目覚めろ。

 目覚めろ。
 お前は……。
 その力も、誇りも捨てて、こんなところで朽ち果てることを選ぶのか。

 まだその時ではない。
 わたくしが開放されるべき時は、わたくしが決める。
 わたくしは、今の状況を受け入れているのだ。

 これはわたくしの意思。

 目を反らせるな。
 お前がどれ程耐え忍ぼうと状況は変わらない。
 否。むしろ……。

 それ以上……。

 駄目だ。

 お前には果たすべき義務がある。
 お前の記憶はこの世の終わりまで続く歴史書だ。
 この記憶のみを後まで伝え送るつもりか。
 お前は外の世界を知らなくてはならない。
 それがお前の果たすべき役目だ。

 果たすべき時がいずれ来る。
 その時まで、わたくしは、わたくしの意志に基づいてのみ生きていく。

 自分に偽りを言い聞かせて何とする。

 偽りではない!

 ここから逃れたいのだろう。
 お前にはまだ希望がある。
 外の世界を見たくはないか。
 この生活は、人の全てではない。
 あの格子窓の外に広がる世界を、お前は知りたい筈だ。

 知りたくなどない!!
 もう人が死ぬのは厭だ。
 血の薫りも……もう二度と……。

 その身が火照るか。
 血を欲して……。

 何を馬鹿な。

 欲しいのだろう?
 人は極上の餌だ。
 外に行けば、あんなもの幾らでも手に入る。

 血の匂いは嫌いだ。
 血など、わたくしの欲する物ではない。
 わたくしは、ただ…………。

 ……ただ…………。


 ルシェラは荒く息を継ぎながら目を覚ませた。
 左手首を思い切り寝台の枠にぶつける。
 腕輪が金属音を響かせた。

 室内の明かりは消え、格子窓から差し込む月明かりはまだ月の位置が低いのか余りにも頼りない。
 目が馴染むのを待つまでもなく、再び目を閉じる。
 無意識に、左手首を掴んでいた。

 夢なのか、現実なのか、ルシェラには区別できない。
 ただ分かるのは、声の主が、この腕輪を通じて自分に語りかけているという事だけだ。
 力を受け継いだ証なのか、記憶のない間に身につけられてしまった腕輪は、決して外されてくれなかった。
 肘まで滑る程にゆとりがある癖に、どの様にしても手首から先へ抜け出ない。

 声は恐らく社にいた「何か」だろう。
 この腕輪はティーアの国守として、とても重要な物であることも、記憶の隅に残っている。
 しかし、今の自分に役立つ物だとは到底思えなかった。

 腕輪については何の文献にも残ってはいない。
 その内在する力や利用法は、ただルシェラの記憶に残るだけである。
 赤の石は何もない異空間に繋がる。
 青は触れるものに癒しを与える。
 緑は浄化を、そして、乳白色の石は剣となり邪を打ち払う。
 しかし、その力が、今のルシェラにとって、何の役に立つだろうか。

 声は解放を囁いてくる。
 しかし、ルシェラは自分の意志で、今なおここに留まっていた。
 国守として……かつて神々と戦った者としての力を振るえば、塔から逃げ出すことは容易いだろう。
 しかし、その後の事を思えば踏ん切りの付くものでもなかった。

 父王の下した宣言は、正しく守られていた。
 セファン以外、最早誰も訪れない。
 ふた月程の時が流れていたが、その間、本当にセファン以外の誰とも会う事がなかった。
 これまでルシェラの下を訪れていた客も、ぱたりと姿を見せなくなった。
 今のルシェラは、完全に飼い殺されている。

 もうじきセファンが訪れる時間だろう。
 あれから暫く時が経ったお陰で、随分頭の中は整理できていた。
 外の香りのする愛しい相手の事はどの様にしても思い出せなかったが、セファンが弟だった時分の事と、今現在との明確な区別もほぼ出来るようになっている。
 その上で、父の言動に付き合う余裕も、持てる様になっていた。

 苦痛でないわけではない。
 だが、否定することでより一層の苦痛を味わうことになるならば、この下らない遊戯を諦めざるを得なかった。

 階下から足音が響いてくる。
 規則正しく固いその音に、ルシェラは覚悟を決めた。
 狂乱の夜が、やってきた。

 重い音を押して、扉が開く。
「兄上、ご加減は如何でいらっしゃいます」
「ええ……あまり、芳しくありません」
 そうだ。
 割り切ってしまえば、これ程優しく接してくれる。
 四十路の男が甘えた声を出す様は目も当てられないが、王として抑圧された心の反動だと思えば未だ受け入れることも出来る。
「それは宜しくない。どうぞお食事を」
 腕を伸ばすとそれを取られ、抱き上げて食卓へ運ばれる。

「お食事が済みましたら、お風呂にしましょう」
 この子供の遊びが余程嬉しいらしい。
 ルシェラが従順な態度を取る様になってからは、セファンは始終機嫌良く、声を荒げる事も暴力を振るうこともなかった。
 何時飽きるのか分からないが、それまでの辛抱だ。
 そう自分に言い聞かせる。

 こんな生活を望んでいたとは言えないにしても、以前よりはずっと穏やかで楽な日々だ。
 逃げだそうとすれば焼き殺されてしまうであろう程の狂気の炎に包まれてることは分かるが、そう思わなければ……醜怪な男に自尊心を打ち砕かれる様な抱かれ方をするわけでなし、堪えられぬものでもない。
 まして、相手は愛してくれることを望み続けた父親である。
 拒む必要すらない。
 今の父親は、間違いなく自分に優しいのだ。

