リシャールはとことんまで不機嫌だった。
アルヴィンとリシャールの間に、何故かシリルが座っている。
馬車の座席はそう広くはなく、お互いに膝が触れることさえ不満だった。
顔は、嫌いではない。一見少女に見える程、繊細に整っている。
だが、だからといって、アルヴィンとのふれあいの邪魔をしても許されるというわけではない。
「シリル君、君の為に馭者席が空いているぞ」
ついそう言ってしまいたくなる。シリルの肩や膝を越えてアルヴィンに触れようとすると、容赦なく叩き落とされるのだ。それくらいの嫌みは言って然るべきだろう。
「貴方が座ればどうなんです。外の空気は貴方に似つかわしいんじゃないですか。香水臭いんですよ、貴方」
「何を言う。これはアルヴィンだって気に入っている。そうだろう?」
アルヴィンはぼんやりと窓の外を眺めていて、二人の話など聞いていない。
「アルヴィン!」
「…………ん……あ……ああ、ええと……何? ごちゃごちゃうるさいんだけど」
「君ねぇ……」
「香水、臭いですよね。ねぇ」
「うーん…………体臭よりマシ。だから、どうでもいい、かな。どっちも厭だけどね。ここ狭いから。窓開けていい?」
「ほら!」
勝ち誇って艶やかな笑みをリシャールに向ける。
リシャールは轟沈して大きく肩を落としていた。
「この香水の匂い自体はそんなに嫌いじゃないよ。貴方の体臭と混じってるのも、嫌いじゃない。鬱陶しいから、そんなにいじけないで欲しいんですけど。それと、シリル。君も、少し静かに出来ないかな?」
ちらり、と何処か凄味のある目で流し見られて、シリルは首を軽く竦めた。
「…………はぁい。ごめんなさい」
「ふん。君も同じではないか」
「ちぃっ」
「だから、それが鬱陶しいんだって」
アルヴィンは大きく溜息を吐いた。
シリルはともかく、リシャールがそこまで騒げるその精神が分からない。
これから、彼の最愛のものが眠る沼へ行き追悼を行うというのに、少しは神妙にしようという心づもりはないものなのか。
「リシャール様、貴方だって、子供じゃないんだから。墓参りにも等しい様な時に、何で騒げるんだ」
アルヴィンに睨まれると、リシャールは益々大きな体躯を縮めてしまう。
大きな犬がしょぼくれている様にも見えた。
これ程印象の定まらない人間も珍しいと思う。
こんな時は大人しく懐ききった犬に思えるが、閨で自分に挑み掛かる時には大型の猫科の生き物にも思える。アルヴィンはその昔随分遠くまで旅をしたことがあり、遙か南に済む獅子や豹の生きている姿を見たことがあった。
美しく撓やかな様は豹の様で、こうして消沈していれば犬。
少し可哀想な気になって、シリル越しにリシャールの髪へと触れる。
「鬱陶しいって言った筈だ」
触れられて、リシャールは嬉しそうに微笑む。
この顔には弱い。
苦笑を返したアルヴィンに、シリルは口を尖らせた。
自分一人が完全に蚊帳の外だなどと、考えたくない。付き合いが長いのは、自分の筈だ。
何なのだろう、この関係は。シリルには全く理解できない。
暫くして、馬車は足を止めた。
「済まないが、ここからは歩きになる」
「……余程の場所なんだな。良く放っておいた」
「仕方がないのだよ。私には、いろいろと柵がある」
「その覚悟もないのに、ノウラを側に置くからだ」
先に降りたリシャールの手を借りる事もなく地面に降りる。
岩肌の多く見える山道の途中、切り込んだ様に細い道が脇へ伸びている。
確かに馬車は通れまい。
「馬を貸してくれたら良かったのに」
「ロージォをか? 三人は乗れない」
「貴方なら、まだ何頭も持っているでしょうに」
「君を一人で乗せるのは心配だ。危ないぞ」
