■□ 裏切り □■ ― エピローグ:Quo vadis ―
ヴァイパー
                          10   11   12   13   14   エピローグ   あとがき
intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン


 馬車の車輪が回り砂利を踏みしめる音と規則正しいようなそうでないような揺れと高い空、小春日和の日差し。かつてと同じに暢気な世界を流れる空気。
 干草を山ほど積んだ馬車の荷台に、青緑の上着白いズボンの男が寝転がって空を見上げている。隻眼の彼はまるで眠るかのように目を閉じたまま、全身で貴重な冬の日差しを独占していた。
 男のひとつしかない目が開くと、上着より濃い色合いの青緑色の眼差しが姿を現した。
骨太で強面な外見なのだけれど、威圧感らしきものはない。目を開いた彼がゆっくりと身を起こすと、重力に従っているかのような銀髪が逆立っていることがはっきりした。
 彼は片手で服にくっついたままの干草のくずを払い、再び青い空を見上げた。強い日差しならではのフレアが目を突き刺す様子が、まるで空から羽が舞い降りるよう。
昨日まででようやく見慣れることが出来た光景だけど、すべては過去になった。箱庭世界を震撼させた災厄は払われて、千年前と昨日、ふたつの英雄譚が残されたけれど、新しい英雄譚の勇者殿も天使様も名を語られないまま、世界を閉ざす闇と霧だけが払われた。
 クラレンス=ランゲラック。六王国領を根城にするケチなばくち打ち。
毒蛇のふたつ名を与えられた隻眼の男がその名を持つが、ヴァイパーはどこぞでのたれ死んだかのように、いつしかその名は語られなくなった。
カードにすべてを賭けて破滅を導く男も、馬車の上の隻眼の青年も、カードを手にして生きている。
クラレンスの上着の懐には、水仙の意匠が美しいカードが静かに息づいている。
けれど、彼はもうそれを賭け事の相棒にはしない。
「兄ちゃん、こっから左に曲がるぞ。
 イエーナどころかファーノまでしか行かねえがそれでもいいのか?」
 干草の向こうから聞こえた男の声に、クラレンスがちらりと進行方向を見る。
馬車がひとりで動くはずなどなくて、当然御者がいて、クラレンスは客ではなく「荷物」みたいなもの。
干草と男ひとりを積んだ馬車の持ち主はどこかの村の農夫らしく、干草をたっぷり積んだ帰り道で片手を挙げた片目の男を見て、彼は快く男の頼みにうなずいた。
『近くの町まで連れてってくれ。宿があれば村でもなんでもいい。』
 近くと彼は言ったけれど、農夫は国境を越え隣国の自分の村まで急ぐ道行きで、そこまでなら、と答えたら、青年はそれでいいと告げ交渉は成立した。
 目立つ青緑色の上着。大柄で強面、しかも隻眼。銀色の髪の左側の一部を服と同じ色に染めている派手な青年だったけど、気のいい農夫は気にすることもなく彼を干草の荷台に乗せた。
 それから半日ばかり過ぎたところ。朝の冷え込みが嘘のように日差しが暖かい日中になった。
「ああ。それから先は着いてから考えるよ。
 悪いな、余計な荷物載せさせちまって。」
「別にかまわねえよ、寄り道するってんならあれだがどうせ行く道だ。
 それにしても兄ちゃん、ずいぶん強えんだな。
 化け物が出た時ぁもうだめかと思ったが、あんたがいて助かったよ。」
 途中土着の化け物が出たけれど、恐れおののき身がすくんでしまった農夫の代わりにクラレンスは荷台から飛び降りてそれらを追い払った。武器を持たない丸腰の青年が、切れのある身のこなしで立ち回り化け物を追い払ってから農夫の態度は一変した。
それまでも無愛想ではないが口数少なめだった彼が、命の恩人に等しい乗客に饒舌になったことは語るまでもない。
「なあに、迷惑料がわりだ。気にしないでくれ。
 ただ乗りするわけにはいかねえけどって思ってたところのあの騒動だ、多少だがケンカが出来ないわけじゃなし。」
「ケンカなんてもんじゃないだろ。俺ぁ化け物に向かってくのが無理だ。
 あんた、傭兵かなにかかい?」
「けちなばくち打ちさ。
 ただ、ケンカが弱くちゃせっかく稼いだ金を巻き上げられ兼ねねえからな。」
「はー、だから肝も座ってるんだな。」
 他愛のない会話を交わしながら、クラレンスは何もすることがなくて再び干草の上に横になった。農夫が死を覚悟した土着の存在との立ち回りを些事のように語る男だけど物言いは飄々として、それが戦う力を持たない人間には頼もしい。
余計なお荷物ではなく腕の立つ用心棒が同行していると思えば、農夫にとって頼もしいことこの上なかった。
「しかしまあ、どういうことだろうな……ほら、あれだけ幅利かせてた騎士様たちがいなくなったろ?
 いなけりゃいない方が俺らも仕事がしやすいけど、いきなりいなくなられちゃ薄気味悪ぃ。」
「あー……なんでも先代の騎士団長の娘に引っ掻き回されたり、あとほら、教皇候補。
 エクレシア攻めのツケがたたってバカ強い教皇候補が切り込んだとか、まあ大変らしいぜ。
 自分の国のことで手一杯だろ。」
「だといいんだけどなぁ。悪ぃこたぁ出来ねえってことか。」
 何気ない農夫の一言が胸に痛い。
クラレンスは声色には出さずに空を見上げる目を細めたけれど、おしゃべりをやめようとは思わなかった。
今は忘れたいことがあまりにも多すぎるから、関係のないことを話していたい。
「そういうことだな。ま、ばくち打ちが言えた義理じゃねえが。」
 そして唇の端に嘲笑を浮かべつつ口にする言葉は自虐なんだけれど、声色にそれを出さないのはもはや彼の特技だった。
装うこと、つまりポーカーフェイスはばくち打ちには必須の能力。
彼のそれは天使すら欺くほどのものだった。

