ダグヌは、少しして食事を携えルシェラの下へ戻った。
 食卓に盆を置き、甘く暖かな柑橘系の飲み物の入ったカップを手に、眠っている様なルシェラの様子を窺う。
「殿下、失礼致します。お飲物を……」

 目を閉ざしたルシェラを見て、ダグヌは思わず息を飲んだ。
 生命活動の全てを止めているかに見える。放置された人形の様だった。
 顔にも血の気はない。乳白色の玉の様だった。

 静かに近寄り、微かな呼吸を感じて安堵の息を吐く。
「……殿下?」
 長い睫が微かに震え、薄く瞼が開く。
 緩慢に、視線だけがダグヌへと向けられた。
「あ……」

「申し訳ございません。お休みあそばしておいででしたか?」
「いいえ…………」
 ゆっくりと腕を伸ばし、ダグヌに絡める様にして背を立たせる。
 自分一人で起きあがる事は出来なかった。
「お飲物をお持ち致しましたが、如何あそばされますか?」
「ええ……」
 表情は虚ろだった。
 眠っていたと言うよりは、傾眠状態にあるらしい。
 ダグヌはカップを側に置き、ルシェラを抱き上げた。そのまま寝台へと運ぶ。

 壁の結露に湿った服を脱がせて身体を拭い、着替えさせて横たえる。
 ルシェラは為されるがままだった。
「お食事もお持ちしましたが、お召し上がりになりあそばされますか?」
「ん…………」
「殿下?」
「は……い…………?」

 ルシェラの身体は冷え切っていた。
 それが余程障ったのだろう。思考を微睡みの向こうへと散逸させてしまう。
 呼吸も、実に微かで不安になる程だ。

 寝台から抜け出はしたものの、寄りかかった壁は結露してひどく冷たかった。
 幾らかの温もりのあった寝台の中との気温差が、弱った身体には酷く響く。

「医師をお呼び致しましょう」
「……行かないで…………」
 弱々しく、ルシェラの手が離れようとしたダグヌの服の端を掴む。
 振り払う事は簡単だ。
 しかし、どうしてもダグヌには出来なかった。

「お願い…………」
 酷く気が弱くなっている。
 他人に頼る事にしか思い至らなかった。

「しかし、殿下……」
「側に……いて……」
 潤んだ瞳に圧される。
 従わなくてはならないと思わせる何かが潜んでいた。

「では、せめて……お部屋を暖かくさせて下さい。このままではお風邪を召してしまわれます」
「……暖めて。貴方の温もりで……」

 ルシェラの言葉に、自分の耳を疑う。
 ルシェラを見詰め返すと、虚ろながら真摯な表情でじっとダグヌを見ていた。

「もっと……側に来て……」
 ふらふらと、声と瞳に吸い寄せられる。
 今までのルシェラの生活を自分に弁解しつつ、上着を脱ぎ、寝台に上がる。

 幼弱な身体をそっと自分の腕に包み込んだ。
 冷たい。
 生きているという実感がなかった。
 骨張った身体は子供の柔らかさにすら欠け、人間味すら失わせている。

「暖かい…………」 
 無意識ながら、媚びる様な仕草でダグヌの胸元へ頬を寄せる。
 ダグヌは身動ぎすら出来なくなっていた。
 魅入られている。
 今更ながら、ルシェラがこうして男に縋ることしか知らないのだという事を痛感する。

「殿下……」
「何処にも……行かないで…………」
 声が空気に淡く溶けて行く。
「わたくしの側に……」
 酷い不安感に襲われているという事は察せられる。
 ルシェラは力無く、ダグヌの顔に両手を添えた。

「ずっと、一緒にいて下さい……」
 ダグヌの頬に触れる指先は微かに震え、青冷めている。
 ダグヌを見詰め哀願する瞳は、それとは逆に熱を秘めて潤んでいた。
「許される限り、ずっと……」
「勿論でございます。私は、殿下にお仕えする為に、ここにございますから」
 腕の中の儚すぎる存在が、堪らなく愛おしい。

