ギュスターヴは立ち尽くしていた。
 その前にノウラが浮かび庇う様にしているが、意味がない。
 圧倒的な威圧感の前に、ただ萎縮する。
「ぁ……っ…………」
 何とか剣を抜き払ったが、明らかに腰が引けていた。
──逃げなさい、早く!──
 しかし、ノウラの声は届かない。

 白く大きな獣だった。
 一見すれば馬。しかしその威圧感は凄まじく、目が合うともう足が竦んで動けなくなった。
 額の辺りに薄紅の印があり、ただの馬ではない事を如実に示している。
 目の色が緑に見える。美しい……しかし、獰猛な光を帯びていた。
 それでも逃げずに踏み止まれるのは、男としてはそれなりに褒められた事だろう。
 だが、無謀でもある。
 ノウラは咄嗟に引き返した。

──アルヴィン!──
 アルヴィン達も追ってきている。直ぐに行き当たる。
「ノウラ! ギュスターヴは!?」
──早く来て!──
 切羽詰まった様子に、アルヴィンより足の速いシリルが先行して速度を上げる。
「シリル!」
──アルヴィンも、早く!──
 ノウラに腕を引かれアルヴィンも精一杯走る。
 後ろのリシャールはまだ追いついていなかった。

「っっ!」
 シリルも身構えはしたものの動けない。武術を修めているシリルには、相手の強さの程を悟る事が出来る。
 蹄を掻き、馬の姿の獣は二人を威嚇し、完全に威圧していた。
「シリル! ギュスターヴ!!」
 軽く息を弾ませ、アルヴィンも辿り着く。
 そして獣を見るなり、足を踏み締めた。
「下がれ、二人とも!」
 それでも動けないギュスターヴの手から剣を奪い押し退ける。
 白い獣を睨む目は、シリルも見たことがない程に険しかった。
「何で、こんな所に」
「アルヴィンさん、これはっ」
「……どうして……」
 嘶く。
 大気が震えた。
 アルヴィンは怯まないが、二人の少年はひどく萎縮してしまう。
「……処女はいないんだけどなぁ」
「何……こんな時に……っ」
「ノウラを守ってくれていたのか? なら、申し訳ないと思うんだけど」
 剣で牽制しながら、一歩一歩近付いていく。
 シリルは引き留めようとしたが、膝が震えて動けない。
「くそっ」
 獣は後ろ足で立ち、アルヴィンを威嚇しに掛かる。
 そのまま振り下ろされた前足は、しかしアルヴィンを掠めることなく地に降りた。
 紙一重で避けたのだろう。
 獣の目が血走ってくるのが分かる。
「アルヴィン!!」
「アルヴィンさんっ!!」
 漸く追いついてきたリシャールが悲鳴を上げる。
 頭を低く下げ、獣はアルヴィンに突きかかった。
 それも僅かな動きで避け、剣の柄を眉間へと叩き付ける。
 雄叫びが空気を裂いた。

「大人しくしてくれ。君には悪いけど、ノウラは連れて行く」
 手を伸ばし鼻面を撫でる。獣は強く頭を振り噛みつこうとするが、やはりアルヴィンの方が僅かばかり素早い。
「アルヴィン!! えぇい!」
「シリル、ギュスターヴ、リシャールを守れ!」
 近寄ろうとするリシャールを制し少年二人を怒鳴りつけるや、蹴り付けようとする足も全てを躱し、獣の目前へ剣を翳した。
 少年達は辛うじてリシャールの腕をそれぞれに掴みアルヴィンの命に従う。
 一瞬獣の動きが止まった。
「君の事は分かった。落ち着いてくれないかな。争うつもりはない」
 獣を見る目には怯えも戸惑いもない。
 空気が重く変わり、周囲を圧する。アルヴィンが発したものに相違なかった。

