暗い昏いくらいクライ。

 何も見えない。見えない。みえナイ。

 もう誰も近寄るな。

 我に触れるな。

 誰も。

 誰も――――――――――――――――――――――――。

 耳には微かに何かの音が聞こえている。
 しかし、ルシェラには全く聞き覚えのない音で、それが何なのか分からない。
 繰り返し、繰り返し……。
 ザザーン、ザザーンと……雑音の様な、けれど、堪らなく懐かしい様な。
 暗闇に閉ざされた視界に不安になる心が、僅かながら安らぎを得る。

 ここに連れて来られてどれ程の時間が経つのか、ルシェラには分からない。
 グイタディバイド卿に拒絶され、その後父王がやってきた辺りまでは微かに覚えてもいたが、それからの記憶はひどく曖昧だ。
 ただ、自分の言葉はもう、誰にも届かなかった。
 そして、人の言葉など、もう、聞きたくもなかった。
 憤怒の表情も見たくはない。
 何も見ず、何も聞かず、何も言わない、そんな存在になりたかった。

 そして、その願いは、叶えられた様だった。

 肌に感じる空気や匂いから、今まで暮らしていた塔から移されたのだという事は分かる。
 ここは余計に寒い。
 空気がじっとりと湿っており、絡みつく様に冷えが身体を襲う。
 目を開けていても真っ暗か朧気に光が見える程度で視界がはっきりしないのは、部屋が暗い所為なのか、自分の視力の所為なのか分からなかった。

 身の回りの世話をするものはいる様だ。
 けれど、それはダグヌ達ではない。
 誰なのかは分からない。
 声を聞いた事はないし、姿も分からない。
 襁褓を取り替えるのと、腕に針を刺す以外、世話役が触れる事はなかった。

 既に経口で食事は摂っていない。
 見えない為に確認は取っていないが、腕に度々感じる刺す様な痛みから、おそらくそこから薬剤で投与されているのだろう。
 どうでもよい。
 むしろ何故もっと早くこうならなかったのか不思議な程だ。
 お陰で尿意はあっても便意は起こらなくなっている。

 変わらず男達は訪れているが、朧気な姿を捉えられる事も稀で、息遣いを感じはしても声とて殆ど聞こえない。
 何かごちゃごちゃと言っている気配を感じてもそれはひどく遠く、頭の中にまで届く事はない。
 どうでもよいのだ。
 だから、もう、ルシェラに躊躇いはなかった。

 満たされるなら、何でもよかった。
 乾ききった心が満たされる事がないなら、せめて身体だけでも。
 指先から、身体から、流れ込んでくる血潮を拒む事はない。
 それでたとえ相手が亡くなろうと、ルシェラが気にかけるところではなかった。
 生きたいと願っているわけでもなければ、死にたくないと念じているわけでもない。
 この命に何の意味もない事は嫌になる程理解している。
 だが、それと同じ様に、今のルシェラにとって他人の生死も自分のそれと同じにしか考えられなかった。
 その瞬間に満たされる為に。せめてもの温もりを得る為に……ここに来てから、定期的に一人ずつ訪れる男のうち、何人が生きてこの部屋を出たのか、既に意識をしてもいない。

 奪った命のお陰で、胸の痛みや呼吸困難など、病からは解放されている。
 それだけで十分だった。
 何を得たという感覚もないが、苦しくない事は、ルシェラにとって何よりの僥倖だ。
 生きる事も死ぬ事もないのなら、せめて苦しくないに越した事はない。

「……ふ…………」
 浅く息を吐く。
 けれどそれ以上にルシェラの表情が動く事はなく、見開いた瞳はただ天井を見詰めている。
 壁には窓はあるものの板が打ち付けられてあり、穴が小さく幾つか開けられて外の光が僅かに差し込んでいるが、充分な明かりではなく、細い芯を挿した獣脂の洋燈が頼りない光を揺らめかせていた。
 一人の下卑た男がルシェラの身体を組み伏せ、身体中に舌を這わせている。
 ぬめる舌は蛭を思わせる動きでルシェラを責めていた。
 しかし、ルシェラには全く反応がない。
 男は焦れて、肉茎を強く掴んだ。
 それでも眉の一筋さえ動かさず、ぼんやりとした表情のままだった。

 男は、貧民街の酒場でたむろっていた浮浪者だった。
 三食昼寝つきで飛び切りの美人を抱かせてやる……そう、あからさまに胡散臭い勧誘を受けてここにやって来た者だ。
 ここには、そういった男が一月に三十人程訪れ、誰一人として出てくる事はなかった。

