「…………ご報告は以上です」

 どれ程ルシェラに懇願されようが、やはり黙っている事は出来なかった。
 ダグヌはルシェラの下を一時退出した後、直ぐさま馬を飛ばして王宮に立ち返った。
 王に目通りを願い出、ルシェラの状況の全てを報告する。
 それが彼の義務であったし、また、ルシェラの為にもそうする他になかった。

「何卒、一刻もお早く殿下をあの塔より別の場所へお移しあそばされ、療養に努めて頂くべきかと存じます」
「お前が考える事ではない。報告、大儀であった。下がって良い」
「陛下……しかし」
「……あれをあの塔より出す事は罷りならぬ。勝手を致してみよ。お前の首の保証はない」
 セファンは眉一つ動かさず脅しを掛けながら、ダグヌに退出を促す。 しかし、ダグヌは下がらなかった。

「陽にも当たられず、お食事も薄い粥のみ、夜毎の事にも苛まれられ、ましてや、幼い御身でただお一人に……理由がございますならば、お伺い致しとうございます」
「あれが死ぬ事はない。時が来るまで……あれは死ぬ事も出来ぬ」
 死……。
 大声に怯える姿が脳裏を過ぎる。
 あの様では、いつ自ら命を絶つか分からぬ気がして仕方がない。
 そう……今こうしている間にも。
 不安になる。
「お心をお患いあそばされても……」
「……王宮に移せばそれこそ……あれの心は堪えられまい」
 王セファンは、そこで初めて渋面になった。
 手招きをし、ダグヌを膝元まで寄せる。

「あの塔は歴代の国守(くにもり)の住まいである。お前が案ずる程の事はない。ルシェラを陽に当ててはそれこそ寿命の期限も早まろうし、王宮に寄せては心を壊す。夜毎の事もそうだ。あれには必要である。お前は余計な事など考えず、私に従っていればよい」
 側用人達の耳には入らぬ程に、ダグヌの耳元で囁く。ひどく低く重く響く声音に、ダグヌは僅か身を竦めた。

「国守、とは……?」
「ああ…………そうか。アーサラ王都にはない存在であったな。リーンディルの事には疎いか」
 セファンは暫く悩んだ素振りを見せたが直ぐに立ち上がり、王座の後ろにある小部屋に続く扉を開けた。
 ダグヌのみをその中へ導き、付いて来ようとする側用人達を制する。
「ローチェと二人で話がしたい。そなた達はここで控えているように」

「お話とは……」
「まあ、座れ」
 小部屋の中には差し向かいで二人懇談するだけの革張りの椅子と座卓、そして酒やグラスの適当に並んだ棚があるきりで、他には何もなかった。
 ひどく狭く、二人が座れば額を付き合わせる形になる。扉も壁も厚く作られており、外に声は洩れそうになかった。

 王が座に着いたのに続き、命ぜられるままに向かいに座る。

「お前には、いずれ話す時も来ようとは思っていた」
 側の棚から琥珀色の酒が入った瓶とグラスを二つ取り出す。
 意を察して、ダグヌは瓶を手に取った。王のグラスに半分ほど酒を満たす。
 遠慮をしたダグヌのグラスに、瓶を取って王手ずから酒を注ぐ。
 ダグヌは恭しく押し頂いた。
 口を付けようとはしないダグヌを放り、注がれたグラスを手に取って軽く唇を湿らせる。

「かつて、戦争があった。神々や魔物達まで、この世界のありとあらゆるものを巻き込んで、終結までに百年以上を要したという……伝説を知っているな?」
「およそ三千年前に起こったとされる、ハルサ大戦のお話でございますか?」
「そうだ」
 手にした酒を、何かを思いきるかの様に一気に呷る。
 もう一杯を満たし、手でグラスを弄びながら王は話を続ける。

「大戦を終焉に導き、この世界に平穏を齎した七人の勇士。彼らが創り上げたのが、我がティーアを含む五古国と称される国々と、最も神から近く、最も神より遠い場所、リーンディル神殿である。と、ここまでの話は教養としてお前も知っていような」
「はい」
 この世界の誰もが……幼児でさえもが寝物語に聞き知っている話である。
 話には続きがあるのだろう。ダグヌは姿勢を正した。

「建国の聖人達が、今現代にも脈々と受け継がれ、生きている。ティーア、ラーセルム、リルディア、アルジェーダ、そして、アーサラの有するリーンディルに……」
「生きている……まさか」
 三千年前の話である。何処まで本当かも解らない伝説だ。
 ダグヌは非礼を思いながら失笑を奥歯で噛み殺した。

