「教育……? 今更何を」
「殿下には、これより王子としての教育を受けて頂きます」
 ルシェラは鼻で笑った。

「……こんな歳になって……始めたのでは遅いでしょう。……それに、必要……ありません。お客様のお相手に……役立たぬ事など」
「役に立たぬ学問などございません。……殿下には、学問だけでなく、武術、魔術のお勉強もして頂きます。差し出た事を申し上げますが……目の前にある人くらいは、守れるよう…………いかがでございましょう」
 ダグヌは真摯にそう言った。

 最後の一言がルシェラの心を動かす。
 目の前で死んで逝く者。
 己の不甲斐なさをどれ程恨んだか。
 自分の所為だというのに、自分一人、おめおめと生き延びてしまった。

「……今からで、間に合いますか…………?」
 呟く様な声で訪ねる。大きな声が出せる程、息を吸えない。
「殿下であらせられましたらば、必ず」
 力の込められた言葉。

               
「……わたくしには……何の学もありません。それでも……? 文字の読み書きが出来なくても?……それでも間に合うと仰いますか?……それだけの時間が……わたくしに残されていると…………」

 ダグヌは傍らで深く頭を下げた。
「殿下には語学の才が有られるとお伺い致しました。大丈夫でございます。読み書きが出来ずとも、聞き取り、お話になられる。お話になる事は、読み書きよりも難しゅうございますから」
「時間は……」
「王太子立位は御歳十五におなりあそばされてより後。まだまだ間がございましょう。殿下の御具合が良くなりあそばせば、その日より、午後から。夜毎の事もございます故、午前のうちは良くお眠りあそばされて」

「……それでも、夜のお仕事からは解放されませんか……」

 ルシェラの呟きに、ダグヌは言葉の続きを呑んだ。

「……あの兵士の他は……きっと詳しくは知らない事ですものね。……あの、夜のお仕事の翌日、わたくしは大抵……丸一日、起き上がる事が出来ません。……連日お客様がいらした時など、ただそれだけで……死ぬ思いを致します。……せめて、お客様の訪れが……もう少し間を措いて下さるなら…………貴方の仰るお勉強も、無理な話では……ないのでしょうが……」

「確かに、そのお身体では…………ですから、陛下に申し上げれば」
 ルシェラは聞く耳を持たない。
 浅い呼吸の所為か、何度も荒く息を継ぎながら言う。

「いいえ。……貴方も、お聞きになったでしょう。陛下は……わたくしに何の謝罪もなさらなかった。……ただ……感謝の意だけ……最後になさった質問だって……わたくしは、あれをどう受け取れば……良かったのです? あの方は、この部屋を見ても……わたくしを……何処かに移そうとは……して下さらなかった。……それは、あの方にとって、わたくしは息子でも何でもなく……都合のいい道具に過ぎない……から…………っ」

 激しく咳き込む。
 ダグヌは、横になったまま身体を丸めたルシェラの背を擦った。
 手に感じる骨の感触に一瞬気が引ける。
 痰の絡んだ咳を繰り返すが、なかなか切れない。

「あまり興奮なさいません様。お身体に障ります」
「ええ…………」
 背や胸に耳を付けなくても、胸から苦しそうな音が聞こえる。
 ルシェラはダグヌに縋り、無理に起き上がった。
「殿下!」
「……まだ……この方が…………楽…………」
 この発作はまだ馴れている。横になっているよりまだ起きていた方が呼吸がし易い。
 ひゅうひゅうと呼吸の度に胸から音がする。
 微かな気管の隙間から、僅かな空気を貪る。
 しかし、いつにも増して酷い。

「直ぐに医者を」
「ここに……いて…………」
 ダグヌに縋り付いたまま離れない。
「しかし…………」
「……暖めて下さい、わたくしを…………」
 ダグヌは戸惑ったまま動けないでいる。
 ルシェラは焦れて、ダグヌを強く抱き締めた。
「で、殿下!」
「…………何か……温かい、飲み物など……」
 そう言われ、漸くにルシェラの意図を察する。
「直ぐにご用意いたします。今しばらくお待ち下さいませ!」
 とはいえ、ここに湯を沸かす用意はない。
 他から運ぼうにも、距離があり、屋外を経由する為冷めてしまう。

