ルシェラは、夢の中で何かに追われていた。
 道は細い廊下。しかし散々折れ曲がり、分かれ、迷路の様だ。
 両側は高い塀になっており、石造りだった。

 全力で走っている。
 後ろから迫ってくるものは何なのか、それさえも分からない。

 呼吸が上がって仕方がない。しかし、それでも逃げなくてはならないという思いだけが強く引く。
 脚が縺れそうになりながら、それでも走る。

 しかし、もうどうしても駄目だった。
 足が平坦な床に引っかかり、そのまま転ける。
 後ろを振り返る。

 …………何もなかった。

 ただ暗闇が広がる。
 今まで走ってきた道も、その闇に呑まれていた。

 闇が襲う。

「いや……」
 覆い被さって来る。

「助けて! 誰か…………」
 飲み込まれる。
 飲み込まれ…………

「助け…………」

「こっちだ!」

 突如、ルシェラの目の前に手が現れる。
 ルシェラは、必死でそれを掴んだ。

 引き上げられる。
 白い光が包む。
 そして…………


 ルシェラは飛び起きた。
 部屋はまだ暗い。そもそも窓は一つしかなく小さいので昼間でも薄暗いのだが、その窓の向こうさえも闇だ。

 片膝を立てて組んだ腕を乗せ、顔を埋める。
 まだ呼吸は落ち着いていなかった。

「…………誰……?」
 手を見る。
 あの時、自分を助け出したのは一体誰の手だったのだろう。
 大人の男性の手だという事しか覚えていない。

 ただ、懐かしかった。

「わたくしをここから出してくれるのは…………」

 この歳にして、ルシェラの心の大半を締めるのは死に対する憧れと恐怖だった。

 一人きりで死んで逝きたくない。
 しかし、自分をこの地獄から助け出してくれるのは死だけだという強い思いもまた、胸を占める。

 もう三年程も、こんな生活を続けている。
 それまで、誰も自分を助けてはくれなかった。
 助けたいと思ってくれている人がいない訳ではないだろう。しかし、実際の行動に出てくれなければ、皆同じ事だ。

 ふと顔を上げた。
 手も届かぬ高いところに、鉄格子の填った小さな窓がある。
 丁度月が見えていた。半月だ。

 目に痛い程皓い光。
 ルシェラは僅か、目を細めて月を見詰める。
 全てを浄化するかの様な清光に心苦しさを覚えた。

 懐かしく、苦しく、暖かく、冷たく……────。

 再び顔を伏せる。何故か涙が溢れた。

「助けて……助け…………」
 嗚咽に変わる。
 助けを求める言葉を繰り返し、幼い少年特有の高い声が部屋に、塔の中に響く。

 それは、明け方近くまで聞こえていた。


 翌日も、大差ない朝だった。
 食事を持って兵士が訪れる。

「失礼致します」
「どうぞ」

 明け方まで起きていて寝不足ではあるが、ルシェラは眠りが浅かった。
 兵士の塔を昇る足音で必ず目が覚める。
「いつもお早いですね」
「ええ……」

 兵士は食事の乗った盆を側の台に置き、ルシェラの方を向いた。
 そして、僅かな異変に気が付く。

 いつもならば、前日負った怪我は翌朝には跡形もなく消えていた筈だった。
 しかし、見ると口の端に微かな鬱血の痕がある。
 眠っている間に癒えるものが、睡眠不足で治り切らなかったらしい。

「どうなさいました」
「え?……あ……」
 視線の先を追って、自分の口元に触れる。
 少し強く当たり、僅かに眉を顰めた。

「眠れなかったので…………大丈夫です。夜までには治りますから」
 寝台から降りても蹌踉めく。兵士に抱き抱えられる様にして食台に着いた。

「頂きます……」

 朝食は野菜屑の入った粥だった。姿が映り込むほど薄い。
 半分も食べないうちに手を止める。
 今日は特に食欲がなかった。
 多少胸が苦しい気がする。
 夏から秋へと、季節は移り変わり始めている。昼夜の気温差に体調を崩したのかも知れない。

「……ご馳走様でした。もう結構です。下げて下さい」
「もう少しお食べになりませんと、お身体に障りますよ」
「食欲がありません」

 俯く、その首筋に目を落とし、兵士は息を呑んだ。

 透ける様に皓く、絹の様に滑らかな肌。
 細く筋が浮いているものの、痩せ過ぎている事で生じる筈の醜さは全く感じられなかった。
 滅多に陽に当たらぬ所為で、黒子の一つもない。
 ただ観賞する為にそこにあるかの様だ。

「……御髪を……梳かしましょうね」
 大半を残した食事を横に避け、ルシェラの後ろに回って櫛を出す。

 手に取った髪がするりと指の間を抜けて流れる。
 光そのものの輝きを孕んで眩しい程だ。
 細いが腰のある髪質。丁寧に繰り返し櫛を通す。
 梳かす度、更に輝きが増す。
 兵士は恍惚と眺めた。

「今晩も…………」
「はい?」
「今晩のお客様は、どなたかご存じですか?」
「いいえ……」
「……そうですね……あなたが知らされている訳はありませんか……」
 寂しげな呟きが兵士の胸を締め付ける。

「ルシェラ様…………」
「……はい」
 振り返る。深い緑の瞳には闇が映っていた。

「どうぞ、仰りたい事があるのなら……」
「いえ……」
「仰って」
 兵士は俯いた。
 しかし、ルシェラの位置からはその全ての表情が見える。

 目が合い、兵士は一度ゆっくり瞬きをした。
 そして、覚悟を決めて口を開く。
「ここから出ましょう」

「何を……」
「ここから逃げて、何処か遠くへ行きましょう」

 兵士はルシェラの手を取り、真剣に言う。
 ルシェラはその目に呑まれて一瞬言葉を失った。
 しかし、気を取り直す。

「そんな事、出来る筈……」
「今の時間、この周りには見回りの者はいません。逃げるならば今しか」
「ここから逃げて、何処へ行くと……」

 ルシェラの中で警鐘が鳴り響く。
 流されてはならないと理性が訴える。

「デュベールとの国境に私が生まれ育った村があります。辺境の、旅人も訪れない小さな村ですが、そこならば」

「わたくしには、何も出来ません」
 迷惑を掛ける以外の何が出来るだろう。

「私があなたをお守り致します」
「…………本当に?」

 兵士はしっかりと頷いた。ルシェラの心が揺らぐ。

「本当に、わたくしをここから……?」
「はい」
「助け出してくれるのですか?」

 もう一度、大きく頷く。
 ルシェラは、ふらりと兵士に寄り掛かった。

 理性の声は感情の波に押し流される。
 夢で差し伸べられた手は彼のものだったとのだと確信する。

 自分を助け出してくれる手。
 そっと握る。
 血の巡りが悪く冷たい自分の手に、兵士の温もりは熱い程だった。
 一粒涙が零れる。
 しかし、それでもどこかに不安は残っていた。
 それを無理に意識外へと追いやる。

 考えたくなかった。

「わたくしを助けて。ここから出して。……お願い。お願いです…………」
「はい。参りましょう」

 そして直ぐ。
 兵士はルシェラを抱き上げて塔の階段を駆け下りた。
 そして、大扉を開け放つ。

「っ!!!」


作 水鏡透瀏

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