翌日。
 昼過ぎまで寝込んでいたルシェラの元に、懐かしい足音が聞こえた。
 起き上がるだけの余力はないが、それでも顔を扉へ向け、音の主を待つ。

「殿下、お起き遊ばされてお出ででしょうか」
 扉越しに、少しくぐもって聞こえる。
「お入り下さい」
 ルシェラは込み上げる喜色を抑えきれず、精一杯の声で呼びかける。
 応えて、扉が開いた。
「殿下!」
 ダグヌと、そしてその後ろにはエイルも控えている。
「ダグヌ……エイルも…………よく、おいで下さいました……」

 高が二ヶ月。されど二ヶ月。
 離れていた時間は、頭で考えるよりひどく長く感じた。
 それはルシェラにとっても、ダグヌにとっても同じ事だ。
 エイルは瞳を潤ませて只見詰め合う二人を眺め、肩を竦めた。
 再会を喜ぶ気持ちがないではないが、二人の様子を見ていると何だか苛々してくる。
 感情がひどく遠回りしている様で落ち着かない。

「殿下、お目覚め遊ばされ、何よりでございます」
「エイル……ありがとうございます……」
 にやりとしたエイルの笑みに、ダグヌと見詰め合っていた事を揶揄われているのだと悟り、頬を薄く染めて目を反らせる。
「本日の父上のご様子は如何であらせられましたか?」
「……大変ご気分が優れられぬご様子ではあらせられましたが、医師の診断ではご病気などではあらせられず、恐らくお疲れになってあらせられるのではとの事にございます」
「……かなりご機嫌斜めでいらっしゃいましたよ。本当は俺達をこちらに寄越すのはお嫌だったんでしょう。でも、確かにそろそろ体力的に限界みたいですね。目の下に濃いクマが出来てましたから」
 二人はそれぞれに違うことを言う。

 見解は違うが、父が疲れている事は確かなのだろう。
 ルシェラは軽く眉根を寄せた。
 父の疲れは恐らく自分の責だ。
「今夜には、またこちらへ起こし遊ばされるとのお言葉を賜りました」
「……今宵も? それ程にお疲れ遊ばしてお出であらせられますのに……?」
「殿下のお顔をご覧にならなくては、おちおちお眠り遊ばされる事もなされないのでしょう」
「そう……ですか……」

「殿下、お食事をお持ち致しましたが、お召し上がりになられますか?」
「いいえ……後に」
「左様でございますか……」
 二ヶ月で周期が作られてしまっている。
 食事は一日に一度、夜のみだ。
 元々食が細い上にその生活では、堪えられる様に身体が慣れていた。
「お湯浴みなど、如何でございましょう」
「いいえ。……ダグヌ……書庫へ連れて行ってください。久しぶりに、本を読みたい」
「畏まりました」

 書庫の壁は北側が全面窓になっていて、遙か遠くの山々までが見通せる。
 王宮の北側は随分広い範囲で森になっており、その中程にこの塔は建っているのだが、ここからでは街も見えない。
 けれど、ルシェラは外を恐れる反面、非常にこの場所を好んでいた。
 空は高く、木々の緑が目に映える。
 どこまでも、自分の見知らぬ世界が広がっていた。

「どのご本をお読みになられますか?」
「世界の……地図を……」
「畏まりました」
 手近なところに片づけてあった、手垢が付いて古ぼけた本が差し出される。
 表装は随分傷んで、所々が破れていた。
 読み込んでいることが見て取れる。

 これと、あと少しばかりの地理の本が、ルシェラにとっての世界の全てだった。

 外は怖い。
 だが、世界は広い様だ。
 怖くない場所も、あるかもしれない。
 本の頁を捲る度、ルシェラは目を輝かせ、またすぐにそれを不安で掻き消す。

 暫しの間、柔らかな静寂の時が流れる。
 ルシェラにの望む平穏が、片時のことではあってもそこにある。
 傅かれる感覚は、嫌いではない。

「殿下、陛下より、更にお言葉を預かっておりますが」
 ふと、エイルが声を掛ける。
 ルシェラは直ぐさま本を閉じ、怯えた目線をエイルに向けた。
「エイル!! 今申し上げるべき事ではない!」
「今だから言うんだよ」
「構いません。仰って下さい」
「は」
 エイルは窓の側に座るルシェラの膝元に跪き、顔を上げずに言った。
「数日後より再び、お客様をこちらへ」
「っ!!」
 ルシェラは思わず本を取り落とした。

「初めは恐らく、デュベール帝国公使かと思われます。お心の準備をなさってください」
「…………そう………………そう、ですか…………」
 ゆっくりと身を屈め、取り落とした本を拾い上げる。
 ルシェラの瞳からは、完全に光が失せていた。
「……父上が、そう仰せになられたのですね……?」
「はい」
「……あの方が、わたくしを愛するのはあの方だけだと仰ったのに……」
「陛下のお心は拝察致しかねます」
 努めて感情を消したエイルに、ルシェラはそれ以上言葉を掛けられなかった。

 ダグヌもエイルも、今のこの状況に同情していることは感じる。
 彼らの意志でもないのに、この場で詰ることなど出来ない。
 セファンが限界を感じ、彼らでも不足だと感じているならば、再び客を取るのも仕方のないことだ。
 ルシェラの諦めは早かった。
 心を自衛する手段は厭と云うほど身に付いている。

「デュベール公使殿なれば……約定としても致し方のないことでしょう」
「お受けになられるのでございますか」
 冷静さを取り戻したルシェラとは裏腹に、ダグヌの声は厳しい。
「デュベールの公使は、公私混同も甚だしく、最も殿下に対して悪辣な態度を取る輩にございます。殿下の御身に望ましくない事態が起こらぬとも限りません。私は、承伏致しかねます」
「ダグヌ。……陛下が命じ、王子であるわたくしが認めると申しているのです。貴方に否を唱える権限はありません」
「しかし、」
 ルシェラは、膝に載せていた本を、わざとにゆっくり広げた。

「……父上の午後の休憩時間に、ご伝言をお願い致します。お疲れのご様子であらせられるとお伺い致しました。今宵訪れ頂きますには及びません。ごゆっくりとお身体をお休めになり、どうぞご職務に差し支えないよう、お祈り申し上げます、と」
「畏まりました」
 ダグヌは応えず、代わりの様にエイルが応える。
「ダグヌ、貴方にも頼みます」
「…………御意に」
 ダグヌはルシェラの顔を見ようとはしなかった。

 ルシェラと顔を合わせることすら、ダグヌには辛くてならない。
 その苦しみがルシェラにも伝わり、得も言われぬ空気が生み出される。
 それを少しでも動かす為に、エイルが付けられているのだろう。
「今からのんびり王宮へ戻りましたら、丁度良い時間でしょう。ここにいても殿下にご希望がないようですから、今暫くお休み下さい」
「ええ。…………エイル、父上とダグヌを頼みます」
「畏まりました」

 エイルは少しふざけた調子で敬礼をし、ダグヌを引きずるようにして退室した。


作 水鏡透瀏

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