 ダグヌは軽く親指と中指を摺り合わせた。
 一瞬火花が散る。
 得意ではないが、初歩の魔法なら使えた。
「階下に井戸がございますので、水を汲んで参ります。お辛いこととは存じますが、今暫くのご辛抱を」
「……はい……」
 ダグヌから腕を解く。自分の身体を支えきれず、前のめりに蹲った。
「殿下」
「……大丈夫……早く……」
「はい」

 ダグヌは駆け足で部屋を出ていった。

 この発作の主な原因は、気管の腫れと痙攣だ。そう、かつて乳母が言っていた。
 それは、暖めれば幾分楽になる。
 そうして、ルシェラは幾度も危難を乗り越えてきた。薬も満足に手に入らないからこそ、手近な物で症状を和らげるしかない。
 しかしながら、こうして発作の際に人の手を頼れることなど、何年ぶりだろうか。
 乳母が亡くなってから忘れていた人の手の温もりを思い出す。
 熱い程に……ダグヌの手は温かかった。

 懐かしい感じがする。
 穏やかに、優しく、温かく……こんな場所であっても、真綿に包まれていたような、そんな日々が……。
 ほんの三、四年前のことではあっても、もう、朧気にしか思い出すことが出来ない。
 それでも、思い出すだに、幸せと温もり、そして恐怖と後悔が押し寄せてくる。
 何故彼と接していてそんな気になるのかは分からない。
 分からないけれども、とても、大切なことのような気がしてならなかった。

 暫くしてダグヌが戻って来る。
 手には、どうしたものか、古びた鍋に満たされた水と、これもまた古びた金属製のカップを持っている。
「今すぐにお作りいたしますので」
「……どう……したのです、それは…………」
「この近くにある森番の小屋より借りて参りました。お口に合いますか存じ上げませんが、ともあれ」
「いいえ…………ご苦労でした……」

 ダグヌが魔法で起こした火種が水の中に放り込まれ、一瞬にして湯が沸く。
 同じく借りてきたのであろう飲み物の材料をそこに入れ、暫く抽出してカップに移す。
「どうぞ」
 差し出される。
 しかし、あまり咳を繰り返した所為で手に力が入らず、カップを受け取る事が出来ない。

「無理をなさらないで下さい」
「……はい……」
 口元に運ばれ、一口二口飲み込む。温かだった。蒸した穀物を煎って煮出したものだ。
「ありがとうございました……少し……落ち着きました……」
「それはようございました」
 声がずっとしっかりして来た事にほっとする。

「今夜の御食事の時にと、医師より薬を受け取っております。夕食は後数時間で運ばれて参ります。どうぞ、ご服用下さい」
 鍋の片づけなど、作業をしながらのダグヌの言葉を、ルシェラは否定的に受け答えた。

「……食欲がないので夕食は要りません。このお茶だけで十分です」

「それでは、御病気は一向によくなりません」
「……よくなる必要など有りません」   
 ダグヌは手を止めた。悲しげにルシェラを見る。
「先程から、どうしてその様な事ばかり仰せになりあそばされます。殿下にとって、殿下を守って死んで逝った者達はどのようなものでございましたのでしょうか」

「……貴方はわたくしに何を望むのです?」
 反対に聞き返す。ルシェラの誓いは、そう直ぐに違えられるものではなかった。

「わたくしに関わらないで下さい。……貴方まで殺されてしまう……」
「私は大丈夫です。人を守るだけの力を持っていますから」
「……わたくしには、そんな力はありません」
「私がお守り申し上げます。……嘗て私の母がそうした様に……」

「お母様…………?」
 苦しげな言葉の端を捕らえて尋ね返す。何か、心に引っ掛かるものを覚えた。

「貴方のお母様とは…………」
「…………ミルザという名に、覚えはございませんか」

 ルシェラは絶句し、ただ呆然とダグヌを見詰めた。


作 水鏡透瀏

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