ザザーン……。
……ザザーン。
お前は何故ここで朽ち果てようとする。
ザザーン…………。
…………ザザーン。
光も見えず、人の声も聞こえず、話すことも出来ず。
およそ意思というものを表す手段を持たなくなってもまだ、あの男に義理を尽くそうというのか。
ザザーン……………………。
……………………ザザーン。
国守などという言葉に囚われるな。
お前が守るべきものなどここにはない。
それは人間どものただの幻想。
お前には国を作った責任はあるが、維持する義務などない。
ザザーン…………………………………………。
…………………………………………ザザーン。
お前には、会いたいものがあるのではなかったか?
脳が萎縮と再生を繰り返している。
逃避し、自ら命を閉ざす事は未だ持って許されない。
着実に命の期限は近づいて来てはいたが、ルシェラは最早それを待ち望む思いすら失せていた。
何を考えるという事もできない。
ただ、死んでいないという状態で横たわっているだけだ。
それでも、与えられる日々に変化はない。
男に身体を与えながら、男を捕食する。
まるで食虫花だった。
ただ、歳を経るごとに、一日一人では足りなくなりつつある。
今年の夏には十五の歳を迎える。
目の前に吊り下げられた死に、指先が触れる思いがする。
あと少し……それに手を伸ばそうとすると、満ち足りもしないうちに男達は息絶えてしまった。
満たされない事を本能で悟りながらも、ルシェラはやはり、身動ぎもしなかった。
どのみち治癒力ゆえに床擦れもしない。
そして、世話をしてくれる者や新たに訪れる男、セファンにどの様に見られているかなども、考える事もなかった。
ただその日を待つ。
されど、それ良しとしない存在があった。
国守の腕輪だ。
ルシェラに許される数少ない音。
内容の認識できる音は、この腕輪が囁く言葉しかない。
セファンの囁き続けた毒よりはずっと弱く。
けれど、全てを知っているかの様な口ぶりは、僅かずつルシェラの意識を引き摺り始めていた。
記憶の泉の奥底を掻き乱され、舞い上がった泥土の様な断片が脳裏を踊る。
はらはらと、はらはらと……。
大地の匂いが鼻を掠める。
常にはその様なものはなく、何処か生臭い、喉の奥に絡む様な塩辛さだけが付き纏っているというのに。
闇に閉ざされた視界の端に、ちらちらと光が浮かぶ。
暖かい、忘れていた焔の光。
眩しいほどの外の光。
静かに包む、月の光。
優しい空気が肌に触れた気がして、その度にルシェラは身体を震わせた。
小うるさいけれど優しい雑音と、腕輪の声とが交互に聞こえている。
壊されながら癒され続ける心を抱え、ルシェラには声に従うだけの気力も度胸もなかった。
のそのそと、老人に連れられてまた一人、男がやって来た。
何日も風呂に入っていない様な異臭を放っているが、老人も、男自身も、意に介す様子はない。
老人は興味もないし、老年の常で視力が弱っていた為見えなかったこともある。
また、ルシェラ待ちの男達が一同に詰め込まれた部屋でも、それほど他人に興味を抱くものもなかったのだろう。
男は歩き辛そうに片足を引き摺っていた。足を悪くしているらしい。
「こちらで……」
そのうちに、一つの部屋の前で老人は足を止めた。
「三時間後にまた来ますんで」
老人はそれだけを言い残し、案外な健脚で通路の向こうに消えた。
男は扉の取っ手を掴み、回した。
鍵は掛かっていない。
部屋の中は通路より暗く、窓に打たれた板の隙間から乱反射する光が僅かに入り込んでいる。
窓は大きく作られており、開いてさえいれば遠くの海や、身を乗り出して横を見れば近くの町も微かに見ることが出来る様だった。
男は中に入って鍵をかけると、つかつかと寝台に横たわるルシェラに歩み寄った。