「うっ……く…………」
 堪えきれず、ギュスターヴが膝を付く。リシャールも足を踏み締めたものの、何処か怯んでしまう。
 シリルも身体の芯が凍てついた様に感じた。
 獣もそれは同じ様で、足を振り上げようとしながら踏鞴を踏む。
 再びの嘶き。
 白い姿が光を放った。
「っ」
 一瞬目が眩む。手で影を作るが、視界が光に浸食され奪われる。
 強い風が風が頬を薙いだ。

「っあ……っ…………」
 白く大きな翼が広げられる。
 より大きくなった獣の姿は、神々しいまでに美しかった。
 思わずアルヴィンも息を呑む。
 左肩から大きな翼が威圧する様に羽を広げている。しかし、それは右側には存在していなかった。
 不完全な生き物だった。
「……天馬!?」
「少し違う。シリル、ギュスターヴ、もっと下がって!」
 襲いかかる獣から庇う様にシリルを突き飛ばす。三人纏めて地面へもんどり打った。
 その反動にアルヴィンは微かに避け損ね、蹄が背を掠る。
「っく……ぅ……」
 痛みに微かに隙が出来る。
「アルヴィンさん!!」
「大丈夫だ!」
 一瞬手を地面に付き身体を反転させて二撃は避ける。
 その反動を利用して、アルヴィンは獣の懐へ飛び込んだ。そのまま勢いよく剣の柄で顎を突き上げる。
 凄まじい悲鳴が大気を切り裂いた。

 痛みと怒りに動きを止めた獣へ、アルヴィンはそのまま近寄る。
 そして、剣を捨てるや優しい手つきで鼻面を撫でた。
「アルヴィンさんっ!」
 危険極まりない。現に、獣は逃れようと暴れる。しかし。
「……ごめんね。でも、彼らを傷つけるのだけは駄目だ」
 馬面を両手で挟む様にして引き下げさせ、額を合わせた。
「天地の狭間に迷いし哀れな子よ。我汝の哀しみを知らん」
 暫くは暴れていた獣が、次第に落ち着いていく。
 窘める様に頭や首を撫で、自分が攻撃した筈の頤の辺りを繰り返し撫でる。
「落ち着いて」
 嘶きから、鼻を鳴らす様な音に変わっていく。
「いい子だね…………ごめんね」
 獣から、淡く光が立ち上っている様だった。
 額の印から淡く発光して零れ落ちていく粒子が、そのまま獣の怒りの様だった。
 溢れるごとに怒気が消えていくのが分かる。
 アルヴィンの手がひらりと動き、横へ伸ばされた。
「ノウラ、来てあげて」
──ええ……でも──
「触れてあげて。これは、僕達と同じものだから」
 伸ばされた腕に縋る様にノウラも近寄る。
 アルヴィンの肩に抱き付きながら、獣へと手を伸ばした。そっとその面に触れる。
──……あら──
「……ね」
──ええ──
 ノウラの唇が微笑む。
 獣は、ノウラの手に擦り寄る仕草を見せた。