「生きているのだ。力と記憶が……この王宮にも引き継がれている。それを継ぐ者が、国守と称せられる」
 セファンは苦虫を噛み潰した様な表情で軽くダグヌを睨んだ。
 それに嘘がない事を見て、ダグヌの顔が仄かに青冷める。

「ティーアを創り上げた聖人は、神々の太陽に愛されすぎたが為に太陽を嫌い、人の心をよく知るが故にそれを厭うた。命果つる折、神に等しき力と記憶とを自らより分離させ、それをティーアを……引いては世界を守るために後の世へ伝えた。だが……人身には過ぎた力故に、後々力を継いだものは若くしてこの世を去る……」
「……陛下、では…………殿下が、その……」
「そうだ。まだ儀式の時は来ないがな。しかし……シルーナが生まれた時から……あれの運命は決まっていた」
 思いがけぬ名を聞き、思わず尋ね返す。
「シルヴィーナ陛下が何故に関係いたしますか」
 ダグヌの脳裏に閃光の映像が過ぎる。
 艶やかな黒髪が揺れていた。
 薔薇色の頬に浮かぶ笑みが、今でもダグヌの瞼裏には焼き付いている。
 一瞬面に浮かんだ思慕の情を見て、セファンは複雑な表情を浮かべた。

「顔だ。シルーナの顔立ちは、まさしく『ルシェラ』のものであった故……」
「名が関わり合いになるのでございますか」
「名は呪だ。他五古国の国守達も、代々同じ名を継いでいるという。我が国の国守の名はルシェラ。その他にはない」
「では何故、シルヴィーナ陛下は国守であらせられなかったのでございましょう」
「アーサラの女は各国に嫁ぎ国守を産む。国守自体にはならぬのが常だ。理由などは知らぬ。ただ、そう受け継がれている」
「しかし、お顔立ちなど……先代の、その国守様も、あれ程にお美しいお顔立ちであらせられたのでございますか?」
 ダグヌの意識の中では、シルーナ、もしくは自分の知るルシェラ程に美しいものなどあり得はしない。
「先代、その前には会った事がないが……三代前は、確かにあの顔形であった」
 セファンの双眸が僅かに曇る。それは期せずして浮かんだ涙の様だったが、ダグヌは気が付かなかった。
 王の顔を覗き込む非礼など、出来る筈もない。

「ルシェラは長らえぬ命。神も愛でる顔立ちと、神をも凌ぐ力を人の身では支え切れぬ。それが故に他人をも巻き込み、己が命を散らして逝く。この世に安らぎがあってはならぬ。未練を持たせてはならぬ。死ぬ事を憧れとし、生きる事をつまらぬものだと教えねばならぬ。力と記憶を継ぐ前に……何としてでも」
「何故にそこまで……」

「全てはルシェラを守る為だ。得心し、私の命に従え」
 まだ幾つもの疑問が残っている。
 しかし王はダグヌから目を反らし、それきり口を開こうとはしなかった。
 ダグヌの目に、王が偽りを言っている様には映らなかった。
 王の立場であれば、他国の出自である騎士風情に言えぬ事も多々あるだろう。
 ダグヌは、セファンが告げただけの事で、今のところは納得する事に決めた。
 必要であれば、王はまた何かを教えるだろう。
 その程度には信頼を寄せている。そして、信頼されている自負もあった。

「御意に」
「下がって良い。…………今の話は、くれぐれも他言無用に。ルシェラにも、話してはならぬ。決してな。私も……お前も、ルシェラにとって安らぎになってはならぬ。よいな。必ずだ」
 今の話から到底導き切れぬ命にも、異議を唱える事はしない。
「陛下のご命令でございますれば……」
 席を立ち、王の傍らに跪いて手の甲に挨拶の口付けをする。
「これから如何致す」
「殿下のお部屋へ、お飲物とご夕食をお持ちいたします。陛下のご命令通りに、必要以上には触れ合いますまい」
「そうか。……食事には気を遣ってやれ。大した食欲はなかろうが……粥に、魚でも混ぜてな」
「畏まりました」
 そうしてダグヌは小部屋を辞した。

 セファンはその背を昏い微笑で見送ったが、ダグヌはやはり気が付かなかった。
 二十の齢の差が、ダグヌに何かを察することすら許さない。

 それから暫く、セファンはグラスを弄びながら独りで考え深げに過ごした。

 かつて思慕したものがあった。
 遠き日。
 遠き場所。
 かつての妻、シルヴィーナではない。けれども、同じ顔をし、今のルシェラと同じ色をした……。
 琥珀色の液体を見詰めているうち、光を受けて水鏡となったそこへ何かが浮かぶ。
「…………兄上…………」
 強くグラスを握り締め、セファンは再びそれを呷った。
 乱暴に卓へ置く。
 縁には、小さな罅が入っていた。


作 水鏡透瀏

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