「ああああああぁぁぁぁぁぁぁ────っっ!!!!」
 爪を突き立てられた敷布が厭な音を上げて引き裂かれる。
 真っ白だったそこには点々と紅い染みが滲み、ルシェラの身体を半分程覆っている。
 形良く整えられていた爪は欠け、皮膚や肉片が間に挟まっていた。

 乱れに乱れた寝台の上で、ルシェラは細胞の一つ一つに焼き印を押される様な熱と痛みに身体を掻き抱き腕に爪を立て、また、脳髄に細い針を幾本も突き立てられる様な感覚に髪を振り乱し、血が流れ出る程に強く頭を掻き毟っていた。

 身体中の掻き傷から血が滲み敷布を汚していくが、決定的な流血には至っていない。
「あ、あ、ひっ……っぁ……!!」
 掻き毟った腕や頭皮が片端から治癒していく為、身体が常に淡く発光している。
 叫び続けて傷んでいる筈の喉ですら、まだはっきりとした悲鳴を上げ続けていた。
 しかし、治癒はしても繰り返し自らの手で傷付ける為、血にまみれたままの姿だ。

 直ぐさま塞がっていく傷と、新たに付けられる傷。
 再生される皮膚が追い付かず、身体のあちらこちらで膿んだ様に濡れている。
 血液だけではない体液も、同じ様に敷布や衣類を汚していた。
 それらが半ば乾き、皮膚に張り付き始めている。
 されども、清めようにも軽く触れただけで一際酷い悲鳴を上げる。
 皮膚が擦り切れた様に酷く過敏になって、何かに触れられるだけで痛みを引き起こす様だった。
 それは敷布や……空気ですら例外ではない。
 じっとなどしていられずのたうつ度に、更なる苦痛がルシェラを襲った。

 ダグヌにはただ、苦しみ悶え、のたうち回るルシェラに手を伸ばすことも出来ず、見詰めるしかなかった。

 ルシェラが社から出てきたのは、入ってから数分後のことだった。
 突如として社が光を発し、気付いた時にはルシェラが閉ざされた扉の前で倒れ伏しながら蹲っていた。
 それからずっと、この様である。
 痛みと苦しみに意識の狭間を行き来して、塔へ運ぶだけでも一苦労だった。
 触れた端から痛みが走るらしく、力無いながらも暴れ、余計状態を悪化させた。
 頭痛も酷いらしく、強く頭を振ったり、爪で血が滴る程に掻いたりするものの一向に止む気配はない。

 ルシェラが継いだものは、生半可なものではなかった。
 身体の全てが作り替えられていく。
 骨の髄からの変態を迫られ、経験したことのない痛苦が襲っていた。
 身体だけではない。
 かつて生きたティーアの国守達の記憶が、意志が、ルシェラの精神を蝕んでいく。
 三千年の長きに渡るそれらは、とても11の子供に背負いきれるものではなかった。
 発達途上の脳に植え付けられていく記憶は遙か許容量を超し、ルシェラから意識を奪う。
 ひっきりなしに上げられる苦痛に満ちた悲鳴は、最早ルシェラの意識内のことではなかった。

「ひぁっ、あ、や……ぁ……っぁあ……」
 目を瞑る力すらなく、翡翠の瞳は大きく見開かれている。
 生理的な涙が止め処なく流れ、頬をしとどに濡らしていた。
 悲鳴を上げ続けて閉ざされることのない唇からは、飲み込むことを忘れ去られた唾液が溢れ、糸を引いている。
 血に塗れた全身は強張り、瘧に掛かった様に震えながらただひたすら痛み、苦しみからの解放を訴えている。

「殿下! でん……か…………」
 まるで地獄絵図の様だ。
 触れる事も出来ない。話しかけても届かない。
 そして、この様では、もし痛みが去ったところで……心が無事かは分からない。
 苦しみ始めてから、もう既に3日近くが経っている。
 最初は、体力や胸の病が心配だった。
 こんなに苦しみ続けていては、ルシェラが持つ筈はない。
 予測に反してルシェラはまだ衰えを見せなかった。
 食事も、生気も摂らず、叫び悶えながらも生きていた。

 ルシェラの悲鳴を聞き続け、凄惨な姿を見詰め続けて、ダグヌも僅かずつ正気を失い始めている。
 寝台には、幾つも剣を突き刺した痕が窺えた。
 ルシェラが……いや、自分が楽になる為には……ルシェラの息の根を止めるしかない。
 そう思い詰める程に、ダグヌもぎりぎりの所で心の崩壊を踏み留まっている。
 刃を向けるものの、やはり最後の一線を越えることが出来ず、ただ寝台に突き立てるに留まる。
 剣で一思いに胸を貫けば、ルシェラも、自分も解放される。
 けれど、やはり……生きていて欲しかった。

 この状態は一週間、昼夜を問わず続いた。
 ダグヌの様子を危険と見て取ったセファンとエイルは、無理矢理にダグヌをルシェラから引き離し、静養を取らせようとした。
 しかし、ルシェラと離れることで、ダグヌはより追い詰められ、人の目を躱して、再び塔に戻った。

