「で、出ないで!」
 鳴った呼び鈴に答えようとするエイルに縋り付き押し止める。
 弾みで滑った刃が、ルシェラの下腹を浅く傷付けた。
「つっ……」
 一瞬血が滴るが、やはりすぐに癒えてしまう。
 ただ紅い筋だけが残された。
「……お願いです、エイル……」
「出来ません。あとは陛下に任せます」
「そんな…………」
「これ以上我が儘で俺を困らせないでくださいよ」
 突き放すような物言いに、ルシェラはエイルから手を離した。
 俯き、唇を噛むが、それ以上何も言いはしない。

 エイルはルシェラを膝から下ろし、立ち上がって代わりに座らせると、通信筒に近寄った。
「はい」
『陛下をお連れ申し上げた』
 ダグヌの声が聞こえる。
 ルシェラは身を竦ませた。
 エイルはそんなルシェラを一瞥し、片眉を上げる。
「分かった。すぐにこちらへ」
『殿下はいかがしてお出でだ』
「まだ落ち着かないが、さっきよりは大分マシだ」
『……そうか』
「まだ敷布を張り替えたりはしていないから、ゆっくり上がってきてくれ」
『分かった』

 通信を終えると、エイルはルシェラをそのままに、替えの敷布を出して寝台に敷き、枕や掛布の状態も整えた。
 その間に、足音が近付いてくる。
 扉が叩かれたのは、ルシェラを抱き上げて寝台に移した、丁度その時だった。
 横たわるではなく、腰掛けた状態でダグヌとセファンを迎える。

「……客を取らせて早々に、よくもまあ問題を起こしてくれたものですな……」
 セファンの声と視線が冷たい。
 ルシェラは身を竦ませ、肩にかけた掛布を身体の前で合わせるように掴んでただ俯いていた。
「殿下、処理は致しました。ご安心下さい」
「……安心?」
 慰めるように声を掛けたダグヌに対し、顔を上げてきつく睨む。

「あの方は、何故亡くなられたのですか。それが分からねば、安心とは言えないでしょう?」
「……申し訳ありません。過ぎたことを申しました」
 はっとして跪いたダグヌから目を反らせる。
 見かねたエイルが口を挟んだ。
「先程俺が言いましたでしょう? 公使は、過労で死んだんです。そうですよね、陛下」
「知らぬな」
「陛下、さすがにそれは……」
 セファンは微かに慌てる素振りを見せるエイルに、にやりと笑って寄越す。
「……あれは、ここ数日王宮に姿を見せてはいなかった。今日も、私が知らぬのに、王宮の敷地に立ち入っていたわけではなかろう」
「…………そういうことですか」
 エイルは呆れたように肩を竦めた。
 ルシェラは意味が理解できず、エイルとセファンの顔を交互に見遣る。

「デュベール公使は職務を忘れ、ここへは来なかった。酒に溺れ、川に転落した。溺死ではなく、転落の際の衝撃で心臓が止まったのだろう。朝になれば見付かるだろう。冷たくなってな」
「………………心得ました…………」
 漸く、セファンの考えを飲み込む。
 ルシェラは俯いたまま、それを受け入れた。

 隣国とティーアの関係はよく理解している。
 王宮内で公使が死んだとなれば、デュベールの世論は一気に開戦へと傾くだろう。
 それ程に溝は深い。
 デュベール一国、ティーアに取れば、ねじ伏せようと思えばねじ伏せられぬ相手ではないが、こちらの損害も洒落にはならない。
 不利益は極力避けねばならない。

「…………本当のことを、お伺いしたいのです…………」
 対外的にどの様に処理される事態なのかは理解した。
 だが、ルシェラ自身に納得のいく話ではない。
「何のことです、兄上」
 セファンははぐらかす心積もりでいた。
 ルシェラは畳みかける。
「わたくしが、彼に何かしたのではありませんか?」
「その様な覚えが?」
「……………いいえ……でも」
「覚えていらっしゃらないならば、何もなかったのです」
 セファンはルシェラの前に跪き、大きな手を頭に置いて優しく撫でた。
 意を決し、ルシェラは潤む瞳をセファンに向ける。

「しかし、虫が」
 肩が震える。
 まだ、虫のことを思うと震えが走った。
「虫?」
「何匹も……死んでいました。黒く……変色して…………」
 怯えながらも、視線を床に散らばる無数の黒い塊へと向ける。
 セファンはその先を追い、手を伸ばして一欠片摘み上げた。
「……これ、か………………」
「魔生物だと仰っていました。大きな瓶の中に何十匹と入っていて、それが…………気付けばこの様に……」
 暫く欠片を眺め、再び床に捨てて手巾で指先を拭うと、セファンはルシェラの手を取りその甲に口付けた。
「貴方は、この、自然に反した生き物を輪に返してやったのです。それだけのことだ」
「…………輪に、返す…………?」
「国守として貴方が持っている強い浄化の力が、その虫の持っていた邪悪なる力を消し去ったのでしょう」
「わたくしに、その様な力など……」

