「命を賭して殿下をお産みになられた、シルヴィーナ妃殿下を如何お思いになられます」
 慎重にならねばならない言葉の筈が、ダグヌも感情が先に立つ。
 ダグヌとして、また、王に仕える兵士としての訓練は積んできているが、彼とて、まだ二十歳そこそこの若者だ。致し方ないこともあろう。
「母の事など、何一つ知りません……」
 知らぬものを思慕する事など出来ない。ルシェラは突き放す。
「とても、お優しいお方でいらっしゃいました。身分も隔たりなく、誰にでも同じ様に、優しく親身にされておいででした。その微笑みに救われた者は、本当に多く……誰もが、お慕い申し上げておりました」
 目を僅かに細め、腕の中で大人しくしているルシェラを見詰める。

 嘗て同じ目線で過ごした、同じ姿。
 乳母の子という、かなり近い立場も幸いしたのだろう。性差を意識するより幼い頃、遊び相手としていつも一緒に過ごした。
 ルシェラとその母は、乳母を同じとしていた。
 その表現では僅かな誤意が生ずるが、それも仕方のないことだ。
 ルシェラに母乳を与えた人間はいない。
 実母の初乳で多少唇を湿らせた他、赤子のルシェラの命を繋いだのは動物の乳であり、砂糖水であった。
 ルシェラの母、シルヴィーナの乳母として輿入れにも同伴してきていたミルザが、シルヴィーナ亡き後にも国には帰らず、ルシェラの庇護に勤めたのだ。
 シルヴィーナに付き従ったものの大半はアーサラへ返され、ただミルザと、その息子ダグヌのみが残された。

 自分が騎士としての誓いを立てたのはただ一人、ルシェラの母であるシルヴィーナだけだ。
 ティーア王は、それを知った上で重用してくれている。
 王には騎士としてではなく、一兵士として仕えているのだという意識が強かった。
 しかし、ルシェラに姿の事を言うのは気が引けた。ルシェラの個を否定する様な気がする。
 よく似てはいるが全く同じ姿だという訳ではない。
 シルヴィーナはアーサラの人間の大半がそうであるように、美しい翠髪に同色の瞳。
 深い色合いが皓い肌を際立たせ、寧ろ神秘的だった。

「……何名かのお客様から伺いました…………母とわたくしは、よく似た顔立ちなのでしょう?」
 態と避けている事に、察しのよいルシェラが気付かぬ筈もない。
 動揺を見せるダグヌに比べ、ルシェラは冷静だった。
「……わたくしは、これまで随分多くの大人の方と接して参りました。人の区別も付くようになっても参りました。……貴方も、その幾人かのお客様と同じ。わたくしを通して母を見ていらっしゃる。……いいえ。母しか見ていない。…………否定しないで。違わないでしょう?」
 反論を封じられ、ダグヌは黙るしかなかった。

「母が羨ましい…………」
 吐息混じりの微かな呟きが耳を擽る。
「誰からも愛されて、さぞ幸せでいらしたのでしょうね。死して尚、多くの人の心に残り続ける事が出来る程…………」
 その細い身体からは鼓動も熱も伝わらない。
 ただ耳元で聞こえる浅い、未だ荒い呼吸だけがルシェラが生きている証の様だ。

 不安を覚え、ダグヌは互いの隙間を埋める様にルシェラを抱き締め直した。
 身体の境界をなくしてしまいたい衝動に駆られる。
 着ているものの存在など取るに足らない。
 二人を隔てるのは互いの皮膚のみ。その向こうに、ルシェラにとっての安らぎを求める。

「でも……わたくしは母にはなれない……」
 ルシェラはダグヌとは全く異なる事を考えていた。
 幾人もの大の大人が、未だに思いを引き擦り続ける程の人物。
 自分の母として誇りに思うが、比べられるのは辛い。

「他人になる必要などございません」
「では何故……? 情交の最中、配偶者の名を呼ばれたりなさるならばともかく、何故母の名で呼ばれなくてはなりませんか? それも、一人二人の話ではないのですよ」
 そういう人程優しく接してはくれた。
 しかしそれは後ろめたさから来るものなのだと、ルシェラは受け取っている。
 そしてそれが誤った見方ではないと確信していた。

「……ミルザは、母の話を殆どしてくれませんでした。お客様達にお伺いしても……結局、わたくしの中で何らかの像を結ぶ事は出来ませんでした。お美しくて、お優しくて、何でもお出来になって……そんな虚像めいた事ばかり仰られても…………疑ってしまいます。過去の思い出は美化されるものですから……」
「……美化される必要もなく、その他に申し上げようもない程素晴らしいお方でおわしあそばされましたから」
 ダグヌの懐かしげな言葉に、ルシェラは自嘲の表情を顔に浮かべた。

