■□ 裏切り □■
― intermezzo:sotto voce(1) ―
ヴァイパー
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
エピローグ
あとがき
intermezzo:sotto voce 1
2
3
4
アンケート(別窓):
ヴァイパーED後話はあり?なし?
次に攻略してほしいセヴン
夜の風が優しくなった気がする。
目の前に広がる夕焼けと今まさに訪れようとしている夜の帳が重なっている空の色合いが、なんとも言いようがないほどに美しい。春まだ遠い冬の空気は雪のにおい、真っ白なはずの雪が空と同じ色合いに染まっている。
これが、自分がすべてを引き換えにしてもいいと願った箱庭世界アルカヤ。蒼い瞳は色を変えてゆく世界を愛しげに、切なげに眺めている。
この世界は厳しい表情を見せながらも、ちっぽけな存在にも分け隔てなく優しい。
この世界の平穏が、幼い天使に課せられた最初の重責だった。しかし幼い天使は人間に引きずられた。
そしてひとりの男の存在だけを強く強く願い描き、少女の姿の天使様は高位の存在の象徴である純白の翼を贖罪と奪われ常緑の楽園を後にした。
腰のない日差し色の髪を、慰めるように撫でるようにかき乱す冷たい風は優しい。けれど彼女はもっと優しい手の感触を知ってしまった。
かつては感覚的にしか感じなかった変化を、今ははっきりと感じるようになった。
人間の体というものは限界があるけれど、天使の精神体にはない繊細な「感覚」というものが存在するということを、人間の体を得て間もないシルマリルは確かに感じるようになっていた。
かつてはこの箱庭世界を救いし天使だったシルマリルが、その罪を問われ翼を奪われて人間となり小さな存在となった。美貌と知性だけはそのままだけど、戦う力を持たなかった慈愛の存在は人間となっても力なき存在のまま。
今彼女は守り手でもある処世術に長けた男と、世界を気ままに流離っている。
何不自由ない過去の生活が、もう遠い昔のよう。けれどそれは苦労ではない。
今滞在しているのは、彼女が天使だった時、彼女の勇者たちの中でも地位の高い者たちが利用していた接客の行き届いた宿ではなく、素泊まりに毛が生えた程度の木賃宿同然の安宿。
だけどシルマリルの守り手、いや愛しい男はできる限り彼女に惨めな思いをさせまいと、行き過ぎなほどに気遣ってくれる。
『賭け事に溺れさえしなけりゃ、お前のその姿にふさわしい暮らしぐらいさせてやれるよ。
どうせ賭け事で手に入れた泡銭だが、使い道考えるのも面倒でな。
それが役に立つ日が来るとは思ってなかったが、お前のためならどれだけ使おうと惜しくないから気にするな。』
……男の言葉は、当初頼もしかった。今でも頼もしいけれど、まるで腫れ物を扱うかのような態度に気づいた少女から微笑が消えてしまってしばらくたつ。
事実、シルマリルの愛しい男は無造作に革袋に詰め込んでいた金貨を彼女に見せて、財布代わりのそれをそのまま預けた。当人は小銭を少々持っているぐらいの様子だけど、特に不自由している様子は見せない。
革袋の重みがお気楽極楽、鷹揚なシルマリルに緊張感をもたらしていて、それも彼女の微笑が消えた原因のひとつといえばそうなる。
冷たい風が頬を髪を体の芯まで冷やしそうでも、シルマリルは安宿の今にも壊れそうな東向きの窓を大きく開いて、もう見えなくなった太陽があったしるしの茜色を黙って眺めてばかりいる。
彼は時にシルマリルにひとりになる時間をくれる。息が詰まるほどの濃密な蜜月ではなく、息の長い関係を続けるための距離感を意識しているのかいないのか、それとも彼がその時間を必要としているのか、理由はわからないけれど彼はシルマリルに大金を預けてふらりと街へと消えてゆく。
一度だけ、たった一度だけだが、彼が白粉のにおいを身にまとい首筋に女の紅の跡をつけたまま、日付が変わる前にシルマリルの元へ戻ったことがあった。当然シルマリルはそれを見て顔色を変えたけれど何か言える立場ではないと自分の中に封じ込めて、彼が眠った後に声を殺して泣いて忘れたことにした。
そして目の当たりにした、天使ではない自分はお荷物に過ぎない現実。確かに彼の死ぬ運命を覆しこの世にとどめたのはシルマリルの祈りの力と、彼女を愛した別の男のシルマリルに対する思いの丈で、そういう意味では彼はシルマリルに返しきれない恩がある。義理堅い男でもあるからそれを理由にか弱い元・天使様を守っているということも考えられないこともない。
……だから少女は不安になる。たった一度の告白ひとつ、彼女に与えられた誓いはそれだけ。
たった一度抱きしめてくれただけで、彼は少女に何も求めない。
一緒にいればそれで充分と背中を向けて口にするばかり。
けれど少女の体を得たばかりの天使様に、大きな背中をさびしく見る以外のことはできない。
シルマリルはひとりに慣れていない。
そして天使はさびしく眠る。
狭いベッドを果てのない荒野のように広く感じながら冷たい寝床で眠りに落ちる。
「ヴァイパー、お前女ができたらしいな?」
薄暗い空間に充満する喧騒と、むせ返る紫煙と安酒と白粉のにおい。その中にいる隻眼の強面が、体より明らかに小さな椅子に背中を丸めるみたいに脚を組んで座っている。