「でも……貴方は父上の……」
「私がこれまで忠誠を誓ったのはシルヴィーナ様ただお一人。陛下には騎士としてではなく、一兵士としてお仕え申し上げて参りました。私が次に忠誠を持ってお仕えするお方が、十分に育たれるまで……」

 ルシェラは僅かに目を開き、意外そうな視線をダグヌに向けた。
 察しが悪い質ではない。
「殿下、私の忠誠をお受け下さいますか?」
「……しかし、わたくしでは……」
「殿下でなくてはならないのです。私は、他の誰にお仕えするつもりもございません」
 明瞭に言う。

「……父上は……」
「陛下はご存じです。殿下が王太子位に就かれた折りに、お話になりあそばされるおつもりであらせられるのでございましょう」
 優しくルシェラの髪を撫でる。
 ルシェラは身体を硬直させた。
 慣れない優しさが、未だに辛い。
「どうか、お受け下さい」

「……出来ません……」
 ルシェラは、緩く首を振った。
 自分に尽くし、己を捨てて仕える者など、二度と必要ない。
 強く拒絶したかったが、そこまで動く事が出来ない。
「忠誠なんて要らない…………ただ、側にいて……」

 ただ、着痩せするダグヌの逞しい胸に縋り付く。
 服を透して伝わるダグヌの温もりや鼓動が、ルシェラに落ち着きを取り戻させる。
 しかし、何かが辛くて涙が込み上げた。
「殿下……」

「貴方が側にいて下さるなら、わたくしは……貴方が望む事、全てを受け入れるでしょう。……側にいて。何処にも行かないで…………わたくしより先に……逝かないで…………」
「殿下がそう望まれるならば……」

 ダグヌは自分の腰に手を遣った。
 戦いに従ずる者としての最低限として帯びている、短剣を引き抜く。

 左腕の内側に、刃先で十字を描く。
 直ぐに血が滴り、寝台を汚した。
 その腕をルシェラの顔の前に恭しく差し出す。

「これは、私の証です。どうか、受けられますよう」

 ルシェラは長い睫にいっぱいの涙を湛え、紅い血液の溢れる傷口を見詰めた。
 吸い寄せられる様に、傷の上へ口付ける。
 そして、舌を這わせ、次々に流れ出る紅い液体を舐め取る。
 血の気のない唇に紅が差した。
 あまりに淫靡で美しい様に、目が離せない。

 そのうちに血が止まる。
 ルシェラが持つ治癒の力は、半端なものではなかった。
 口の端に付いた血液をちろりと舐め取る。
 その壮絶なまでの艶気に、ダグヌの背筋に震えが走った。
 しかし直ぐに、己が腕に刃を当てた理由を思い出す。

「完全に癒しては仕舞われませんよう。この傷跡が、証となるのですから」
「こんなもの一つで、貴方を縛りたくない……証がなくては、貴方は側にもいて下さらないのですか?」
 悲しげに、傷から顔を離してダグヌを見詰める。
 唇の端に僅かに付着した紅いものが、ルシェラをより人ではないものに近付けていた。
「貴方を所有したい訳ではありません……」

 再び、傷を舐める。
 傷は今度こそ綺麗に癒えた。
 自分の腕に何の痕跡もない事に躊躇う。
「わたくしは貴方のもの。……そう、させて下さい……」
「しかし、それは……私は、一介の騎士にございます。殿下に対し、その様な……」

「……何か証を」
 ダグヌの手から短剣を取り、自分の腕に宛う。
 ダグヌが止める間もなく、冷たい刃が皓い皮膚を切り裂く。
 紅い飛沫が互いの顔に散った。

「殿下!」
「十字……でしたね」
 もう一度、一つの接点を持って刃を滑らせる。
「さあ、受けて下さい」
 ルシェラは微かな微笑みさえ浮かべて、ダグヌの前に血の滴る腕を差し出した。


作 水鏡透瀏

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