「少し落ち着きあそばして頂きたいだけございます。どうか、怯えあそばされませぬ様……」
それでも怯えたままだ。ダグヌは少し焦れて、ルシェラの頬に頬を寄せた。
濡れて更に熱を失ったそこに、余計に悲しみを誘われる。
「ごめんなさい……許して…………」
ダグヌは今までのルシェラの暮らしを思い、胸が締め付けられる様だった。
少し大きな声を上げただけで怯えるルシェラ。
今までに、それだけの生活を送らざるを得なかったという事に、自責の念さえ浮かぶ。
無論、ここに来られなかったという事が免罪符とはなってはいる。
しかし、自分が唯一と定めた人間の子息にして、自分の母が命を賭して守った存在なのだ。
後悔してもし足りなかった。
「私は怒ってなどおりません。無論、手を挙げたりも致しません。どうか落ち着きあそばし下さいませ。私は、殿下を傷付けたりなど致しませんから」
その言葉を何度も繰り返す。次第に、ルシェラの緊張も解けて来る。
「申し訳ございません。大きな声に驚きあそばされたのでごさいましょう」
ルシェラは未だ震えながら、小さく頷いた。
「ごめんなさい……」
「殿下のお気持ちも弁えず、本当に申し訳ございませんでした」
青冷めた唇も未だ震えを残している。
ルシェラは、しかし、やっとの思いで言葉を紡いだ。
「いいえ……わたくしこそ…………分かっているのです。貴方はわたくしを傷付けない。わたくしを殴ったりしない……でも、どうしても、怖くて…………条件反射なのでしょうね。大人の男性に大きな声を出されるという行為に対して……」
震えたままの微かな声。
ダグヌは、その台詞にルシェラの背負ってきた重いものを痛感する。
幼い身体と心を蹂躙した数多の出来事。
胸を抉る、罵声と暴力。
抗う術のない子供。
……一人耐えて来たルシェラに賞賛を送ると共に、居たたまれなくなる。
「強く……強くおなりあそばしませ。誰も殿下を傷付けぬよう。誰も、殿下に仇を為さぬよう……」
「……強く…………」
言葉の口触りを試す様、繰り返して呟く。
「殿下には才が有られます。必ずや、お強くなられあそばします。この私の保証では、心許なくお思いあそばされるかも知れませんが……」
「いいえ。……強く……なれるでしょうか……」
不安げに尋ねる。ダグヌは、これ以上不安がらせない為、自信たっぷりな様子で頷いた。
「はい。勿論でございます」
「誰かに守られる訳ではなく……誰かを守れる様…………」
「左様にございます」
ルシェラはゆっくりと目を閉じた。
「わたくしは、今まで……わたくし自身を差し出す事で、己と、国とを守って来たのだと思っています…………でも、結局……何の意味もなかったのですね」
ルシェラの言葉にダグヌは息を飲んだ。
「…………何度も、何度も……死にたいと思いました。見返りなんて、求めていた訳ではないけれど……喜んでいるのは、お客様達だけで……わたくしは、自分が何をしているのか、次第に分からなくなってしまいました」
一度閉ざした瞳を開き、ダグヌを見詰める。
「……だって、わたくしが幾ら抱かれたところで、本当にお客様がこの国に良いように取り計らって下さるかなんて分からないし、わたくしには、お客様のお口を通して以外、外の様子を知る術なんてなかったのです。…………でも、他に、何が出来るのかなんて分からなかった……そんなわたくしを、誰が守って下さったのですか?」
「それは……」
苦しげな声に、首を横に振って応える。
「わたくしは、お客様以外の、誰に守られたのでしょう。わたくしが守りたかったのはミルザただ一人。……たった一人、無条件にわたくしを守って下さった方だけ。確かに、先程亡くなられた兵士を守りたいとは願ったけれど、あの方は、わたくしを守っては下さらなかった。ただ、導こうとして下さっただけ……」
「申し訳ございません……私が、殿下をお守りできなかったばかりに……」
ルシェラの深く澱んだ瞳がダグヌを捉えて離さない。
「……それでも、わたくしに誰かを守れと? わたくしには、もうこの国しか残っていない。……お客様達を捨ててまで、守りたいと願うものなんてありません。何の力も持たぬわたくしとの誓いを守り、この国に仇を為さなかったお客様以外……」