「……確かに、わたくしが母に成り代わる必要などない様ですね。そう思う事自体、烏滸がましい……」
 返された台詞により、自分が発した言葉のあやの過ちに気付くがもう遅い。
 ダグヌは慌てたが、一度発せられた言葉は取り消しようがなかった。

 それでも取り繕わざるを得ない。
「……殿下も仰せあそばされました様に、思い出は美化されます故、私がそう感じるだけかも知れませんが……」
「構いません。納得致します。……それに、それでは母上に対して失礼ではありませんか」
 密接した身体からダグヌの慌てぶりが感じ取られ、ルシェラは微かに笑った。

 本心ではない。
 母に対する思い入れなどなかった。
 自分とそっくりな過去の人という認識しかない。
 ただ、どれ程大人ぶったところでルシェラはまだ九歳だ。「母」という存在に対する願望は強かった。
 しかし、ルシェラにとっての母親像は飽くまでミルザでしかなかった。その他に想像しようがないのだ。

「気になさらないで。少し、揶揄っただけですから」
「いいえ。私の配慮が至りませんでした。心よりお詫び申し上げます」
「……謝らないで。わたくしが、下らぬ事を申しているだけですから」
 包み込むダグヌの体温に身も心も預けながら、そっと囁く。

 母……ミルザの温もりを思い出す。
 知らず、涙が零れた。
 頬を伝い、ダグヌの首筋に落ちる。

 強く抱き締めたままだった腕を緩め、ダグヌはルシェラの濡れた目尻を指で拭った。
「あ……ごめんなさい……」
「いいえ。どうぞ、殿下の思われるままに」
「…………少し、泣いても……いいですか?」
「勿論でございます」
「しがみついても、いいですか……?」
「はい」
「……先程迄の様に、強く抱いて下さいませんか…………」
「畏まりました」
 確かめる様に質問を繰り返すルシェラが、ダグヌの目には悲しく映る。

 もう一度、望み通り強く抱き締める。
 ルシェラもダグヌの身体に腕を回す。そして、火が点いた様に泣きじゃくり始めた。

 ダグヌはただ、ルシェラの頭を撫で続ける。
 他に出来る事など思い浮かばない。しかし、今はそれだけで良い様だった。

 幼い心に蓄積した数多くのもの。
 不器用なルシェラには、表に出す事など出来ない。
 乳母が死んだ時も、初めて男に抱かれた夜も、先程兵士が死んだ時も、声を上げて号泣する事など出来なかった。
 静かに涙を零す。
 ただそれだけがルシェラにとっての悲憤の表し方だった。
 しかし、ただ抑えるばかりではいずれ無理が祟る。ルシェラの心は限界だった。
 後少しの刺激でいつ砕けるか分からない。吐き出す事は重要だった。

 ずっと耐えて来たのだ。
 感情を受け止めて貰える相手など、ミルザを亡くした時に失った。
 たった三年。
 しかし幼い身には、想像を絶する程長い日々だった。
 悲しみも苦しみも全て封じ込めてきたこの身体も、限界は近かった。
 生まれ付いての持病に加わった幾つかの病は、心の衰弱が誘発したともいえる。
 心と身体は不可分だった。

 ただ、その事で同情されようとは思わないし、耐えて来た事を誇らしげに掲げるつもりもなかった。
 欲しいのは平穏だけだ。
 何にも邪魔をされる事のない穏やかな時間。
 何かを主張する事は、それを著しく妨げる。

 大声を上げて泣いている所為で、時折ルシェラの呼吸が詰まる。
「殿下、少し息を大きくお吸い下さい」
 しかし、ルシェラは聞いていない。
「殿下」
 未だ先程の発作の名残がある。再びぶり返している呼吸の雑音が、聞いているだけでも苦しい。

「殿下!」
 思わず大声を出す。
 ルシェラは硬直し、ぴたりと泣き止んだ。
 微かに震え、怯えた様にダグヌを窺う。

「申し訳ございません。あまりに、お苦しそうでおわしあそばされたもので……」
 しかし震えは治まらず、ルシェラはダグヌから身を離し、深く頭を下げて身体を掻き抱いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、もう、致しませんから……許して下さい……お願い…………」
 硬直して謝罪を繰り返すルシェラにその必要がない事を伝えようと、何度も繰り返し頭を撫で、自分の体温を伝える。
 ルシェラの様子は、雨に濡れた子猫の様だった。


作 水鏡透瀏

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