「っ!」
 ルシェラを降ろし、自分の背に隠す。

 目の前にはずらりと、弓を構えた兵が並んでいた。
 その真中に、豪奢な服を身に纏った派手な女が一人立っている。

 ルシェラは、自分の不安感の的中に衝撃を受け、膝から力が抜けた。
 場に力無く尻をつく。
 しかし、兵士の服の端を掴んで放さない。
「何処へ行くのかしら」
「正妃陛下……」
「お継母様…………」

「貴方の母になった覚えなどなくてよ」
 女──正妃、ナーガラーゼが一歩進み出る。

「捕らえなさい」
 弓兵の後ろに控えていた兵士達が、ルシェラを庇う様にして立つ兵士を両側から捕らえる。
 幾人もの兵士に詰め寄られては抗う術もない。
 ルシェラも、手を放さざるを得なかった。

「逃げようだなんて二度と思わないようにして差し上げてよ」
 ナーガラーゼが手にしていた扇が閃く。
 その先はルシェラを助け出そうとした兵士に向けられていた。唇が冷たい微笑みを刻む。

「お前の様子を監視させていたのよ。随分ルシェラ殿に入れ込んでいたようね。身の程も知らずに」
 高笑いが響く。
 ルシェラは俯いて唇を噛んだ。
「今日は特別様子がおかしいと報告があったから来てみたけれど……確かだったわ」
 そしてまた笑う。
「後はお前達に任せる。わたくしは血が嫌いなの。……ルシェラ殿に、二度と妙な気を起こさせぬようにな」
「はっ」

 笑いながら正妃は帰って行く。

 その声も聞こえなくなった頃、ルシェラを連れ出そうとした兵士は縄を打たれて塔の入り口の上へ吊し上げられた。
 ルシェラは真正面の、少し離れた所へと連れて行かれる。

「外しなさい、今直ぐに!」
 しかし、ルシェラに命令権はなかった。
 給与を与えてくれるのは王であり、正妃である。
 王子としての立場でさえ不確かな者には、何の権限もなかった。
 駆け寄ろうとするのを押し止められる。

「やれ」

 一斉に矢が射掛けられた。
 吊し上げられた身体に容赦なく降り注ぎ、突き刺さる。

「ルシェラ様ーーー────────────────っ!!!!!!」

 断末魔の悲鳴。
 ルシェラの胸を切り裂く。

「……いや…………いやぁーー───────────っ!」

 押さえ付ける腕を振り解こうと藻掻くが、子供の力ではそれも叶わない。

 首に、胸に、腹に、腕に、足に、無数の矢が突き刺さっている。
 暫くの痙攣の後、完全に力を失う。

 ルシェラは高く叫んだ後言葉を失い、ただその一部始終を見詰め続けた。
 大きく見開いた瞳からは、衝撃の大きさ故か涙さえ零れない。

 この凄惨な情景に重なる記憶があった。
 もう、3年も前に……この様な。
 立ち上る生臭い血の薫り。
 己の無力さを何より憎むこの瞬間。
 庇護してくれる手は、またも遠ざかっていく……。

「あ……あぁ…………」
 血溜まりが出来ている。
 それは上から未だぽたぽたと、僅かばかりずつ広がり続ける。

 ルシェラは渾身の力を振り絞って戒めを振り払い、落ちてくる血液の真下まで駆け寄った。

 雪白の姿が真紅に染まっていく。
 周囲の兵士達は、呼吸をする事さえ忘れてその姿に見入った。
 少しずつ穢れていく姿は、それでも尚……否、だからこそか、鮮烈に、その美しさを誰もの心に焼き付ける。
 紅は、ルシェラの皓い身体にそれはひどく映えた。

「降ろして…………」
 低く呟く。
 しかし誰にも届かない。もう一度と口を開く。

「降ろしなさい。わたくしの居所を、いつまで穢し続けるつもりですか!」

 震えてはいるが、はっきりと、凛とした声で怒鳴ったルシェラに、兵士達は挙って気圧された。
 正妃の命は滞りなく遂行され、兵士達の気が一瞬緩んだ為もあるだろうが、それだけではない。
 子供だと侮っていたが、ルシェラには生まれながらにして王者としての風格が宿っていた。
 声の雰囲気とがその美麗な姿と相俟って、神々しいまでの空気を生み出す。

