事が済んでも、ダグヌはルシェラから離れられないでいた。
 疲れ眠るルシェラの頬には名残の赤みが差し、穏やかな寝息が体調も落ち着いていることを示している。
 ルシェラの言の正しさを証明していた。

 そういえば、王セファンも、客との情事はルシェラにとって必要なものだと言っていたのを思い出す。
 人には生体特有の気の流れというものがある。
 どの様な生き物も必ず持っているものだ。
 武人として、ダグヌもそれをある程度悟ったり、操ったりもできた。
 他人と波長が合えば、ルシェラが回復したように、己の人体の均衡を調整することも可能なのだろう。
 そうでなければ、今ルシェラが生きていることさえも難しかったに違いない。

 王命に背いてしまったことに思い至った時には、既に遅かった。
 安らぎを与えてはならない。
 未練を持たせてはならない。
 生きられぬ命なればこそ、死を恐れさせてはならない。
 王は力を継いだ者達の最期を知っているのだろう。
 だからこそ、ひどく辛い命を下された。
 ダグヌは目を閉ざしたルシェラの顔を見詰めながら、身繕いを整える。

 安らぎどころの話ではない。
 身も、心も捧げ合ってしまった。
 縋るルシェラの手を振り解けよう筈もなかった。
 ルシェラが、これからも自分に縁(よすが)を求めたなら……やはり、自分にはその手を振り払うことなど出来ないだろう。
 自分にルシェラがどれ程の執着を持つかは分からない。
 しかし……。

 人は死を恐れる。
 それは当然のことだ。
 その「死」というものに対して憧れを持つ。また、憧れを抱かせる、その事が、どれ程難しいことか。
 ただ単純に死に憧れるものはいるだろう。
 美しく散る。
 頽廃的な美に…………。
 しかし、それは健康で平和で、幸福な者の驕りに過ぎない。
 ルシェラの様に、常に死と隣り合わせに暮らす者にとって、美しく散ることに意味などなかった。
 死は恐怖……乃至は、精々逃げ場に過ぎない。
 生きていない方がいい、生まれてこなければ良かった、そうは言っても、生きているから言えることだとルシェラは知りながら口にする。
 取り敢えず口に出してみることで、精神の均衡を保っているのだ。
 過去を恨み、後ろ向きに進む。
 進むべき先を直視しては、それこそ生きてはいられまい。

 情事の名残も掻き消して身繕いを終え、ダグヌはルシェラの眠る寝台の傍らに跪いた。
 掛布から出た小さな手を握る。先に触れた時より、微かに温かかった。
 美しく聡明。
 顔立ちも同じだが……もはや、その母の姿とルシェラは重ならなかった。
 太陽の恩寵をそのままに受けたかのように、溌剌として、弾けんばかりの瑞々しさに溢れていたシルヴィーナ。
 ルシェラは、それと表裏を成す影の様だ。
 第一位の継承権を所持するべき王子であり、かつ神代にも通ずる力を継ぐ身でありながら、また、人を惹き付けずには於かない華をも持ちながら、ルシェラは深い陰翳を纏ってその姿を闇に隠してしまう。

 歯痒い。
 けれど、これ以上自分に何が出来るのか……ダグヌには分からなかった。
 王命に背いた今、これ以上ルシェラの側にいられるものかどうかすら危うい。

「殿下…………」
 ダグヌは、ルシェラの手を強く握り締めた。
「死しても……お側に…………」
 その誓いは、しかし、ルシェラに届く事はなかった。

 ルシェラが目覚める前に王宮に戻ったダグヌは、直ぐに王に呼ばれた。
 戻るのを見計らっていたのだろう。
 ダグヌは覚悟を決め、セファンの下へ赴いた。

「斯様な夜分に火急のお召し、いかなる御用にございましょうか」
「ふ……お前には分かっていよう」
 王の寝室に呼ばれる程の者はそう多くない。
 室内に余人はおらず、皆廊下で控えていた。真実二人きりとなる。
 セファンは既にすっかりくつろいだ様子で、寝台の側にある安楽椅子に深く身を委ねていた。

「あれを抱いたか」
 扉を潜って直ぐの所へ控え、ダグヌは片膝を付いて深く頭を垂れた。
「抱いたのかと聞いている」
「…………はい」
「私の命は聞こえていたか?」
「はい」
「それでも、抱いたか」
「……………………は……」
 王の声はどこまでも淀みなく静かだった。
 ダグヌの背に冷や汗が滲む。

