「兄上、私を覚えておいでか?」
二人だけになった室内で、王は何時になく丁寧な口調で語りかけた。
しかし、ルシェラは緩く首を横に振る。
肯定してはならない事だと、理性が告げていた。
「私の名を呼びつけにして下された。覚えていらっしゃるのでしょう?」
「…………いいえ」
「……兄上。やっとお会いできたというのに……」
愛おしげに大きな手がルシェラの頬を撫でる。
「王家直系にお生まれになられた貴方にお会いするのは、三十年ぶり程になりましょうか」
「……貴方も、私を遙かに抜いて、大人になっ……て……」
言い差して、ルシェラは口を閉ざす。
自分の中にもう一人……いや、もう何人も控えていて、己の意志に関係なく相手にとって適当な答えを返している、そんな気分になる。
小さく深呼吸し、頭の中を整理する。
膨大な量の記憶が渦を巻く様ではあったが、今の自分の十一年間、そして、その前、更に前の……父王を弟と呼ばわった日々の記憶は、比較的浮上したところに位置していた。
記憶は螺旋を描き、深く沈み、それを上から見下ろしている様だ。
遠い昔のものは、存在は分かっても、光が届かず見る事の出来ない海底にある様なものだった。
「父上…………」
「違うと申し上げておりましょう、兄上」
「……間違っているのは、貴方……」
その筈だ。
しかし、セファンは否定を繰り返す。
「貴方は、私の兄です。その記憶がおありになられますでしょう?」
「違う……違います。貴方は……」
頭を抱え、蹲る。
記憶が錯綜している。
セファンが口を開く度に、彼の兄として過ごした日々が甦り、今の自分と置き換わろうとする。
「貴方は……」
「弟です」
「いいえ」
「では、私は貴方の何だと仰せになられるのです」
「………………あ、あなた……は…………」
父親だと叫ぶ声。
弟だと呼ぶ声。
開いた口からは、そのどちらも出てくる前に掻き消えた。
呼びかける言葉も定まらず、ただ混乱する。
「仰って下さい」
「言えません…………」
「何故です。ただ、弟だと仰って下さればよいだけの事」
「……意地の悪い……」
「兄上がお悪いのです。私を弟ではないなどと、冷たい事を仰るから」
とても四十を超えた大人の言葉とも思えない。
けれど、それが故にルシェラには過去と現在の端境が曖昧になる。
不安になり、縋るものを求める。
「……先程下がらせた二人を呼んで下さい……」
あの二人は、まだ齢十一である自分の事しか知らない。
現在の自分を繋ぎ止める縁として、他にない。
しかし、セファンただ薄笑みを浮かべただけだった。
「あの者達など呼びません。これから、貴方が直接に顔を合わせるのは私だけに」
耳を疑い、目を見開いてセファンを見詰める。
やはり、笑みだけが返る。
「………………貴方は……王なのではありませんか……?」
王が始終付いて世話をする事などあり得ない。
では、誰が食事や湯浴みの世話をするというのか。
記憶が混乱していても、自分の身体の事だけはよく分かっている。
歴代の記憶も、そこだけは判を押した様に同じだ。
生きるだけで精一杯。
寝台から自力で起き上がる事も困難。
食事や湯浴みだけではない。
用便すらも、人の手を借りなければままならない。
「私が夜毎参ります。それでは、ご不満ですか?」
「わたくしは……一人では何も出来ない……」
「貴方の世話は私が引き受けると申し上げている。食事も運んで参りますし、湯浴みや着替えも手伝います。寝台から降りられぬ様でしたら、下の世話も致しましょう」
「…………夜にしか、いらせられないのに……?」
「そうです。貴方を最早、誰にも引き合わせたくはない」
セファンは立ち上がり、寝台に上がってルシェラの上に覆い被さった。
ルシェラは身を竦ませ逃れる素振りを見せたが、まだ思う様には動けない。
簡単に組み敷かれてしまう。
「力を継ぎ、貴方はあの頃の兄上と等しくなられた。お美しさも、力を継がれる以前とは比べ物にならない。そんな貴方を、誰に見せられましょう」
「や……厭です……」
顔が、触れ合う寸前にまで近付く。
ルシェラは強く目を閉ざした。
「これよりは客を取らずとも結構。私で間に合う」
「知った風な口を……」
はらはらと浮かぶ記憶の欠片が、セファンの言い分だけでは事足りぬ事を教える。
しかし、セファンは動じない。
「知っているのです。貴方の全てを」
「馬鹿な事を。…………貴方はまだ子供だった」
「貴方には愛する人がいた。その事を覚えておいでか?」
「……え?」
すっと話題を摩り替えられた様で腑に落ちない。
しかし、そう言われた瞬間、浮かんだ感覚があった。
外の匂い。
外に出た時に嗅いだ事のある、地面の匂い。
木々の葉の匂い。
風の匂い。
水の透明な匂い。
暖かな火の燃える匂い。
触れる優しい空気。
夜を照らす月の光。
温かく包んでくれる、金の光────。
断片的に思い出す。
知らず、涙が溢れていた。
懐かしく、狂おしいまでに愛しい。
紗が掛かった様にはっきりとはしないけれども、確かに、常に側にいてこの手を取っていてくれた人物が…………。
「覚えておいででしょう? あれ程に愛していたのですから」
「……分からない…………」
感覚の隅々までその事を訴えているのに、顔も、声も、名前も、何もかもが思い出せない。
前も、その前も、そのまた前も…………どれ程昔の記憶に遡っても付随してくる。
なのに、何一つ思い出せない。
男なのか女なのか。
年齢は。
国籍は。
髪の色は。
目の色は。
……何も、思い出せない。
「…………貴方は……それを……知っていると……」
「当然です。しかし……悲しいものだ。貴方にそう仰られると」
頬と額に口付ける。
ルシェラは恐る恐る目を開いた。
自嘲気味に笑う、セファンの顔が見える。
「……貴方は…………」
「覚えていらっしゃらないのは仕方がない。国守として必要な記憶ではありませんから」
「んっ……ぅ……」
ルシェラが呆然として動けないのをいい事に、セファンは唇を合わせた。
たっぷりと堪能する。
紅く濡れ光る唇が艶めかしかった。
「これは、兄弟の口付けではない。それはお分かりでしょう、兄上?」
「……あな……たが…………」
「そう。貴方と愛し合っていたのは、この私です」
「違う!」
即座に否定する。
セファンから感じる空気は、浮かんだ感覚とは全く違う。
また触れようとした唇から逃れ、顔を背ける。
拒絶され、セファンの顔から一瞬にして穏やかさが消えた。
「何故違うと言い切れる!!」
セファンは怒りを露わにし、腕でルシェラの喉元を押さえ付けた。
体重が掛けられ、美しい顔が苦痛に歪む。
「何も覚えていないのだ。私の言葉を信じる他、貴方に何が許されるものか」
「っ……ぅ…………」
苦痛を訴える顔から血の気が引いていく。
雪の様に皓い肌に、薄く青白い血管が浮いていた。
「貴方は私の言葉だけを聞いていればいい。他の者共の言葉など聞くに値しない。貴方の顔容を余人に見(まみ)えさせるのも不要。貴方は、ここで、一生私に愛されて過ごすのだ。命潰えるまで……」
「なっ……ぁ……」
押さえ付けたまま、涙に濡れる頬に舌を這わせる。
「もう、離さない……」
狂気に押さえ付けられた言葉を、ルシェラは絶望の底でただ受け取るしかなかった。
続
作 水鏡透瀏
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