人が様々動く気配に、ルシェラはゆっくりと覚醒を始めた。
「殿下! お起きあそばされましたか」
「…………貴方は……」
声が掠れる。
顔を向けた先に、何処か見覚えのある騎士がいた。
まだ30には届かないであろう、繊細な面立ちをしている。兵士と呼ぶにはあまりに貴族的で、立ち居振る舞いも垢抜けていた。
黒い瞳がいかにも意志強く、融通が利きそうな風ではない。
しかし、秀麗な顔も力ある瞳も、緊張が一気に解けた様な表情をしている。
「ダグヌ・ローチェと申します、殿下。ご加減は如何にございましょうか?」
「ええ……」
身体を起こそうとするのを止められる。
仕方なく腕を持ち上げ、その手を眺めた。
どうやらまだ生きているらしい。
しかし、己の身体の状況は分かっていた。
喉の奥が詰まったように苦しく、胸から雑音がする。今までにもこの様な発作は幾度もあった。
しかし、いつもよりずっと胸が痛い。
身体を起こした方がずっと呼吸が楽なのだが、ダグヌはどうやら許してくれそうになかった。
腕を下ろす。口元に手を当てて咳をし、呼吸を阻む痰を切る。
無駄な努力だとは思いつつ、そうせずにはいられない。しかし、苦しみは遠退かない。
「どうぞ安静に、動かれません様。……医師の申すところに依りますれば、随分お身体を悪くされている様子にございますから」
「胸が……痛みますが……」
「左様でございますか…………」
沈痛な面持ちから、相当悪いのだという事が察せられる。
「どの様な……具合なのですか? 御医師は、何と」
「……肺の連続的な拡張が認められ、このままではいずれ心臓の方にも異常が出るかと存じ上げます。気管の方も随分と狭くていらっしゃいますし、この様な所では、いつ呼吸不全を引き起こさんとも……との医師の診断にございます」
「そうですか……」
ルシェラは一瞬微かな笑みを唇に浮かべた。ダグヌは気付かない。
既に、生きることを望んではいない。
自分の身体がもう、悲鳴を上げる声すら涸れ果てているのは分かっていることだ。
状態が明確になっただけ、ルシェラの中で死が確実に像を結んでいく。
生きることは望みではない。
死んでいく、その時、その瞬間のことが、ルシェラの今の希望となる。
「陛下は、この事を……?」
「人を使いに出来ませぬ故、殿下のお目が覚められてからと存じ上げまして、まだ報告申し上げておりません」
ダグヌは実直に答えた。
殿下と呼ばれる事に違和感を感じる。
自分は確かに王の子であるが、そういった扱いを受けた覚えは一度もない。
今更父の加護を受けたくなかった。
どんな意地を張っても……喩え自分の命を徒に削る事になろうと。
深く考えた訳ではない。
ただ咄嗟に、父に絡んで自分がこれ以上苦しい目に遭うのは嫌だと思っただけだ。
重篤な病を持っていることが知られれば、今現在の自分の役割すら果たせなくなる。
責務も果たせぬ者にかける手などあるだろうか。
父の加護さえも受けられなければどうなるか。
……もう、傷付きたくないのだ。
無論、これから病が篤くなっていけば知れることではあるだろう。
客の前で醜態を晒すかも知れない。
それでも……それならば、今ただ父に状態を打ち明け、解放されるより、自分は幸せであるように思う。
父に目もかけられず、客どころか、人と合うのは食事時だけ……そのまま死んでも、誰が、何時、気付いてくれるというのだろう。
たった一人で死んで逝きたくはない。
ただ、それだけかルシェラの願いだ。
「……陛下には……内密に願います。貴方の他に、この事を知る者は?」
「医師が一人だけですが…………なりません。陛下には申し上げなくては」
「……わたくしは、まだ……十分に役目を果たせます。ですから…………お願いです。この事は、貴方と御医師の心の中に仕舞われて…………」
じっと見詰める。ダグヌは僅かにたじろいだ。
