「殿下!」

 血で張り付き瞼が開けにくい様で、再び目が閉じられる。
 声は確かに聞こえているらしく、唇が動いた。
 言葉にも……音にすらならないが、誰かの名を呼んだ様だった。

「殿下、ダグヌにございます。お分かりになり遊ばされますか?」
 暫くの間。
 だが、ゆっくりと小さくルシェラは頷いた。
 ダグヌの顔に喜色が走る。
「エイル、直ぐに陛下にご連絡を」
「ああ。……しかし、この部屋を見せるのはどうか……」
「仕方があるまい。頼んだぞ」
「ああ……」

 渋々エイルが下がる。
 その間に、ダグヌはルシェラの睫を丁寧に手巾で拭い、唇などに付いた血痕も拭き取る。
「痛みはございませんか?」
 緩慢だが、頷きが返る。
「お身体をお清めいたします。暫しお待ち下さいませ。階下より水を運んで参ります」
「…………は…………」
 はい、と言いたいのだろう。唇が開き、また頷かれる。

 ダグヌはルシェラの無事を噛み締めながら階下に降りた。

 温く加減した水で血に塗れたルシェラの身体を清める。
 仕舞ってあった敷布の替えで清められた肢体を包み、壁により掛からせながら椅子に座らせる。
 まだ自力で座っていることは出来ない様だった。
 敷布も掛布も取り替え、真っ新な上に再び寝かせる。
 寝台の枠や天蓋、吊された紗などは取り替えようがなかったが、まだ堪えうる見栄えとなる。

「よく……お目覚めになられました……」
 そうまで落ち着いて、漸くダグヌは例えようもない安堵感に包まれる。
 涙が溢れて止まらなかった。
 そっとルシェラの腕が伸ばされ、傍らに控えるダグヌの濡れた頬に触れる。
 細い腕にはまった腕輪が、肘まで落ちた。
「……?」
 ダグヌの頬を軽く撫でて拭った手に、不思議そうに触れる。
 薄く再び目が開けられた。
 先より、少し大きめに開かれる。そして、自分の腕を眺めていた。

 見慣れない腕輪だ。
 古びた銀の細工が複雑に絡み合い、その間にそれぞれに赤、青、緑、乳白色と、色の違う大きな宝石が四つ填め込まれている。
 変わった作りだった。
 全体的に骨太な意匠で、ルシェラの細い腕には不釣り合いに見える。

 ルシェラはぼんやりと腕輪を眺めながら、微かな既視感を覚えていた。
 見覚えがある様な気もする。
 はっきりはしない。しかし、この腕輪はとても重要な物であることは確かである様に思える。
「そちらは、殿下がお社から出て来られた折より、身につけられていた品でございます。お社の中で手にされた物なのでございましょう」
 ダグヌが説明してくれる。
 だが、今一つルシェラの耳に入りきらなかったらしい。
 ただじっと腕輪を見詰め、指先で撫でている。

 本当に正気でいるのだろうか。
 今更ながら不安が過ぎる。

 不安に駆られながらルシェラの様子を窺っているうちに、階下で呼び鈴が鳴る。
『ダグヌ、陛下をお連れした。大丈夫か?』
「出来る限り清めた」
『分かった』
 最小限の会話が交わされ、エイルがセファンを同伴して戻って来る。

 ほぼ一週間ぶりにこの塔へ足を踏み入れたセファンは、まず鼻を突いた血の匂いに眉を顰めたが、反応はそれだけで直ぐさまルシェラの横たわる寝台に寄った。
 幾重にも重ねて吊り下げられていた紗は、紐で纏めて天蓋を支える柱に括りつけてある。邪魔にはならない。
「……無事か」
 ダグヌのお陰でその姿は一週間前と全く変わらない。
 傍らに跪き、手を取る。
 華奢な指が動き、僅かに握り返す風を見せた。
「私が……分かるか……?」

「…………セ……ファン……?」
 微かな声音で父の名を呼び捨てにし、またもう少し見開かれた瞳が真っ直ぐに見詰める。
「……兄上…………」
 王の口から、無意識にか不思議な言葉が洩れる。
 ダグヌとエイルは思わず顔を見合わせた。

 ルシェラはルシェラで緩く頭を振り、額にそっと手を当てた。
 緩慢ではあるものの、少しずつ動けるようになって来ている。
「セファン…………いえ…………いいえ、違う……」
 違う。
 目の前の中年の男がセファンと言う名の血族であることは分かる。
 しかし、弟ではない。
 ない、筈だ。
 記憶が交錯している。
 違うとは思っても、否定しきれない記憶があった。