「あの……すいません、荷台でかまいませんので乗せていただけませんか?」

 その声に、思わず身を起こしたクラレンスの視界に飛び込んできた面影に、さすがの彼も固まった。清かな女の声に驚いた農夫が少し遅れて振り向き、目にした姿に魂を奪われるかのように惚ける。
当然馬車は留まったけれど、男ふたり、どちらからも返事がなくて、彼女は問われてもいない理由を慌てて、たどたどしく口にする。
「あ、あのっ、知り合いの姿が見えたので」
「……あ、ああ。乗れるなら乗りな。」
「ありがとうございます。――――それでは失礼します。」
 美しい金の髪の少女。かつてはとてもではないが女の一人歩きなど出来なかったが、彼女は世間知らずか怖いもの知らずか自覚がないのか、あどけなく笑いながら頭を下げた。
彼女は馬車の主の許可を取り付け、当然クラレンスが身を起こし座っている荷台に乗ろうとしたけれど、
「ちょっと待っててくれ!」
 飄々とした物言いの、化け物を目の当たりにしても動じなかった男が、小柄で折れそうな小娘ひとりに血相を変えたかのように荷台からひらりと飛び降りた。それがまた物珍しくて農夫は言われなくても固唾を呑む……という表現は大袈裟かもしれないが、頼れる同行者を置いて行くつもりはなくてその場に留まったままでいる。
「おい、どういうことだシルマリル!?」
 少々だろうと取り乱すほどの大事か、それとも彼女の存在がそうさせるのか、はたまた豪胆なふりをした鈍い男だったのか、クラレンスはどれが理由かわからないほどの狼狽ぶりで彼女の名を呼んだ。けれど名を呼ばれた彼女はにっこりと、まぶしく、しかしまるで人間の少女のような身近さで微笑んだ。
「お前……もうここに用はねえだろうが。
 妖精さんだってお前は全部終わったらもうここに来ることはないって言ってた」
「あの方、待っていますよ?」
 鷹揚な物言いはクラレンスの記憶に鮮やかで、けれど……彼女と自分の経緯を忘れようはずなどない彼は困った様子で片手で顔半分を隠し眉間にはっきりと皺を刻みわずかな間思案に沈み、そして大きなため息を吐き、乱れた髪をかき上げながら彼女に背を向けここまでつれてきてくれた農夫のもとへと足を進める。

