王は、部屋に一歩入るなり立ち止まった。
彼が指示した場所とは言え、立ち入ったのはこれが初めてだ。予想を上回る陰惨な部屋に絶句する。
一つきりの窓から射し込む光はあまりにも頼りない。
壁に明かりはただ一つ。決して上質だとは言えない獣脂の洋燈が掛けてあるだけだ。獣の臭いが部屋に満ちている。
苔生して僅かに湿った壁。くすんだ色の小汚い寝台。
他には小さな食台と椅子が一つずつ。人が三人も入れば真面に身動きが取れない。
王は気を取り直し、ルシェラを寝台に乗せた。後から一人、騎士が入って戸を閉める。
寝台の側に椅子を引き寄せ、王はそこへ座った。
「よもや、この様な所であったとはな」
「……ご存じであらせられたのでは?」
「指示はした。しかし……これは予想外な」
柄にもなく言い訳めいて言う。ルシェラは不審そうな視線を向けた。
父王の予測など知ったことではない。
自分は、確かに、この部屋を与えられ、出ることも許されないのだ。
「……お前の働きには感謝している。お前のお陰で上手くいった会議も多い」
ぴくりと眉が動く。感謝の言葉など要らない。
「……これからも頼むと……そう、仰せられますか……?」
「出来ればな」
王の言葉に躊躇いはない。
ルシェラは身体の底から沸き上がる震えを抑えることが出来なかった。
「承諾しなければ、わたくしはどうなります」
挑発する様に尋ね返す。
「お前には何事もない。ただ、国がどうなるかは分からぬが」
「……卑怯です。父上…………」
「嫌ならば、もうこれ以上はさせぬと誓うが?」
王は自嘲を浮かべる。
ルシェラはそれを演技だと受け取って、僅かに顔を蹙めた。
「……勿論、もうこれ以上、あんな事はしたくありません。でも…………でも、わたくしには、これしか出来ませんもの」
自分が死んで逝く時に、誰が側にいてくれるだろう。誰が自分を覚えていてくれるだろう。
ただ死んで逝くのだけは真っ平だ。
そして、国同士の話し合いというものがどんなものなのか、全く分からない訳ではない。
それが失敗に終わった上、最悪の結果を招けば罪もない多くの人が死ぬ。
己一人の我が儘で、戦乱を招く訳にはいかない。
客達の言葉の端々から感じられる世界の不穏な空気。
国内の反王制派。
……火薬は用意されている。
自分は、何処に飛び込む事も出来る火種だ。
だからこそ、今の生活を崩す事は出来なかった。
それに、客に対する義理もある。
力のない自分との約束を違える事のない彼ら。
ただこの身を好きなようにして、不義理を働く事とて可能な立場であるにも関わらず、ティーアに不利にならないよう取り計らってくれているらしい。
彼らとの立場は公平だという事なのだろう。
それでは、余計に自分から彼らとの関係を絶つ事は出来ない。
ルシェラが後少し年相応な考え方の少年であれば、そしてもう少し聡明ではなかったら、誰もが少し楽に馴れたのだろう。
しかし、それは許されることではなかった。
「父上の御命に従います。ただ……条件を。……難しい事ではございません」
「何だ」
「……もう誰も……わたくしに話しかける者のないよう……。お食事を運んでいただくのと、お客様をお連れしていただく以外に、必要な言葉はございません」
今日の様な事になるのならば、いっそ誰とも交流しない方がいい。
死ぬ時に誰かに側にいて貰いたいのなら、客の前で逝けばよい。
己の所為で、己の心を想ってくれる者が潰える事は許せない。
孤独など耐える事は出来る。誰か側にいてくれる者があると思うから孤独を感じるのだ。
初めから誰もいないなら、一人を寂しいとは感じるまい。
九つの子供の考え方ではなかった。
「そして……父上、貴方は…………わたくしの事を覚えていて下さい」
「忘れる事など出来ぬ」
「…………それだけで結構です」
「……そうか」
そのまま、重い沈黙が流れる。
ルシェラには分からなかった。何故、あの場で父親が目の前に現れたのか。
あまりにも時機が良過ぎた。
充分な間を措いて尋ねる。
「父上、何故……あの場にお越しになったのですか……?」
「うん……まあ、たまたま、な」
微かに、控えた騎士が眉を顰めた気配が伝わる。王は、軽く騎士を睨んだ。
しかし、察しのよいルシェラは何となく悟る。
「……一通り、気を配って下さっていたという事ですか?」
「お前は、これでも私の子だからな……」
放って於いた手前、言える言葉は少ない。その言葉を素直に受け取るには、ルシェラの心は傷付きすぎていた。
声が冷気を孕む。
「それでも……その他の手立ては考えて下さらないのですね……」
「お前程の美貌も他にないのでな」
「顔、ですか…………あの方々には、身体は物足りませんでしょうに」
幾らあの生活に染まったルシェラでも分かる。雌雄の番でなくては子が成せぬ以上、通常は男女一対として目合うものである筈だ。
故に、摂理として一般に性愛の嗜好も異性に向くものなのではなかろうか。
個人の自由ではあろうが、同性に向くというのはかなり特殊であろう。
その上、自分はまだ子供だ。身体も小さいし、顔もまだ幼い。
そういった趣味の者もまた、少数ではないかと思う。
