「何なんだ、あの子は……」
 強張った顔が、妙に強く印象に残る。
 苛々した。
 何処の馬の骨とも知れぬ身で、貴族である自分を拒み続けていた。
 かと思えば、手で追い払うと酷く傷ついた顔。
 余程傷ついているのはこっちの方だと思う。
 もう一度抱き損ねたのは勿体ない。
 一昨日の晩、そして昨日の朝方に味わった、甘く匂いやかな身体は非常に惜しいと思う。
 それでも、随分と気は削がれていた。
「何だというのだ……」
 それにも増して苛立つのは、アルヴィンの強張った表情を見て再び愛おしくなってしまった自分自身だ。
 嘘を吐く子ではない様に見えた。
 彼の言うことは理解できないが、もし、彼にノウラが分かるのだとしたら……。
 彼は、主に通じる子なのかも知れない。
 悪魔に通じる子なのかも、知れない。
 そのどちらの仮定も、普段のリシャールなら鼻先であしらってしまう程のものだった。
 主も悪魔もない。
 あるのは、ただ欲にまみれた人だけだ。主も、悪魔も、ただ人の心の内のもの、それがリシャールの稔侍だった。
 人を操るには大変便利なものだろう。そうは思う。信じているという型は、重要な事だ。だからそれなりに礼拝へ参加もするし、教会へと多額の寄進もしている。ただそれだけの事だ。
 だが、アルヴィンの事は、何処か信じられる気がする。
 根拠はない。
 根拠がない事に、自身の性質が納得できないのだ。

「つっ……」
 身動ぐと、脇腹に痛みが走った。
 先程引っ掻かれた所だろう。容赦がない。爪が短かったのか手加減をしたのか深くはないが、それなりに痛い。
 女なら簡単に落ちる。続くかどうかはその後の話だからともかく、たかが一日二日で振られた覚えも、拒絶された覚えもない。
 新鮮と言えば新鮮だが、考えるだに目が据わってくる。
 大体、自分の何処がどう悪いのか分からない。
 母親譲りの顔や、鍛え上げてきた身体は申し分ない筈だし、金もある。地位も、まあ、皇帝には劣るがないわけでもない。
 情事の際の技巧だって、女を抱く程度なら全く問題なく……むしろ手練れだ。
 優しくしてやってもいるし、多少の我が儘とて聞いている。
 これ以上何を望むというのか。
 ただ、側に居て欲しかっただけだというのに。
 数多の女と付き合って来たが、これまでにそう思ったのはノウラ一人だった。
 そのノウラに通じるかも知れない子供……。
 訳の分からない言葉が、真実だったら、自分は過ちを犯そうとしているのだ。
 恐らく、もう二度と手に入らないというのに。

 本物であったらどうするか。
 リシャールは急に落ち着かない気分になって檻から出た。
 暫く室内をうろうろと歩き回り、素肌にローブだけを纏って部屋を飛び出す。
 向かった先は、当然ながらノウラの……アルヴィンの部屋だった。

「…………だよね、ホント…………」
 微かに扉の向こうから声が聞こえる。
 誰かを連れ込んでいるというのか。しかし、ここに来てからアルヴィンが顔を合わせたのは精々マリーエと侍女が数人だけだろう。
 思わず聞き耳を立てる。
「……てるよ、だけどね…………て、反則……」
「ん……うん………………………………綺麗だよ……」
 侍女達は、それは当然ながらリシャールの好みに合わせて取り揃えられているからそれなりの美女美少女揃いである。
「…………一緒に帰ろうよ……お願いだから……」
 自分を拒んでまで帰せと言うくせに、城から侍女を連れ出そうというのか。
 脳内を巡る血液が沸点を迎える音を聞いた気がした。
 リシャールは怒りに任せ、扉に手を掛けた。開かない。
「ええい」
 力任せに蹴り付ける。
 立て付けが特に悪かったわけではない筈だが、リシャールの勢いが勝った。
「アルヴィン君! どういう事だっ!!」
「え…………っえ……?」

 アルヴィンはただ立ち尽くして、飛び込んできたリシャールを見詰めた。
 何が起こったのか分からない。
 余裕の全くないリシャールの姿にただ呆然としていた。
 リシャールはリシャールで、急いで室内を見回す。
 アルヴィンと自分の姿しかない。
「誰と話していた」
「…………え……ええと…………誰、って……」
「今、誰と話していたのだ!」
 アルヴィンは目を瞬かせ、それから顔を強張らせた。
「言いたまえ!」
「……独り言、です…………」
「嘘を言いたまえよ」
 体勢を立て直し、室内を物色する。
 物陰を全て、敷物まで捲って調べるが、何も出て来ない。
 窓を開け、外を見るがここは城の三階で、外壁には足場もなかった。