「な……何で…………?」
 シリルにもギュスターヴにも、訳が分からない。
「三人とも、怪我はないね」
「ありません……けど……」
 獣をノウラに任せ、アルヴィンは地面に尻を付いている少年達へ手を差し出し立ち上がらせる。
「ギュスターヴ君、ごめん。君の剣を乱暴に扱って」
「い、いいえ……」
「何なんです、一体」
 土や草の残骸を尻から払い除けながらシリルは口を尖らせる。
 シリルにとってはかなり面白くない状況だった。
 アルヴィンを守るのは自分だと自負しているのに、結果は逆なのだから。
 ギュスターヴはギュスターヴで、剣を抜いた形だけは取ったものの何も動けなかったことに後悔と屈辱を覚え、不機嫌そうに口を引き結んでいる。
 その似た様な反応が、アルヴィンには可愛らしく思えて苦笑を浮かべた。
 その無駄なまでの気位の高さは、むしろ清々しい。
「天馬に近いけど違う。勿論普通の馬でもない。額の印とこの感じ…………」
 額に浮かぶのは薄紅の印。何かの文様を描いているわけではないしそう目立つものでもないが、並のものでもまた、ない。
「一角獣と天馬を親に持ってるんじゃないかと思う。……違うかな」
「アルヴィン……これは、一体」
 一番状況を理解できていないのはリシャールである。困惑を隠せない様子で獣とアルヴィンを見比べる。ギュスターヴが近寄って汚れた上着や尻を払ってやった。
「分かる? ノウラ」
──……そうね。大体は……分かったと思うわね──
「アルヴィン……?」
──あたしを守ってくれていたみたい。……そういえば、この辺りには魔物が出なかったわね。こんな人里離れて、あたしみたいなモノが居る所なんて、何が集まっていてもおかしくないのに──
「ああ……やっぱり」
──分かったの?──
「何となくはね。怒りの質とか……何処か優しい感じとか。何となく、そうかなぁって」
「アルヴィン、だから、何なのだね、一体」
 取り残されている様で思わず声を荒げる。
 アルヴィンは軽く肩を竦めて、ノウラを見た。微笑み返される。

「感じから一角獣なのは直ぐに分かったんだけどね……」
「角などないではないか」
「額に印があるでしょう」
「翼があるぞ。天馬だろう、これは」
「片方しかない。一角獣だけど一角獣じゃないし、天馬だけど天馬じゃない。初めは翼も出てなかったから、角を失った一角獣だと思って……怒ってる意味が分からなくてさ」
 ちらりとノウラを見る。大概な物言いにも、ノウラは全く動じていない。事実は事実として受け止めている。
 一角獣は人間に対した時、うら若き処女にしか懐かない。その他に対しては獰猛で危険な魔物である。
「ノウラを守ってくれていたらしい。貴方がここに来る時、魔物に会ったり厭な気配を感じたりしたことは?」
「ないが……ギュスターヴ、お前は感じていたか?」
「いいえ。ありません」
「しかし、一角獣の話を聞いたことがないではないが……」
 この地方では有名な伝承である。処女を守る聖獣の話はリシャールも知っていた。
「ノウラは、その……一角獣の眼鏡に適う女ではないと思うが」
「だから、僕も分からなかったんだ。だけど……」
 獣へと歩み寄る。もう暴れはしない。その鼻面を優しく撫でる。
「不完全だからね。……だから、ノウラに惹かれたんだと思う」
 同意する様に獣の頭が下がる。
「……守ってくれた君には感謝してる。だけど、ノウラがここにいてはいけないって事も、分かるよね。……僕が連れているのが厭なんだろうけど……僕は、君が危惧する様な魔物じゃない」
──ごめんなさいね。あたしは、アルヴィンと行くのよ──
 綺麗な目が悲しげにノウラを見る。
 寂しい生き物なのは分かる。どちらでもあり、どちらでもない存在は、一角獣の社会にも、天馬の社会にも受け入れられなかったのだろうから。そうでなければ、こんな山奥の薄暗い場所へたった一匹彷徨ってはいないだろう。
 そして、だからこそ、ノウラに惹かれた。処女ではないが並の女ではなく、そしてこんな寂しい場所に一人取り残された存在だったから。
 そう引き寄せられる孤独は、アルヴィンにもノウラにもよく分かった。
 否、この場にいる者は誰しも、同じ孤独を抱えているのだ。それをそれぞれに、肌で感じている。
「…………一緒においでって、言いたいけど……」
 ちらりとリシャールを見る。リシャールの表情は何処か険しい。
「連れて帰ってもいい?」
「騒ぎになるぞ、こんな生き物」
「翼を片付けられるんだよね?」
 背中を優しく撫でてやると、翼から淡く光が零れる。溢れた光と共に、翼の形が宙に解けて消えた。
「これなら、普通の馬と一見変わらないでしょう?」
「ロージォと同じ程大きいな…………」
「駄目?」
 小さく首を傾げてリシャールを見上げる。
 少し多めに瞬きをしながら、じっと見詰める。身長差の所為で妙に艶めいた上目遣いになった。
 その視線にたじろぐ。