「……馬鹿にしないで下さい。シリルだって馬にくらい乗れる」
「ほう、それは覚えておこう。こっちだ」
言われなくとも、馬車から降りねばならない道はその細道しかない。
リシャールを先頭にシリルが続き、アルヴィン、そして従者らしい少年が一人つく。
何処にそんな人間がいたのかと言えば、馬車の外、後ろ側にある僅かな足場だった。馭者と従者はつくものらしいが、そんな暮らしに慣れないアルヴィンとシリルは何となく落ち着かない気分だった。
少年、と言っても、シリルと歳は同じ程か僅かに上かも知れない。少年と青年の中間程の歳だろう。短めに切り揃えた黒髪に黒い瞳の、整ってはいるが何処か淡泊な顔立ちだった、表情も殆どなく、監視する様な目でアルヴィンとシリルを見ながら後ろを付いてくる。
この人物を見るのは初めてだった。
リシャールは何処か使用人達をアルヴィンから遠ざけたがっている。
この一週間程で直接会った人間は片手で足りた。
だが、何だかこの見られている感覚に覚えがある気がする。
「彼は、貴方の従士?」
「ああ……そうか。会うのは初めてだったかな。少し仕事を言いつけて領地を離れていたから。……ギュスターヴ、おいで」
立ち止まり、振り返る。名を呼ばれ、少年は微かに眉を顰めながらリシャールの前まで駆け寄った。
「ギュスターヴ、彼はアルヴィンという。私の客人だ。そっちはシリル。彼はアルヴィンの家族だ。歳はそう離れていないのだから、仲良くしたまえ」
促され、ギュスターヴは胸に片手を当てて軽く頭を下げた。
「…………ああ、昨日の晩。いや、もう今朝か。僕を見てた人」
リシャールの部屋から忍び出てシリルの所へ転がり込んだ時、あの時見ていた視線と同じものを感じて、アルヴィンは納得した様に頷いた。
「会っていたのか?」
「多分、そうでしょう。姿は見てないけど。貴方の所から抜け出てシリルの部屋に行く途中に」
「ギュスターヴは私の身を守ってくれるものの一つだ。戻って直ぐだというのに、勤勉で何よりだったな」
労う様に肩に手を置くと、ギュスターヴは益々微妙な表情になる。
アルヴィンとシリルは思わず視線を交わし合った。どうも、ただの従士にも思えない。
「…………行かなくていいんですか。まだここから小半時ほど歩くでしょう」
ギュスターヴは凍った視線のままリシャールを見上げる。
「ああ、そうだな。……確かに、アルヴィンの言う通り馬で来た方が良かったか。疲れたら言いたまえ。抱き上げてあげるから」
「……ご心配なく。体力にはそれなりに自信がある。道は暫く真っ直ぐだな」
シリルの手を引き、リシャールを置いてアルヴィンは歩き出した。その後にギュスターヴが続く。
出遅れたリシャールは、慌ててその後を追った。
「へぇ、ギュスターヴさんは、僕と同じ都市の出身か」
「……ええ」
後ろからとぼとぼと付いてくるリシャールを完全に無視して、シリルはギュスターヴを質問攻めに、アルヴィンはその様子を何処か不安げに見守っている。
アルヴィンに比べシリルは口が立ち、また思った事をそのまま口にする質だ。
「身寄りを亡くして……この国に辿り着いてそれで、リシャール様に拾われました」
「そうか…………」
シリルは自分の親の事を思い出したのだろう。それ以上を聞けなくなって黙る。
代わりに、様子をずっと眺めていたアルヴィンが少し早足になって二人に並ぶ。
「君は…………分かる人、かな?」
「え?」
「……ノウラを分かる人?」
アルヴィンの物言いが理解できず、ギュスターヴは首を傾げる。
「そんな感じがするから。ノウラを見た事があるだろう? その……ノウラが死んだ後」
何を言われているのかに思い至り、ギュスターヴは頷いた。