震える唇が、やっとの思いで言葉を紡いでいく。
ダグヌには、最早口を挟むことすら出来なかった。
「……犯されても、殴られても構わない。与えれば与えて貰える。与えられたら、与えなければなりません。それがこの世の摂理でしょう。今、わたくしが逃げたら……それは単なる不義理になってしまう。わたくしは、契約を違えたくはありません……」
ルシェラは思うまま言葉を発し、昂ぶる感情に心を二つに引き裂かれるような錯覚に陥った。
抱かれるのが嫌。
殴られるのも嫌。
怒鳴られるのも嫌。
死ぬのも嫌。
誰かが側にいるのも嫌。
誰かに仇をなすのも嫌。
でも、一人は嫌。
孤独は嫌。
寒いのも嫌。
寂しいのは嫌。
人を裏切るのも嫌。
人が死ぬのも嫌。
手段は問わず、暖かくして欲しい。
誰かに側にいて欲しい。
死にたくない。
目の前にいる人を守りたい。
強くなりたいとは思わない。
しかし、人が死んで逝くのを見たくはない。
しかし、このダグヌの申し出を受けては客との契約を遂行出来る確証がない。
自分の身体が限界を迎えて悲鳴を上げている事は、嫌という程分かっている。
昼間は勉学、武術に励み、夜は客の相手……などという、健康な人間にも辛いであろう生活など出来る筈がない。
「しかし」「でも」。
逆接の接続詞ばかりが脳裏を巡る。
「殿下、興奮だけはなさいませんよう。お茶を一口お飲みあそばし下さい」
ルシェラの呼吸が荒いのを感じ、抱きしめたままだった姿勢を変えて血の気のない唇にカップを宛う。
ルシェラはすっかり冷めて生温くなった琥珀色の液体を素直に飲み込んだ。
ほぼ一気に飲み干す。
物足りない。
もっとよく冷えたものが飲みたくなる。基本的に、この飲み物はティーアの夏の定番だ。氷を浮かべたりなどしてよく冷やして飲む。
「……お代わりを頂けませんか」
「畏まりました。水を切らしましたので、汲んで参ります。……お一人で大丈夫でございますか?」
「心配は無用です。自殺など致しませんから」
「そういう事を申し上げている訳ではないのですが……」
「ええ。しかし、少し軽口を叩く余裕は出て参りましたから」
肉体的には、だが。
心の中で注釈をつける。しかし、ダグヌはそれを察した様子だった。
「直ぐに戻って参ります」
「はい。お待ちしています」
ダグヌが去り、ルシェラは固い枕に顔を埋めた。
ふと、このままぐっと顔を押し付けてみたらどうなるかと考えてみる。
苦しくなった後、死ねるものだろうか。どんなに踏ん張っても堪えきれなくなるのだろうか。
それとも……そのまま気でも失って、次の世へ逝けるのだろうか。
しかし、試そうという気は起きなかった。ダグヌと暫く会話して、少し気が軽くなっている事に気づく。
この身体ではそう長く持つ筈もない。
どうせ直ぐに死ぬのだ。
だったら、どんな無理をしたところで構わないのではないか。
何をする気力も失っている様に思うが、かといって、このままだというのも悔しい。
悔しいと思える事が、ルシェラにとっては不思議だった。
無意識に、微かな笑みが零れた。
見る者があれば、呼吸さえ忘れた事だろう。
ルシェラ自身が忘れていた、心からの笑みだった。
ダグヌに賭けてみよう。そう思った。
自分には、他にもう何も残されていない。ああまで自信たっぷりに断言したのだから、ダグヌには確かな力があるのだろう。
あの兵士の死に様を見ても、ルシェラを守れると言い切ったのだから。
そして、言葉を尽くされて何となくその気になったのもまた確かだ。自分の力を信じたいという気持ちにも傾いてきている。
最後の一花でよい。自分の存在を知る者に、せめて鮮烈な印象を残したい。
自分がここに生きた証を、たとえ形に残らずとも、後々まで風化させぬ為に。
無理のない様ゆっくりと寝台から降り、室内に置かれた古びた椅子に腰掛ける。それを壁に寄せて背を託した。
日の当たることのない部屋の壁は冷たかったが、卓に伏すか壁に寄り掛かる他、起きていることは出来なかった。
そうしてルシェラは、自分のこれからを思いながらゆっくりと目を閉じた。
続
作 水鏡透瀏
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