両者が重なるにも拘わらず、自分の下を訪れる客の数は、一体どういう事なのだろう。
「わたくしには、どんな嗜好の方も関わりないと、そう仰せられますか? 天性の淫夫と?」
「そうは言っていない」
取り繕うが、それ以上の弁解の言葉も浮かばないらしく黙り込む。
ルシェラには、確かに性別や年齢を超えた何かがあるように感じる。しかし、蔑んだ言葉は流石に掛けられない。
「……お帰り下さい。陛下にも、御職務がお有りでしょう」
「……これ以上父とは呼びたくないか…………」
ルシェラはそれに応えず、寝台を降りてふらふらとしながらも、部屋の戸を開けた。
「お帰り下さい、陛下」
清明に言い放つ。
「………………分かった」
王は仕方なく立ち上がった。
そして、扉に必死で縋り、自分を睨み付けている息子の顔をまじまじと見遣る。
窓から入る微かな光と洋燈に照らされた顔容は陰影を刻んで尚のこと美しい。
怒りが青白かった頬に僅かな赤みを差し、また、同じ怒りの浮かぶ瞳もゆらゆらと、炎を湛えているようだった。
王はルシェラに近付き、その顔に手をかける。
あ、と思う間もなかった。
ルシェラの小さな口唇に、王のそれが重なる。
呆然として、ルシェラは半開きの唇にただ口付けを受けた。
重なるだけのものではなく。
息子を慈しむものでもなく。
ぬるりと差し込まれた舌が、ルシェラの口腔を弄る。
「ん……ぅ……」
王は未だ兵士の血に濡れたルシェラを気にかけようともしない。
拒むことも出来ず、ルシェラは反射的にその舌を受け入れた。
行為には抗うことも出来ないほど慣らされている。
それが例え、実の父親であっても。
教え込まれた快楽に、心と身体は正反対の反応を見せる。既に、均衡はとれていなかった。
ぞくぞくとした痺れが背筋に走る。
どの客よりも上手を行く技巧に、ルシェラの膝は限界を迎えて頽(くずお)れた。
王の腕がしっかりと抱き留める。
それでも、行為は止まなかった。
「……ぁ……ふ……」
王の口から注ぎ込まれる唾液を呑み込む。
苦い、酒と煙草の入り交じった味がする。
ルシェラの双眸からは、驚愕と恐怖と……快楽が綯い交ぜになった涙が溢れている。
父からの口付けを望んでいなかったわけではない。
額や頬に、眠る前や起きた後、触れてくれればと願ったことはあった。
しかし、これは違う。
客が見るのと同じ目で、父に見られていたことが何より悲しかった。
縋り付き、王の衣類を握り締めた手がぶるぶると震える。
どれ程そうしていたものか……。
擦れ合った唇が痛みを覚え始めた頃、漸く王は唇を離した。
ルシェラは既に睨む力もなく、父王に縋り付いたまま俯いて荒々しい呼吸を繰り返している。
王はルシェラを再び寝台に寝かせ、何事もなかったかのように部屋を立ち去る。
と、その途中で振り返った。
「私がお前を閨に呼びたいと申したら、如何する」
「…………陛下のお思いになるままに」
「そうか。……邪魔をした」
今度こそ、王は身を返して立ち去った。騎士もその後に続いて去る。
重い音が響き、扉が閉まる。
涙は未だ止まらなかった。
まさかに、父親に唇を奪われようとは思ってもいなかった。
それも、騎士の控えている目の前で。
固い枕に顔を押し付けながら、嗚咽を堪えようとはしない。
単調に日々をこなしていたルシェラにとって、今日は余りにも動きがありすぎた。
ありすぎて、頭の中の整理が追いつかない。
回転が遅い方ではないが、これ程事態が動くことが滅多にないので繋がりが悪い。
ただ、己の浅はかさが悔やまれる。
一瞬でも逃げられると思った自分が愚かだったのだ。
一兵士にそんな事が出来ると信じた自分が。
少し考えれば分かった筈だ。彼を諫めなくてはならない立場であったのに……ただ、流されてしまった。
逃げ出したい一心で、差し伸べられた手を取った。
心の片隅では、その過ちに気付いていた筈だ。
誰も自分を助け出せる者などいない。
実の父親にでさえ捨て於かれる身で、誰の愛を受ける事が出来るというのだ。
ただ少しの期待が、一人の人間の今後を奪ってしまった。
「ごめんなさい…………」
胸に、締め付けられる様な痛みを覚える。
「……ごめんなさい…………」
ルシェラはただ胸の辺りの服を掴み、身体を折り曲げて耐える。
呼吸器の持病の為、呼吸が苦しくなる事は良くあったが、こんな痛みは初めてだった。
「わたくしの方が、死ぬべきだったのに……」
兵士は優しかった。誰もに見捨てられたこの身にでさえ。
彼ならばきっと、自分に絆されさえしなければ人並みの幸せを手に入れ、天寿を全うしたのであろうに。
「ごめんなさい……」
一粒、また一粒と涙が零れる。
目尻を伝い、頬を伝い、未だ血に塗れた顔をそのまま流れて、まるで血の涙を流している様にも見えた。
次第に痛みが増す。
それと同時に呼吸も次第に浅く、速くなって行った。
酷い咳を繰り返しながら、ルシェラは自分の胸に爪を立て、掻き毟る様にしながら意識を失った。
続
作 水鏡透瀏
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