翌日、再び従者を振り切って一人狩りに出掛けたリシャールは、同じ場所で件の少年に出会った。
 昨日は馬上の自分が陰になっていた為よく分からなかったが、陽の中で見るとその愛らしさは際立っている。
 社交辞令程度に「可愛い」などと評した昨日の自分が申し訳なく思える程の容姿をしていた。
「あ……」
 少年はリシャールに気が付くと小さく声を洩らし、にっこりと笑った。リシャールの目には、まさに馥郁たる薔薇が咲き綻んだかの様に映る。
「また会えたな」
「お待ちしておりました」
「私を?……それは嬉しい事だ」
 ひらり。リシャールは馬上から降り立ち、少年に近寄った。
 零れ落ちそうな程に大きな瞳が見上げる。

「ここにいれば、またお会いできるのではないかと思って」
「私に会いたかったのか?」
 少年ははにかみながら、小さく頷いた。その愛らしい様に心を鷲掴まれ、リシャールは息を飲む。
「君……これから、時間は空いているかね?」
「……ええ」
「では、遠乗りに行こうではないか。幸い、うるさい供の者もいない。このロージォには少し我慢して貰う事になろうが、君一人ならば、そう苦痛でもあるまい」
「ロージォ?」
「この子の名だ。赤い毛並みが美しいのでな」
 そう言い、顔を寄せる馬の鼻先を撫でる。
 少年も、つられた様に馬へと手を伸ばした。途端、馬の方から顔を擦り寄せてくる。
「うわ……」
「気に入った様だな。気むずかしい子なのだが、君の優しさが伝わったのだろう。ロージォの了解は取れた事だし、いかがかな」
 狩りになど行っていられない。この少年の笑みを見た瞬間から、リシャールはどの様にして少年を誘うか、そればかりしか考えられなくなっていた。

 少年からは、何故かひどく懐かしい感じがした。思わず大聖堂を仰ぎ見る。
 そして、その懐かしさに心当たった気がした。
 かつて愛した少女。
 その少女に、何故か似た様な雰囲気がする。

「とても美しい子ですね」
 燃え立つような赤毛というのは珍しい。普通の馬より一回り大きく、毛並みも素晴らしかった。そうあるものではない。
「私の自慢の馬だ。褒めて貰えると嬉しいものだな」
 少年は馬の首に腕を回して抱き付き、リシャールを振り返った。
「供の方々はわざと連れていらっしゃらなかったのでしょう?」
「堅苦しいのは好きではないのだよ。さあ、乗りたまえ」
 少年の小さく華奢な手を取り、女性をエスコートするときの様に恭しく掲げる。
 少年は戸惑って、リシャールを見詰めた。
「……僕はまだ、ご一緒するとは……」
「来るだろう?」
 一片の疑いもなくにこやかに聞き返され、少年は思わず吹き出した。
「ええ。……ええ、ご一緒させて下さい」
「君、名前は?」
「……アルヴィン。アルヴィン・レシー」
「……よい響きの名だ」
「ありがとうございます」
「乗れるかね?」
 アルヴィンはもう一度微笑むと手綱を持ち、鐙に足をかけて地面を蹴った。
 思いの外優雅な様子で馬上に上がる。
「ほう……見事だ」
 思わず呟きながら自分もその後ろに乗り、アルヴィンから手綱を受け取る。
「しっかり掴まっていたまえよ」
「はい」
 馬はゆっくりと歩み始めた。

 馬がゆっくりと歩いていたのは街の門を潜るまでだった。
「しっかり掴まっていたまえ。振り落とされないようにな!」
「う、わぁ!」
 街を出た辺りから少しずつ馬は足を速めていた。それが近隣の森に入って、尚の事速度を増す。
「あ、危ないですよ!」
「鬣に掴まっていたまえ。少しくらい強く引っ張っても、この子は大丈夫だ。それより、下手に口を開くと舌を噛むぞ」
 アルヴィンを抱える様にしているのが余程楽しいのだろう。手綱をアルヴィンの前で合わせる様に寄せる。より一層密着する身体。頤より幾分低い位置にある髪からは、甘い香りがした。

「どうだ、よい所だろう」
 リシャールは抱き上げる様にしてアルヴィンを馬の背から下ろし、得意気に腕を広げて景色を示した。
 アルヴィンが連れて来られたのは、小高い丘の上だった。頂上付近には低木しかなく、とても見晴らしが良い。
「君はこの辺りは初めてなのだろう?」
「そう言いましたか?」
「いや。だが、そうだろう? 少し違った感じがするからな」
「勘が宜しいのですね」
 来た道がなだらかだった為気付かなかったが、随分街より高い所まで来ている。大聖堂も眼下に見えた。
「……遠くまで見えるものですね……」
「ここから見える範囲は全て私の土地だがな」
「全て……」
「そうだ。君が望むなら、好きなだけ分けてやってもいい」
「いりません」
 得意げに言うリシャールに、アルヴィンの答えは簡潔だった。
 些か拍子抜けしたが、その欲に溺れぬ姿にも好感が持てる。場慣れしている分、リシャールは余裕だった。
 自分の手練手管を以てすれば、少年の一人くらい簡単に落ちる筈だ。そんな、根拠の無い自信があった。
「無欲だな」
「僕には統治する力なんてありませんから」
「私もついぞ、そんな事をした事がないが」
「舞踏会でお忙しくて?」
 さすがに言葉に潜む刺に気が付き、リシャールも不快感を顔に出した。
「それが私達の仕事なのだよ」
「……そうですね」
 それきり、二人は口を噤み、ただ景色を眺めた。

