■□ 裏切り □■ ― 8:信念 ―
ロクス、ミカエル
                          10   11   12   13   14   エピローグ   あとがき
intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン


「シルマリル、おいシルマリル!」

 さっきから単純な、しかし悲痛な呼びかけが繰り返されている。
ロクスは小さな体大きな翼の傷ついた天使を腕に抱き、目を閉じたまま身動きひとつしない彼女の名をただひたすらに繰り返している。それでも目覚めない天使様の顔色は白く褪せて弛緩したままのやわらかな体は今にも腕の中からすり抜けそうで、最初は抑えていた声が次第に大きく、荒々しく、トーンが上がってゆく。
「シルマリル!!」
 どれほど名を呼ばれても彼の腕の中の天使は目覚めない。
生真面目な天使。優しい娘。ロクスの放蕩も堕落も、嫌な顔を見せながらも全て許し気がつけば受け入れているような懐の深い女。そんな彼女が複雑な男に理解者と認められるのに時間は要らなかった。
そんな彼女をロクスが意識し気がつけば男女の感情の起伏につながるまでに時間など無意味だった。
 そんなただ優しいばかりの女を、優しさには自己犠牲が必要とわかっていても優しい女を、あの男は裏切り踏みにじりあまつさえ傷つけた。……許さない。
女をめぐって誰かを殺してやりたいなんて明らかな殺意を抱いたロクスだけど、そうするよりも優先したのは、己の大事な天使の安否だった。
彼女は触れてはならぬものを手にし、鷹の爪に捕らえられた小鳥のよう、純白の羽根を撒き散らし悲鳴ひとつあげることも出来ず宙に舞った。そんな彼女をロクスは考えるよりも先に抱きとめた、それからずっとその名を呼び続けているけれど未だ彼女は目覚める気配すら見せない。
大事な女性が傷を負い気を失った、だからロクスは心配で仕方がなくて我を忘れた調子でその名を呼び続けている。彼女が意識を失ってずっと、ロクスは小さいとはいえ人間の女性に近い質量を持つシルマリルの体を両腕で抱えて、一度たりとも彼女を地面に直に転がすような真似はしていない。
 そんな最中、細い肩がわずかに動いた。手のひらにわずかにそれを感じたロクスの表情が一瞬強張り呼びかける声が途切れ、一瞬置いて呼びかけがさらに重く鋭くなる。
「ん………………」
「シルマリル! ……よかった。気がついたか。」
 真白い肌に青い瞳が見えた瞬間、ロクスがようやく別の言葉を口にした。しかし彼女は意識を取り戻しただけでどうやら手足は重いらしい、わずかにしか動かない手足の感触にロクスは思わず微笑みそっと彼女を腕から解放した。
「ロクス…………クラレンス、いえヴァイパーはっ!?」
「逃げたよ。……魔石を持って。
 ごめん、頼りない勇者で……。」
「ロクスは怪我とかしていませんか?」
「……ああ、君とは比べようもないくらい、無傷だよ。」
 自らは気を失うほどに傷ついておきながら、彼女は意識を取り戻すなり二言目でロクスの心配なんてした。そんな彼女をロクスは怒れなくて、考えるより先に作り笑顔ではない穏やかな微笑しか返せない。
己の勇者の無事がよほど嬉しかったのだろう、シルマリルは愛らしくも痛々しい笑顔ばかりを惜しみなく見せている。
シルマリルとはそんな女、自らが傷つくことなどどうでもいいほどに危うげで無鉄砲。
いつしかこの笑顔を守りたくなってろくでなしは己の力を振るうようになったのに、同じろくでなしでありながら、同じ女に引きずられた男でありながら、毒蛇を気取るあの男はいとも簡単にただ優しいばかりのシルマリルを裏切った。
「この体じゃ何も出来ないだろ? とりあえず君は天界に戻って体を休めて来い。
 ヴァイパーの話はその後だ。」
 言葉と感情で彼女を労わりながら、ロクスは己の中にどす黒い炎を燃え上がらせている。
出来ることならこの炎が消えないうちにあの男の首根っこを押さえつけたいところだけど、まずは彼女のことが優先。
シルマリルがいなければロクスは一介の僧侶以下、破門されたに等しい破戒僧に過ぎない。彼女が大事なのが男としての本音なら、天使が与える肩書きを守り通さないと敵が増えるばかり、というのが破戒僧としての建前になるだろう。
「どうせあいつのことだ、こっちが後手に回った以上別の手を考えた方がいいだろ。
 君がいつ来てもいいように、僕は体を空けて待っておくよ。」
 装うことで必死なりに、ロクスは冷静だった。あえて憎しみを表に出さず、派手に騒がず。
次の手を考える事だけを念頭に置いた言葉を口にする。
あどけない天使は少し疲れた顔色のまま彼の言葉にゆっくりとうなずき、程なく彼女は本来座している場へと舞い上がることになる。