「今、誰と帰ろうと言っていたのだ」
 目が血走っている。
 アルヴィンは身を竦ませた。
「怒らないから、言ってみたまえ」
 もう十分に怒っている様に見える。アルヴィンは益々小さくなる。
 その首根を押さえ、無理に上向かせるや抗う間も与えずたっぷりと唇を奪う。
「っ、ん……ぅ……」
 アルヴィンは首を振って逃れようとするがリシャールは許さない。
「ぅ……う……っん……」
 リシャールの唇に歯が掛けられ傷つける。ちりりとした痛みと血の味がしたが、構うものではない。
 侍女が潜んでいても構わない。しっかりと見せつけてやる。
「……っは…………」
 アルヴィンの身体が震えている。
 血の味は、アルヴィンも感じている筈だ。
 わざと大きく音を立てて舌を吸い、唾液を啜る。
 アルヴィンは甘かった。
「ふ、っ…………は……っあ…………」
 腰を抱き寄せ、尻の丸みを撫でる。手の這わせ方は、もうまるきり愛撫と同じだった。
 腕の中で震える弱々しい生き物に対する絶対的な独占欲がただひたすらにリシャールを走らせる。
「ぁ…………んあ……ぅ……」
 声音も甘やかだ。拒み切れていないのが分かる。
 それに満足して、首根を掴んでいた手で緩やかに首筋を撫でた。
「ふぁ……っ……ん…………」
 アルヴィンの舌が伸ばされる。舌先は、リシャールの傷ついた部分を確実に舐め辿った。
 難なくそれを絡め取る。
 膝に力が入らないのか、アルヴィンはくたりとリシャールの腕の中で蹲ろうとする。
 抱き止めて、リシャールはアルヴィンを寝台へと放り投げた。
「やっ……ぃや……っ」
「私を捨ててまで、誰と共に出て行こうというのだ。え? 言ってみたまえ」
「……何っ…………何、言って……」
「言え!」
 応えぬアルヴィンとそれを動かしている女が気に障り、リシャールは思わずアルヴィンの首に手を掛けて体重を乗せた。
「……ぅ…………く…………」
 苦しげに顔が引き攣っている。
 見開いた目がリシャールの後ろを見ていた。
「……やっ…………ぁ…………見な……で……」
 細い手が、リシャールを押し退けるではなく自らの顔を覆った。
 視線の先にぞっとして振り返る。
 しかし、そこには何もない。
「ええい! 忌々しい」
 首を絞められては口を閉じている事も出来ず、嚥下も出来ない為に唾液が口の端から溢れる。
 空気を求める様に微かに唇が上下していたが、言葉らしい言葉は最早出なかった。
「…………ぅ…………ぅ………………」
 アルヴィンは目を閉じた。抗う様に痙攣していた身体から突然力が抜け落ちる。
 はっとして手を緩める。細い細い首筋に、くっきりと手形が残っていた。

「…………ア…………アルヴィン……?」
 ぐったりと横たわっている。血の気がない。
 自分のした事が何であったのか、漸くに認識する。
 慌てて頬を叩いた。
 肩を掴んで激しく揺さぶる。
「アルヴィン君……アルヴィン君…………アルヴィン……!」
 殺したかったのではない。ただ、許せなかっただけだ。
「アルヴィン」
 名を呼ぶ事しかできない。
「アルヴィン君……アルヴィン…………」
 口の端を伝っている唾液を舐め取る。先程までは甘く感じていたものが、酷く苦々しい。
「……ちぃっ……」
 自分はもう少し理性的な人間だった筈だ。それが、一昨日から何もかもが上手く行かない。
「……アルヴィン君……起きてくれ…………」
 耳元で懇願する。声は低く、地を這う様だった。
 睫が震えた気がした。
「アルヴィン……アルヴィン君、済まない……起きてくれ。目を……」
 鳶色の澄んだ瞳を……。
「アルヴィン君…………」
 強く睨む、光を放つ瞳を……。
「君の瞳を見たい…………」
 睫が、今度ははっきりと震える。
 胸が喘ぐ。