「聞こえないのですか。早くなさい!」
「……は、はい……」

 兵士達は顔を見合わせながら言葉に従う。
 確かに、死体をこのままにはして於けない。

 乱暴に落とされた、人ではなくなった身体にルシェラは駆け寄った。
 抱き締める。
 一本一本丁寧に矢を引き抜き、顔の汚れを、自分の服の端で拭った。

「ごめんなさい…………」
 自分を親身になって見詰めてくれた瞳は、既に何も映してはいない。
 死の恐怖に見開かれたままの瞳孔が昏い。
 ルシェラは血に汚れた顔を見詰た。
 やっと涙が溢れ出す。

「……ごめ……なさ…………」
 自分の身が血で汚れている事など気にも掛けず、自分を助け出そうとしてくれたものに頬を擦り寄せる。

「ごめ…………」
 声もなくただ涙を零すルシェラに、兵士達は戸惑いを隠せなかった。
 次第に後悔の念さえ湧いて来る。
 ルシェラの想いが、空気を伝って肌から染みて来る様だった。
 中には貰い泣きをする者まで現れる。

 血に濡れたルシェラは、いつも以上の輝きと美しさを放って見えた。
 皓い肌や明るい色の髪も、既に半分程が血に染まっている。残った白金や白と深紅の対照に誰もが目を奪われた。

 そこへ、急に影が差す。気付いた者が何人か、振り返り大慌てで地面に平伏す。

「ルシェラ…………」

「……父上…………」
 涙と血に濡れた顔を上げ、振り向く。

 そこには珍しくも国王が立っていた。数人の騎士が、その後ろに控えている。

 物心ついてより、ルシェラが父王に会見したことは片手の数にも満たない。
 余程慌てて来たと見え、控えの騎士の何人かは息を荒くしている。
 国王も例外ではなく、軽く呼吸を乱し、磨き上げられた靴が蹴り上げた土に汚れていた。

「……これは咎人か」
 呟く様な声で尋ねる。
「いいえ。断じてその様な方ではございません……」
 父を見上げて睨む。

「この方は、わたくしを想い……わたくしを助け出そうとして下さった方です。……罪人などと仰らないで…………このわたくしが許しません」
 そう強く言い放ち、再び顔を伏す。
 凄惨な人の死を目の前にするのはこれで二回目ではあったが、そう耐えられる感情ではなかった。

「そう泣くな。しかし……この処遇は如何致そうか。お前に一任しようと思うが」

 驚いて顔を上げ、目を見開く。
 その様な事を言われるとは思ってもいなかった。

「……わたくしの思う様に……」
「ああ。好きに致せ」

 迷う程のこともない。
「では…………この方の死因を隠蔽し、ご家族の下へ帰して差し上げて下さい。そして、この後、その方々が生活に困らぬように…………」
 腕の中の死体に、そっと口付ける。
 目を閉じて、心の中で許しを請う。

 他に浮かぶことはなかった。
 償えることなど限られている。

「良かろう」
 重々しく頷く。
「……お願い致します……」
「死体を清めて傷の縫合を。よいな」
「はい」

 控えていた騎士のうちの何人かがそっとルシェラを引き離し、死体を抱えて去って行く。

 ルシェラは虚ろな表情でただそれを見送った。

「そなた達も下がれ」
「御意に」
 周りにまだいた兵士達が三々五々下がる。

 その間があっても、まだルシェラは動けないでいた。
 やはり表情はない。

 自分の存在が人を殺す。
 自分に深く関わった者は殺される。
 幼い心に、ただそれだけが克明に刻み込まれる。

「ルシェラ……」
 力が入らぬ身体を父親に抱き上げられ、ルシェラは身動いだ。
「降ろして……」
「しかし、歩けまい」
「放して!」

 父親から漂う男の匂いに吐き気さえ催し、滅茶苦茶に暴れる。
 しかし、やはり力は敵わない。
 その上体調は余計悪くなっている様だった。敵う敵わぬ以前の問題がある。

「お前の部屋へ。よいな」
 有無を言わせぬ強い調子に、ルシェラもそれ以上抵抗を許されなかった。
「…………はい」


作 水鏡透瀏

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