「ルシェラが誘ったのだろうな」
「……は、い、いえ……その……」
「よい」
 くっと、笑い声の様にセファンの喉が鳴る。
「ルシェラの好きにさせるがいい」
「い、いえ、しかし、」
「分かっていた。お前が、あれに邪険に出来よう筈もないことくらいな」
 今度は、はっきりと笑う。
「幸福を教えてやれ。その方が……後の苦しみにも繋がる」

「…………な………なんと仰せられます……」
「愛しているとでも言ってやれ。……明日よりは私もあれの下へ通ってみるかな」
「陛下!」
「信じた者に裏切られる。それはまだ、あれの経験したことのないものであろう」
 王の言に耳を疑う。
 不敬を思う余裕もなく、ダグヌは顔を上げてセファンの様子を窺った。

 あの危うい均衡を何とか保っている心に、これ以上何をしようというのか。
 ダグヌには理解できない。
 これ以上心に過分な衝撃を与えれば、ルシェラは壊れてしまうだろう。

「恐れながら申し上げます。ルシェラ殿下は最早、積年の苦しみに堪え難い程の苦痛を覚えられ、これ以上のお苦しみあれば、健全なお心を保たれることも難しいかと存じ上げます」
「分かっている。……いっそのこと、直ぐにでも壊れてしまえばよいものを」
 苦々しげに、吐き捨てるように言う。
 けれども言葉程にルシェラを憎んでいる風ではなく、不愉快さはむしろ自身に向けられている様だった。
 余計理解に苦しみ、ダグヌは首を傾げて王を窺い見る。

 セファンは、唇を歪めた。
 笑っている……というには固く、強張って見える。

「壊れてしまえばよいのだ」

 ダグヌに言う様ではなく、自分自身に言い聞かせる様に低く洩らす。
「どうせそのうちに壊れる。ならば、早い方がよい」
「何故、それ程の仕打ちを殿下に課せられるのです」
「お前は、死刑囚の最期の日々を見たことがあるか?」
「……いいえ」
「どれ程死を覚悟している者でも、刑の執行が近付くに連れて狂って行くそうだ」
 足を組み、頬杖を付いてダグヌの方へ身を乗り出す。

「あれが醜態を晒すのかと思えば目障りだ。ならば、いっそ完膚無きまでに叩き壊して、死を苦痛に思わぬのがよい。逆らうことなど出来ぬ運命に足掻く事が、何より見苦しいからな」
「では、これは…………殿下の御為と」
「違う。それを見届けさせられる我らの為だ」

 何とか自分の良心に適う解釈を試みたが、それは許されなかった。
 目も眩むような絶望に、ダグヌは俯き肩を震わせる。
 これ以上、言える言葉もなかった。

「精々可愛がってやることだ。まだ、1、2年の猶予はあろう。それまで、他国の客共に醜態を晒さぬだけの教育は施してやれ。いい歳をして、文字や魔術の一つも知らぬようではいい笑いものだからな」
 セファンは、楽しげに笑った。

 そして、ルシェラは漸く複雑ながらも王子としての一歩を踏み出した。

 騎士はルシェラに自分の全てを教えた。
 国内随一と謳われる武術の技。魔術の知識。国政。歴史。その他様々。

 昼間は騎士より勉学、武術を学び、夜は、今まで通りの生活を。
 ルシェラは、それでも無理を通し、天より授かった力の限り、騎士の教授を吸収していった。

 元々天与の才能に恵まれていたのだろう。
 ルシェラはすぐに頭角を現した。
 文字を教えてすぐさま本を読みこなし、数日のうちには難解な魔道書さえも理解する事が出来るようになった。
 武術も拾得し、三度に一回程は、当代随一の使い手といわれるダグヌさえも負かすだけの力を付けた。
 客達も舌を巻く程の、語学力も身に付けたし、国内情勢や、歴史などにも、詳しくなった。

 しかし、その分ルシェラは確実に命を磨り減らしていた。
 体調を崩し伏せることもより増えた。
 正妃の嫌がらせがなかった訳でも勿論ない。
 ダグヌの塔への訪れを阻まれたり、食事に混ぜ者があったことなど茶飯事だった。
 それでも、ダグヌは許される限り常にルシェラの傍らに傅き、ルシェラを守り続けた。
 彼がいなければ、疾うにルシェラはその命を落としていただろう。

 王の不穏な言葉を深く胸に留め置きながらも、ダグヌは愛情に似た想いでルシェラを包み、ルシェラもまた、安心してダグヌに全てを預けた。

 そうして二年後。


作 水鏡透瀏

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