 陽が天上に差し掛かった頃、ふと、アルヴィンが口を開いた。
「あの大聖堂は……貴方が建てられたのですよね……?」
「語弊はあるが……そうだな……美しいだろう。ある子を偲んでな……美しいものが好きな子だったから……」
「……お子様ですか?」
「あの建物が今の外観となるのに、一体何年かかったと思う?」
 答えにはならないリシャールの問いにアルヴィンは小さく首を傾げた。
「さぁ……」
「元々は私の八代前の領主が建てさせたものだが、工事はいまだ終わらん。更に一年前に私が改装させて、より工期は延びた。……あの子が好きだった様に。外観は整い始めてきたが、まだまだだな。もっと壮麗で、もっと美しくなる。その頃には私も生きてはいまい」
 リシャールは何処か夢の中にでもいる様な目で、茫洋と大聖堂を見詰めていた。
「…………愛した方ですか?」
「ん……そうだな……愛していた……おかしいな。まだ泣けるものか……」
 潤んだ目の縁を指の背で掬う。
 アルヴィンは大聖堂を見ながら受け答えた。リシャールの涙を、見てはならないものの様に感じていた。
「素敵な方でいらしたのでしょうね」
「ああ。……不思議なものだ。あの子の話など、他のどんな女にだってしてこなかったのだが……君は、少しばかりその子に似ている気がする。だからだろうか」
「僕は女ではありません。それに、まだ、貴方とは会って二度目。しかも、昨日の今日ではありませんか」
「時間など関係ない。ノウラの時も一目で恋に落ちた」
「…………ノウラ……………」
 その刹那、アルヴィンの表情が歪む。しかし、リシャールはまだ聖堂を見詰めていて気が付かなかった。

「そうだ。君、いつこの街へ来たのだね?」
「……え?……あ、ああ……貴方にお会いするいくらか前に」
 唐突に尋ねられアルヴィンは少し戸惑った。意識がここではない過去へと引きずられていた。戻るのに少しばかり時間を要する。
「あの中へはまだ入っていないのか?」
「…………はい。あまりに壮麗で、気後れしてしまって」
「ならば案内しよう。なに、心配は要らない。聖遺物が安置されていてな。遠来の者も多い」
「……その方のご遺体も、そこに?」
 アルヴィンの表情が引き締まる。
「いや……」
 リシャールは言葉に詰まった。そして言葉を探す様な表情を見せたかと思うと、拭う間もなく涙が溢れ出た。
「……すまない……」
「いえ…………それで」
「…………彼女の遺体は、この世にはないのだよ……」
 唇を震わせてそう告げたリシャールの言葉を受け取りかねたアルヴィンは、喉を鳴らして唾液を呑み込んだ。
「……な………………」
「……私は、彼女を守ってやれなかった。彼女は……魔女として処刑され、骨に至るまで…………粉々に打ち砕かれて……沼に捨てられたのだ…………」

 切れ切れなリシャールの言葉に、アルヴィンは今度こそ絶句した。
 紡ぐ言葉を失った唇が震える。
「だから、せめてと……あの聖堂を彼女の好きだった様にして、彼女を……弔おうとな………………ア、アルヴィン君?」
 感傷から戻りアルヴィンに目を移したリシャールは思わず慌てた声を上げた。
 アルヴィンの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れていた。口元を被い、肩を震わせて。
「…………ノ……ラ…………」
「君は……あの子を知っているのか?」
「……僕は……………ノウラを…………」
 ぺたり、と地面に膝をつく。立っている力もない様で、背をロージォの脚に預けていた。
「ノウラ……そんな…………」
 ロージォが顔を擦り寄せる。それにも真面には気付けない様子で、ただ泣き崩れている。
 リシャールは思わずその傍らに膝をつき、アルヴィンを抱き寄せた。
「君は……ノウラに会いに来たのかね…………?」
 緩く、首が横に振られる。
「なら……」
「…………死んだ事を……知って……ここに…………」
 しゃくり上げている所為で、言葉が明瞭にならない。
「墓参りに来たのか」
「…………………………いいえ。彼女を……引き取りに……」
「親族か」
「……………………………………似た様な……ものです……」