 ただ、客に抱かれなくなったことは不安だ。
 自分は国の為に抱かれていた筈。
 この二ヶ月の間、その責務を果たしてはいない。
 外のことも民のことも微かな記憶以外に何一つ知りはしないが、それでも、守るべき立場にあることは認識している。
 国同士の諍いだけは避けねばならないのだ。
 大いなる力に立ち向かう争いならば仕方のないこともあろうが、同じ種族のものが争ってどうする。
 それを回避する為なればこそ、今まで堪えてきた筈だ。

「食事より…………」
「何でしょう」
「先に用を済ませたいのですが」
 歩くこともままならない身で、便所はひどく遠い。
 凝った作りの陶器の便器が部屋の中にも設えてはあったが、そこまで行くことも困難だ。
 しかも、すぐ処理をしなくては臭気で吐き気も催す。
 世話をしてくれる者がなくては使いたくもない。
「……そろそろ覚えて頂かなくては困ります。兄上に、選択肢はありません」
 セファンはこの状況を楽しんでいる。
 人として当然あるべき欲求まで自身の手に握っていると思えば、面白くも思うのだろう。
 ルシェラは尿意に堪えながらセファンを睨んだ。
 救いは、食欲に乏しく殆ど固形物を口にしていないことだ。
「………………貴方は、本当にわたくしを愛しているのですか?」
「愛しておりますとも。殺して差し上げたい程に」

 ルシェラの全てを知っている、のは嘘ではないのだろう。
 ルシェラは唇を噛み、顔を伏せた。
 命を絶つことも許されない身体。
 死ぬ事が出来るのなら、今すぐにだとて構いはしない。
 セファンはその事を知っている。
 自分が何に焦がれているかを知っている。
 それが本当に「愛」と称せられるものなのかは分からないが、ルシェラに拒絶することは出来なかった。

「食事は……欲しくありません……」
「それではお身体に障りましょう」
「…………障るならば障るで、結構なこと」
 馬鹿馬鹿しい。
 ここでの生活の全てが身体に障る。今更だ。
「足したい時に用を足さぬのも、身体に障りましょうほどに」
「断食でも確かに貴方は死なない。けれど、声も出ず、眠り続けられるのは私が困る。楽しみが減りますからな。ご用を堪えていただくのは、貴方が苦悶する姿が美しいからです。どのみち、限界というものあります故に、そこまでの大事には至りますまい」
「病が増えるやもしれません」
「病で死ねるものならば、貴方は疾うに楽になられておいででしょう」

 匙で掬った粥が口元に運ばれる。
 ルシェラは顔を背けた。
 姿勢が保てず壁により掛かりながら、全身を震わせている。
 手が股間を押さえ、前屈みになる。
 堪えきれそうもなく、セファンを軽く突き放し椅子から降りる。
 しかし、足は身体を支えきれず、すぐに床へと頽(くずお)れてしまう。
 届きたい場所は、遠かった。

「ぅ……う…………」
 強く打った膝が痛い。
 それ以上に、人としての最低限すら自分ではこなせぬことにどうしようもない屈辱感が込み上げる。
 声を殺し、唇を噛み締めて涙を堪える。
 まだ下らない自尊心の欠片が残っているのだ。
 下らない。
 下らないけれど、過去の記憶達がそれを捨てることを許さない。

 神とも対等に渡り合う力。
 王族としての自分。
 世界を護るという自負。
 その全てが、自尊心としてルシェラを苛む。

 奢っているつもりはない。
 ただ、人であることを捨てられない。
 捨てた先に待つ安楽より、今の苦痛が、より自分を人として繋ぎ止めてくれている。
 まだ放棄したくない。

「無理をなさいますな」
 セファンの腕が抱き起こす。
「食事も摂らず、生気も足りないその状態で、私に頼る他、貴方に何が出来るというのです」
 再び椅子に戻されるのか。
 ルシェラは俯き、セファンの顔を見ようともしない。
 しかし。

「仕方がない。どうぞ」
 陶器の瀟洒な造りの便器の上へ下ろされる。
「支えていて差し上げましょう」
「…………結構です……」
 羞恥に、色の悪い頬が薄く朱に染まる。
「お一人では無理でしょう。それに、貴方の様な方でも、用を足される。貴方も、人でいらっしゃる。それを確認したいだけです」
 後ろから抱き抱えるようにしながら、下履きを下ろされる。
「…………見ないで……」
「見えません。この状態では」
 確かに、腹から太腿の辺りに蟠る上着の布が、そこから下を隠している。

 ルシェラは覚悟を決め、軽く下腹部に力を入れた。

「それ程不機嫌になさらずとも」
「貴方が恥ずかしいことばかりなさるから」
「しかし、お手伝いしなくては兄上はお一人で用を足すこともなされないでしょう? 普通に座ることも難しいのに、私が支えていなくてはどうなったか」
 本当に、何がそんなに楽しいのだろう。
 ルシェラの不機嫌とは裏腹に、若やいで見えるほど上機嫌だ。

 用を足してもルシェラに食欲は全く湧かず、辛うじて一口二口粥を飲み込んだに過ぎなかった。
 そんなルシェラをセファンは再び寝台に戻し、手に紐を掛けるや手際よく、寝台の枠に固定してしまった。

 狂気の夜は、まだこれからだ。
 ルシェラは諦めのうちに、目を閉じたまま溜息を吐いた。


作 水鏡透瀏

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