「……貴方は、」
「……僕は、特にノウラとは繋がりが深いから」
「ああ…………はい。俺が拾われたのは、そもそもノウラさんが死んだ後で。だけど、その名前は知っています。リシャール様が何度も言うし……その……」
「うん。姿も見た? 見てないか。でも、感じたよね」
「…………何で」
「何でかな。そんな気がしたから」
アルヴィンはこともなげにほのぼのと言うが、ギュスターヴは衝撃を隠せない。
勘だとでも言うのか……しかし、見た目からしてアルヴィンはどことなく大人しくふわふわとした印象で、それ程鋭い様にも見えない。
「…………感じました。中庭にいる。あと、街の大聖堂とか……城の中にもまだいると思いますけど」
「シリルと同じくらい、かな。いや……まだそれでもシリルの方が少し強いか。リシャール様よりはずっと強いね」
言われて、ギュスターヴの表情が強張った。
「何が……ですか」
「君なら分かるかなって思ったんだけど」
微笑みかけられ、ギュスターヴは訳も分からないままその笑みに魅入られる。
アルヴィンはすっと近付くや、ギュスターヴの肩に手を置き耳元に口を寄せた。
「…………契約、してるね、君」
「っ!」
ギュスターヴの顔色が変わる。
声を吹き込まれた耳を押さえ、僅かだが半身を引く。
アルヴィンはつと目を細め、更に囁いた。
「……危ないよ、そういうの。リシャール様を守りたいんだろうけど……無理はしない方がいい」
「貴方、一体」
「秘密。だけど、君が契約しているものに聞いてみれば分かるかも知れない」
シリルやリシャールには聞こえていない。
アルヴィンは直ぐに離れ、また柔らかな笑みを浮かべる。
「アルヴィンさん、何言ったんです」
「ちょっと驚かせちゃったかなぁ……」
「ギュスターヴ、貴様アルヴィンに何を!」
リシャールはギュスターヴに掴み掛かる。
アルヴィンは肩を竦め、熱り立っているリシャールの膝裏を軽く蹴る。
途端にかくりとリシャールは地面に膝を付いた。
「くっ、アルヴィン!」
「下らない事言ってるからでしょう。ほら、まだ遠いの?」
「しかしね、君」
「ギュスターヴ君、君なら場所を知ってるんだろ? もうこんなの放っておいて、連れて行ってよ」
腕を取られ、ギュスターヴは思わず振り払う。
混乱を隠せない顔で睨んでくる様子に、アルヴィンは苦笑した。
「何もしないよ。僕は。ただ連れて行って欲しいだけで」
「……あんた……何なんだ、一体」
「調べてみればいいじゃないか。別に君やリシャール様に危害を加えようとは思ってないよ。ただ、ノウラを連れて帰りたいだけだから。リシャール様が帰してくれるなら、それでいいんだけど」
微かに微笑んだ口元。しかし、何処か目は笑っていなかった。
ギュスターヴの背に、冷たいものが落ちる。
「……調べて……いいのか」
「…………好きにすればいいよ。その結果をリシャール様に報告するのも、君次第に」
肩をぽんぽんと叩き、表情を改めてシリルやリシャールを振り返る。
「さあ、こんな所で遅くなるのは厭だな」
「……アルヴィンさん」
「シリル、行くよ」
「………………はい」
それから小一時間程山道を歩く。
足場は悪化の一途を辿り、ついには道なき道に入った。
初めは切り立った岩場であった筈が、何時のまにやら鬱蒼とした森に入り込んでいた。
アルヴィンとシリルは不安になったが、先に立つギュスターヴの足取りは変わらない。
「……こんな奥地だとは思ってなかったな」
「本当に合っているんですか?」
「……もう少しですよ。そうでしょう、リシャール様」
僅かに立ち止まって振り返る。
