セファンは書庫の扉を開け、中に控えていたダグヌにルシェラを押し付けるや、大使には一目もくれず退出した。
ルシェラは不安に駆られてその背を目で追ったが、その前に扉は閉ざされてしまう。
「殿下、グイタディバイド卿でいらっしゃいます」
ダグヌに囁かれ、漸く室内に視線を移す。
窓の側に立つエイルの前に、威風堂々たる丈夫の姿があった。
「殿下、ご無事のご様子、何よりでございます」
大きな体躯を窮屈そうに折り曲げ、ダグヌに抱かれたその前へ額ずく。
ラーセルム、駐ティーア大使グイタディバイドだ。
「お会いできましたこと、至上の喜びとし、このグイタディバイド、神に心より感謝いたしております」
「……わたくしも……貴方にお会いする日を心待ちにしておりました……」
嘘ではない。
父セファンにどう吹き込まれようと、グイタディバイドの持つ空気が優しいことは心に沁みている。
「……っ……くぅ……」
特別に設えられた長椅子へと移された途端、ルシェラの身体がびくりと震え、ダグヌに縋る手へ力が込められた。
「殿下?」
様子のおかしいことに気づいたダグヌとグイタディバイドがルシェラの顔を伺う。
美しい顔容は蒼白で、唇が抑えようもなく震えていた。
「殿下、やはりお具合が…………ダグヌ殿。すぐに殿下を寝室にお連れしてくれ。私のことは構わないから」
「いいえ!!」
ルシェラの手が伸び、引き止める様にグイタディバイドの袖を掴んだ。
「申し訳ございません、ご不快な思いを……」
「不快などと……私はただ、殿下のお身体を心配しているだけでございます」
「……大丈夫………………大丈夫ですから……」
恐る恐るダグヌから手を放し、グイタディバイドに縋る。
先の父の言葉が頭の中で反響している。
それから逃れようとするかの様に、ルシェラは厚い胸板に額を押し付けた。
大使職の前にはラーセルム軍で軍人だったこともあるグイタディバイドはそれなりに立派な体格をしてい、ルシェラの様にも動じることがない。
縋るルシェラを抱き締め、髪を優しく撫でつける。
「私は、殿下のお優しい笑顔を拝見する為にここへ参りました。どうぞ、私を信じてお顔を見せてください」
優しく諭され、ルシェラは僅かに顔を上げた。
まだ頭の中にはセファンの声が響いている。
「関心がないから、ただ優しくできるのです」
「めかし込んでしなを作った所で、それを喜ぶ者ばかりではない」
「卿は、どちらでしょうな」
「貴方に触れるものは、貴方を愛するもの。貴方に触れぬものは貴方を愛さぬもの」
「五古国議会に、」
「国家間の諍いに」
「悟られた場合には、籠絡し、口を噤む様にしてのけるしかない」
こめかみに手を当てる。
頭が重い。
軋む様に芯が痛んだ。
「…………ぅ…………」
長椅子に尻がついた時、張り型はより奥へと差し込まれ、現状として望ましくない場所へと当たってしまっていた。
その為に身体が震えてしまったことにはまだ気づかれてはいない。
しかし、この様では隠し通せる自信もなかった。
セファンの意に反するなど考えも及ばないことだが、こればかりはどうしようもない。
「殿下……やはり、お休みになられた方がよろしいかと思いますが」
心はグイタディバイドの優しさを欲している。
しかし、悟られぬ為には、申し出を受けた方がよいだろう。
心と身体が別のものであればと、この時程望んだことはかつてなかったかもしれない。
「殿下、どうかご無理は……」
「いいえ……申し訳ありません……」
たとえ上っ面だけでも、優しくされたい。
セファンの言葉が邪魔をして心からの信頼はできずとも、十分に信用している。
グイタディバイドとの関係は既に五年を数えているが、その間、額や頬への口付けや抱き締める以外、性的に触れられたことはない。
ただひたすらに優しく、力強く、ルシェラを守り導いてくれた。
彼がいなければ……などという仮定すら考えたくもない程だ。
「…………申し訳ありません……」
再び顔を押し付ける。
涙に潤む瞳を見られたくなかった。
ダグヌやエイル達まで含め、人の訪れが制限されている今、この貴重な機会を逃したくはないのだ。
泣き顔は人を不快にさせる。
表立ってグイタディバイドに嫌われるような事態にでもなれば、それこそ再起不能にもなりかねまい。
「ダグヌ……大使閣下に、お茶を……」
「かしこまりました」
身体を僅かに起こし、零れ落ちそうになる涙を堪えてルシェラは微笑みをグイタディバイドに向けた。
「今日は、どのようなお話をしてくださいますか?」
グイタディバイドは会う度に、外の世界の話をしてくれる。
本で読む以上に生き生きと語られるそれは、色や香りまで感じる思いがする程だった。
自分自身で感じることに恐怖は覚えるが、それでも世界への興味は尽きない。
「本日は、そのことで重要なお話をしに参りました。……ダグヌ殿も、エイル殿も、是非聞きおいて頂きたい」
