっぱなしで逃げるか、毒蛇君?」
「逃げるのは逃げるけど、お前からじゃなくて今までの味方からだ。
 ヤツらから見りゃ、天使とその勇者に助けられた俺は裏切り者だ。
 見せしめにしないとただでさえ脆い関係が壊れるだろうし。」
「ま、そりゃそうだ。寛容が売りの天使じゃないしな。」
「結果お前の前から消えることになるだろうが恨むな。
 どうせおまけの人生だが、お前の言うとおり借りっぱなしでまた死んだ、じゃカッコ悪すぎる。」
「……どうせすぐには殴れないだろ、その体じゃ。しばらく消えてろ。
 でも」
 言葉を切ったロクスの紫の目が自分に向いたことで、シルマリルは笑顔を隠しきょとんとふたりの男をの顔を見る。
クラレンスもロクスがあえて切った言葉の先を読み取り、言葉にはせずにはっきりとうなずいた。
「天使様に鈴つけられて、それ首から下げて逃げることにするわ。
 そうだな、お前らには借りもあることだし、今までのコネ使った情報屋ぐらいにはなれるだろ。」
「派手に活躍するなよ。」
「するかバカ。追っ手かけられた裏切り者が目立ってどうする、目立って。
 もうこのカードも使えねぇことだし、文字通りの丸腰だよ。丸腰で活躍なんてできるか。」
 クラレンスはかつてと同じに軽口をたたきながらも、かつての武器だったターコイズブルーのカードを一瞥しただけで、それを手にするために指すら動かさなかった。代わりに集めるのはロクスの手、それが普通のカードではなく悪魔の呪具であること、必然的にシルマリルは触れられないだろうことを彼はその知識から察している。
同時にクラレンスが触れても彼が教皇候補と戦い双方とも生き残ったことを、クラレンスにカードを与えた当人に悟られるだろうことも察している。……敵は教皇候補とばくち打ち双方の生存が、クラレンスの裏切りを意味することすら思い及ばないほどの間抜けではないだろうことをロクスは、そしておそらくシルマリルも、もちろんクラレンスも理解している。
幾重にも罠を張り巡らせるけど、決してそれで自滅するような間抜けではないこと、今までの出来事から充分に推測できた。
「喧嘩は弱ぇが博打と裏の世界のことなら、多少は役に立てるだろ。
 博打の貸し借りは基本その場で清算するもんだ。けど俺はこんなだし今返せねぇ以上、貸した分は使えそうだと踏んだ時にこき使ってくれて構わない。それでいいな?」
「ああ。そのうち殴りに行くから覚悟だけはしてろよ。」
「暴力かー……なしで行きたいんだがなぁ。」
「ありだってったのは自分だろうが。」
 惨めな最期からつながったからみっともない生を与えられた男はばくち打ちで、借りを返すために今まで与していた実のない存在を裏切り身を隠す。
天使に鞍替えするのではなく、女を選ぶわけでもない。借りを返すために、必要とされるその日を待つ。
借りを返したそのあとはその時考えるのが、場当たり的なろくでなしの流儀。
だから今は考えず、まずは逃げることから考える。
毒蛇は毒を手放し力をなくし、引き換えにつかの間だけど、ささやか過ぎるけど、追っ手がかかる不安も残るけど、安息というものを手にした。
もう不幸に左右される己に苛立たなくてもいい、全てを呪わなくてもいい開放感を再び手にした。
これから先のことなどわからないから考えない。

 おまけの人生なんてものはそうそう味わえないだろうから、せめてそれを精いっぱい楽しませてもらう。

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2009/01/10