全員が見た目十代の所、リシャール一人、三十代も半ばにさしかかっている。少し遅れ、息を荒くして辛うじて付いてきていた。
「…………夜だけ元気なんですよね、あの方」
「……夜だけ……かな…………昼間でも、あの時だけはやたら元気だよね」
「無駄な変態だな」
三人三様に言いたい放題である。
「き……君達………………もう少し、大人を労ろうという気持ちはないのか」
「何だ、年寄り扱いされたかったの?」
「見た目だけは若作りのくせに」
「……水でも飲みますか?」
散々だが、従士であるギュスターヴだけは何とか気を使う。
差し出された水筒に入った水を口に含み、リシャールは大きく深呼吸をした。
「もう少しだな。……木陰で一休みしたいものだ」
「こんな所で立ち止まる方が危ない。藪には蛇も出るし。行きましょう」
水筒をリシャールに預けたまま、ギュスターヴは再び歩き始める。
アルヴィンとシリルも続く。
一休みできたと思ったリシャールだけ、やはり少し遅れて歩き始めた。
それからまた小半時。
漸く視界が開ける。
そこには、池とも泉とも付かない、それなりの広さの水溜まりがあった。
「ここ…………」
「はい。ここです」
「沼っていうから、もっと濁ってるのかと思った」
「表面はそれなりに澄んでますが、底はないらしいです。藻が見えるでしょう。捕らわれたら終わりだって」
「そうか…………」
沼のほとりに跪き、アルヴィンは深く頭を下げた。
静かだった。
鳥の囀りさえもない。
こんな森の奥までは、風のそよぎさえ届かない様だった。
追いついたリシャールも、その余りに静謐な様にアルヴィンへ声を掛けることが出来ない。
それは勿論、ギュスターヴもシリルも同じ事だった。
アルヴィンの背に控えて立ち尽くす。
風もないのに水面がさざめき始める。
アルヴィン以外の三人は、思わす身構えた。
何かが来る、と言うのは、直感だろうか。だが、アルヴィンは動かない。
シリルはアルヴィンに全幅の信頼を置いているから、それ以上は動かない判断をした。
しかし、ギュスターヴとリシャールは、形ばかりながら帯びていた小剣を抜いて構える。
ふ、とアルヴィンが顔を上げる。
ふわりと片腕を広げ、動きかけたリシャールとギュスターヴを制する。
大袈裟な仕草でもないのに何処か気圧され、二人は僅かに剣を持つ手を緩めた。
「……出てきて。ごめんね、遅くなって」
波紋の広がる水面を見詰め、穏やかに声を掛けた。
さざめきが激しくなる。
細かな波紋が次々に広がり、波立った水面から微かな飛沫が散った。
さざめきは周囲を取り囲む木々にも移り、枝々がざわめく。
空気が振動している様だった。
水飛沫が輝いている。
円を描く様に次第に水面の動きが激しくなっていく。
収束し始め、水柱の様になり始めた時、それはいきなり弾ける様に消えた。
「ああ…………」
きらきらと、輝きながら、水面のその上へと宙に浮かぶものが残された。
アルヴィンはそれへ手を伸ばす。
まだ小さな掌に手にしたものは……白い欠片だった。
「……ごめんね……全部は引き上げてあげられなくて」
その欠片へと話しかける。
リシャールの目にはそう見えた。
しかし、シリルとギュスターヴの視線は、別の所にある。語りかけるアルヴィンの、その少し上に。
「なっ……」
「これが…………」
少年二人はそのまま声を失って魅入る。
黒く長い髪。
オリエンタルな、褐色の肌。緑色の澄んだ瞳。
愛らしく整った顔立ち。
年は十四、五の、優しげな少女の姿。
「……ノウラ、迎えに来たよ」
少女の幻影は、にっこりと笑った。
続
作 水鏡透瀏
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