 呆然と、辛うじてと言った様子で問いに答えるアルヴィンがあまりにも痛々しく幼子の様で、リシャールは繰り返しアルヴィンの髪を撫でた。
「すまない……彼女を守ってやれなかった……」
 リシャール自身、他に言葉もない。繰り返し自省してきた想いが再び噴出する。
「…………ノウラは……あの子は………………もう、最後の審判すら、待つ事を許されないのですね………………」
 抱き寄せる、リシャールの背に添えられた小さな手が上着をぎゅっと掴む。
 途端に狂おしく突き抜けたいとおしさに、リシャールは躊躇った。
 数刻前に、知り合ったばかりだと自分を拒んでいたのは既に過去の事らしい。
 縋る様に回された腕。
 胸に埋められる小さな顔。
 震える肩はやけに華奢で、ひどく庇護欲をそそられる。
 ふわふわの綿毛の様な髪からは、やはり甘い香りがした。
 言葉少なくただひたすら泣きじゃくり続けるアルヴィンにどうしてやればよいのか分からず、リシャールはただ自分が感じるいとおしさに忠実に、思いつく限りの手段を講じた。

「っ……う…………んぁ…………」
 頤を摘み、唇を、唇で被う。
 驚いて大きく目を見開いたアルヴィンの鳶色の瞳に、はっきりと自分の姿が映り込んでいる。
 その事に酔いながら、髪を梳き、首筋を支える様に手を回して尚更深く。……深く。
 舌を絡め取った為に唾液を呑み込みきる事が出来ず、間から透明な雫が滴り落ちる。
「ん……ぅ……」
 暫く続けるうちに、とろりと瞳が揺らぎ表情が茫洋としてくる。そこで漸く、リシャールはアルヴィンを解放した。
「泣きやみたまえ。……君の泣き顔は、最早犯罪の域だよ」
 微かに濡れた音を立てながら、舌先でアルヴィンの頤に伝う唾液を舐め取る。
 頬を両手で包み、親指の腹で優しく目尻の涙痕を拭う。
「君の悲嘆は分かる。この私も……未だに払拭できない感情だからな……」
 努めて優しく髪を撫でる。ふわふわとした髪は思いの外柔らかく、見た目通りにふわりとしていた。
 アルヴィンはまだ硬直したままで、潤んだ瞳もそのままにリシャールを見詰めている。

「君……君、ねぇ……暫らく私の所に来ないか? 何、ご両親には、私の方から知らせを入れよう。君の故郷は何処かね? 言葉に訛りもないし、髪の色を見るとそう遠い場所ではないのだろう?」
 リシャールは言葉を慎重に選びながら、アルヴィンを誘う。
 その事に自分で自分に呆れる。
 何を成人直ぐの若者染みた事をしているのだろう。数々の浮き名を流し続け、猥談にも事欠かない男が。
「……身寄りは……ありません……」
「ノウラが唯一だったのか……」
 未だに声が濡れ潤んでいる。より強く頭を撫で、リシャールはアルヴィンの耳元で囁いた。
「私の城へ来てくれ。君の唯一の肉親を守れなかった、その償いをしたい」
 声音の本気を悟ってか、アルヴィンはまだ少し怯えながらリシャールを見上げた。
 冷たい色だった。しかし、色合い程には冷たい印象はない。氷青色が何故か暖かく感じられる程だった。
 その瞳にアルヴィンの姿が映っている。アルヴィンはまじまじと、氷青色の双眸に封じられた自分の姿を眺めた。

「……綺麗な……色ですね……」
 怖ず怖ずと、リシャールの頬に小さな手が触れる。人差し指が、ふと、目尻を辿った。
「瞳も……髪も……とても……」
 そして、何故か懐かしい感じがする。
「君も……実に可愛らしい……」
 額に軽く口付けるだけで赤面するアルヴィンの反応に気を良くし、リシャールはアルヴィンを抱き上げる様にして立ち上がらせた。
「来てくれるな?」
「……強引な方ですね」
「君に見せたいものがあるのだ」
 柔らかい頬に唇を寄せる。身を竦ませる仕草が堪らなく愛らしかった。
「ノウラが残したものとか……ありませんか?」
「幾つかはある。それとは別に、是非君に見て欲しいのだ。それは、あの大聖堂にある。……どうかな?」
 既に、アルヴィンに決定権はない様だった。迫られる。
 美しい顔が至近距離に来て、アルヴィンは思わず目を瞑った。
「……分かりました。ご一緒します。でも……」
「何かな?」
「身寄りはありませんけど、僕の帰りを待ってくれている子はいます。だから……」
「大丈夫だ。そうそう引き止めもせんよ。君には恐らく……私の城は居心地の良い場所というわけにもいかんだろうからな」
 リシャールは優しい微笑を浮かべ、アルヴィンの頭に手を乗せた。
「さて、では戻ろうか」
「…………はい」


作 水鏡透瀏

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