帰り着き、埃を落とす間もなく中庭へ向かう。
 少し広くなった地面へ、円形を基礎とした陣形を細かく描いていく。
「シリル、僕の部屋から、ノウラを連れてこられる?」
「やってみます」
「ギュスターヴ君は、水を汲んできてくれるかな。綺麗な湧き水をね」
「はい」
「アルヴィン、私は」
「貴方は、そこで黙って見てろ」
 指示に従って散っていく二人に比べて、リシャールは口を尖らせた。
 アルヴィンは小さく溜息を吐く。耳元では囁く様なノウラの笑い声が聞こえていた。
──可哀相よ、アルヴィン。気持ちは分かるけど──
「…………貴方は、僕の側にいてよ。疲れてるだろうし。貴方を動かしたら、お城の人達に僕が睨まれる」
 言い方を少し和らげてやると、それだけでリシャールの機嫌は直った 。
 素直と言えば聞こえはいいが、単純だ。
「動かないで下さいよ。陣を踏んだら追い出すから」
「分かっているよ。私も得体の知れないものに食われたくはない」
 少し離れた所で見守るリシャールに咲き誇る薔薇を一輪手折り手渡す。
「貴方の血を少し分けて。一滴でいい」
「……何を」
「術を使うには贄が要る。……心配しなくていいよ。貴方に害はないから」
「君が言うなら……信じはするが」
「人の血が要るんです。でも、あの子達じゃ可哀相だから」
「私なら可哀相ではないのか?」
「そう言う事じゃないって、分かる癖に」
 手の中へと押しつけた薔薇の刺が指先に触れる。
 一瞬リシャールの顔が顰められた。
 ぷつり、と血の玉が浮く。
「……痛いな」
 その手を取り、浮いた血液を花弁に付ける。
 花を取り返すと、アルヴィンはそっと傷ついたその指を口に含んだ。

「っ……」
 疼きが背筋に走る。
 艶めいた様に、その疼きは直接腰に蟠っていく。誘っている様にしか見えなかった。
 リシャールは軽くアルヴィンを抱き寄せ、指先を動かして舌に応える様に動かす。
「んっ……」
 口蓋や頬の内側を撫でてやると甘い息が鼻から洩れる。
 薫り高い血が、アルヴィンの中の淫性を湧き立たせている様だ。リシャールは、北叟笑んだ。
「私の血は、甘いか?」
「っ……ぁ……」
 耳元で囁いてやると頼りなく身体が震える。
 そっと頤を掬い、指はそのままにアルヴィンの唇を舌で辿る。
「ぅん……ん……」
 抵抗はない。気をよくして、舌と指とで存分にアルヴィンの口内を嬲った。
「ふ……ぁ……ぁ」
 腰を抱き身体を支える。
「吸血鬼の様だな、君は」
「っっ」
 腕の中の身体に緊張が走る。
「こんな愛らしいに吸血鬼なら、噛まれても後悔はないな」
 睨むと言うより完全に強張り固まってしまった表情にリシャールは優しく微笑みかける。
 拙い事を言った自覚はない。
「アルヴィン?」
 指を吐き出し、顔を背ける。
「……馬鹿を……」
「馬鹿ではないよ。もう今更君が何であっても気になどしない」
「んんっ……っぅ……」
 もう一度唇を重ねる。
 アルヴィンは薔薇を取り落としそうになり、茎を強く握った。
「っ……」
 痛みが走る。棘が華奢な指に食い込んでいた。
 確かに刺さっているのに、血は流れ出ない。
 痛苦に顔を顰めて握り直したその手に、傷はなかった。
 無論、リシャールが気付く筈もない。
「ぅ……ふぁ……」
「いい子だ」
 柔らかな丸みを持った尻を撫で、張りのいい太腿を撫で上げる。
 愛らしいものだ。

 と。

「アルヴィンさんっ!!」
「っっ!」
 怒りに満ちた声が響く。
 我に返り、アルヴィンは強くリシャールを突き放した。腕の中から逃れる。
「あ、シリル…………どうだった」
「僕じゃ駄目でした!」
 視線だけでリシャールを射殺せそうだ。しかし、場慣れしているらしいリシャールは余裕の様子を崩さない。
 きりきりと眉を吊り上げ、アルヴィンに抱き付く。
「仕方ないな。シリル、じゃあ、これの続き、任せていい? 水は、もうギュスターヴ君が戻ってくると思うから、清めて。分かるね」
「はい! 贄はどうするんですか?」
「これ。少し任せるね」
 シリルに薔薇を手渡す。
「この血は? まさか、アルヴィンさんの」
「リシャール様のだよ。ノウラに近くて丁度いいと思って」
「そうですか。ならいいです」
 乱れかけていた服を無意識に整え、シリルに軽く触れてアルヴィンは逃げる様にその場を立ち去った。
「貴方の血は、甘過ぎる」
 リシャールの耳に、微かな囁きだけが残された。