 ロクスの心配りを受け、シルマリルは天界へと舞い戻る。
舞い上がる最中彼女はいつもの冷静さを取り戻し、そしてさっきまでは気づかなかったことに気づいた。けれどそれをどうやって確認すればいい?
確認したくても冷静で賢しいシルマリルですら自分が受けた災厄の詳細を説明できる自信はない。それでも成さぬ訳には行かない。
時間を置けばたとえ天使と言えど受けた感覚は薄れてしまうから今しかない。

 ラファエル様に報告しないと。
 ラファエル様なら私がわからないことでもきっと何かご存知のはず。

それは、希望、いや一縷の望み。しかし自分の受けた衝撃が看過してはならないと感じた彼女の直感は他の天使にはない。
天使としてようやく己の翼で舞うようになったばかりの幼い彼女に箱庭世界を任せた大天使ラファエルは、天使シルマリルの高すぎる素質を見抜いて彼女に重過ぎる役目を言い渡した。しかし彼女自身は己の力量を過小評価してばかり。
特殊な背景を背負う人間たちの助力を得て期待以上の活躍を見せていることを彼女だけが知らずにいる。
「ラファエル様!」
 そしてシルマリルは息切らせながら上司の座する部屋の扉を空けた。――――が、誰もいない。
シルマリルのような、いくら素質があっても幼く頼りない天使まで実務に借り出されるほどだから、大天使ともなれば多忙極まりない。大局を見るために己の場から外れることは少ないけれど、当然まったく動かないわけでもなく……シルマリルは運がない、珍しく彼女の手に負えないほどの大事が起こった時、ラファエルの助力と知識にすがりたい時に頼りの存在は席をはずしていて…………見かけによらず強いけど限界までこらえたら脆い彼女の中で何かがはじける感覚が響き、シルマリルはひざから崩れそのまま床に座り込んでしまった。
 ここに彼女の勇者の誰かがいたら、おそらく追い詰められた彼女をなだめる言葉を口にしただろう。けれどここは天界で、人間がここに上る時はその肉体が失われたその時しかない。
人間の温厚な少女の人格を持つシルマリルはたったひとりで追い詰められて緊張の糸が切れて崩れてしまい、自ら元に戻れるほど彼女はまだ強くない。座り込んだままもう立ち上がれそうにないほど憔悴しきった彼女を支える人間は誰もいなくて――――

「どうしたのだ、シルマリル?」

 その声に、シルマリルがはじかれたみたいに顔を上げた。彼女の視線の先には智を武器にする穏やかな天使ラファエルではなく、
「ラファエルなら俺が来た時すでに不在だったが、その様子だとお前の預かる世界でなにやらあったようだな。」
 雄々しく力強い御姿の銀髪の天使。「神の剣」大天使長ミカエル。肩書きどおり、事実上の天使の長がくず折れたシルマリルを見下ろしていた。それだけでひよっ子は萎縮してしまい固まった、その様子は恐怖に強張る姿と大差なくて、大天使長はあきれる表情ひとつ見せずにシルマリルに歩み寄ると自ら片膝をついて彼女の目線のごく近くまで下がってきた。
「俺では代役は務まらんか? 荒事ならばラファエルより適任だと自負しているが。」
 シルマリルを支える「人間」はいない。しかしここは天界、そしてここはラファエルの座する聖アザリア宮。導く存在ならば数知れず。
その中でも筆頭に数えられる天使の長が、赤子に等しい幼いシルマリルへの助力を切り出したから――――張り詰めていたシルマリルの言葉が、彼女の中から堰切ってあふれ出した。
見かけによらず冷静で高い才を認められているシルマリルが、何も考えることなどできず、己の身に、そして己の勇者に降りかかった災厄を断片のままそこにぶちまけた。
わかってもらえるようにと考えながら口にしたのであればとても全て伝えきれない。運が悪いようで幸運な存在は追い詰められるあまり、涙さえ浮かべずに現実味がないままに全てを吐露する勢いで目の前の高位なる存在に何もかもをぶつけ続けた。
聞かされるミカエルも彼女のその様子でどれほど追い詰められてしまったか、どれほどの大事が彼女に襲い掛かったかを察し一切口を挟まない。
問いかけならば全て終わった後でも遅くない。
「ミカエル様、私には何もできないのでしょうか?
 勇者たちばかり危険な目にあわせて、私の存在意義とは」
「……落ち着け、シルマリル。お前はよくやっている、己をあまり追い詰めるな。
 お前の勇者たちも今の私と同じことを考えていると思うぞ、お前は自分に対して厳しすぎる。」
「ですが!」
「お前の問いには俺が答えられるから案ずるな。」
 そして大天使長の口から、幼い天使では知りえぬ歴史が語られる。
「お前が触れたのはおそらくサタンの魂だ。それはあの戦いにて砕かれた際に数多の世界へと散っていった。
 お前が守護するアルカヤにあったとしても不思議な話ではないが――――」
 天使ならば誰もが知っている、悪魔との壮絶な戦い。
かろうじて勝利は天使の手に、人界は悪に染まらず危うい均衡を保っている。しかし善なる存在と対極にある悪はそれだけで火種となり争いを呼び幾度となく世界の危機とやらを呼んでは誰かがそれを追い払って、の繰り返し。
そして今回追い払う役として矢面に立たされたのは戦う力を持たぬシルマリル。邪悪の根源に善なる天使が触れられないだけではない、絶大なる力を持って打ち砕くことさえかなわない彼女が己の無力を嘆くのも無理はなくて……。