 海の上に立つ監獄。
 数百年前まで実際に使われ、現在は王室所有の建物として地域の象徴とはなっているものの、月に一度最も潮が引く日にだけ立ち入る事が出来るという設計上、人が住むわけにも、また、観光に行く事もできない。
 世俗を捨てた管理人の老夫婦が住まうだけで、他に立ち入るものもない。
 また、最も近づく事のできる海岸もひどく入り組んだ地形で人気はない。
 ただ、遠くの町から眺められるだけの存在だった。
 監獄の中で繰り広げられている惨劇を知る者は、殆どいない。

 月に一度扉の開く日に、貧民街で勧誘を受けた者や罪人の三十人の男とセファンが忍んでやって来る。
 ルシェラには、その時だけ僅かに反応を濃くした。
 長年抱かれ続けてきた相手は分かるのだろう。
 そして、それを殺してはならないという事も。
 セファンだけは殺される事なく、監獄を出てきた。
 例え男達が物言わぬ存在になってすらこの監獄を出る事がなかろうとも。

「ちっ」
 男は舌打ちをするや、何の反応もないルシェラの両足を方へと抱え上げ、いきり立ったものを一気に穿った。
 脊髄反射でルシェラの背が反る。けれど、やはり面は動かない。
 約定どおり食事は出、さした仕事を言いつけられる事もない。そして、一日一人ずつ順にではあるが、確かにこうして美人にもお目にかかれ、犯す事を許される。
 だが、こうも無反応では面白くなかった。
 何をしても……例えば殺す程の事をしてもよいとは言われている。
 しかし、首を絞めても、血が滲む程の切り傷をつけても、ルシェラは動かない。
 限度はあった。

 苛々する思いをぶつけるかの様に男は腰を打ちつけた。
 表面的な反応は薄くとも、慣れた秘蕾は蠕動する様に雄を包み込み、奥へと引き込もうと蠢く。
「っく……」
 金のある時には商売女で遊ぶ事など茶飯事だったし、夜道で女を襲って楽しんだ事も珍しくはない。
 女だけではなく、まあ、見目がよく若ければ男を襲った事もあった。
 経験だけは豊富な筈が、ルシェラを犯す事は全くの別物だ。
 味わった事のない……蕾があたかも独立した生き物ででもあるかの様に絡み付いてくる気すらする。

 狭い肉の洞を抜き差しする度、例えようもない快楽が与えられる。
 男は奪い去られる体力には気がつかず、ただ魔性の身体を貪る。
 食住に困らずこのおまけつきともなれば、男が幸運の神の存在を信じたくなったのも道理だろう。
 単純な男は毎日一人ずつ減っていく他の男の事など気にも留めていなかったし、何故自分が選ばれたのかに思いを馳せる事もない。
 ただ、目の前の快楽と安楽に目が眩んでいる。

 男が極めようとしたその時、漸くルシェラの腕が動いた。
 華奢な腕を伸ばして男の肩へ預け、抱き締める様に身体を寄せる。
 男は、類稀な美貌が近づくのに、何の警戒もなかった。
 美しい顔が男に寄せられる。
 唇が触れ合い、ルシェラの手が、男の背をまさぐった。
「……ん……」
 ルシェラの舌捌きは巧みだった。男の舌を絡め取り、吸い上げる。
 瞳は虚ろなまま何も映してはいなかったが、男がそれに気付く筈もなかった。

「…………く、ぁ…………」
 男は快楽に目を眇め、そのままずるりとルシェラの上に崩れ落ちた。
 既に息はない。
 男から奪った力で、ルシェラは男を軽く床へ振り落とした。
 処理は、排泄処理と栄養剤の投与をする者がしてくれる。
 そして再び虚ろに天井を見詰め微動だにしなくなる。

 我に触れるな。
 ここに移されて直ぐの頃には、そう叫ぼうとした事もある。
 しかし、声が出ず、ただ噎せ返るだけだった。
 ルシェラは直ぐにそれを諦めた。
 見えない相手は恐怖を誘う。
 しかし、それが繰り返されるうち、ルシェラは次第に諦めの境地に達していった。
 狂う事が出来たならどれ程楽だっただろう。
 しかし、やはり記憶と自尊心がそれを阻害した。

 腕輪は相も変らぬ台詞で開放を訴えかけてくる。
 しかし、ルシェラは既に全てを放棄していた。
 生きる事。死ぬ事。
 意思を伝える事。
 何もかも……。

 ここに連れて来られてから、一体どれ程の月日が流れたのかは知らない。
 暗過ぎる視界は昼夜の別をつける事さえルシェラに許さなかった。
 来る男の数を数えていればそれなりの月日は知れただろうが、嵩めばそれも難しい。
 日も場所も曖昧なまま、次の国守を産む女が見つかるその日まで、ルシェラは生きていく事を余儀なくされていた。

 そうして、再び、ルシェラにとって果てなく長い年月が流れた。

 三年後――――――――――――――――。


作 水鏡透瀏

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