「…………まったく、君は……もう少し弁えて欲しいものだな」
 髪を掻き上げて格好を付けるが、シリルの視線は冷たい。
「変態の魔の手からアルヴィンさんを護るのが僕の第一命題ですから。邪魔ですよ。陣踏んだら、貴方を直接贄にしてあげますから」
 託された陣の中心に薔薇を置き、周りの文様を描き加えていく。
 先に描かれた部分より緻密で整っているのは、本人の性格と手先の器用さなのだろう。
 アルヴィンも同じ様に大人ぶった口を利くが、憎らしさの度合いがまるで違う。
「君も妖しげな術が使えるのか?」
「……別に。アルヴィンさんの手伝いくらいは出来るだけです」
 そう言う割りに、手付きには澱みがない。
 手の届く範囲を描いて立ち上がり、少し離れて陣を見下ろす。
「別に、アルヴィンさんだって理屈に合わない術なんて使えません。貴方が知らなくても、世の中にはたくさんの事象があるんです」
「言いたい事は分かるが、君の様な子供に言われたくはないな」
「こんな城でぬくぬくしてる人よりは知ってます。足、退けて下さい」
「…………そう馬鹿にして欲しくはないな。私もただそれだけではないよ」
 不愉快そうと言うにはもっと複雑な風に声音が険を孕む。
 シリルはリシャールを見上げ、不思議そうな顔で首を傾げた。
「そう言うなら、アルヴィンさんを帰らせて上げて下さい。……僕じゃ、駄目なんです。あの人が寂しそうでも、どうにもして上げられない」
 瑠璃の瞳はひどく真っ直ぐに人を見る。
「ノウラさんじゃないと、多分駄目なんです。貴方も、そうなのかも知れないけど……」
 小綺麗に整った顔が微かに歪む。
「君も……アルヴィンの事が好きなのだな」
「当たり前です。あの人がいなかったら、僕は酷い目に遭っていたと思いますから」
「酷い目?」
「……話したくないです」
 シリルは顔を背け、リシャールの前を横切って陣の向こう側へ行こうとした。
「なっ」
 腕を取られ、ぐっと引き寄せられる。
 身体を捻ったが、陣を踏むわけにも行かない。逃れきれず、藻掻いた挙げ句に均衡を失いリシャールの腕の中へ倒れ込む。
 直ぐにきつい視線で睨んで来たが、この体勢ではさしたる意味を持たない。
「君とはよく話をしなくてはならないと思っている。今夜にでも、構わないか」
「僕には話す事なんてないです」
「君になくても、私にはある」
「アルヴィンさんの事なら、何も知りませんよ」
「嘘を吐きたまえ。少なくとも、私の知らない情報は持っている。違うか?」
「アルヴィンさんが言わない事を、何で僕が言えるんです。……離して下さい。声を上げますよ」
「塞ぐだけだよ」
 嫌悪感のありありと浮かぶ目でシリルはリシャールを睨んだ。
 リシャールは微笑んで受け流す。シリルの目には、アルヴィン程の迫力はなかった。アルヴィンの瞳には、見た目の年齢を惑わせるだけの強さと深みが潜んでいる。
「塞ぐって、どうするんです」
 シリルの手が拳を作る。
 リシャールは掴んでいる腕を放せなくなった。昨日散々伸されてしまった使用人達を見ている。

「いい加減、離して下さいよ。もうアルヴィンさんが戻ってきますよ」
 うんざりした表情を隠さず握った拳に力を込める。
「欲求不満はみっともないですよ」
「言ってくれるな……」
「アルヴィンさんが魅力的なのは……分かりますけど」
「……君とは、ある意味気が合いそうかとは思うのだがね」
「馴れ合うつもりはないです」
「口の過ぎる子だ」
「ぅ、っく……」
 腕を捩り上げられ、苦痛に顔が歪む。
 リシャールは顔を寄せ、酷く間近で瞳を覗き込んだ。シリルは顔を背けようとするが、許さない。
「っ……」
「アルヴィンは、私のものだよ。もう、手放す気はない。アルヴィンも承知してくれている」
「あり得ない、そんな事!」
「私の側にいてくれると誓うまで、私は彼を手放さない。それでも、言わないと彼は言ってくれた」
「何だよ、それ!」
 言い分は壊れている。
 唾を吐きかけようとしたが、その表情にシリルは一瞬怯んだ。
 この男には、勝てそうにない。
 何処までも美しく、何処までも儚かった。
 ノウラを望んでいるのと同じか、それ以上にアルヴィンを望んでいるのが厭でも分かる。
 感受性の強すぎるきらいのあるシリルには、その気配は酷く辛いものだった。

