「許し難いな」
 声音が地を這う様だ。
「ああ、全く許し難い」
 長い足を尊大な態度で組み、リシャールはシリルを睨んだ。
 いや、今に始まったことではない。シリルが視界に入る度、ずっとだった。
 アルヴィンを見詰めていたいものだから、その隣から離れないシリルは必然的に目に入った。
 朝から葡萄酒しか口にしないアルヴィンに対して、なかなかの食べっぷりを見せることもあって、余計に苛々する。
 起きて直ぐにアルヴィンが居なかったことだけでも非常に腹立たしいと言うのに、更には駆けつけた時、二人は事もあろうに口付けを交わしていた。
 怒髪天を突く勢いで二人を引き離したが、それによってアルヴィンの不興まで買ってしまった。

 刻んだにんにくや香草を混ぜた山羊乳のフロマージュを千切ったバゲットに乗せて口へ運びながら、二人を睨み続ける。
 恨みがましいが、大した効果はない。
 それを知ってか知らずか、アルヴィンはシリルが頬につけた食事の欠片を取ってやったりなどするものだから、とんでもなかった。
「君達、もう少し離れたまえよ。暑苦しい」
「暑いですか、アルヴィンさん?」
「ううん、別に」
「ですってよ」
 ぎり、と歯軋りする音が聞こえる。
 シリルはその様子を鼻でせせら笑った。アルヴィンは……険悪な雰囲気を肌で感じているものの、何故リシャールが不機嫌なのかまるで分かっていない。
 ただ、不審気ながら不思議そうに首を傾げてリシャールを見詰める。
 曇りのない視線にリシャールは益々不機嫌になった。悪循環だ。

「アルヴィン、少しフロマージュくらい食べたらどうだ」
 皿を軽くアルヴィンの方へ押す。食卓の両端で遠い為に、届く筈もない。
 アルヴィンの答えは、にべもなかった。
「要らない」
「君はそればかりだな」
 軽く自分の杯を上げて見せる。
「仕方ないんです。他には欲しくない」
「君の部屋を貯蔵庫へ移そうか?」
「それはいい。是非そうして欲しいな」
 真顔で応えたアルヴィンに、リシャールは大袈裟なまでの溜息を吐いた。
「君ねぇ……あんな暗くて寒くて湿度の高い所には住めないだろう」
「僕には心地いいんだけど」
 アルヴィンの回答に顔色を変えたのはシリルだった。しかし、二人は気付かない。
「それ以上身体を冷やしてどうする。大体君は血の巡りが悪すぎる。この季節に、何故そうまで冷たくいられるのか不思議でならないよ、私は。飲み過ぎじゃないのか?」
「こんなものでは酔えやしない」
 何杯目かを飲み干したグラスを置き、席を立つ。
「何処へ行く」
「ごちそうさまでした」
「君、待ちたまえよ。今日はどうするつもりだ」
「……沼へ行きたいと、何度も言ってるのに連れて行ってくれないんだから……なら、好きにしてる。ノウラや、シリルと遊んだりして」
「沼か……」
 リシャールの舌打ちが聞こえる。
 行きたくないのだろう。それは、アルヴィンにも薄々分かっていた。
 ノウラの眠る沼。男性的感傷に過ぎるきらいのあるリシャールには、とても堪えられないのだ。
「およその場所を教えて貰って、それで僕が一人で外へ出ていいなら、それでいいんだけど。一人で行って来る」
「いいや、それは駄目だ。私の視界から離れることは許さない。大体、地形が複雑で口では説明し難いよ」
「どのみちひと月の間には連れて行ってくれないと。それから……先日の大聖堂。僕はそれだけ連れて行って貰えばそれでいい」
「それでは足りないと言っていただろう?」
「足りませんよ。でも、僕にはそれ以上分からない」
 アルヴィンはひどく素っ気なかった。
「私の行く所、と言ったか」
「……はい」
「宮廷の可能性が高いが……時を見計らわねば、連れては行けないな」
「無理は言わない。その気になったら連れて行って」
「アルヴィン!」
「……まだ何か?」
 咎める様に声を上げたリシャールを睨む。
 リシャールとしては、アルヴィンと片時も離れたくなかった。ただそれだけなので呼び止めても理由はない。
「……何もないなら、部屋に帰る」
「…………後で行くよ」
「いらない」
 猫さながらに、素っ気なく踵を返すと扉の隙間からアルヴィンは退室してしまった。