先程とは、歩き方も歩幅も違う。
一瞬身を屈め、足元から何か長いものを引き抜いた。
長めに作られた細身の短刀だ。それを腰に挿し直す。
「探しましたよ、殿下」
男の手がルシェラの頬を撫でる。
性欲など欠片も感じられない、ひどく優しげな手だった。
痩せ細り、干からびた様な手を取ってその項に口付ける。
「さて、ここから出ましょうかね」
動かないルシェラを眺めて軽く眉根を寄せる。
薄汚れている顔は、よく見れば相応に端正だった。
「臭いのは勘弁してくださいよ。ここに紛れ込むって言えば、こうするしかなかったんですから」
答えが返ってこない事を知りつつ、男は軽口を叩いた。
手でざっと髪を整え、取り出した手巾で適当に顔を拭う。
現れた顔は、ルシェラにとってとても懐かしいものだった。
「すみませんね。ダグヌじゃなくて。俺でご勘弁くださいよ」
エイルは慈愛の篭った目でじっとルシェラを見詰める。
そして板を取り外し、窓を開け放った。
爽やかな昼の潮風が室内を撫でる。
長く突き出た庇の向こうから陽の光が差し込もうとしている。
金属の格子が嵌っていた。それは細く網目の様になってはいたが、酷く古かった。
短刀を抜き払い、格子の下端へ力任せに峰を打ちつける。
簡単に崩れた。
同じ様に上端にも打ちつけると、格子は弾け飛び窓の外に消えた。
人が一人くらいなら出られなくもなさそうな穴が開く。
ひどく大きな音が立ったが、誰かが来る様子はなかった。
手を顔の前で振ってみるが、やはり反応はなかった。
目は開かれてい、部屋が自然の光で明るいお陰か塔にいた時よりはっきりとその色が分かる。
与えられた光にのみ輝く瞳は、思いの外美しかった。
余計な光が失せて更なる美しさを見せている。
これが、人としての意思を捨て去った末のものかと思うと、エイルの鼻の奥につんとした疼きが走る。
ここへ来るのに三年掛かった。
王命に反し、アーサラへ旅立って直ぐにティーアへと引き返した。
身を窶しつつ、アーサラ国内で王命通りに次のルシェラを産む女を探す振りもしつつ。
器用な立ち回りがダグヌに出来よう筈もなく、負担は全てエイル一人に掛かっていた。
場所を特定するのに一年。
入り方を調べるのに一年。
そして、潜入及び奪回作戦の実行準備に一年。
他にする事がないのならこんなに時間が掛かる事はなかっただろうが、この状況下では仕方のない事だった。
ダグヌはアーサラから動かない。
全ての仕事は、エイルが一人でして退けるしかない。しかも、セファンの目の光る国内、よりによって、この場所で。
三ヶ月も近隣の貧民街を回り、声掛かりを待った。
セファン自身の裁定で選ばれるわけではなかったのが救いだ。
そしてここへの潜入から半月。
漸くにして、今日のこの日が回って来たのだ。
この砦の文献や見取り図はないに等しく、内部の様は分からない。ただ、人が少ない事は確かなのだ。
壁を吹き飛ばそうが、この窓から飛び立とうが、浸水した出入り口から泳ぎ出ようが、制止する手はない筈だった。
ここに来てからの調査で、連れて来られた男達の他は老夫婦が一組いるきりだという事は分かっている。
「参りましょうか、殿下」
薄汚れた上着を脱ぎ捨てる。季節柄、心地よい程だ。開放された心持になる。
その捨てた上着の内側から、何枚かの呪符を取り出す。
エイルに魔法は使えない。この呪符が助けとなる。
それを口に咥え、エイルは軽々と敷布ごとルシェラを抱き上げた。
成長期の三年間…………。けれど、腕の中のルシェラは身長こそ伸びてはいたが、重みは記憶にあるままの様だった。
光を受けた姿を間近で見れば、その美しさは際立っている。
肌も髪も、全てが光を受けてこそ光り輝くものだと思い知らされる。
骨と皮、とまでに痩せ細って見えないのは、栄養だけは補助されていた為だろう。