「国守は、ただ記憶を引き継いでいくだけの存在ではない。覚えていない筈はない。思い出して下さい。貴方には、この世界の全てをその手にするだけの力がある」
「分からない…………」
 ルシェラは頭を抱え、首を横に振る。
「あの男は、何故死んだのです」
「…………分かりません…………」
「その首輪は、あの男に嵌められたのですね」
 はっとして首輪に触れ、こくりと頷く。
 苦しみが失せれば忘れてしまうほど、既に馴染んでしまっている気すらした。
「外してご覧なさい。引き千切って」
「そんな……出来ません。鍵を探してください……」
「試してみればいい。指先で抓んで、力を込めて左右に引くだけのことだ」
 厚手の皮で作られた首輪だ。それしきのことで外れるとも思えない。
「どうぞ、兄上」
 耳元で囁かれる。
 ルシェラはふらふらと、その言葉に従った。

 首と首輪の間には殆ど隙間がなく、指を差し入れることは出来ない。
 言われたように、首輪の上下を指で挟むようにして、強く引っ張る。
「っ!」
 留め具が弾け、首に当たる。血が滲んだ。
 皮と留め具を繋ぐ部分の穴が引き裂かれていた。
「はっ……ふ……ぅ……」
 やはり、まだ締められていたのだと分かる。
 空気がより肺に入り込み、ルシェラは思わず噎せた。
 深く息を吸うと胸が痛い。

「抵抗しようと思えば出来た筈だ。貴方の力は、生命力を除けば全てに於いてあの男に勝っていた」
「そんな…………わたくしには、その様なこと……」
「貴方は卑怯だ。貴方が私では足りぬようだったから、私はあの男を寄越した。気に入らぬなら突き返せば良かったのです」
「…………しかし、それは、わたくしの役目でしょう……?」
「殺すことが?」
 はっきりと発音された言葉に、ルシェラは息を飲んだ。
 顔が青冷め、唇が震える。
 セファンを見詰める瞳からは涙が引いていた。
 言葉の意味が完全には理解できていない。

 セファンはルシェラの首根に手を回し、押さえ付けるようにしながら寝台から引き下ろした。
 膝の上に頭を置かせ、耳の裏から首筋にかけてへ愛撫するように指を這わせる。
「っ、ぁ……」
 ルシェラの背に、妖しい震えが走った。
「折角記憶を継いだのだ。貴方の持つ力については、文献には残っていない。使い方は貴方の頭の中にある。貴方自身が制御するしかないものだ」
「…………制御……?」
「そうでなくては、また客を殺す。国家への不利益は、貴方の望むところではありますまい?」

「…………何かが触れた気が致しました…………あれが、あの方の…………命だったのでしょうか…………」
「貴方は私を殺さなかった。だから私は安心していた。だが……こうなっては、自覚して頂くしかない」
 床に倒れ伏していた身体を抱き起こし、頤に手をかける。
 ルシェラは素直にセファンを見上げた。
 「殺した」という言葉を受け入れるのが精一杯で、抵抗するほどの余裕はない。

 否。
 本当は分かっていたのだろう。
 公使は自分の手に掛かって死んだ。
 認めたくなかった。
 受け入れたくなかった。
 心の自衛手段として、分からないと思いこんだ。
 無意識に人を殺めるなど、あってはならないことだ。

 何故公使は死んだ?
 自分の持つ、どの様な力で死んだ?
 死の陰が過ぎったのは、自分に対してであった筈だ。
 楽になりたくて、それに手を伸ばした。
 温かいものが…………。
 あれは、死ではなかったというのだろうか。

 青冷め震える唇に指が這う。
 ルシェラは反射的に、薄く口を開いた。
「力を継ぐ前に、慕っていた客のうちから数人寄越します。彼らを自らの手で殺めぬよう、自覚と自制を、どうぞお学び下さい」
 噛み付くように唇が合わせられる。
 強く舌を吸い、思う様口内を蹂躙すると、セファンは床にルシェラを打ち捨てた。
「ぅ……ふぅ……っ…………」
 昂ぶりの続く身体が、熱を放出できずに悶える。
 側に控えるエイルは眉根を寄せた。

「帰る」
「陛下、殿下が、陛下にお願い事があると」
 立ち上がり踵を返したセファンの前に、思い出した様にエイルが傅く。
「何だ」
「公使が使った貞操帯の鍵が紛失して、外れなくなっています。ご処断を請いたいと」
 セファンの片眉が上がる。
 ルシェラに手を伸ばし、股間を伺い見た。
 口付けで再びの昂ぶりを見せたそこは、鬱血したような色に染まって哀れな様を見せている。
 指先で先端を弄ってやると、透明な液体がとろとろと溢れてくる。

「……このままにしておいてやれ。萎えれば問題はなかろう。用も足せる」
「…………了解しました」
「力を制御できるようになれば外す。それまでは我慢も学んだ方がよいでしょうな、このはしたない身体は」
 ぬめる先端を弾くと、ルシェラの身体は面白い様に跳ねた。
 その様を、セファンは苦々しげに眺めた。
 指を怪我した液体をルシェラの頬に擦り付ける。
「……は……っ…………はい…………」
 ルシェラは床に這ったまま、肩で息を継ぎながらその言葉に従うことしか考えられなかった。


作 水鏡透瀏

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