「…………シリル君、アルヴィンは、君と一緒でもああなのかね?」
 仕方なく見送り、椅子に凭れて嘆息する。
「貴方が束縛するからでしょう? 反骨精神の強い人だから、自由がないのは厭になるんですよ」
 綺麗な仕草でスープを口に運びながら、取り澄まして応える。
 顔と仕草に似合わず、よく食べるものだ。
「君は、アルヴィンの兄弟か従兄弟か何かなのか?」
「……いいえ。親も住むところもなくした僕を、あの人が拾ってくれたんです」
「ノウラのことは知らないのか?」
「名前は聞いたことがあります。だけど、僕があの人に知り合う前に、ノウラさんって人はアルヴィンさんの下を出て行ったらしいから」
 行儀は悪くないのに、何故か着実にかなりの早さで皿の上のものは姿を消していく。
 その食べっぷりに若さを見出し、リシャールは軽く目を細める。
「……そうか。それで、アルヴィンの食というのは、いつもあんなに細いのか? 私に会って一週間程になるが、葡萄酒の他は殆ど口にしない」
「…………あの人には、必要ないですから」
「どういう意味だ」
「…………さぁ。本人から聞いたらどうです」
 スープを飲み干し、サラダに手を伸ばしている。
 ……何皿目だったか、と一瞬考えたが、気にしないことにする。
「何を聞いても応えないのだよ、彼は」
「じゃあ、僕にも言うことはありませんね。あの人が言わないことを、言えるものじゃない」
「意地の悪い……。今食べたものを返して貰おうか」
「吝嗇くさいなぁ。……答えなんて……僕には貴方にあげる義務も権利もない」
 食べ終えた皿を奥へ押し、シリルはフォークを置いた。
「…………あの人、と言うがね、君、アルヴィンは君よりどう見ても若く思えるのだが」
「僕も初めはそう思いましたよ。だけど……あの人は…………僕も、本当の年なんて知りません。少なくとも、僕より随分年上なのは確かみたいですけど」
「随分、だと?」
「だから、本当によく知らないんですってば」
 そろそろ満足を覚えた口に葡萄酒を一口含み、ナプキンの端で口元を拭ってシリルも席を立つ。
「それで、沼とやらへは行くんですか? 行かないんですか?」
「………………仕方のないことだ。アルヴィンが行きたいというならな」
「そう伝えます」
「構わない。私が行く」
「そういうのが気に障るって、貴方はどうして気付かないんです?」
「…………分からない話だな」
「だからアルヴィンさんに拒まれるんですよ。……ご馳走様でした!」
 止める間もなく、シリルは食堂を飛び出した。
 出入りの瞬間、同じ歳程の少年とすれ違う。しかし、アルヴィンのことで頭がいっぱいだったシリルは、それを歯牙にも掛けなかった。

「全く、何なんです、あの傲慢な人!」
 気配を辿って難なくアルヴィンの部屋に飛び込み、乱暴にドアへ閂を下ろすとシリルは怒鳴った。
「そう怒らないんだよ。悪い人じゃないのは、分かるだろう?」
「そりゃあ、分かります、けど」
 寝台の上へと遠慮なく転がる。
「…………これが、ノウラさんなんですね。初めまして」
 風が囁く様な、透明な音がシリルの耳殻を擽る。思わず首を竦めた。
 優しい人なのだろう。それくらいのことは分かるが、今のアルヴィンにはたいしてノウラとシリルを繋ぐつもりもないらしく、あまりはっきりしたことまでは分からなかった。
「……おじさん、沼へ連れて行ってくれるそうですよ。何時かは知らないけど」
「そう……シリルも、一緒に来るかい?」
「あの人が駄目って言っても、ついて行きます」
 アルヴィンへ手を伸ばし、腕を掴んでぐっと引き寄せる。
 蹌踉けたアルヴィンを腕の中へと抱き込む。
「ちょっ、シリル」
「……厭だな。まだ少しおじさんの匂いがする」
「……っ、ふ……ぁ……」
 後ろから抱き締められ、首筋に唇が押し当てられる。
 技巧はないが、若さと勢いはそれだけでアルヴィンを感じさせるに十分だ。
「もう…………シリル……」
「あのおじさんはよくて、僕は駄目なんてこと、言いませんよね?」
「っ、ぁ……っ」
 耳朶をぺろりと舐められ、アルヴィンは身体を頼りなげに震わせる。