「……あと2、3時間でファーノだな。ここまででいいわ。
 ここまで歩かないですんで助かったよ、少ないがこれ、車代だ。」

「え、でもいいのかい?
 娘さんの足じゃあんたらがファーノにつく頃にゃ日が暮れちまうが」
 差し出された小銭を農夫は受け取る前に疑問を投げ返すけど、クラレンスはいつもの、かつてと同じ調子で中年と表現できそうな農夫の首に長い腕を伸ばし、仲間に耳打ちするのと同じように小娘に聞こえないようにと声を潜める。
「積もる話がある仲なんだ。時間はどれだけあっても無駄じゃないんだよ。
 あんたも男ならわかるだろ?」
 意味深な台詞を低い声で口にした、大柄で強面の男前。見かけも派手でそういう話には困ってなさそう。農夫は彼の印象から勝手に解釈して二度三度とうなずいた。
彼の納得した様子を見てクラレンスは一度差し出したけど受け取ってもらえなかった小銭を、節くれだったごつごつの無骨な手に握らせた。
「たいした額じゃねえが、嫁さんに髪飾りのひとつくらい買ってやれるだろ。
 とっといてくれ。」
「そういうことなら……ありがとうよ兄ちゃん。
 ……にしてもたいした美人だな、あんたも隅に置けねえなぁ。」
「とんでもねえ。俺みてえなろくでなし忘れちまえって言ったつもりなんだって。
 ――――じゃあな。」
 そして、馬車は動き出した。ひらひらとゆっくり手を振り別れの挨拶を口にしたクラレンスの言葉が表すように、馬車は止まらず小さくなってゆく。
クラレンスと金の髪の少女、ふたりきりで残される。他に人影もなく、轍の跡浅い土ぼこり舞う街道はとたんに静かになった。