ルシェラが何を危惧しているのか、直ぐに察せられる。
それにも増して、姿が生み出す効果はルシェラが心得ている以上に齎されていた。
見た目通り実直な性格らしいダグヌは、案の定絆されかけていた。
「しかし、殿下……」
何とか反論を試みるが、深く昏いルシェラの瞳に囚われてそれ以上言葉を紡げなくなる。
「……お願いいたします。貴方がダグヌの誓いを立てられたのは……陛下に対してなのでしょうから…………わたくしのお願い事など、聞き入れて下さらなくても仕方のない事……ですが、わたくしは……陛下に見放されたら、生きていけない…………」
側にあった手を取り、力無く握る。穏やかでしかし、悲哀を滲ませた瞳でダグヌを見詰めた。
「わたくしは、まだ、陛下より頂いた役目を果たすことが出来ます。この場所も気に入っています。……どうか……どうか、わたくしの我が儘を…………」
長い睫がうっすらと露を孕む。ダグヌは耳まで紅く染めてルシェラを見詰めた。
その澄んだ瞳に引き込まれそうになる。
まだ呼吸が辛いのか途切れがちな声。
あまりに儚く、いつ掻き消えてしまうかという不安に駆られる。
ルシェラは、取ったダグヌの手に頬を寄せた。
「お願い…………」
一雫の涙が頬を伝い、ダグヌの手に落ちる。
「殿下……」
「貴方のここに……」
手を、ダグヌの胸元へ移す。
「引き出す事なく仕舞って下さい」
細く撓やかな指は、皓く叙情的でさえある。
伝えられる筈の熱はなく、冷たい。
それが尚更人形の様に思えて、ダグヌは思わずルシェラの様子を窺った。
浅く速い呼吸。
時折混じる、苦しげな咳。
憂えた表情が麗しい。
この国には数少ない緑の瞳は、新緑の若葉の様な色でありながら、深い海の煌めきを湛えていた。
湛えられた煌めきも揺らぎも、既に子供のものではない。
生きることに苦しんだ年月が、深く、重く、澱の様に眼底に淀んでいた。
陶器の肌。真珠と呼ぶにも、硬質な空気が阻む。
骨格のはっきり分かる肢体は、それでも尚微妙な均衡を保って美しい。
等身大の白磁人形……その様に、強く印象に残る。
ただ置物として、鑑賞したいとさえ思う。
……ダグヌは、そんなルシェラの姿をただ懐かしく見詰めた。
かつて憧れ続けた、その姿を。
一方、ルシェラは己の懇願に何の反応も返さないダグヌに不審気な目を向けた。
そして、自分を見ているのに目が合わぬのを感じる。
「ダグヌ殿……?」
「………………っ! 申し訳ございません。失礼を……」
名を呼ばれ、我に返る。
「いいえ……今、貴方は何を見ておいででした?」
ダグヌは目を見開いた。しかし、答える術もなく黙る。
「わたくしのお願いは、聞いて頂けるのでしょうか……?」
ルシェラの質問に躊躇いを見せる。
重い病にあるのに黙っている事は出来ないと、理性はそう強く告げている。
しかし感情が理性を揺らがせた。
ルシェラはその沈黙を否定だと受け取った。
無理を言っている事は分かっている。引き際は弁えているつもりだ。
諦める事に決めた。
「分かりました。…………どうぞ、お好きに父上へご報告下さい。……ただ、一つだけ……伺っておきたいのですが」
「……はい」
「……貴方は、先程……父上がお出で下された折りに、ご一緒していらした騎士の方……ですよね」
「はい」
しかし、質問の意図が分からず、微かに首を傾げる。
「では、わたくし達の会話を……お聞きになっていらしたのではと思うのですが…………ならば、何故……ここに。……ここへは、もう二度と……誰も近付かぬようにと申した筈です……」
「陛下の御命にて参りました」
「……どの様な」
「……正妃陛下を刺激しない範囲での、殿下の教育の一切を、私に一任すると……」
ダグヌは、深く頭を垂れた。
続
作 水鏡透瀏
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