無骨な手にはカードが数枚、彼の座る卓の上には傷んだカードと酒が半分ほど入ったグラスと吸殻が満杯になった灰皿、そして多くの銀貨。
かつての居場所に身を落ち着ける隻眼のろくでなし、彼の前にだけグラスも灰皿もない。
「絶世の美女らしいぜ。」
「どこのお嬢様騙したんだか。」
同じ卓にいた同類たちが口々に囃したてるけれど、酒の肴にされた毒蛇は付き合い笑いだけで詳細を答えない。
「これでお開きか? 勝ち逃げ、ってことになるが」
追求を避けるかのように別の話題を口にした低い声は、ともすればこの場の喧騒に飲まれてしまう。
話をごまかすつもりか端から聞いていないのか、毒蛇は問いかけに答えないままぼろぼろのカードを新品でも扱うかのごとく鮮やかにシャッフルする。しかし誰も乗ってこないからと無骨な手はカードをまとめて卓の上に置き、その手で頬杖をついた。
「しょうがねえよ、お前の強さは相変わらずだしな。」
「死んだって噂聞いたから、お前が来た時ぁ名前騙る偽者が出たかって思ったけど……」
「正真正銘、本物じゃあなあ。これ以上勝負しても巻き上げられるのは見えてるし。」
同席して勝負に興じていた馴染みの顔は口々に勝負の場から降りると口にし、かつての彼の噂話を口にする。
それにも彼は薄笑いのみで何も答えなくて、自分の前にある銀貨を手馴れた様子で集めて重ねた。
かつての彼の居場所、毒蛇という通り名、すべて過去に置いてきたつもりだった。
生まれ変わったつもりでいた。
しかし毒蛇は古巣に戻るみたいに、かつての顔なじみたちでさえ違和感など感じないほどすんなりと戻ってしまった。少しだけ変わったことはあれども、誰もがそのことを気にすら留めないほど些細な話らしい。
紫煙で白く煙るほどの空気と下品な笑い、そして酒場女がひとり彼にしなだれかかってきた。
瞬間、それまで伏し目がちだった毒蛇がはっきりと視線を上げた。そして片手で軽く女を拒む。
「他所当たってくれ。」
女にしなだれかかられるなどろくでなしどもには勲章みたいなものなのに、そう言いながら毒蛇の卓の上の指先が、いらついた時のように小刻みに卓を叩く。
一度きつく上がった視線も再び伏せられたけど、明らかに体中、いや周りの空気までも使い、彼は女の誘いを拒否していた。……当然、誘いをかけた女は憮然としている。けれど美形ですらある強面の青年、しかも金もツキもあるばくち打ちは彼女にとっていい獲物でもあり、すねた顔見せながら彼から離れようとはしなかった。
それは酒場のいつもの光景、別段珍しいものではない。
下心は男の特権ではない。
「おいおい、お前もったいない」
「俺に女ができたって嗅ぎつけたのはお前らだろ。その通り、言い返せねえから黙ってただけだ。」
「火遊びなんて甲斐性だろ、ヴァイパー、お前尻に敷かれてるのか?」
「バーカ。俺が甲斐性なしだってわかってて言ってるな?
とりあえず、勝ち分の半分置いてくわ。酒代ぐらいにゃなるだろ。」
さらに囃し立てる男たちを口先だけで煙に巻きながら。女があきらめてないことにも気づいて再度の挑戦を受けないように席を立ちながら。
毒蛇は卓の上に重ねていた銀貨から半分だけを手にし、薄笑いのまま立ち上がる。
自分の前に置いていたのはカードと金だけ、この空気の只中にいても酒も煙草も口にしなかった男に酒代も何もないのだけれど、勝ち逃げを許さないと被害ばかりが大きくなる男たちは野暮なことを口にしない。
「煙草、一本くれ。」
そして毒蛇がかつてと同じ台詞を口にし、顔馴染みたちはごく自然に彼に紙巻煙草を差し出した。
上流階級の人間のようにパイプで燻らせる、などと優雅な楽しみ方はしない。立ち上がったままの毒蛇は差し出された紙巻の安物をかさついた唇に銜えて背中を丸め、先に同じものを吸っていた男から火をもらい一息吸って慣れた様子で紫煙を燻らせるのだけれど――――そのどこか物憂げな横顔は何を思うのだろう、たった一呼吸、わずかにすら燃えてもいない煙草を未練もなさそうに唇から外すと嫌なものでも吐き出すかのように煙を吐いて、直後力任せにそれを灰皿の底に押しつけ台無しにしつつ火を消した。
支配階級や豪商の嗜むものほどではないにしても高価なことには変わりない嗜好品を、若造とも呼べるろくでなしはゴミでも捨てるかのような気軽さでそれを手放した。
かつてと同じ、毒蛇はどこか物憂げに、気だるげに、言葉少なに、鮮やかにその場を後にする。
何を思うか考えるのかなど、誰かに読ませる感じさせる探らせる暇など与えずに、彼は喧騒の只中の酒場を後にする。
夜はこれからが本番だろうと、毒蛇はかつてと同じに引き際は常に自分の気の向くままに決めるだけ。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
エピローグ
あとがき
intermezzo:sotto voce 1
2
3
4
アンケート(別窓):
ヴァイパーED後話はあり?なし?
次に攻略してほしいセヴン
2009/01/29
intermezzo:間奏曲。
sotto voce:「静かに抑えた声で」
どちらも音楽用語です。