「っ、けほっ……」
 口から、溜まっていた唾液が散った。
「アルヴィン君!!」
 暫く激しく咳き込み、荒く息を吐く。
 ぐったりと俯せる様に顔を背け、激しく肩を上下させて空気を貪る。
 息を吹き返した事で一気に脱力し、リシャールはふらりと寝台から転げ落ち、床に尻をついた。
「…………よかった………………」
「…………っは……はぁっ…………」
 寝台を見上げ、震えるアルヴィンの背を見詰める。
 生きていてくれた。
 首を絞めた自分の事は棚に上げて、リシャールはただ安堵する。
「…………アルヴィン君……私を置いて…………どの侍女と逃げるつもりだった…………」
 よろよろと起き上がり、アルヴィンの上へ覆い被さる。顔の横へ手を突き、逃れられぬ様に固定してしまう。
 アルヴィンは漸く人心地ついて、まだ目に見える程肩を上下させながらもリシャールを見上げた。
 困惑した様に眉根を寄せ、小さく首を傾げる。
「あんな言い草をして私を捨てたくせに、一体、」
「…………何の……事ですか?」
「まだ言うか! 君の声だったぞ、確かに。一緒に帰ろう、と」
「……………………あ……………………」
 表情が困惑から怯えに変わる。
「………………独り言、です……」
「誰を綺麗だと褒めていた」
「………………そんな……そこから………?………」
 リシャールの腕をかい潜り、華奢な指が顔を覆う。
 それを無理に引き剥がし、リシャールはアルヴィンの頬を手で挟む様にして無理に顔を合わせてしまう。
「誰の事だ」
「……………………あ……あの…………」
 表情が歪む。今にも泣き出しそうだ。
「言いたまえ」
「………………あ………………貴方の……こと……です……」
 涙が溢れ出していた。頬も耳も赤くなっている。

「私……だと?」
 意外な言葉に呆然としながら問うと、アルヴィンは繰り返し頷いた。
「口に出してまで、私を綺麗だと言っていたというのか? 独り言で」
 逃げにも程がある。
 美貌には些かの自信はあっても、状況的に納得できる筈もない。
「逃げるのもいい加減にしたまえよ」
「…………逃げてない…………貴方が綺麗だと言ったんです……」
「馬鹿馬鹿しいにも程があるぞ」
「独り言じゃないって言ったって、信じてくれないでしょう!?」
 少年らしい声は殆ど悲鳴だった。耳の奥に甲高さが余韻を残す。
「だから、どの侍女を引き込んだのかと聞いている」
「そんなの引き込んでない! ここにはノウラが居るって言ったでしょう!」
 瀕死だったのは何処へやら、気の強い瞳でリシャールを睨み付ける。
「……ノウラと話していたというのか、君は」
「信じ……下さら……くて結構です……」
 まだ昂じると呼吸が乱れる。
 窘める様に指先で頬を擽る。アルヴィンは顔を背けようとしたが固定されて動けない。
「……信じる為の証が欲しいな。ここにノウラが居るという証が」
「昨日……お目に掛けたつもりでいました。……貴方は深くは聞かなかった。だから……貴方も……ノウラがいるのは、分かっているって……そう……」
「鍵も、遺品も、彼女が君に教えたというのか」
「それは……また少し…………鍵は、確かに……ノウラが教えてくれたけど……多分、これだろう、って…………遺品は、ノウラの気配を辿っただけで……」
 リシャールは手を離し、アルヴィンの横に転がった。
 代わりに僅かばかり身体を起こして、アルヴィンはリシャールの顔を窺う。
「荒唐無稽な事だが…………」
「僕には、その他の言葉で説明できません」
 リシャールが纏ってきていたローブは殆ど意味を成さなくなっている。
 垣間見える身体に、アルヴィンは赤面しながら目を反らせた。
 と、かたり、と小さな音がした。
 二人とも気がつきその方を見ると、窓の側の棚に置いてあった色硝子の小瓶が倒れている。
「…………ノウラ……」
「あれがノウラの仕業だというのか?」
 そういう間に、瓶は急に転がり、床に落ちた。
 否。ゆっくりと、降りた様に見えた。
 リシャールは我が目を疑い身体を起こした。身を乗り出し、瓶へと手を伸ばす。
 触れるか触れないか、そのぎりぎりのところで瓶は再び転がり始める。
 切れ長の瞳が、今だけは真ん丸く見開かれた。
「駄目だよ、ノウラ……リシャール様が可哀想だ」
 リシャールには分からない宙の一点を見詰め苦笑する。
 瓶はころころと、リシャールの手に納まった。