「妬けるな……こんな所にまで」
 耳の後ろの、髪で隠れる場所に小さな痣を見つけ、シリルは重ねて強く吸い付いた。
「あ、っ……ぅふ……」
「貴方にこんな跡が残ってるってだけで、怒ってるんですよ、僕は」
「……少しは残さないと……怪しいだろう?」
「だから……抱かれて欲しくないって言ってるんです」
 身体に回した手が妖しく動き始める。
「は…………っふ……」
「貴方が許していたって、僕は厭だ」
「…………あの人が……来るよ……」
「そうでしょうね」
「…………追い……出されちゃうよ……」
「そうしたら、貴方も一緒に連れ出します」
 アルヴィンは喘ぎとも吐息ともつかない息を洩らした。
 誰よりも可愛い子の我が儘に、アルヴィンは口ばかりだった抵抗さえも止める。

「あ……っぁ、は……っ……」
 強く絡め合う指先から流れ込むのは、何処までも純粋で熱い感情だった。
 緩く肌蹴た胸元へ口付けられ、突起へと歯が立てられる。
「……っ、つ……ぅ……」
 リシャールの残した紅斑を辿り、一つ一つ噛みつく様にして上塗りしていく。
 一週間を掛けてリシャールが見つけ出した点を、シリルは鼻で笑った。
 アルヴィンの「良い所」は、まだまだ足りていない。
「忘れさせてあげますよ。あんなおじさん」
「……や……っぁ、だ……」
「どうして? あの人に抱かれるのは、不本意なんでしょう?」
 アルヴィンは緩く首を振った。
 身体の繋がりを認めてはいるのだ。ただ、リシャールの程度が過ぎるだけで。
「僕の方がずっと若くて……貴方と一緒にいられる時間も長いんですよ?」
 癇癪を起こす様なシリルの言葉に、アルヴィンは指を解いて強くシリルを引き寄せた。
 腕をシリルの肩へ伸ばし、首へと絡める。首筋に顔を埋め、シリルの耳元で囁く。
「……心地いいのは君だよ。…………あの人は確かに苦しい。辛い。だけど……それでも……今は、離れられない。君がひと月と言ってしまったから」
「僕の所為……ですか?」
「だから、帰りたいって言ったんだ。それを、君が僕の気持ちを汲んだ気になって許したりするから」
 自分の言葉に、アルヴィンは苦々しげに顔を歪める。
 シリルの責任などではないのだ。アルヴィンがその気になって反対すれば、シリルは逆らうことなど絶対にない。
「…………ごめんなさい。だけど……やっぱり、貴方は……リシャール様から離れたくない様に見えるんです。ノウラさんのことを除けても。僕は、本当に間違ってますか?」
 目の前に来た襟足に唇を押し当てる。
 色は悪いながら何処か熱を孕み始めた身体にリシャールの残り香が薄れ、心地の良い香りがしていた。
「……帰りたいって言うのは、本心ですね。だけど……それは、あの人から離れたいからじゃない。あの人が、僕と同じで普通の人だから……だから……逃げたいんでしょう? ただ、それだけだ」
「シリル、それは……!」
 腕を解こうとしたアルヴィンを抱き締め、シリルは逃さない。
 抱き合ったままアルヴィンの足を膝で割り、身体を密着させる。