突き上げる愛しさにエイルは呪符を手に持ち替え、ルシェラの頬に口付けた。
これ程に美しく、国守であり、王子。
その性質の心優しさ、素直さ、聡明さも知っている。
本来なら、どれ程の敬愛と寵愛を一身に受けた事だろう。
それが……。
純粋に愛したものはいた。
ダグヌや、グイタディバイド、そして、自分も……恋愛などではなくても、愛していた事は確かだ。
他にも、普通に愛した客だっていただろう。
ルシェラは、それを知らなかったのではないかとエイルは感じている。
知る事を許されていなかった。
ルシェラに許されていたのは、セファンの愛を受け、セファンを愛する事だけだったのだから。
与えられているものを愛として受け取る事すら許されなかった、それを知りながら、ダグヌは最終的にルシェラを受け入れきれなかったのだ。
愛も覚悟も足りなかったのだと、ここへ来る前にエイルはダグヌを罵ったが、ダグヌの意志はセファンの命を遂行する事に傾いていた。
心が離れたわけではなく、自衛の為だろうという事はエイルにも分かった。
良家に生まれ育ち、苦もなく騎士となりそれから先はずっと守るべき対象の側にいた。
根本的に違うのだ。
ダグヌは、弱い。
平時なら、その弱さも優しさであったろうが、とてもエイルに許せるものではなかった。
現実を見据え、目を反らす事なく、現状の中でより悪くない選択肢を選ぶ。そうエイルは生きてきたし、これからもそうしていくだろう。
それが当然だと思っている。他人に強要する程押し付けがましくはないが、その信条は変わらない。
しかし、現実から目を反らし、突き付けられた選択を先送りにしようという人間には腹が立つ。
今のダグヌはまさにそれだった。
相変わらずさらさらと、よく梳られた髪を撫でる。
体温もまだしっかりとしていた。
人肌の温もりのある人形だ。
「ダグヌのところへ参りましょう。お連れしますから」
ルシェラの顔が、僅かに綻んだ様に見えた。
ルシェラは感じていた。
今日は、いつもと違う。
扉の開く気配と共に、その確信めいた思いが頭を擡げた。
訪れたのが誰かなど分からない。
ただ、流れ込んできた空気が、肌を優しく包む様だった。
いつもより多くの事を感じ取れる。
懐かしい感じがした。
外の匂いが鼻を掠める。
記憶が……ふわりと浮かび、また消えた。
視界が僅かに開けて光が差し、何かの呟きの様な音が耳に届く。
声、なのかもしれない。
意味は分からないが、そんな気がした。
光の差した視界にちらちらと影が映る。
人影、なのだろうか。
日々自分に触れるものを人として認識はしていなかった。久々に人影を感じた気がする。
ふと、涼しげな風が頬を撫でた。この部屋の空気が動いたのは、どれくらいぶりだろう。
ガン!! と、大きな音がする。
人が発する音以外は聞こえるのだ。ただ、ここには、繰り返し響く雑音しかないのだが。
何が起こっているのか不安になる。
暗闇に僅かな光が差していたが、辺りの状況を確認できる程ではない。
不安であっても、身じろぐ事すら考えられず、ルシェラはただなされるがままだった。
身体が持ち上げられる。
温かな身体だった。
伝わる優しい想いが、ルシェラの心を満たしていく。
久々の充足感だった。
身体と心は不可分ではあるが、また、別のものでもあった。
唇に更なる熱が触れる。髪にも優しく触れられ、ルシェラはほっとして微笑んだ。
優しい……とても、優しい。
触れ合う端から、ひたすらに自分を想ってくれる感情が伝わってくる。
ルシェラは、それをよく知っている気がした。
最早遥か彼方の昔、そうして触れてくれたものがあった筈だ。
力を与え、癒し、包み込んでくれた存在……。
それはこの様に、外の匂いと光に満ちてはいなかっただろうか。
