夕暮れ時に差し掛かった頃合い。
微かに闇を帯び始めた陽の光の中、街を行き交う人々はそれぞれに、家路につき始めている。買い物籠を下げた市場帰りの婦人達も、そろそろ家に戻って夕食の支度を始める頃だろう。
暗くなっては大した照明もない。日が落ちてからは魔物の時間と言われる。家路を急ぐ人々の足は速い。
その上夏の気配が忍び寄るここ数日、不穏な事件も起こっている。
夕暮れ、人気の無い路地で倒れる人間が続出するのである。男女は問わず、ただ、普段から健康的な者ばかりが相次いで倒れる。
幸いにして命に別状はなく、多少貧血気味だとしか分からないままだった。
倒れた者は一様に、首筋にうっすらとではあるが赤い跡を残しており、その倒れた前後の記憶は曖昧だった。
人々は疫病を疑ったが、医者にも原因は分からず、ただ不安な空気だけが広がっていた。
不気味ではあるが、元より病の者には影響もなく、子供も老人も被害には遭わない。
ただ人々は警戒心を強め、益々早い時間に帰宅する様になっていた。
そんな中、重い色合いの外套を羽織った少年が一人、路地を歩いていた。
赤みの強い栗色の髪。年の頃は十四、五であろうか。
この時代では十分に大人として扱われてしまうであろうが、まだまだあどけなさを残した顔立ちだった。
美しい、や、綺麗、といった言葉は似合わないかも知れないが、可愛らしい印象が強い。丸みを帯びた頬。愛らしく、少し上を向いた鼻。
大きな瞳を縁取る睫はそこそこに長く、少し目尻が下がり気味の所為か、おっとりと優しげ見えた。
外套に包まれた身体は、その上からでも十分に華奢だと推し量る事が出来る。
ただ、優しげな瞳の形とは裏腹に、双眸の奥には、その年に似つかわしくない程の深い澱みが揺らいでいた。
そう立派な身なりでもなかったが、壁の狭間や、市庁舎の周りなどではなく、真っ直ぐに大聖堂を目指している。
大聖堂はともあれ、聖堂、というからには教会である。
高名な巡礼地であるこの教会の門戸は深夜であっても常に開かれており、遠来の旅人を暖かく迎え入れていた。
少年は、しかし、そんな巡礼者とも見受けられなかった。
まず、荷物がない。教会に一夜夜露をしのぐ場所を求めて来たとは思えない程の軽装である。
長い道のりを旅してきたとは思えない程、身ぎれいでもあった。
少年は、大聖堂の前まで来ると、その高くそびえる尖塔を見詰めてただ立ち尽くした。
夕闇に包まれ始めた尖塔は酷く重々しく見える。扉の上に並ぶ彫刻が、一層重厚感を増していた。
見上げたまま、身動ぎもしない。
瞳に映り込んだ夕時の陽の色が、少年の表情までをも翳らせる。
ふと、遠くから蹄の音が聞こえてきた。先程から行き交う人々は減る一方で、更にはこの教会近くまで寄るものは殆どいなかったのだが。
少年は何かに弾かれる様にして振り返った。光彩の関係か、刹那、瞳に光が走った様に見えた。
蹄の音は近付く。
そして、曲がり角から、その姿を現した。
大きな馬。立派な鞍。
この暗がりでもそれと分かるほど、赤い毛色をしている。
馬上には堂々たる美丈夫。
じっと、それを見詰めていた。
「ほう……」
美丈夫から微かな声が洩れ、馬は少年の前で足を止めた。
「どうした、少年。教会には、入れて貰えなかったか?」
何の気紛れにか、少年に声を掛ける。
この時間では聖堂も門を閉ざしている。その前に立ち、自分を気後れもせず見詰める存在が不思議で、興味を引かれていた。
少年は表情もなく、美丈夫を見詰めたままである。
「口が利けないのか」
少年は緩く、首を横に振った。
「ならば、何故答えない」
それでも少年は答えなかった。ただ、不思議な色を滲ませた瞳で、馬上を見詰める。
「……私に聞かせる声はないか?」
「………………この大聖堂に縁の方ですか」
唐突に、少年は口を開いた。
まだ高く、甘やかな声音だった。
美丈夫はその音の心地よさに目を細め、少年をじっと見詰め返した。
微笑み付きで答える。
「ああ、そうだ」
「………………ジオシニス侯爵でいらっしゃいますか?」
美丈夫──ジオシニス侯爵リシャール・ド・アンジュリスは、一月程前からこの街に滞在し、聖堂に参拝していた。
この聖堂は元よりあったものを数年前に彼が建て直しさせたものだった。ある人物を偲んだものらしいが、彼とその近従以外に、その真意を知る者はいなかった。
侯は変わり者の噂も絶えず、よく供も連れず近郊などへ狩りに出たり、一人で遠乗りする事も珍しくはなかった。今もその帰りなのだろう。上等なブーツが僅かに泥で汚れていた。
「……よく知っている。この辺りで見る顔ではないが」
遊びの様な言葉に、少年は不機嫌そうに顔を背けた。
「下々の者の顔など覚えておいでではございませんでしょうに」
「君程に愛らしい者ならば視界にも入る。私に用か? ならば嬉しいものだが」
「いいえ。……失礼いたしました……」
ひらりと、外套の裾が翻る。
「待ちたまえ!」
少年は制止も聞かず、今し方リシャールが来た角を走り去った。
気を引かれ、リシャールも馬を引いて返す。
「……………ちっ」
曲がり角を越え、馬の歩を緩める。
少年の姿は、既にそこにはなかった。
何処かの路地に入ったのだろう。路地は入り組んで、探す事は用意ではない。
「……面白い少年だったな……」
少年の瞳を思いだし、リシャールは一人、忍び笑いを洩らす。
そうして、聖堂を仰ぎ見た。
「………………あの人が、リシャール・ド・アンジュリス…………」
街の門から程近い森の大木に寄りかかり、少年は蕾の様な唇を浅く噛んだ。
「あの人なの………?」
三十四という歳にしては若やいだ印象のある美貌。夕暮れで正しい色までは把握できなかったが、見事な輝きを持った髪。
瞳の色は………………。
「何色だったのかな」
翳っていた為、これもまた見逃している。
ただ、何処か懐かしい気がしていた。
「……今度は昼間じゃなきゃ駄目か」
少年は少し眉根を寄せてそう呟くと、既に夜の色の濃くなった空を見上げた。
視界の端には、大聖堂の尖塔が、昏くはっきりとした影を映し出していた。
続
作 水鏡透瀏
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