「分かるんですよ。貴方のことだったら。何だって」
「…………じゃあ、今、何を考えているのか分かるかい?」
「たった今? 分かりますよ。勿論。リシャール様が来てしまうから、離れて欲しいんでしょう?」
「分かっているなら、」
「厭です。見せつけてやりますよ」
「面倒はごめんだ。あの人、やけに嫉妬深そうだから」
「少し焦らしてやるくらい、いいじゃないですか。ね」
「ふ、ぁ……あ……っ……ん……」
 シリルの股間が押しつけられ、その熱さと半端な堅さに背が震える。
 煽る様に繰り返し押しつけられて、アルヴィンも火照りを帯びてくる。
「だ……駄目、だ……って……」
「どうして僕じゃ駄目なんですか!」
 ただの嫉妬ではない様だった。
 アルヴィンと過ごす様になって三年になる。
 シリルにとっては、まだ三年にしかならない。その間に、少しずつ大人になりはしても、まだアルヴィンにとってはただの子供でしかないのだ。それが悔しい。
 たかが一週間でアルヴィンの心を掴んでしまったリシャールが、羨ましくて仕方がないのだ。
「……僕が、まだ若すぎるから……貴方を満足させてあげられないのは分かっています。だけど」
「…………違うよ、シリル…………そういう事じゃ……ないんだ」
 シリルは若くて可愛い。だからこそ、自分に囚われて欲しくないのだと伝えた所で、納得しては貰えないだろう。
 アルヴィンは、シリルよりもまだ幼く見える顔を歪ませて目を閉じた。
 外見相応に自分が実際十五、六の歳であれば苦しむ者は少なかったのだろう。
 だが、アルヴィンにはいろいろと秘密が潜んでいた。
「……そう思っている間は、君は大人になんてなれないよ。もう疾うにそんな歳でもないだろう?」
「貴方に認められるには、まだ足りてないでしょう? 悔しいけど、リシャール様は、貴方を満足させられる人だ。だから、苛々するんです」
「……僕は、あの人に何を求めるつもりもない。あの人で満足するなんて、ないよ」
「……本当に?」
「…………ああ」
 シリルはアルヴィンの言葉と、自分の感覚との間で揺れていた。
 研ぎ澄まされた勘がアルヴィンの嘘を察しさせるが、その事にアルヴィン自身が気付いているのかどうか分からない。
「……離れて、シリル。もう、あの人が来る」
「………………はい」
 冷たく聞こえる程抑揚なく言われ、大人しく離れる。こういう時のアルヴィンには、逆らえなかった。
 その離れた絶妙な間合いで、ドアがノックされた。
 まるで見計らっていった様だ。

『アルヴィン、構わないか?』
 扉越しに縋る様な男の声が掛かる。
 しかし、扉は開けない。
「……何の用?」
『今馬車を用意させている。沼へ行くぞ。支度をしたまえ』
 リシャールには珍しい程の早口でそう伝え、ドアのノブが鳴る。部屋に入った際にシリルが閂を掛けた為に開きはしない。
『開けて欲しいな』
「シリルから先に聞いた。今着替えるから、そこで待ってて」
『……シリル君は、そこにいるのか』
「いますよ。ああ、シリルも一緒に行くから」
『何だと!? 彼は何の関係もないだろう!』
「いいだろう、別に。シリルも、ノウラのことを気にしてくれているから」
 ドア越しにも舌打ちが聞こえる。
「何?」
『…………いいや。早くしたまえ』
 あからさまに不機嫌なのが分かる。
 三十路を越えても、何処か子供だ。
 焦らすと後が面倒なのは、もう十分に学習していた。
「シリル、君も支度しておいで」
「……はぁい」
 アルヴィンを抱き寄せて、軽く唇を合わせる。
「だけど、貴方が着替えてここを出るまで一緒にいます。僕が支度する時だって、僕の部屋にいてくれますよね?」
 リシャールと二人にはしたくない。
 若々しい我が儘が可愛く思えて、アルヴィンは苦笑した。
「分かったよ。ちょっと待ってて」
 僅かに伸びをしてシリルの額に口付けると、アルヴィンは手早く着替え始めた。


作 水鏡透瀏

1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15
16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26/27/28/29/30
31/32

戻る