翌朝。
 朝食を携えて塔に戻っても、まだルシェラは目を閉ざしたままだった。
 不安になり、そっと手を顔に翳す。
 微かに感じた息にほっとしながら、卓へと食事を並べる。
「ん……」
 小さな吐息が聞こえ、振り返る。
 ルシェラは僅かに身動ぎし、睫を震わせた。
「殿下、おはようございます」
「……ん……」
 薄く目が開けられる。
 だが直ぐに眉が顰められ、閉ざされた。

 昨夜の疲れが取れぬのだろうと判断し、そのままにする。
 苦しそうな様子もないし、顔色もそう悪くない。
 呼吸も、小さいながら乱れてはいなかった。

 高い場所に空いた格子窓から入る僅かな光が壁に差している。
 階下の書庫や湯殿には北側ながら大きく窓が開いているものを、最上階の寝室にはそれがない。
 ルシェラは最早自力で階段の上り下りも侭ならぬので、外はおろか、空を見る事も稀だった。
 ダグヌが勉学を教えるほんの僅かな間だけ、ルシェラは暗い部屋から解放される。
 しかし、ルシェラはむしろそれを喜んではいなかった。
 広がる視界に怯えている様ですらあった。

 再び食事の支度に戻り、それが整うと、今度は朝食と共に持参していた衣類を椅子の背にかけ、広げる。
 昨夜王に命ぜられたとおり、国建ちの社へ参詣する為の衣装だ。
 国建ちの社とは、王宮の敷地内に建国の折より存在している社である。
 封印が施されていて国守以外にその扉を開ける事は出来ない。
 国守としての力の全てが収められているという話だが、真実を知る者は殆どいない。
 王の言い様から察するに、ルシェラに力を継がせると言う事なのだろうが……。

 ここでは夜着の他必要がない為、ルシェラは幾つかの寝間着を持っているきりで、それよりは衣類の持ち合わせもなかった。
 更には、床に履き物も置く。
 履き物に至っては、一足たりとも所持していない。階下へ行く時なども、常に裸足だった。

 服とルシェラを見比べ、姿を想像して暫し夢見心地となる。
 服は純白繻子織りの正絹に、植物を象った金糸銀糸の刺繍が細やかに施されている。
 一枚の大きな布を身体に巻き付ける様な形になっているもので、ティーアの民族衣装である。
 履き物は鞣した革紐に白い絹布を張り、そこへ金糸で縁取りをしてあるのを編んだもので、これも古くから伝わる衣装の一つだった。
 どちらも、手足が長く華奢で色の白いルシェラには似合うだろう。 その美しさはいかばかりか……。
 常日頃、外に出る様に身なりを整えた事のないのは惜しいと思っていた。
 起こして早々に着替えさせたくなるのを堪える。

 それから数十分して、漸くにルシェラの目は覚めた。

「……ぁ……」
 一瞬ダグヌと目が合い、気恥ずかしそうに目を反らせる。
「おはようございます、殿下。ご加減は如何で在らせられましょう」
 こくりと大きく頷き、ダグヌに両腕を伸ばす。
 直ぐに意図を察してダグヌはルシェラを抱き起こした。
 ルシェラの視線の先には卓に並べた食事がある。
 珍しく具合がよいらしい。
 食事に目が行く事すら希有なのだ。

「昨夜には、大層ご加減が優れられぬご様子でございましたので、案じておりましたが」
「ええ……」
 柔らかな微笑みを浮かべたが、生憎抱き上げているという体勢だったものでダグヌの視界には入らなかった。
「ぁ」
「いかがなされました?」
「……?」
 ダグヌの腕の中で藻掻く様に、卓の方へ手を伸ばす。
 指先が、椅子の背に掛けられた衣服に触れた。