「何が違うと。私は、貴方の弟、セファンです」
「あな……たは………………」
 違うのだ。
 今の自分にとって、この男は弟ではない。
 弟ではなく…………。
「……ちち……う……え…………」
 そうだ。
 父親の筈だ。
 自分の知る弟のセファンは、まだ十三の子供だった。
 まだ……………いや、それではやはり、今の自分よりも年上ではないか。
 あれから、どれ程経っているのか……。
 セファンの顔には、あの頃の面影はまだ色濃く残されている。

「いいえ。貴方は私の兄上です。私は貴方の弟、セファン。覚えておいでではありませんか?」
「……違う……ちが……う…………」
 手を振り解く。
 この男が弟であるというならば、自分は誰なのか。
 記憶に残るかつての弟によく似ているが、ルシェラの中には、それとは別に、この男の息子として過ごした日々も確かに存在している。
 ルシェラは困惑し、縋る様に部屋の中の三人の男達を順に見詰めた。

「陛下……何を仰せであらせられます」
 見かねてダグヌが口を開く。
 ルシェラの困惑は当然だ。
 それより、気が触れたのではないかと疑う程に、王の言葉の方が不審だ。
 しかし、セファンはダグヌを一瞥しただけだった。
「お前は黙っていろ。……二人とも階下で控えているがいい。用があれば呼ぶ」
「しかし、」
「お前達に聞かせる話ではない。下がれ」
 有無を言わせぬ口調で命ぜられ、ダグヌは口を噤んだ。
 そんなダグヌの背を押し、エイルは連れ立って部屋を辞した。

 塔の一階は、北向きに外への扉が、南の端に階上への階段があり、真ん中に一つ大きな井戸がある他には何もない場所だった。
 ここだけは常に、火輝石と呼ばれる熱と光を発する石の入った吊り燈籠で明るくされている。
 窓はないが、十分な灯りはあった。
 ダグヌは井戸の周りを落ち着かない様子で行ったり来たりしている。
 反対にエイルは落ち着いて、腕組みをしたままダグヌが動く影を見詰めていた。

「おい、少し落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるか」
「お前が苛々したって仕方ないだろうが」
「だが……本当に陛下は平静であらせられるのだろうか。殿下にもしもの事があったら、お前、何とする」
 勢い余って、ダグヌはエイルの胸座を掴んだ。
 エイルは軽くダグヌを睨んだが、手を無理に外すことはしなかった。
「陛下の頭は狂ってなんかない。…………俺はそう思うがな」
「何故そう思う」
「あの方にとってルシェラの名ってのは『兄上』なんだろう。国守ってのは、この王家やその周りの筋に代々受け継がれていくもの。陛下に兄上様がいらっしゃったとして、その方が国守であらせられたとしてもおかしくない」
「だからと言って、ご自分のご子息を兄と呼ばわるなど」
「さっき、殿下だっておかしかったじゃねぇか。お父上の名を呼びつけたりして」

 漸くダグヌの手がエイルから離れる。
 エイルは小さく咳き込みながら、襟を正しダグヌを見遣る。
「殿下がお継ぎになった『力』ってのに記憶も含まれてる。継いだ力を使う為の、国守としての記憶なんだろうと思ってたけど……多分、国守としてだけではない、個人としての『ルシェラ』達の記憶も継いでいるんだろう」

 エイルは井戸の縁に腰掛け、見透かす様に階段の上へと視線を移す。
 ダグヌは神妙な面持ちで考え込んでしまっている。
「まあ、ただの推測だけどな」
「かつての方々の個人的な記憶…………」
「そんな怖い顔すんなって」
 エイルの隣に腰を下ろし、ダグヌは俯いて思案を始めた。
「頭の中が破裂なさらなかったってだけでも僥倖だと思うぜ。何せ……三千年分だ。古い個人的な記憶は、もうないかも知れないけど……陛下のご幼少の頃くらいなら、まだそんな大昔って訳でもないし。覚えてても然り」
「…………殿下は正気であらせられるご様子だったが……」
「……重いな。三千年分の、何十、何百って記憶を背負って……」

 頭を抱え込んでしまったダグヌの肩に触れ、軽く叩く。
「陛下も殿下も大丈夫だ。殿下は混乱はしていても正気だったし、陛下だって、兄であり息子である殿下に、何が出来るわけでもないだろうさ」
「ああ……」
 ダグヌは顔を上げ、階段を見上げた。
 火輝石の光に照らされた頬は、涙に濡れていた。


作 水鏡透瀏

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