弔いの鐘が鳴る。
運ばれていく棺には、たくさんの花と、骨が収められていた。
死に人の故郷にも、この国にも、基本的に火葬の習慣はない。
しかし、そのまま棺に収めるにはあまりに惨く、人の目に触れる前に荼毘に付された。
生前の姿はどうであったろう。
美しかった母。
優しかった母。
気品に満ち、教養高く、国王からも一目を置かれる存在。
しかし、浮かぶ前に顔形は靄の中に消え、はっきりとした像を結ぶことは出来なかった。
顔を思い浮かべることが出来ず、ダグヌは拳を握り締めた。
亡くなったことを知らされたその時から今に至るまで、涙の一筋も流れては来ない。
ただ、母が守ろうとしたものを引き継ぐことの大きさに、押し潰されそうなまでの威圧を感じた。
母が守ろうとしたもの。
かつて女神とも想い憧れ、傅いた存在の忘れ形見を。
引き継いで守る。
それが、今後自分が成すべき事。
だが彼は未だ、その一歩を踏み出せる線にすら、立ってはいなかった。
ミルザは、亡くなったルシェラの乳母の名だった。
三年前。
ルシェラが六歳の時、無実の罪を着せられ、この塔の入り口……則ち、先程兵士が殺された場所で処刑された。
ルシェラはその時の事を、今でも鮮明に覚えている。
少しずつ、少しずつ、鋸で首を挽かれていった乳母の姿を。
視界の全てが真っ赤に塗り潰された様だった。
唯一の庇護者を失ったあの時から、今の地獄の日々は始まったのだ。
先程嗅いだものと相成り、咽せる程の血の匂いが蘇って、ルシェラは思わず両手で口元を被った。
一度挽かれる度に上げられた悲鳴。それを幾度聞いただろう。
目の前で死んで逝く、ただ一人自分を守ってくれた者。
何故そんな凄惨な刑に処せられなければならなかったのか、幼い身には知る由もなかった。
ただミルザは、いつまでも悲しげな目をしていた。
憎しみを滾らせる訳ではなく、ルシェラの今後を本当に憂えた目で…………。
「あ…………貴方が…………」
漸く、それだけの単語を紡ぎ出す。
生まれ落ちて直ぐに母を失ったルシェラにとって、ミルザは母親そのものだった。
乳母だったのだから同い年の子供がいるのだろうに、ずっと側にいてくれた。
その彼女を守る事が出来なかったという事が、重く心に伸し掛かり続けている。
子供だという事は免罪符になどならない。ただ、自分の所為で殺されていく者の一人も守れないと……。
「……ごめんなさい…………」
ミルザの瞳。表情。悲鳴。血の香り…………。
脳裏を、混然となって巡る。
「わたくしの所為で……」
「殿下に責任はございません」
「……わたくしの所為です。ただ一人の、大切な人さえ守れなかった…………」
「ですから、武術や魔術をお修めあそばされるようにと申し上げております」
ダグヌは言い含める様に繰り返す。
「……大切な方は、全て亡くなりました。勉学や武術に励むより、もう誰も大切な方を作らない方が…………」
ルシェラには、もう何の気力も残っていない。
「お逃げになりあそばされるのでございますか」
「……いけませんか? わたくしは……疲れました。どうして、わたくしは生きなければならないのです? ミルザも、先程亡くなった兵士も、何故わたくしを守ろうとしたのです。わたくしが生きるという事が、どんな意味を持つと? わたくしを想って下さる方々でさえ、わたくしを楽にはして下さらない。本当にわたくしを想って下さるなら……殺して下されば」
と、突然、ルシェラの頬が鳴った。
ダグヌが平手打ちをしたのだ。
ルシェラは頬を押さえ、ダグヌを睨んだ。ダグヌは深く頭を下げる。
与えた痛みを、そのまま倍にして受け取ったかの様な表情だった。
「申し訳ございません。不敬の罪は謹んでお受け致します」
頬に手を当てたまま、唇を噛んで俯いた。
「しかし、処せられる前に最後までお聞きあそばし下さい。……生きてさえいれば、必ずよい事がございます。崩御なされてしまわれれば、それまで。死ぬ事はいつでも……叶えようと思えば直ぐに叶ってしまう望みです。しかし、生きる事は今しかできません」