 空気が和らいだのが分かり、シリルとギュスターヴも恐る恐る獣に近寄り、背や鼻を撫でたりしている。彼らにはノウラが見えるから、余計に恐怖心や警戒心は解けていた。
 アルヴィンがねだっているのに気付き、シリルの無言の圧力も加えてリシャールに圧し掛かかった。
「……ギュスターヴは、どう思う、この獣」
 どうしたものかと困って部下を見るが、ギュスターヴも元々表情には乏しいものの楽しげに戯れている。
「……不利益だとは、思いません」
「…………そうか」
 何処か期待のあるアルヴィンの瞳と、シリルからのプレッシャーと、ギュスターヴの淡泊ぶりに暫くリシャールは悩んだ。
 妖しい生き物であることに相違はない。しかも、戦っている場面を見てしまっている。当人がいいとは言っていても、アルヴィンを傷つけようとした獣を連れて帰りたい筈もない。
 しかし……そんな、アルヴィン自身が捨て子犬ででもあるかの様な目をして見詰めてきても、困る。
「アルヴィン、しかしだな……魔物は人とは住めない。一角獣にせよ、天馬にせよ、居ることはこの目で理解したが、だからといって人と同じ社会では暮らせまい。それが分からぬ歳でもないだろう」
 リシャールの言葉に、アルヴィンの顔が瞬時に凍り付いた。
「魔物は……ああ…………人とは、暮らせない…………」
 呻く様に呟き、顔を伏せる。咄嗟にシリルが駆け寄り、抱く様にして支えた。
 眦を吊り上げてリシャールを睨み付ける。
「リシャール様! いいじゃないですか! こんなに綺麗な馬なんです。隠していれば、貴方のステータスにだってなる! 混じりけのない白馬なんですよ? それに、今までこの辺りの魔物を払ってきていたってのなら、それはもう、聖獣って言ってもいい筈です。悪いものじゃない。ノウラさんを守ってきたものが、ノウラさんの居る領地に災いを成すわけがないじゃないですか!」
 腕の中のアルヴィンを庇う様に抱き締め、出来る限りの言葉を尽くす。
 その剣幕に、リシャールは一層たじろいだ。
「俺も、連れて帰ってもいいと思います。危険があったら退治すればいい。リシャール様だったら、一刀の下に伏すことも出来ると思います」
「お前も、そう言うのか」
 話しかけられない限りは余程のことがないとリシャールに対して口を開かない筈のギュスターヴにも言われ、リシャールは改めて獣とアルヴィンを見比べた。

 純白の馬上に跨るアルヴィンの姿は、それは似つかわしいことだろう。
 確かに、これまで見たどの馬より見栄えのいい生き物だった。リシャールの愛馬ロージォにも匹敵する。どんな馬を買って贈るより、アルヴィンにはいいのかも知れない。
 服も飾り物もあまり喜ばないアルヴィンがねだるなら、仕方がないかとも思う。
「ふぅ…………三人がかりでは、私も負けるな」
 アルヴィンに制することが出来た獣なら、自分にも出来るだろう。守る力はあると自負している。
「……分かった。連れて帰って構わない。だが暴れる様なことがあれば、その時の処分は私に任せてくれるな」
 シリルの腕からアルヴィンを奪う様にして、軽く身を屈める。
 視線を合わせると、不安げな瞳が怖ず怖ずと上げられた。気の強い時との差違が堪らない。
 軽く額と頬に口付けて首根を擽った。
「馬にかまけて私を蔑ろにされては困るがな」
「分かってる。……ありがとう」
「どう致しまして」
 仕方なく微笑むや、リシャールはアルヴィンを抱き上げて馬の背へ押し上げる。
「では、帰るとするかな」


作 水鏡透瀏

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