「あ…………アルヴィン、君?」
 瓶から手を離す事も出来ず、かたかたと震えながらアルヴィンを振り返る。
「…………だから言ったでしょう? います、って」
 アルヴィンは穏やかに柔らかな笑みを浮かべていた。
 現実を受け入れられず、リシャールは額からだらだらと冷や汗が流れるのを感じながらも拭う事さえ出来ないでいる。
「し、しかし、これまで全くそんな気配はなかったぞ」
「今ここには僕がいるから…………ノウラは何処ででも貴方を見守りたかったから、自分自身を引き裂いてしまった。だから……力が足りなくなった」
「あの子は、一体……い、いや、君もだ。一体、何者なのだ」
 ふわり、そう表現するしかない綿毛の様な微笑みを浮かべて、アルヴィンは狼狽えたままのリシャールを見詰める。
「貴方が仰有った様に、霊媒師と申しておきます。……人は、自分にない力を持つ者を恐れる。だから…………」
 悲しげに目を伏せる。
 言い草からすれば、霊媒師ではないのだろう。だが、この姿を見ては事実などどうでも良い様に思える。
「…………世界が、違うというのか……」
「……はい…………」
 見えないものは信じない。
 だが、今、瓶が不思議に動くのは見た。
 手に触れる瓶には何の仕掛けもない様に見える。
 瓶を寝台に置き、リシャールは室内を見回す。
「…………ノウラ…………君は、ここにいたのか……ずっと、この五年……」

 耳の奥に、何かが囁く。
 囁く、と言うにも微かで、音と認識するにも不思議な音だった。
 歌う様に、微風の様に、またせせらぎの様に。
「…………ああ…………」
 光が梢を揺らす、それが音として聞こえる……そう思い至った時に、脳裏に浮かんだのは一人の少女の姿だった。
「ノウラ…………分かる。……私にも、今…………聞こえる……」
 音は言葉を成さない、それでも、この優しさ、暖かみはまさしくノウラだと思えた。
 そうだ。ノウラだ。
 リシャールは息を呑み、ただ音に耳を傾ける。
 五年探し続けたものがここにある。込み上げそうになる涙はそれでも、アルヴィンを目の前にしては流れ落ちる寸前で留まった。

「………………分かった。君の言い分を信じよう。これは、確かに…………ノウラそのもの…………」
「…………ありがとうございます…………」
 耳の奥の音は囀る様に、笑い声の様にも聞こえる。
 アルヴィンは軽く頭を下げて、また微笑んだ。
「…………君がそう容易く微笑んでくれるのは、ノウラが居るお陰なのか?」
「…………彼女の前であんまり酷い顰めっ面をしていたら、笑われてしまいます。彼女は、僕を知っているから」
「私も知りたいな。君を」
 切り替えは早い。
 ぐっとアルヴィンに顔を近づけると頤を指先で捉え、軽く唇を合わせる。
「や……だ……駄目……」
「何故」
「見ないで、ノウラ……駄目、だって……」
 リシャールの後ろを見て頬を薄く染めている。
 小さく舌打ちをして振り返り、見えないながらリシャールは宙を睨んだ。
「…………ノウラ、無粋だぞ。君ならアルヴィン君に嫉妬などしないだろう?」
 さやめきが甲高く耳鳴りの様に変わる。
 リシャールは思わず顔を顰め、耳を塞いだ。頭痛がする。
「ノウラ……駄目だよ。リシャール様を傷つけちゃ…………僕は、君だけだって。……うん…………え、でも……」
「ノウラは何だと」
 この「音」と会話できているらしいアルヴィンに軽い嫉妬を覚えながら尋ねる。
 アルヴィンは言いにくいのか暫く口籠もり……恐る恐る口を開いた。
「…………あたしのアルヴィンに酷いことしない様に守ってあげる、だそうです」
「全く……気持ちの良い事しかしないぞ、私は」
「ちゃんと愛し合えるか確認してあげる…………何言ってるの、ノウラ……厭だよ、僕は。この人とはそんなんじゃない」
「それはそれは…………本当にノウラの言葉なのだろうね?」
 にやにやと笑いながら顎を撫でる。いやらしさそのものの様子に、アルヴィンは呆れ顔で溜息を吐いた。
「自分で言うなら、もっと恥ずかしくない言い方をします……」
「私達は、ノウラ公認という事だな。では、君も問題はなかろう?」
 音を立てて軽い口付けが繰り返される。
 もう少しで舌が入り込んでしまう。アルヴィンはリシャールの顔面を掴んで引き離しに掛かった。
「人に見られてするのなんて、絶対に願い下げです!」
「ノウラは構わないと言っているのだろう?」
 アルヴィンの華奢な手などものともしない。
「ノウラはノウラ、僕は僕でしょう!? 大体、実際にされるのは僕じゃないですか! っていうか、そもそも愛し合うって何なんです!」
「諦めたまえ」
「やっ、ぅ……ぁん……」
 あっさりと却下され、はっきりと深く口付けられる。
「私を綺麗だと言ってくれたのだろう? 嬉しいよ。君も、本当に愛らしくて美しい……」
「……ぁ、や、だ、っぁ…………」
 綺麗な顔が余計に輝いて見えて、口では拒みながらもアルヴィンは観念して目を閉じた。
 二人の耳元では、少女が楽しげに笑う音が響いていた。


作 水鏡透瀏

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