「……わたくしは、生命を絶ちたいと申しているのです。お気付きになりませんか?……わたくしは、とうの昔に死んでいます。ここにあるのは残骸に過ぎません。貴方が仰る段階は、ミルザが亡くなった時に過ぎました…………心はここにない……なのに、いつまでこうして、ここに残り続ければよいのです。……わたくしは亡霊……それに囚われた方が亡くなっていく。……貴方も…………!」
次の瞬間、ルシェラはダグヌに強く抱き締められていた。
「放して!」
父や、その他の男達に感じた空気はない。
匂いもない。
強く突き放す事が出来なかった。
懐かしい匂い。
温もり。
……ミルザと過ごした日々の記憶が次々に蘇る。
「放して……」
「突き放されないのですか? 陛下にそうなされた様に……」
「放して下さい……お願いです。もう二度と……誰かに執着などしたくない……」
何とか密着した身体の間に手を入れて浮かせる。冷めた身体に温もりが苦しかった。
「私は殿下がご存じでいらっしゃる誰とも違います。ですから、怯えあそばされますな。私は、殿下の身体を求めません。殿下に、手を挙げる事も致しません。ですから……」
「違う…………貴方の事を拒んでいる訳ではありません。自分自身を厭うているのです……」
ルシェラは殆ど泣き声だ。
「人の生死から目を反らしたいのです……もうこれ以上、死んで逝く人を看取るのは沢山」
ダグヌは、身体の境界をなくそうとするかの様にルシェラが差し入れた手を無視して、更に強く抱き締めた。
「人は必ず死にます。それは、天地開闢以来の摂理。目を反らす事は出来ません。朽ちないものなどないのです」
「では、ミルザの死も、兵士の死も、全て自然の摂理……運命だったと仰るのですか? あの様な死に方が、あの方々の定められたものだったと? あの方々が何をしたというのです。あんな凄惨な死を迎える様な大罪を犯したとでも仰るのですか!?」
ルシェラの声は悲鳴に近いものだった。
甲高い声が抱き締めたままのダグヌの耳を劈く。
美声ではあるが、至近距離で聞きたいものではなかった。
「罪を犯した者でも安楽な死を向かえる者もいます。運命を定める神には、罪の有無、大小などは関係ないのでしょう」
「それでは、不条理ではありませんか」
口を尖らせる仕草でそう言ったルシェラを、不謹慎だとは思いながらもダグヌは愛らしいと思った。
大人ぶった物言いにも美貌の冷たさばかりが強調されていたのが薄れる。
「……それでも、生きている者は、死ぬその瞬間まで生きなくてはならないのです。世の中とはそういうものです。……それを仰るならば、殿下とてこの様なところでおめおめ死んで逝かなくてはならない程の罪を犯されたのですか? 違うでしょう。夜毎あの様な暮らしを送らねばならない、そんな罰を受けなくてはならない理由がお有りですか?」
「わたくしが生まれて来た事自体、過ちだったのではありませんか……?」
憎々しげに言う。
ダグヌは涙に潤みかかる目でルシェラを見詰めた。
可哀想だなどという言葉は不適切なほど、ルシェラの心は引き裂かれ、全く正の方向へ振れる事がない。
母が死んで以来、守らなくてはならなかったのに、それが許されなかった。
三年前には彼もまだ若く騎士の位も頂いてはいなかったし、出自はアーサラで、ルシェラの母の輿入れの際に同伴した身であった為にティーア国内には後ろ盾もなかった。
母を守れなかったことは勿論口惜しくてならないが、それ以上に、母以外に頼れる術を全く持たなかった幼子を、分かっていながら放置せざるを得なかった。
その事が、ダグヌの心にも重く、深く圧し掛かっていた。
こうして触れ合える距離にまで近付くことが出来たのは、それまでと比べられば素晴らしい僥倖だった。
続
作 水鏡透瀏
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