「…………どうして……。」
 ふたりきりの空間での第一声はそれだった。
『どうしてお前がここにいるんだ?』
 それがクラレンスの口にした言葉のすべてなのだけれど、様々な感情が渦を巻き頭が混乱していて当たり前の言葉がうまくつながらない。
 置いてきたつもり、手を離したつもりだった。
実際すべてが終わった後、シルマリルは大天使たちの待つ天界へと舞い上がり、クラレンスは初めて抱えた万感の想いとやらをすべて己の内側に閉じ込め、手すら振らず見上げることすらしなかった。
見送ると見抜かれそうで怖かったからどうしようもなくて視線をはずし、そこで終わったつもりでいた。
いつの間にか小悪党の中に澱となって存在感を刻み込んでいたあどけない天使様と、悪魔の手先のばくち打ちではどうなるはずもなかった。
 天使シルマリルは、クラレンスがその先を生きてゆくには充分すぎる過去を残してくれた。すべてが終わればもう手にすることもないだろうと思っていた美しいカードが手の中に残っただけで生きて行けると思っていた。
彼女の手を解いて初めて、自分にふさわしい、いやもったいないくらいの、甘く、けれど苦い恋だったと思い返すことができるようになった。
 しかしそこで終わらずに続きが用意されていたらしい。実際、今クラレンスの目の前には手を解いたシルマリルその人が立っている。
真白い翼は見えないけれど、いくら似ている女だろうと間違うはずなどない。
 彼の言葉を待っていた天使様は、ようやく聞けた彼の声がうれしかったのかにっこりと満面の、罪のない罪作りな笑顔をたったひとりに向けるから、向けられた男はどうしようもなくて目を、視線だけをそらすことしか出来ない。
「どうして……ここに」
「天使ではなくなりましたので。
 人間として生きるならどの世界がいいかって訊かれなくても、私にはアルカヤしかありませんから。」
 ようやくの思いでクラレンスが意味ある断片を口にしただけで、天使様は理解できるようなできないような答えを返し、それを感覚的に捉えたクラレンスが驚きのあまりに目を剥いた。
「ちょっと待て、天使じゃなくなったって」
「はい。」
 クラレンスは彼女とその勇者と称した下僕に、死ぬ運命を覆されその後をつなぎ足された。
そこで悪党は改心、いや受けた恩を返すためにと彼女に与し力を貸した。
それだけではなく、天使シルマリルはかつての悪魔の手先・セヴンのヴァイパーを災禍の中心である存在を討ち果たす存在として選び、そしてついにその使命を成し遂げた。
「どういうことだ? お前は見事にお役目を全うしたじゃねえか?」
 たった7人の勇者を率い世界の混乱を鎮めただけではなく、悪魔の手先さえも改心させ、そのものの力をもって伝説に語られる悪魔を追い払い、アルカヤに光をもたらした。
物語としてはこの上ないほどに完璧なはず。
後に天使シルマリルの伝説を聞いた者は彼女の輝かしい功績を疑うはずなどない。
 クラレンスは己の命を燃やすことで彼女の功績に変わるのならば惜しくなどないと、そればかり思い続けて彼女との日々を駆け抜けた。その最中に抱いた甘苦い己の感情など、伝説に残すものではない――――罪にまみれ両手を汚した己をそう戒めて……。
「その前に、大きな戒律違反を犯していましたので。」
 彼の思いつく限りのお膳立てをして天使シルマリルの手に功績を、そして一度そっと取った手を確かに、はっきりと振り解いたはずなのに、それが「戒律違反」という簡単な文字だけで水泡と帰するものなのだろうか?
愚直なまでに不器用で生真面目な彼女が犯した罪とは、一体?
クラレンスにはかけらも思い当たりがなくて困惑するより他にできない。
「……わかるように説明してくれ。ちっとも状況がつかめねえ……。」
 いつも空気の流れを、表情の裏を読む男だけど、そうすることで世の中を歩いてきたばくち打ちなのに、今のクラレンスのらしくないことといったら……彼の人となりを知る者がこの場にいたら、珍しいものを見たと固まるか指差して笑うかそれとも何かの前触れかと怯えるか。
そのくらい、小娘に振り回されるばくち打ちの姿はある意味異様ですらある。
そして説明を請われた小娘、天使様、シルマリルはにこにこしながら求められるままに言葉を続ける。
「死する運命を覆すということは、全能なる父でも行わないこと。
 私はそれをロクスと協力して成し遂げました。」
 そう。シルマリルは目の前のばくち打ち、ろくでなし、悪魔の手先を失いたくないあまりに己の立場を忘れ禁断の領域に足を踏み入れた。逼迫した状況下、シルマリルを失えない上位の天使たちは彼女の戒律違反を当座棚上げしたけれど――――
「アルカヤでの役目を終えた時、戒律違反を追及すれば私は到底許されるものではなく、魂の浄化の後強制的に転生させられる予定だったと思います。」
 幼くても、最下級の存在でも、彼女は高い資質を買われ身に過ぎたお役目を、千年前には大天使ラファエルが成し遂げた業績を再び成し遂げる存在として選ばれた彼女だから、己に科される罪の烙印を理解し、踏まえて、それでも己の思うままに、素直に従った。
覚悟はすでに定まっていて、……それほどに彼の存在がシルマリルの中では重くなっていた。
「思います、ってお前……それって、俺のために」
 シルマリルの口調はまるで他人事、噂話でもするみたいに気楽で明るい。けれどその中身はクラレンスの頭上に肩にその存在すべてに責任という名の重圧を乗せる。
 彼女は核心に触れない抽象的な物言いをしているけれど、言葉の端々を捉えてつなげれば、それは忘れたくても忘れられないあの瞬間に収束するばかり。
簡単にまとめてしまえば、シルマリルは敵の手先だった小悪党の自分を助けたがためにその存在すら白紙に戻されるかもしれなかった、それを彼女は理解していて、それでも自分を、クラレンス=ランゲラックという男の命を優先したということで……それが天使の慈愛というものなのだろうか?
己の存在を引き換えにしても、たったひとりの小悪党を助ける存在だというのだろうか?
……不謹慎だけど、クラレンスは信じて疑わなかったシルマリルの言葉でも、さすがに鵜呑みにはできなかった。