会いたかった。
……会いたかった。
やっと、会えた。
ルシェラの手が動いた。
エイルの頬に添えられる。
僅かに瞳に光が戻った様に見え、エイルは思わず息を呑んだ。
「…………」
言葉にはならないが、ルシェラの唇が何かを紡ごうとした。人の名前……の様だった。
ただ、エイルのものではない。
よく聞こうと、エイルはルシェラに顔を寄せた。
「……殿下?」
目が閉ざされる。近づけた顔に、一層ルシェラは顔を寄せる。
距離が、埋められた。
唇が触れ合う。
柔らかな舌が、唇と歯列を越えて入り込んでくる。
「……くっ…………」
女でも……男でも、これ程の口付けを受けた事などないし、与える事も出来なかっただろう。
快感にか、全身から力が抜けていく感覚がする。
ルシェラを腕に抱いたまま、エイルは床に膝を付いた。
手を添えて顔を引き寄せたまま、ルシェラは離れようとしない。
優しい力がルシェラを満たしていく。
量としては足りずとも、それを上回る心の充実がある。
こんなに満ち足りた気持ちになるのは初めてだったかもしれない。
もっと、欲しい。
歯止めなど利くものではなかった。
背筋に震えが走る。
エイルは思わずルシェラに縋りついた。
立場が、逆転している。
強い眩暈がし、目を開けてはいられなくなってくる。
それでもエイルは必死で瞼を持ち上げ、ルシェラの顔を伺った。
目は閉ざされたまま、けれど、瞼と頬に僅かな紅みが差している。
美しい。
エイルは安心して、自らの目を閉ざした。
意識が薄れていく。
ただ、美しいルシェラを思いながら、最期の力で腕の中の存在を抱き締めた。
ずるり、と腕が滑り落ちる感触で、ルシェラは目を開けた。
視界が開けている。
明るい部屋だった。
身体を起こす。起こすだけの力が宿されていた。
「…………っ!!」
まだ温もりのある、それでも動かないものに包まれている事に気がつき、咄嗟に振り払い立ち上がる。
転がるそれの顔を見る事が出来た。
「…………ぁ…………ぁ…………」
声は出ないまま……。ただ、外の音と鳥の声がざわめく血と渾然となって脳裏を巡る。
全ての血液が、嵐となって渦巻いているかの様だった。
眠っているのだと、信じたかった。
「……っ……ぅ…………」
エイルの顔はとても穏やかで、まだ温もりもあり、仄かに頬に赤みもある様
だった。
けれど、ルシェラには呼吸も鼓動も、感じ取る事ができない。
この状況と同じ光景が、記憶の奥から引き摺り出される。
三年前にも同じ事があったのだ。
全く、これと同じ事が。
その時の犠牲者は、また、自分にとっては縁の薄い男だった。しかし……。
外の匂いのする人間。
光を与えてくれる。
風や、大地の匂い。
優しく包み込んでくれる空気。
エイルは違う。違ったけれど……ルシェラの求めているものと、似通ってしまっていた。
再び視界が狭まっていく。
ルシェラは震えながらもエイルから目を反らせなかった。
ただ、狭まる視界の端で、エイルが握っていた呪符が光を帯びている事には気がつかない。
見えぬ目を反らせないが、側にいる事も出来なかった。
いてはならない。これ以上苦しめてはならない。死者を、これ以上……。
震える足で、一歩、二歩と後退る。
膝裏に、窓の縁が当たった。
「……っ、ぁ……」
上体が均衡を失う。
そこには、ただ、空があった。
ふわりと身体が投げ出された。
宙を舞う。
身に纏っていた白い敷布が翼の様に翻った。
大気が動く。
風が巻き、ルシェラを包み込んだ。
誰の目にも留まらない。
風が姿を覆い隠す。
緩やかにそれが解けた時、ルシェラの姿は何処にもなかった。
終
作 水鏡透瀏
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