「これ……は?」
 珍しいものを見たとでも言う様に凝視している。
 ダグヌは椅子にルシェラを降ろし、衣装を手に取って寝台の上に広げて見せた。
「殿下の本日のお召し物にございます」
「……なにゆえに……?」
 椅子の背に寄り掛かり、まだ見詰めている。
「本日、陛下より、国建ちの社へのご参詣を命ぜられております」
「……外へ?」
 この前外に出たのは何時だったろう。
 一階の扉より先は、ルシェラにとって恐ろしい世界でしかない。
 人の死が常に付き纏う、血の薫りと悲鳴に直結した場所だ。

 ルシェラは衣装から目を反らし、縋る様にダグヌを見た。
 思い出してしまった凄惨な過去に双眸が潤んでいる。
「行かねば……なりませんか……?」
「殿下……国建ちの社への参詣は、殿下が国守としてのお力をお受けになるに当たり、大変重要な事なのだと思われます。何卒、御命に従われ、ご参詣になりあそばされますよう」

 国守の事はダグヌの授業や書庫の書物である程度学んでいる。
 しかし、その重要性について、今一つ理解しきれてはいない。
 国守が力を振るった記録は、建国以前の戦い以来、いっさい残っていなかった。
 伝承にもない。
 力を使う程大きな危機は、三千年来起こっていないという事の現れだろう。
 ならば、残り少ない自分の命の限りに、力を使う機会が果たしてあるものか。
 そんな力を継ぐ意味が何処にあるというのか。
 大体にして、「力」がどの様なものなのかすら分からない。
 誰も知らないのだ。

「まずは、どうぞお食事を。その後、お召し替えを致しましょう」
「……はい……」

 促されて、匙を手に取る。
 その昔に比べダグヌが朝食を運ぶようになってからは、随分味わい深い内容に変わっている。
 粥も顔が映る様だったのが、匙で掬ってもぼってりとしたものになっているし、切り屑ばかりだった野菜も見目よく切り揃えられたものになっていた。
 何より温みがあるのがよい。
 王宮内の調理場から随分遠いので、とかく冷めがちだったのだが、ダグヌの心づくしにより温かいものが運ばれてくる様になった。
 食事を運ぶ際に使う金属製の岡持の底に赤く燃した石を入れただけのではあるが、これまで誰もそれ程の気遣いすらしなかった。
 それだけの事でも、ルシェラには身に凍みて喜ばしい事だ。

 今日の体調は確かに良いらしく、普段の倍程の量を腹に収めたところでルシェラは匙を置いた。
 食欲があると言っても、まだ椀には半分程残っている。
 呑み込む力も弱まり、食事を摂るだけでも必死の有様だった。

 ルシェラが拒む為内密に薬を溶かし込んだ水を飲ませて、食事を終える。
 ルシェラは直ぐに振り返り、また衣装に視線を送った。
「お召し替えになりますか?」
 ルシェラは首を横に振る。
 気にはなる。
 だが、外が怖い。
 ダグヌも、何かを察してそれ以上勧めはしなかった。
 迎えが来てからでもそう遅くはない事だ。

「お迎えが参りますまで、書庫にてお勉強を致しましょうか」
「……はい」
 ほっとした様に口元を綻ばせ、頷く。
 もし、もう僅かにでも丈夫であれば書庫に籠もりきりであったであろう程に、ルシェラの知識欲は豊富だった。
 この外界から隔絶された場所では、情報を得る手段など限られている。
 たとえ他愛のない恋愛小説などであったとしても、否むしろ、その様なものであればこそ、より外の事や人々の生活などを知る事が出来る。
 蜘蛛の糸の様に細く頼りない繋がりでも、ルシェラにはそれを手繰り寄せるしか術がなかった。
 自分の知る外の世界は恐ろしいものでしかないが、客が話してくれたり、書物に書いてあったりする外の世界は、多様性に富んで、大層面白く楽しい所である様に思える。

「では、参りましょうか」
 そういったダグヌに腕を伸ばす。
 しかし、その時、

ちりん

 来客を示す鈴が鳴った。


作 水鏡透瀏

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