「あなたのためというより、……あなたを失いたくなかった私のわがままです。」
 彼女の核心はその言葉に集約されていた。

 シルマリルは微笑みながら、クラレンスが初めて彼女の名を彼女に呼びかけた時と同じような泣き笑いの表情を見せた。
「あなたが己の罪を自覚しずっと背負ってゆく覚悟を決めていて、天使と言う存在の私が汚れることのないようにと気を遣ってくれていたのはうれしかったのですが……すべて終わった後、私になにが残るかまで考えましたか?」
「考える必要もない、お前には名誉と実績ってヤツが、あとこの世界には千年前と同じ伝説が」
「そんなもの……」
「そんなものって、お前……天使はそれがすべてだろうが。
 結局俺たち人間と同じ、いや俺たちより厳しい縦社会じゃねえか。
 お前がつないだ俺の命だ、俺はその借りをきっちり返せるんだったら命なんて惜しくない」
「私は惜しいんです。……戒律違反を承知の上であなたの運命を捻じ曲げたほど。」
 泣き笑いを見せるシルマリルの目の前で、クラレンスが再び目をそらし顔の半分を片手で覆い隠す。表情が、感情が如実に表れ嘘をつくのが格段に難しくなる、残された左目を隠し、明らかな困惑を見せている表情は、ほんのわずかに、しかし確かに赤くなっている。
あのクラレンスが、ヴァイパーが、女相手に言い負かされて言葉でねじ伏せられて顔を赤くしまごついている。
「……バカげてる。」
「あなたもだまし陥れなければならない私に味方したじゃないですか。
 理屈じゃないんでしょう?」
「俺は借りを返したくてだなあ……って、嘘くせえか、さすがに。」
「嘘だとは思っていません。建前ですよね?」
「屁理屈がうまくなってどうするんだよ。
 ……シルマリル、もう……戻れないんだな?」
「はい。私は翼もアルカヤを救った功績もすべて剥奪されました。
 それともクラレンス、あなたには人間としての私は不要ですか?」
「野暮言うなよ。世間知らずの顔して、結構いろいろ読んでたんだろ?」
「だといいなあ、って思っていただけです。それがかなったからうれしくて。
 クラレンス、こういうのを人間は押しかけ女房って」
 小娘の言葉にたじたじになるまで追い詰められながら。
舌先三寸が自慢でもあった男が完全に言い負かされながら。
しかし肝心な言葉は女に言わせまいと、クラレンスはシルマリルの唇に触れるか触れないかの見事な寸止めで指先を彼女に突きつけ黙らせる。そしてその手をゆっくりと下げ、手のひらを返し、ぎこちない笑みを見せながら大きな手を差し伸べた。
「……シルマリル、苦労かけると思うが……精いっぱい大事にする。
 俺についてきてくれ、いや、行ける所まで一緒に行こうか。」
「…………はい。」
 小さな手が、誘いの言葉に促され大きな手のひらの上に伸び、指先が触れるのを待たずにクラレンスはシルマリルの小さな手を取り初めて彼女を引き寄せた。一瞬の躊躇の後、小さな体を腕の中へとおさめ、言葉で確かめるかわりに抱きしめる。
「お前……どこでどう間違ったんだよ、こんな甲斐性もないろくでなしに惚れるなんて。」
 ようやく触れてくれた、身の程をわきまえたふりをし続けた臆病なろくでなしの低い声がシルマリルの髪に降る。
 気がついたら思い出すような距離感があった。
 気がつけば相手のことを気にかけていた。
 気がついたら取り込まれていた自分に気づき呆然とするばかり。

 気がついた時にはもう後戻りできなくなっていた。

「理由が……必要ですか?」
「いいや。俺もどこでどう間違ったのか、身の程知らずに天使様に惚れちまった。
 お互い様だ。」
 気がついてしまったからクラレンスは突き放すことで、己の存在意義を思い返し実行することで距離を置こうとした。
気づいてしまったシルマリルは彼の存在だけを願い、他の男を踏み台にしその想いすら踏みにじって彼のもとへと舞い降りた。
天使シルマリルは高位の存在らしく人間の思惑など無視することもある傲慢な女。結局己の想いに正直に振る舞い、己も罪にまみれることでろくでなしと対等の立場を得た。
クラレンスの、愛する男の望みを受けて輝かしい存在にならず、彼と共に汚れて生きてゆきたいと望みそれをかなえるための一歩を踏み出した。
「……好きだ、シルマリル。お前がいれば何とかなる。」
 穢れなき乙女でありながら駆け引き上手のずるい女が、分別あるろくでなしからとうとうその言葉を引きずり出した。粘り強さが売りの名うてのばくち打ちの、人生最大の敗北は彼自身の死ではなく、それすら捻じ曲げたひとりの女にとらわれたこと。
小悪党のままカッコよく死んで何も残さない当初の望みは無様に阻止されて、彼はみっともない生き様をだらしないほどに惚れた女と歩いてゆくことになる。


 天使シルマリルの輝かしい功績と、彼女の残した英雄譚は語り継がれることなく埋もれる。
ただ、後世に残された一冊の書物に、わずかばかり彼女の名が記されただけ。
歴代教皇として名を連ねた聖人のごく私的な日記として、それは教皇庁の奥深くに禁書として所蔵され、日の目を見ることはなかった。

                          10   11   12   13   14   エピローグ   あとがき
intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン

2009/01/19