「……厭な人だ……貴方って……そうやって、アルヴィンさんの事も、絡め取ってしまうんですね」
「そんなつもりはない。ただ私は……アルヴィンの様な癒しを必要としている」
「…………殴りませんから、手を離して下さい。僕には本当に話せる事なんてないけど、アルヴィンさんが貴方の側に居たいって本当に言うのなら……僕も側に居る事を条件に、あの人を止めはしません」
 微かに手の力が緩む。シリルは挑発的にリシャールを一瞥し、微かに口元を綻ばせる。
 艶麗さで言うなら、アルヴィンを上回りもする。乗せられるつもりはなくても、リシャールとて悪い気はしなかった。
 手を離す。手首にはくっきりと赤い跡が残っていたがシリルは気に掛けず、軽く腕を振って痛みを払うと陣の続きを描く作業に戻った。

「あ……あの、水、持ってきたけど」
 間を置かず、ギュスターヴが戻ってくる。ひどく所在なさげな様子だった。
 先の一連を見ていたと思しい。
 シリルは隠れて軽い舌打ちをしながら、水瓶を受け取る。
「ありがとう。君も、見てていいよ」
 中庭に置かれた祠の前へ瓶を置き、聖書の文言を口にしながら何かを宙に描く。
 陣を一通り完成させると、柄杓に水を取り、祠や陣に掛けて回った。
 その水の痕も、文様になっている様に見える。
「よし、完成!」
「アルヴィンを呼びに行ってこよう」
「入れ違いになりますよ。ああ、ほら、来た」
 大切そうに何かを手に抱え、アルヴィンも戻ってくる。

「シリル、出来た?」
「はい。間違ってないか、見て下さいね」
「信じてるよ」
 薔薇の花を置いた所へ、手の中に持ったものを置く。
 色褪せた飾り紐と薔薇の香りのする小瓶だ。
 そして、祠の扉を開けた。
 中には黒くうねるものが収められていた。
 恭しく取り出す。
 髪の、束だった。
 それも同じ様に、陣の中心に置く。
「リシャール、ノウラを」
 手を伸ばす。一瞬戸惑ったリシャールだが、直ぐに求めを察して掌へ骨の欠片を渡す。
 アルヴィンは小さく微笑んで軽く口付けると、それもまた同じ所へ置いた。
「みんな、下がってて。シリルも」
「はい」

 それぞれに数歩退いたのを見届けて、アルヴィンは陣の手前に立った。
 両手を翳す。低い文言が口から流れ始める。
 陣が、淡く発光を始めた。
 ふわりと風が何処からともなく巻き上がった。
 光が粒子となって陣の中心から湧き上がる。風に乗り、螺旋の様に空へ舞う。
 アルヴィンの口から零れ落ちるのは、歌の様だった。節を付け、高くなり、低くなり流れていく。
 歌の調子に合わせて粒子は踊り、次第にものの形を作り始める。
 陣の中心は光に包まれ、置いたものの形も見えなくなる。
 ぐにゃりと光が歪み、粒子と混じり合いながら形を変えていく。
 人の、姿に。

「ノウラ、おいで」

 腕が、ついと陣の中へ伸びる。
 光の端を手に取り、ぐっと引く。
 光は手となり、次いで腕となって伸びた。更に明確な形を取っていく。
 生まれる、その表現が一番近しいだろうか。光の繭の中から、アルヴィンの手によって引き出されていく。
 撓やかな両手両足が伸び、アルヴィンに絡みつく。それを抱き止め、優しく頭の辺りを撫でた。
 空気が温む。

 そのうちに光が薄れる。
 陣の中心に置いてあった物々は、姿を消していた。
 代わりに地に足を着いているのは、半透明の少女の姿だった。
 白薔薇の花弁を重ねた様な服を纏い、髪には薄藍の飾り紐。
「後、幾つかな」
──三つ、だと思うわね──
「わ、ぁ……」
 シリルは思わず声を上げた。
 優しく艶のある、美しい声が届く。ギュスターヴもそれは同じ様で、陣を凝視している。
 リシャールも、息を呑んでいた。
 山で、確かに姿は微かに見た。だが、今は自分一人の力でノウラの姿を見ている。
 黒髪に薄い褐色の肌。緑玉の瞳が、リシャールの姿を捉えてふわりと微笑む。
「ノウラ…………ああ…………」
──リシャール様──
 アルヴィンから離れ、陣を出てノウラはリシャールに抱き付く。
「ノウラ……ノウラ…………」
──やっと、貴方を護って上げられる……──
 唇が動くが、リシャールには聞こえていない。少年達より、後ほんの少しの力が足りないのだ。
「後三つ…………大聖堂と、宮廷と…………後は何処だ……」
 ノウラの魂の在処。
 アルヴィンは考え込みながら、夕時にさしかかった空を見上げた。


作 水鏡透瀏

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