「……対極の存在にいる我らは、サタンの魂の内包する悪の思念に一瞬たりとも耐え切れない。お前だけではない、俺も例外なく触れられないのだ。」
「人は善も悪も有するから触れることができて、すぐに侵食されることもない」
「そうだ。我らはサタンの魂のかけらを人間に委ねるより他なかった。
 確かに人間は弱いが、時に彼ら自身で奇跡を呼び起こす力も持っている。
 アルカヤでは千年もの間、善なる人間たちの固い誓いと戒めのもと、大事無く守られていたのだろう。」
「そんな中、彼らに干渉する悪が現れたか、悪に傾いた誰かが魔石に触れたか」
「そういうことだ。
 我らが助力できると言えば、サタンの魂が解放され姿を持った瞬間からだ。今は何も行動を起こせぬ。」
「しかしそれでは人間たちにも甚大な被害が出てしまいます!」
「……人間なら、お前の善なる思念に触れ善に傾いているお前の勇者たちなら、打ち砕くことかなわずとも再び封じることは可能だ。お前は無力感と罪悪感に苛まれつらいだろうが、彼らの強さを信じるより他はないのだ。
 お前は何もできぬ無力な存在ではない。勇者たちに戦う力をもたらす希望でもあることを忘れるな。
 お前があの地に降り立たねば、アルカヤに住まう者たちはなすすべもなく滅びを待つより他はなかったのだ。お前がいることで滅び以外の道が開けたことを忘れるな。」

 天使は万能ではない。その強さと善性が足枷になり、時に人間より脆い。
シルマリルは無力な自分に打ちのめされたかのように立ち上がれないまま、白くなるまで握り締めた拳の中、手のひらに爪の痕が残るほど強く強く握り締めている。
「サタンの魂――――魔石が絡んだ以上、俺たちにできることは限られている。
 俺たちは文字通り最後の砦だ、最悪の局面で初めてこの手で対抗できる。
 それまではつらいだろうが耐えるのだ。お前が最善を尽くしていれば、おそらくお前の勇者たちも各々の役目を理解し逆境を打ち破れよう。
 俺は正直驚いているのだ、お前と、お前の勇者たちの目覚しい活躍に、な。」
「ミカエル様…………。」
「お前の勇者がお前の善性に触れ変化したように、サタンに与した者たちも同じく悪に染まり傾いたのだろう。しかし、おそらくサタンの尖兵たちをも変化させられるほどの猶予はない。
 お前の善性はそれほどに強いが、残された時間がおそらくそれを許すほどはないだろう……お前は時につらい選択を強いられるだろうが、守るべきものを忘れるな。」
 言いながらミカエルもどこかが苦しい。シルマリルはすでにつらい選択を強いられそれを目の当たりにし、それでもミカエルはさらに耐えろと言うより他はない。
人間ならば逃げて再起を図ることもできるだろうが、彼らは天使。逃げるという選択肢の存在感の薄いことといったら、それは弱点ですらある。
逃げることを潔しとせずに自滅する者もいる。
そして、シルマリルはその優しさゆえに何かを選べないままここにいる。……だから、ミカエルはあえて後のない言葉で彼女の迷いを断ち切るべく口を開く。
「お前の選択がアルカヤの運命を左右することを忘れるな。」
 その言葉に、シルマリルは返事しなかった。いや出来ようはずがない。
彼女の言葉の端々から察するに、彼女の中で相応の存在感を持つ者を見捨て切り捨てることで彼女の選ぶべき道が開けるのだから、おいそれと選べるはずもない。
天使とは人間が思うほど万能ではない。戦う力を持たない幼い天使は苦しむばかり。
ついに彼女の天秤がその皿に運命を載せる時が来てしまった。

 今シルマリルに必要なのは激励ではなく支え。
しかしミカエルは彼女の支えにはなれないことを自ら理解している。

                          10   11   12   13   14   エピローグ   あとがき
intermezzo:sotto voce       
アンケート(別窓):   ヴァイパーED後話はあり?なし?  次に攻略してほしいセヴン

2009/01/08