 エイルがその事に気付き、塔に駆け付けた時、そこは妙な静寂に包まれていた。

「……ダグヌ、いるのか……?」
 扉の前で声を掛けるが返事がない。
 ルシェラの悲鳴も聞こえなかった。
 恐る恐る最上階の部屋の扉を開ける。
「…………っっ!!」

 天蓋から下げられた紗に鮮血が散っている。
 鉄錆びた様な、生臭い血の薫りが鼻を突いた。
 寝台の中程に剣が突き立てられ、その刃の下には、ルシェラの喉が真紅に染まって縫い止められている。
 寝台の傍らには、ダグヌが呆けた様に天井を仰ぎ、身動ぎもせず座り込んでいた。

「…………だ…………ダグヌ……お前……っ!」
 拒否反応を起こそうとする足を無理に踏み入れ、ダグヌに歩み寄る。
 肩を掴んで揺さぶる。
 エイルの顔を認めた瞳に、僅かな正気が戻った。
「……ダグヌ、お前……」
「……………エイル…………」
「お前、殿下を…………殺したのか?」
 ダグヌは言葉の意味が分からないとでも言う様に暫くエイルを見詰め、ふと口元を歪めた。

「…………それが、できるのなら…………」
 ゆるゆると肩を掴んでいたエイルの手を払い、寝台に縋りながら立ち上がる。
 そして、横たわるルシェラから剣を引き抜いた。
 剣の動きと共に、ルシェラの身体から淡い光が立ち昇る。
 ダグヌの手が、傷のある辺りを撫で、血液を拭った。
「……見ろ」
 促され、眉を顰めながらエイルも覗き込む。  血に濡れたそこに、傷口はなかった。

「なっ……ど、どういうことだ……?」
「前々より、殿下の治癒力にはめざましいものがあった…………それが、この度の継承で、より一層のものとなった。……そう、考える他ないと思う」
 淡々と語る。
 その様が狂気の様に思えて、エイルは身震いした。
「先日まであんなに苦しんでいらっしゃったのに、こんなに静かなんて……本当に、亡くなられてはいないのか」
「…………息はある。脈もある」
 エイルは手を伸ばし、軽くルシェラの口元へ手を翳した。
 確かに、微かだが呼吸をしている。

「首を切った。……心臓も、一突きにした。喉元は……お前も見たな。それでも…………この有様だ」
「まさか!」
 咄嗟にルシェラの顔とダグヌを見比べる。
 ルシェラの表情は穏やかで、先日までの苦しみが嘘の様だ。
 生々しい血や乾いた血で汚れきってはいるが、本来の美しさも損なわず、むしろその事で妖しく人ではないもののように見える。
「そんな痕跡、何処にもないが」
「首でも掻き切らねば、天蓋を穢す程の出血にはなるまい……」
 部屋に入ってすぐに目に付いたものだけではなく、見上げれば天蓋の裏にもべっとりと血が滴っているのが分かる。

「うっ……」
 間者として、それなりに手も汚してきたし、人の死を目の当たりにしてきたことも幾度もある。
 しかし、これ程血に塗れた現場というものも、そうそうあるものではない。
 見た目の凄惨さに伴わず、一人の負傷者すら出ていないというのも、また、不思議な話であった。
 不思議を通り越し、背筋が寒くなる。

 深く動脈を切り裂かぬ限り、天蓋の裏に届くほどの出血にはならない。
 ルシェラ、ダグヌ、エイルの三人の他、生き物もその残骸もない。
 これ以上疑いようもなかった。
「…………残酷だな」
 柄にもなく吐き気が込み上げ、エイルは軽く口元を被った。
 自ら命を絶つことも出来ない。
 死に焦がれる様に躾けて来られながら、手にすることが出来ない。
 これ以上死に焦がれる必要がないかも知れないが、それでは、これまでの一切が無に帰す。
 ルシェラが受けてきた苦痛が、ここで終わるなら……。
 ルシェラに明るい将来を歩ませてやれるのなら、今までも無駄ではなかったことになるだろうが。

 しかし、エイルにも、ダグヌにも、全く楽観は出来なかった。
 なるほど、今は苦しんでいないし、少々手荒なことはしたが、死んではいない。
 だが、全てを知っているかの様な素振りを見せる王セファンからは、この一週間、渋面の侭眉間の皺が消えることがなかった。
 壊れてしまえばよいとまで言った筈なのに、塔を気にしながら過ぎたる程の酒を飲み、エイル相手に愚痴を続ける。
 職務に差し障る程の事を何一つしたことがなかったセファンの、初めての様子に王宮内全てが騒然としている。
 それが余計に、二人の不安感に拍車を掛けていた。

「もう、苦しんではいらっしゃらないんだな」
「ああ…………だが、お目覚め遊ばされるかは、分からない……」
 ダグヌは再び床に膝を付き、ルシェラの顔に手を伸ばした。
 血で張り付いた髪を顔から解いてやる。
 その時、ふと、ルシェラの睫が震えた様に見えた。
「……殿下?」
 今度は気の所為ではなく、確かに睫が震える。
「殿下!!」
 期待を込め、ルシェラの手を取り強く握る。

 その想いに反さず、ルシェラの目が、薄く開かれた。


作 水鏡透瀏

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