「…………お話……?」
優しげな表情のまま、グイタディバイドは身を屈めてルシェラと視線を合わせた。
目が合い、ルシェラは何故かつい、目を反らしてしまう。
「殿下、この度は、国守をお継ぎになられ、まことにおめでとうございます」
ルシェラをそっと離し、長椅子の下に跪く。
華奢な手を取り、その甲に口付ける。
困惑しながらも、ルシェラはそれを受けた。
「……ありがとうございます……」
「国守となられた殿下に、お誘いしたいことがございます。……神殿へ、参りませんか?」
握られたままの手が熱い。ルシェラには、それを振り解く事は出来なかった。
「…………神殿?」
熱が怖い。飲み込まれそうな心持になり、怯えた視線をグイタディバイドに向ける。
「全ての礎、リーンディル神殿です。国守の全てを守る場所とも言われております。かつて、国守達と同じく大戦に身を投じた仲間が作り上げたとされる場所……そこへ、お参りになりませんか? 代々の、各国の国守達も必ず参る場所です。殿下に取りましても、必ずよい影響のある場所だと思います」
「…………リーンディル……」
頭が痛む。
ぎりぎりとした痛みが走り、ルシェラは顔を歪めた。
覚えている単語だ。
記憶の中にある。
リーンディル。全ての始まる場所。全ての終わる場所。
たとえこの王宮を追われたとしても、ルシェラには行き場所があった。
ただ……記憶はそこから朧気になっている。受け入れて貰える確信は持てなかった。
「ご存じであらせられましょうか」
「……ええ…………しかし……」
自身の記憶にすら自信が持てない。
「一度お参りになり、他国の国守やリーンディルの創始にお会いになられることは、殿下に取りまして大変実りあることと存じます」
「…………他国の……」
考えたこともなかった。
知識として知ってはいても、それが形を結んだことはない。
「……ラーセルムの国守は、どの様な方なのですか?」
「大変聡明な女性でいらっしゃいます。齢は、殿下と同じ十一歳とまだ若くはいらっしゃいますが、国守として、王女として、大変優れた方であらせられます」
「……………………聡明な、女性………………」
記憶の隅に引っ掛かる存在がある。
「…………琥珀の瞳…………赤みの強い……金の……髪を…………」
「ご存知でいらっしゃいましたか」
「小柄な少女を…………覚えている様に思います……」
不確かに思え、グイタディバイドの顔を伺う。
グイタディバイドははっきりと頷き、握ったままのルシェラの手を優しく撫でた。
肯定され、ルシェラは面映そうに微笑を零した。
「サディア殿下は、大変ルシェラ殿下の御身を案じていらっしゃいます」
「……サディア……その様な……名でしたか……」
記憶は確かなものなのか。
どの様な記憶であれ、セファンに繋がるものは肯定され、繋がらぬものは否定される。
それを繰り返されてきた為か、ルシェラはひどく自分に自信が持てない様になっていた。
肯定されても、そのことすら直ぐには信用できない。
グイタディバイドを信用しきれない自分がもどかしい。
「殿下にリーンディルまでお越し頂けぬ場合には、サディア殿下じきじきにこちらへお越しになる心積もりもあるようでいらっしゃいました」
「……女性が踏み入れるには……少々難があるように思います」
「では、ご検討くださいますか?」
「…………叶う…………ことなれば…………」
ルシェラはグイタディバイドの手に身体を預け、震える足で立ち上がった。
やはり、据わっている状態よりは気持ちの悪さは増しても辛さは弱まる。
そのまま、窓に近寄ろうとする。グイタディバイドが立ち上がる間に、ダグヌとエイルが両側から支えた。
「……そのお話、父上はご存じなのですか」
「いいえ。これから申し上げます」
「…………そう……ですか……」
僅かにでも期待した自分が愚かだった。
ルシェラはダグヌが支えていた腕を振り払い、窓に手を当てた。
遠くまで見渡せる。この北側の窓の向こうは遠くまで森が続きその更に奥は山々が連なっている。
王宮のかけらも、街の端も見ることは出来ない。
「………………貴方の弁が父上に勝つことを祈りましょう」
「はい。殿下の祈りが天に通じますことを、私も祈りましょう」
振り返る。
途端に眩暈を起こし、エイルの腕の中に倒れ込んだ。
「っ……ぅふ……」
衝撃が全身を伝い、しかじかなる部分を苦しめる。
「殿下……?」
皆の視線がルシェラに集まる。
しかしルシェラは、震えたまま動けなかった…………。
続
作 水鏡透瀏
1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15
16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30
31